たっちゃんの古代史とか

誰も知らない日本とユーラシア古代史研究。絵も本も書く。闇の組織に狙われてるアマ歴史研究者。在宅お仕事中。

戦いと奴隷解放の道・・・とある場所の変な壁画は「未来の出エジプト記」だった件

世の中「そんな訳あるかいボケナス」と言われてるような話が、真実に近いと思っているのですが。これもそうでした。

 

 

とある場所の変な壁画

 

アメリカのとある銀行に、へんな壁画(フレスコ画)があるのです。3枚が一組になったもので意味深。フリーソーメンだとかイルミ納豆が好んでる、オカルト的な暗示だとか言われています。

これを描いたのはベンジャミン・ロングとか言う人らしいです。オフィスビルが完成したのが1992年、当初から銀行があり、現在の銀行と合併したのは1998年みたいです。

ともかく壁画は、1990年代にはあったんではないかと。

 

 

壁画の様子

 

これは見る人により解釈が違いまして、悪趣味だとか破滅的だとか、希望が持てるだとか色々言われてるのです。これの解釈をするなら、神秘主義のシンボリズムを前提として、捉える必要があるとか言われてます。

ちなみにわたすはカルトでも宗教信者でもないですが、色々な分野の研究しているので、変なことに興味があるだけです。

さてこの壁画、基本的に大昔と、1990年代の時点と、近未来(現在)の状況が合わさっている絵だと感じました。

 

右側の壁画

背後にピラミッド。そのピラミッドの前には、燃える樹木と赤い服の男。左の巨大な階段も意味深。空に浮かぶ黒い太陽。黒い太陽の真下の閉じられた空間に、女性の姿。さらに下では偉そうな人々が話し合いしてる。そして右の金髪少年。

 

中央の壁画

何か終末的な様相を呈した場面になっており、戦争や混乱を暗示するような人々が集まっている。背後には巨大な黒いドームがあって意味不明。空中には何か神さまみたいな存在が浮かんでるが、誰も気づいてない。

 

左の壁

山の斜面をみると、なんか巨大な赤い人が寝てるのが気になる。赤い人は何故寝てるのだろーか。手前には、黄金の道具を手にした作業員が大勢集まっている。まるで巨大な赤い人を発見したので掘り出そうとしているようだ。

 

 

右の壁画の解釈

 

まず右のピラミッドの壁画ですけども。

背後のピラミッドは、古代の叡智を表します。ピラミッドは伝承によれば知恵の神トート(ヘルメス)が作ったと言われてます。

その手前で燃える樹木は、いわゆる「旧約聖書」の出エジプト記に登場する、モーセの前で神が顕現した時に見られた、燃える樹木のことです。そこに黄昏る赤い服の男は、神が顕現するところに寄り添っているのが意味深。自然の中にいて自由なように見えたけれど、自由ではないようです。

左の階段は、天に通じるヤコブの梯子です。この絵に登場する人々が、みんな天と結びついていることを象徴しているよう。

上空の黒い太陽は皆既日食で、古来より暗闇や破滅や災いをもたらすことの象徴です。メソポタミア月食は王に対する攻撃の象徴であり、ヒンドゥー教日蝕は悪魔が起こすとされました。日本で日蝕天照大神の岩戸隠れに例えられ、八十禍津日神や大禍津日といった闇の神やあらゆる災禍が、世界を覆ったことの象徴とされたようです。

そういえばオカルト関係の本では、ラジャサンとか言われてました。

その暗闇破滅の象徴である皆既日食の真下で、四角い空間に閉じ込められてる女性。これがなんか「籠の中の鳥」という感じもしないでもないですが。

左下の人々は、いわゆるフリーメイソンだとか悪魔思想の西側DSエリート集団みたいです。彼らが黒い太陽の真下に位置しており、破滅的な計画を進めてるみたいです。実際DSは人口削減、毒まみれ、移民による文化破壊など、破滅的なこと繰り返してますし。

そして右側の金髪少年が、世界を動かす鍵を握るとか言われてます。すべての色(白、黒、赤、黄、緑、金)を保持しているので、世界のすべてを変える人だと思われました。

tランプは、いつもこの金髪少年と似たスーツ着て赤いネクタイ付けてますので、そんな感じだろうと思っているのですが。

ここで注目なのが、燃える樹木が登場したのが「旧約聖書」の「出エジプト記」だったという点です。

燃える樹木は、古代エジプトにいるモーセの前に、神様が顕現した状況だったんですよ。

そこでモーセは神からアロンの杖(魔法の杖)を授かったということなのですが。

この魔法の杖を授かった人が、燃える樹木のそばにいる右側の少年と、赤い服の人みたいなんです。

出エジプト記で神は、モーセと杖を通して「十の災い」を起こし、モーセらに敵対するエジプト王と勢力に危害を加えたわけなのです。

そしてやがてモーセら奴隷にされたイスラエル人は、エジプトから出て、奴隷から開放されたわけでした。

つまりこのピラミッドの前にいる少年にかかる赤い四角は、いわゆる「十の災い」と同じで、tランプが言ってる「嵐」と呼ばれてるやつかも知れないのです。嵐というのが「DSの世界の崩壊」を表すのだろうと勝手に解釈しました。

たぶん世界の悪が駆逐される力が、壁画が描かれた1990年代の時点で、蓄えられていたようです。

地面を見れば市松模様タータンチェック)があり、これは永遠や繁栄を象徴するのだとか。ピラミッドが永遠の象徴なのと合致してますね。そのような永遠の繁栄の時代の到来も示しているようです。

 

 

左の壁画の解釈

 

キリストの復活というのが近年あちこちから聞かれてたのですが、そのキリスト復活がこの壁画のテーマになってるみたいです。

斜面に寝てる巨人は、涅槃を思い浮かべますが、キリストだとか言われてます。

「EQ」とあるのは「心の知能指数」のことみたいです。EQは自己や他者の感情を知覚したり、自分の感情をコントロールする知能だそう。何か人の心を読み取る時代の到来を暗示してるようです。現実に現時点で思考読み取りが秘密裏に使われてますし。

そのキリストの存在を、掘り返そう、復活させようとしてる人々がいるのは事実です。

キリストが復活するということは、この現在の世界の流れが、紀元前1~西暦1世紀当時の状況と同じことを暗示してるんではないかと。

記録によればキリストは使徒や庶民などの多くの味方を得てましたが、強大なローマ帝国の皇帝に敵視されていました。

つまりこの世の人々の立場が、善と悪に分かれることを暗示しているようです。それは実際にいま、全て破壊するカルト権力vs抵抗する勢力に別れてることでも明らかですが。

そして古代にはキリスト信仰が広まることで、支配の呪縛から人々を解放したと言われます。そういう意味で「出エジプト記」のモーセとも重なった存在なわけなのですが。

よく見ると作業員は、黄金のスコップや黄金のツルハシを持っているではないですか。キリスト復活の時になったら、労働者すらも黄金の道具を持っている。要するにお金に困ってないみたいです。

最近はゲサラとの言葉がよく聞かれますが。つまり黄金の時代が到来することが、この壁画で暗示されてるような気がしました。

 

 

中央の壁画の解釈

この絵を見ると、周囲は壁に取り囲まれており、何やら兵士、防護服を身に着けた者、貧乏そうな人、攻撃されて壊れて煙が出る壁などが描かれてるのです。

つまり描かれてるのは、悪意、戦争、混乱、貧困が極まった世界。まるで2024年現在の日本や世界の姿のよう。壁に囲まれた世界は、閉鎖されたガザ地区のよう。

ほんでもってよく見ると、背後に黒いドームがあるんですよね。これにより最初の壁画にあった黒い太陽の世界であることが示されていました。

そういえばこの黒いドーム、1998年の映画「トゥルーマンショー」の、主人公がいた人工世界に似てます。

偶然じゃなくて、この絵画はトゥルーマンショーと繋がってる世界観みたいです。つまり我々がいま住む世界は、黒い太陽の世界であり、人工の世界であり、人々の多くはカルト上層部から指示されて動く、ヤラセ劇団員ばっかりなんです。

16. Storm - The Truman Show - YouTube

 

つまりここに描かれた人々が現代人であり、指示されて動く人々も含みますが、ひっくるめて自由のない奴隷=「出エジプト記」の奴隷と同じ立場です。

しかしそんな混迷した世界の中に、黄金に輝くすっぽんぽん集団が降りて来ているみたいではないですか。

しかし地上にいる人々は、その輝かしい存在に気づくことが、できてないみたいです。

ただし地上にネットが張られているのですよ。これがおそらく黄金のすっぽんぽん集団を受け止めるネットだと思うのですが。つまり前から準備は整っているのです。

これはたぶん1968年の小説「2001年宇宙の旅」のスターチャイルドが関わるんではないかと。モノリスによりスターチャイルドになったボーマン博士が、続編「2010年宇宙の旅」で、核戦争を止めるみたいな内容になってました。

つまり空から来る輝くすっぽんぽん集団は、平和をもたらすスターチャイルド、あるいは神さまみたいです。

そしてそのネットは、インターネットの暗示でもあるんではないかと。インターネットによって、天から来たるスターチャイルドの存在が、明るみに出るようです。世界に希望と富を与える存在な感じがしますた。

とはいえ、スターチャイルドがなんなのかは、よくわんないんですけどね・・・。

戦乱や混迷が極まると共に、奴隷にされた人々が開放される時が来ている、ような感じなのかも知れんです。

 

 

俺の未来が練り込まれてるという想像

 

ところで変な妄想もしてしまったんですよね、これがまた。

まぁ、ピラミッドの壁画の状況が、なんか俺が置かれた状況にぴったり重なるみたいだし。なんか「トゥルーマンショー」だとかと同じ、仄めかしのような感じもしたりするんですよね。

 

 

まとめ

 

要するに出エジプト記のように人間が善悪に別れて戦いが起こり、神により悪の親分が根絶され、奴隷化された人々が解放され、やがて平和な黄金時代が来る、みたいなことがこの壁画から読み取れたんです。

まぁ人によって解釈は違ってるかも知れないんですけど。

ヨハネの黙示録」では七年間の大艱難があってから、キリストの千年王国になるとか言ってたんですよね。「日月神示」も同じでしたけど。この壁画も同じなんでしょうね。

すると善悪に分けられる偉い人も庶民も、みんな何処かの神さまの手のひらの上で決まってる、といった感じなのですが・・・。

最近は第三次世界大戦も本番になるとか言われてたり、南海トラフ地震来るとか言われたり、庶民の中でカルト権力に対しての抵抗が目立って来たし、希望の「ゲサラ」が政治界隈からアナウンスされてたり、壁画中の世界観そのまんま。

ということは絶望と共に、やっぱり希望があるんじゃないですかね。

 

 

ぽちされたすかりまs(スケベ広告だったらすいません)

 

 

関連記事

モノリスは人類の進化の前触れ・・・「2001年宇宙の旅」の世界観が具現化した合図。もうスターチャイルドもいるよ?

2021世界はこうなるから分かった、神と悪魔が重なり動いてく世界

ゲサラという名の人類救済が始まる条件は、「ヨハネの黙示録の実現(大艱難の地獄と救世主降臨)」なのだろうか 

 

人気ブログランキング

どんと焼き(左義長)は知恵神トートのお祭りだったかも試練

日本の正月には、たこ焼きじゃなくてどんど焼き左義長と呼ばれる火まつりが各地で開催されるのですが。これがなんか、古代エジプトの神さまと関わる気がしました。

 

 

どんど焼きとは

 

左義長 - Wikipedia

どんど焼きは日本各地にある、古くからの正月の火祭りです。別名はどんと焼き、とんど焼き、左義長(さぎちょう)、鬼火、お焚き上げなど。

三角型に骨組みを作ったうえに藁や枝葉を乗せた形で、正月の注連飾りや門松やだるまなどの飾りをつけたりするなど、地域ごとに違いがあるそうです。

1月15日頃にそれを燃やすことで、厄除け、病気平癒、学問上達といったご利益があると、信じられてきました。一説によれば、正月に出迎えた歳神を見送る儀式だとか。

 

左義長 - Wikipedia

調べてみると、どんど焼きは古代出雲に発祥するとかで。左義長は毬杖(ぎっちょう)という古代中国の球技のスティックのことで、毬杖を3本使って三角を作ったことから三毬杖→左義長と呼ばれた説があります。まぁこじつけっぽいです。

あるいは韓国の風習「タルチッテウギ(月の家を焼く)」が、出雲に伝わったとの説があるようです。出雲のどんど焼きの掛け声は、韓国語だと言う人もいました。

 

 

トート神&どんど焼き

 

Thoth - Wikipedia

 

個人的にはどんど焼きは、古代エジプトから入って来ていると思っています。その理由を説明しましょう。

実際のところ弥生時代には、古代エジプトからの人の流れがあったと思われます。それは古代イスラエルからの、天皇家の移動に関わるものだったのですが。いわゆる日ユ同祖論的なものに関わります。

 

古代エジプトの大ピラミッドは、知恵神であるトートが建設したと言われています。

それで以下のような想像ができました。

 

こんな想像しました・・・

どんど焼きが何故ピラミッド型なのかと言えば、それは古代エジプトの記憶を持つ人々が、始めた風習だから。

どんど、どんとは、トートがどんどんなまってどんどになったんど。

つまりピラミッドを建設したのがトートなので、ピラミッド型のどんどになってる。というわけなんです。

 

次にご利益を見てください。

どんと(左義長)・・・厄除け、病気平癒、学問上達のご利益

トート神・・・・・・・守護、病気平癒、学問上達のご利益

あらま。どんど焼きとトート神は、得られるご利益も同じであるところにも、現れていますね。

 

 

そして以前に示した記事でも、関連する事を書いてましたが。

トートは時間の神さまであり、トキの姿だったのですが。トキは日本語で時間を意味し、トキという鳥の姿でもあるのです。

古代エジプト トート神 トキ(鳥)の姿、時間の神

古代日本   トキ   朱鷺(鳥)、時間

偶然というか、必然なのだと思います、彼らは倭人となって溶け込んでるので。

だからトート神が古代日本に入ってきていることは、言葉でも証明されてるし、どんど焼きでも証明されたということになるんですよ。

ひょっとすると「尊、貴(とうとい)」という言葉も、関係するのかもしれんですね。

まぁぶっちゃけ、どんど焼きが何処発祥でも、べつに良いんですけども。中国起源説韓国起源説よりは、古代エジプト起源説のほうがしっくり来るかんじはしませんかね。

 

アイリスオーヤマたこ焼き器着脱式2way

 

・・・・・・

まぁたこ焼き、じゃなくてどんど焼き。ありがたいご利益があるのは、事実だと思いますよ。どんど焼きが古代、はるばるエジプトから持ち込まれた文化だとしても。どんど焼きは良いものなんじゃないですかね。

昨今はカルトや不良外人が、日本を支配したがってたり、外国の変な文化が日本を席巻してたり、カルトや外人が日本を破壊してたりしますが・・・。もうへんな外人、いらねーよって感じですけども。外人による日本支配だとか、変な文化入れたり、破壊するのは止めてほしいもんですね。

まぁ世も末でありまして、これから2年の間に破滅的な展開がある感じもしますが。どうなるんだか。しらんけど。

 

ぽちされたすかりまs

 

 

関連記事

時の巫女、倭迹迹日百襲姫命はトート・ヘルメスの名を冠した

トート・ヘルメスを意図したらしき倭迹迹日百襲姫命

イザナギ神話に旧約聖書の「十の災い」が入ってるとかいう日ユ同祖論 

 

人気ブログランキング

吉野ヶ里遺跡の石棺は古代フェニキアに関係する気がする件

先日に吉野ヶ里遺跡で、歴史的にとても重大な発見があったそうで。今回は吉野ヶ里遺跡に関する、変な話。

 

 

吉野ヶ里遺跡日吉神社で発掘された石棺

 

吉野ヶ里遺跡 - Wikipedia

 

近年は神社の境内から、古墳が見つかる出来事が相次いでるようです。古来よりの聖地となっている神社は、やはり大昔から重要な意味を持っていたようで。

弥生時代に創建された小高い丘の神社、多くが元々古墳なのであり、有力者の石棺が埋まってるのかもしれない。そんな気がしました。

さて佐賀の吉野ヶ里遺跡邪馬台国の候補地として知られてますが、当方も筑紫平野一帯は、卑弥呼のいた邪馬台国だったと思っているのでした。

 

 

吉野ヶ里遺跡には日吉神社が鎮座していまして、そこは長らく未発掘の「謎のエリア」だったとか。そこが石棺の発見場所だそうです。

そういえば、ここ数日で奇妙な出来事がありましたが・・・。

 

何か、因縁めいたものを感じてしまいます。深い所で結びついているのだろうか。

 

日吉神社と言えば大巳貴命、大山咋命を祀る神社だそうですね。

日吉大社 - Wikipedia

出雲の神と山の神。そこの地下に1800年間も横たわっていた石棺ということで。そんな神さまを崇めていた邪馬台国の王族やら皇族みたいな、歴史的な人物なんですかね。

 

 

妄想すると石棺の主はフェニキア人の末裔

 

まぁいつもの妄想ですが、あの石棺からはフェニキア的なものがふつふつと湧いてくる感じがします。その理由を簡単に解説しますが・・・。

佐賀や熊本や長崎のあたりは、古代には火の国でした。

個人的な「日本列島大陸ひな形論」によれば、火の国はフェニキアに対応する場所なのですよ。

古代の大陸と日本列島を照らし合わせてしまった妄想地図の最新版 - たっちゃんの古代史とか

 

名前を見てもそれが証明されたりするのです。

火の国   hi-no-kuni

フェニキア phoe-ni-cia(fe-ni-cia)

フェニキア→フィノクニ→火の国

 

不知火海(しらぬいのうみ)…(有明海八代海

不死鳥 フェニックス・フェニキア

 

フェニキアの「キア」とは 地名接尾辞の一種で、「国とか地域」の意味があるのだとか。

フェニックスとは火の鳥で不死鳥ということも踏まえると、なにかフェニキアと火の国は似通っていますね。火の国には不死鳥を思わせる「不知火海」がありますし。不知火は光の怪奇現象だとか言いますが。

そういえばフェニキア人は紀元前600年にアフリカ大陸一周したそうで、航海術に長けてましたが、海の民である倭人に似てますね。

そのアフリカ一周を頼んだのはエジプト王「ネコ2世」だったそうなのですね。

それで熊本はケメト(エジプト)に対応する土地であり、火の国熊本には根子岳があるのも、やはり必然的なものを感じてしまいました。

 

 

妄想すると石棺の記号はフェニキア文字

 

しかも石棺には、フェニキア文字らしきものがあるではないですか?

まぁ一般的には「記号」であるっていうかもしれないですが。誰がどう見てもフェニキア文字ですよね。

 

 

フェニキアと鏡合わせの火の国で、フェニキアの末裔の王であるから、石棺にフェニキア文字が刻まれている、ってなるとスムーズな展開だと思うのですが。

もし石棺の記号がフェニキア文字だとすると、日本の最古級の文字は漢字や神代文字や、ペトログリフだけではなかったことになりますね。倭国ではフェニキア文字も使われてたことが、明らかになってくるわけですが。

まぁシルクロード中央アジア、中東と繋がっていて、古代にペルシア人が来ていた記録もあるわけなので、中東の人々や文物や文化風習が到達していてもおかしくないわけですけども。

 

 

ホシサン デコポン 火の国ぽん酢

 

 

石棺がフェニキア

 

それで石棺の写真をじっと見つめたのですが。分割したサツマイモか、埼玉みたいにいびつな形で奇妙な感じを受けますね。

 

 

だいたい全国で見つかってる墳丘墓や古墳の埋葬部は、木棺や石棺を用いて左右対称な立方体型だったりするのに。吉野ヶ里遺跡から発見されてるお墓も、そんな感じでしたし。

北墳丘墓|吉野ヶ里歴史公園

なぜいびつな形なのだろう?と小一時間考えたのですが。

 

なんかあの石棺、フェニキアの形に見えてきました。

以下はフェニキアの当初の拠点であった、レバノンあたりの地図です。

フェニキア人 | 世界の歴史まっぷ

 

桃色のとこですが。一見すると、あんまり似てませんね。

しかしフェニキアの南部を切り取ってみると、あら不思議。石棺の形と一致する気がしますね。

まぁ妄想ですけども。

偶然が幾つも重なるということは、偶然んじゃないことを意味するんではないかと。

 

フェニキアの流れを汲む有力者だから、フェニキア文字が刻まれていて、フェニキア(南部)の形をした石棺になってる、と考えたら自然ではないかと。

 

 

吉野ヶ里遺跡フェニキアギリシア要素

 

フェニキア - Wikipedia

 

実は以前に吉野ヶ里遺跡とは、ギリシアの古代都市アテネアクロポリスを模したものではないかとの仮説を立ててたのですが。

ギリシアフェニキアは紀元前の地中海で、覇権を争った海洋民族でした。両者は別物ではありますが。

「火の国という土地にあっては、彼らの子孫も融合した」んだろうなと思うわけです。

 

フェニキア人は地中海沿岸のチュニジアに、カルタゴを建設したんだそうですね。海の民であるがゆえに、海辺に拠点を構えたというわけです。

一方で吉野ヶ里遺跡は当時、海辺の町だったことが分かっています。

筑紫平野は弥生海進かなにかで現在より海面が高く、有明海不知火海、筑紫海)が内陸まで入り込んでいたからです。

古代に吉野ケ里町は神崎郡とか言われてましたが、崎とは岬のことを表すので、比較的海に近いところだったことが地名にも現れています。「神の岬」なので神殿の場所にはぴったり。

ここが仮に邪馬台国だと、船の移動は容易だったでしょうね。しかし対外的には場所を知られては不味いので、「魏志倭人伝」では「水行20日とか陸行1月」とかでたらめを書いておかねばならなかった気がしますですね。

 

そしてこの吉野ヶ里遺跡は、どうもアテネアクロポリスのような気がしました。

・アテネのアクロポリスの要素が吉野ヶ里遺跡の設計図に含まれていたか

配置も良く似ているようでした。まぁ妄想ですけども。

 

そういえば佐賀には「ヶ里地名」がありまして、これが謎とされてるのですが。

カルタゴ kar

ギリシア graecia

ヶ里  gari

ヶ里の正体は、これだったりして。

 

・・・・・・・・・・・・

というわけで、吉野ヶ里遺跡が古代フェニキアに関係する理由はこんな感じになっています。また発掘が進んだら、詳しくわかるかもしれませんね。

 

 

ぽちでたすかります

(望んでないのにスケベ広告を入れられて酷い・・・広告やめようか検討中)

 

 

人気ブログランキング

古代の大陸と日本列島を照らし合わせてしまった妄想地図の最新版

以前に「大陸と日本の地名を照らし合わせた図」を作ったのは、2015年?ずっと前のことでした。早いものであれから月日が経ってしまいました。

あの頃も今も苦悩は絶えない状況でしたが、振り返れば色々と進歩したことはあるんではないかと。今回の地図の最新版もその1つです。

今回は長くなってしまいましたが、余興や研究用にどうぞ。

 

 

古代の大陸と日本各地を照らし合わせた図

 

これが作ってみた図ですが。以前より詳しくなりました。よっこいしょういち。

クリックで拡大

 

紀元前から西暦3世紀あたりを中心とした、大陸国家の地名を元にしています。

大陸と日本列島の、国郡名や大河や島など、大きな地名のみを比較対象として、余計なものは入れていません。

参考にしたのは「世界史年表地図」や「日本史年表地図」、古代の律令制時代の地図、グーグルマップなどです。

以下に比較リストと解説を付けています。

 

 

解説

 

一般的な日本列島ひな形論は、北海道=アメリカ、本州=ユーラシア、九州=アフリカ、四国=オーストラリアと言った感じですが。

わたすが考えていたのは、極東=関東、中央アジア=近畿、中東・地中海=九州と言った感じの、実用的な日本列島の大陸ひな形論でした。これにはちゃんとした根拠があります。

まず中国の関東は、日本の関東であるのは、わかりやすい一致です。そして大陸の古代国家と、似通っている名前の日本の律令時代の国郡名は、同じような配置になっているのは明らかでした。

大陸の主要な国名や地理的な名前が、日本の各地に当てはめられて国郡名や地理的名称になっているようです。

大きな地名で一致しているほど、日本人に関係が深い土地なのかもしれません。例えば大勢が移住してきていたり、天皇家や豪族の先祖に関わっていたりするんではないかと。


・東北地方

【東北地方との対応】

勿吉motskits   陸奥mutsu(東北)

マガダmagadha  山形yamagata

インディアindia  出羽ideha(山形・秋田)

むかし東北は広範囲が陸奥(むつ)でしたが、これはおそらくユーラシアの日本海沿岸にあった勿吉(もつきつ)や靺鞨(まつかつ)の名を取っているんではないかと。粛慎(しゅくしん)や挹婁(ゆうろう)の後衛で、扶余に支配されてたらしいです。

もしかすると日本の蝦夷というのは粛慎、勿吉、靺鞨と同系の民族だったんじゃないかという気がします。以前に記事にしてましたが、山形県というのは古代インドの紀元前にあったマガダ国の形状をしているのですし。

あと山形の古名は出羽ですが、これがインディアに対応して出羽(いでは)になっていると思います。india、出羽=idehaと書くとわかります。

しかも山形で聖徳太子の頃に活躍していた蜂子皇子(はちこのみこ)は色黒で彫りが深い容姿だったので、インド系サカ人だったんじゃないかという仮説も立ててるのです。詳しくは下のほーにある関連記事で。

そうするとユーラシアの勿吉靺鞨のあたりには、インド系の人々が住んでいたことが、地図上に反映されてる気もするのです。

黒水靺鞨というのは、黒い肌のインド系の人々を意味するのだろーかと。あと靺鞨というのも、マガダが元だったりして。

すると粛慎や挹婁や勿吉は、南アジアのほうから移動してきた人々だったんではないですかね。

 

・関東地方

【関東地方に対応する土地】

関東(中国) 関東(日本)

扶桑fuso   総fusa(千葉)

大倭owa   安房awa(千葉)

馬韓     馬来田(千葉)

扶余fuyo(buyo)武蔵buzo(埼玉)

高句麗    高麗郡(埼玉)

新羅     新羅郡(埼玉)

新羅     茨城 「らぎ」で一致

蝦夷ebisu 茨城 「ebi,eba」で一致

辰(辰韓)  日立(茨城)「たつ」で一致

突厥totskets  栃木tochigi(栃木)

東胡     多胡(群馬)

高車     車kuruma(群馬)

漢kan    神奈kana(神奈川)

利根川 - Wikipedia

 

千葉というのは西は東京湾と江戸川、北は利根川、東と南は太平洋で隔てられて、完全に島のようだと言われています。

古代に総国(ふさのくに)だった時代も同じように島みたいなものでした。

むかし日本は扶桑(ふそう)の異名がありましたが、これが千葉の総国に対応しています。これに気がつくことで、全体像が見えてくるようになりました。

すると千葉南端の安房国は、大倭=九州に対応しています。昔の中国の地図では、日本と倭が分かれている状況が見えましたが、千葉で総国と安房国に分かれている状況により、それが再現されてるわけです。それが史実だったのではないかと思わせますね。

かつて大和朝廷朝鮮半島からの移民を関東に集めていました。その結果生まれたのが新羅移民をあつめた新羅郡(新座郡)、高句麗移民を集めた高麗郡です。

どうして彼らを関東の武蔵に置いたのかといえば、大陸と日本列島を照らし合わせて、符合する場所に配置したからではないかと思われました。

栃木と群馬は、形状自体がテュルク系の突厥であることは以前に記事にしていたと思いますが。突厥の都ウト県ウテュケン山は、宇都宮に対応していました。

群馬はむかし車国(くるまのくに)と言ったのです。それが突厥と同族である、高車の名と一致するようです。

茨城は新羅に関係があるようでした。辰国と日立(常陸)は「たつ」で一致するのはそのためでしょう。もともと辰国は騎馬民族系の国で「フル」だったので神武天皇の神剣「布留御魂剣」、その所有者である石上神宮物部氏と関係するところなような気がします。

あるいは北海道の蝦夷が、茨城に対応するのかもです。千葉が総=扶桑=本州であるから、本州の北は北海道だというわけで、総=扶桑の北の茨城は北海道に対応するだろうとの理由でした。しかも茨城のイバは、なんか蝦夷のebiに似てるではないですか。

神奈川は位置的には漢でしょうかね。神奈kanaが漢kanに対応するような気がします。まぁカンですけども。

 

中部地方

中部地方に対応する土地】

魏gi       甲斐kai(山梨)

インダスindas   伊豆izu(静岡)

シュンガ朝shunga 駿河suruga(静岡)

匈奴xiong nu   信濃shinano(長野)

匈奴fun na    飛騨hida(岐阜)

匈奴       美濃mino(岐阜)

秦shin      信shin(長野) 信濃は秦の形に似てる

吐蕃toban    尾張owari(愛知)「obari」とすると一致。尾張丹波郡tanbaがある

イシクisyk    伊勢ise(三重)

プレートテクトニクス - Wikipedia

 

プレートテクトニクス論によれば、ユーラシア大陸インド大陸がぶつかって、インド半島になったとされてますね。

不思議なことに本州にくっつく伊豆半島も、かつては島だったものが、本州にぶつかって伊豆半島になったと言われてたりするんです。

だから地名を一致させてるのか?・・・古代人がそういったことまで知ってたか?という疑問はあるのですが。

静岡の駿河は、たぶん古代インドのシュンガ朝がもとになってるのです。駿は「シュン」で駿河=シュンガそのまんまだし。

伊豆がインドの語源のインダス(indas)と一致するのを見てもそんな印象です。それで静岡はインド料理店が多くなってるのかはわかりませんですが・・・。

中部地方は広範囲に渡って匈奴の名が刻まれているようです。信濃、飛騨も匈奴の発音をもとにするんではないかと。美濃の「濃」は信濃と同じなのでこれも匈奴の「奴」に対応するんではないかと。

ただ信濃の場合は秦の始皇帝の秦の形にも似ており、「信」なので秦に関連を持たせている気がします。

甲斐の国は三国志曹操で知られる、魏が元になってる気がします。魏→ぎい→がい→甲斐みたいな。

 

近畿地方

近畿地方に対応する土地】

匈奴kyodo    京都kyoto

吐蕃toban    丹波tanba(京都)

タングートtangut 丹後tango(京都)

烏孫wusun    宇治uzi(京都)

烏孫wusun    宇陀uda(奈良)

イシクisyk    磯城siki(奈良)

アショカ王ashoka 飛鳥asuka(奈良)

タジクtajik    但馬tajima(京都)

仏教・仏陀    仏教・仏陀の山々(奈良・和歌山)

西域・烏孫    磯輪上の秀真国(しわかみのほつまのくに)

アフ・エフaf,ef  淡路awaji

トハリスタンtohari 針間harima(兵庫)

そして京都と言う名も、なにか匈奴とかけ合わせてる感じがしました。

そう言えばかつて7世紀のころ、チベット吐蕃の北東にあった羌族の領域から、タングートtangutが独立したのです。吐蕃はその後、羌族の領域も支配して羌族と一体化してました。

一方で日本では、丹波tanbaから丹後tangoが独立する出来事がありました。吐蕃丹波、タングートと丹後なので、名前はかなり一致してますね。

しかもタングートの独立のあとに、丹後が独立してるわけなので、これが無関係なわけがないです。武蔵に新羅郡や高麗郡を置いたのと同様、大陸の位置と地名や、歴史的出来事を踏まえた上で、日本の地名に練り込んでいるのは明らかではないかと。

中央アジアにはアフガニスタン、エフタル、粟弋(ぞくよく)など、アフ、エフ、アワの国名が目立つのですが、これが日本の淡路島、阿波などに対応するようでした。すると日本神話で最初に生まれたのが淡路島というのは、中央アジアあたりが日本の起源に関係すると、解釈があったのかもしれんですね。

中央アジアのあたりは四大文明インダス文明や、アーリア人の活動するところでしたが。

「崑崙山と西王母の神仙思想」は奈良の三輪山周辺に秘められていた件 

 

奈良京都あたりには、烏孫的な地名が多いと思います。烏孫がウジ、ウズ、と訛った形で伝わってる感じがします。それで発音が転化した宇治、宇陀、宇智などがあり、「魏志倭人伝」に出てくる烏奴国も同様です。

それに烏孫にあったイシククル湖、イシク湖の名前が磯城、信貴、志紀などの地名に反映されてるのかと。伊勢神宮のある三重の伊勢という名も、イシクが元かもしれないなと思います。

奈良盆地そのものは西域(タリム盆地)に対応しておりました。龍王山、大物主の三輪山などが西王母の聖地の写し鏡です。奈良盆地には西域の地名が色々残っているようですが、そのへんは以前の記事を見ていただければと。

そういえば「日本書紀」で神武天皇が口にした日本の異称として「磯輪上(しわかみ)の秀真国」がありましたけど。これ、磯城の磯と三輪の輪が付くので奈良盆地ではないかと。

しかし磯輪(しわ)はおそらくサイワク、シーワイで「西域」を表し、秀真はシュウシンで「ウシン=烏孫」のことではないかと。すると地図上でも対応することになりますね。

つまり「磯輪上(しわかみ)の秀真国」とは、「西域上の烏孫国」で、神武天皇がいたのは実はアチラだったんじゃないか、烏孫の昆莫が神武天皇なんじゃないかっていうのが、ずっと以前からの妄想です。

 

・中国地方

【中国地方に対応する土地】

タタールtatar鳥取tottori

イスラエルisrael  出雲izumo(島根) 形が似てる、伝承で一致

スキタイskythai  周吉suki(隠岐

ウクライナukraina 隠岐oki

カスピkaspi    吉備kibi(岡山)

ペルシアpersia   広島hiroshima(pirosima)

アナトリアanatoria 穴門anato(山口)

中国地方の西の端っこは横長の形ですが、これにトルコの小アジア半島が合わせてあります。名前もアナトリアに対して、山口の古名は穴門(アナト)でほとんど同じですね。これは侮(あなど)れませんね。😅

当初スキタイは無いとおもったんですが、隠岐の島に周吉郡sukiがあり、これがスキタイに対応してました。

隠岐は古代の因幡の白兎の舞台となっており、「先代旧事本紀」に応神天皇の時代(4世紀)に観松彦伊侶止命(みまつひこいろどのみこと)が意岐国造(おきのくにのみやつこ)として統治した記録があるようでした。

一方で隠岐に対応しているのは、もしかするとウクライナかもしれないと思いました。調べてみると、中世ルーシ語で国や辺境の内地を意味するとか、ロシア語では「オクライナ」は場末や辺境の意味があったとか。ウィキにかいてありました。

日本の辺境の隠岐はokiであり、どうやらスキタイの周吉郡(suki)を含み、okuが辺境という意味になるということなので、無関係じゃない気がしました。隠岐ウクライナに対応するという感じですが、ウクライナの歴史上の初見が中世で、古代のほうは確認できてないため地図には含んでいません。

あとロシア南西部から中央アジアにかけて古代からいたタタールは、鳥取として記録されているんではないかと。鳥取のおとなり島根は古代製鉄の「たたら製鉄」の拠点でしたが、もしかするとタタール人が持ってきたのかもしれんですね。

吉備はわからなかったのですが、カスピ海なのかもしれないです。隣の広島がペルシアですし、タタール鳥取アーリア人の四国と隣接していますので。桃太郎の鬼退治的な伝承「ロスタム」も、カスピ海のあるイランには存在しているようですし。

ロスタム - Wikipedia

そしてイスラエルが出雲に対応しています。場所的になにか微妙ですが、出雲の形状が古代イスラエルに似ているので、あたっているかと。あと古代イスラエルから烏孫に向かう流れがあったと見ていて、これが神武東征の動きと重なっていると思うのですが。そういう意味で出雲は烏孫にも対応するでしょう。

 

 

世界史年表・地図(2022年版)

 

四国地方

四国地方に対応する土地】

粟弋zokyok   粟国awa(徳島)

月氏     大宣都姫oogetu=大月(徳島)

アーリア人aryan 飯依比古iiyori(香川)

アーリア人aryan イヨiyo(愛媛)

アーリア人aryan 伊予之二名嶋iyo(四国)

四国の地名には長い間ずっと意味不明なものが多かったのですが、近ごろになってアーリアが訛って入っているんじゃないかと思いつきました。アーリア人と言えば中央アジアからインドにいて、ヒンドゥ教、仏教、ゾロアスター教の成立に関わった人々でした。

四国の讃岐の古名に「飯依比古(いいよりひこ)」とあったのですが、これがアーリア人のことではないかと思います。

アーリヤ、の「リヤrya」だけ残ってイイヨiiyo、イヨiyo、愛媛の愛aiもアーリアの短縮みたいな感じかもしれないなと。

西アジアのイランという国名も、アーリアから派生したんだそうです。aryan→iranで最初のaとyが抜けているんですね。なにか伊予や飯依と同じ感じではないですか。

あと「古事記」を見ると四国はかなり最初期に登場しているのは気になりました。それは4大文明時代に登場した、アーリア人の登場に合わせている感じがします。

基本的に日本民族大和民族に関係する国ばかりを採用してるとみられるので、日本人の根本にアーリア人がいたと、見られるようです。

 

・九州地方

【九州地方に対応する土地】

チグリス川tiglis   筑紫chikushi(福岡)

シリアsiria     白日別sirahi(福岡)

イスラエルisrael   恪勒isoro(福岡)

ケモシュkemosh   熊曾kumaso(熊本)

フェニキアphoenicia 肥の国hinokuni(熊本)

フェニキアphoeni  建日向豊久士比泥別(比泥hine)(熊本)

ケメトkemet    熊本kumamoto(熊本)

ユーフラテス川euflates 由布川yufu(大分)

シュメールsumer  大隅osumi(鹿児島)

ティグリス川 - Wikipedia

 

筑紫というのは位置的に見てチグリス川ティグリス川)のことだと思いました。するとセットの関係であるユーフラテス川もあるはずだと思ったら、それは大分の由布川ではないかと。

チグリス川のあたりはシリアなので、福岡の古名である白日別のシラがシリアに対応してるようです。

あと福岡は古名で恪勒(いそろ)国という、居候(いそうろう)みたいな意味不明なものがあったのです。これがイスラエルに対応するんだとすると、意味が通じて腑に落ちるではありませんか?なにしろisraとisoroで良く似ているので。

古代イスラエル地域では神に抵抗するモアブがいまして、彼らの神がケモシュだったのでケモシュとも呼ばれてたらしいです。そのケモシュが、日本では朝廷に抵抗した熊曾(熊襲)だったとの説は、ヨセフ・アイデルバーグの本の中にもありました。

熊本長崎のあたりって、火国(ひのくに)って呼ばれたのですが。通説では景行天皇が夜間に船で移動する時に、村の火の光で無事に着いたので火の国だとか、火山の阿蘇山があるから火の国だなんて言いますが。

しかし今回の大陸と日本列島を照らし合わせた地図をもとにすると、火国とはフェニキアのことでした。phoeni=hinoで、国や土地を意味する地名接尾辞のcia=kuniというわけです。

そういえば九州の火国の別名が「古事記」では「建日向豊久士比泥別(たけひむかとよくじひねわけ)」というものでひねくれた感じで意味不明なのですが。比泥が火国と同様の地名だとするとhineでphoeniなのだろうなと勝手に妄想しています。

この地図にはないのですが、対馬の別名である、天之狭手依姫(あめのさでよりひめ)というのが、イタリアのサルディニア島ではないかと。

sa-de-yori-hime

sar-di-nia

 

 

あらゆる要素で一致するカモ

 

ヒュドラー - Wikipedia すっぽんぽんのヘラクレス

 

おそらく卑弥呼の時代には、こんな大陸情勢を日本列島に組み込むようになってたんではないかと思っています。

古代の大陸出身の人々が東へ東へ向かって、海の向こうの国に辿り着いたみたいな伝承は、実はイスラエルの聖書やキルギスにもありますし。

古代ローマ人ユダヤ人や騎馬民族は、大陸を東へ東へと向かっていましたし、みんなみんな、大陸人の吹き溜まりだった日本に入りこんだんではないですかね。大和民族と呼ばれる人々、古代天皇家も豪族も含め。

それで大陸と日本の神話はそっくりなものが多かったりするんですが。ヘラクレスヒュドラの対決は素戔嗚命と八岐大蛇の対決だったり、聖書の中の出来事が記紀神話に反映されていますし。

日本語の中に英語やトルコ語ラテン語そっくりなものが多いのも、その現れでした。日本各地で方言がぜんぜん違うのは、それの反映というわけです。

【日ユ同祖論】「大陸のヤマト地図」の検証。歴史作家の推定移動ルートに照らし合わせる 

おそらくこれらの大陸と日本列島で一致する場所は、単に一致してるだけじゃないんです。

遺伝子、文化、風習、言語、地形に至るまで似通っていることが期待できるのではないかと思うのですが。まぁ本格的な研究者のレベルで調べたら、詳しいことがわかるかもです。

以上ほんじつの妄想でした。

 

 

※ちなみにこの記事は純粋な歴史研究であって、移民推進をする思想などは一切ありません。

 

ぽちされでたすかります

 

 

 

 

2015年版

 

関東地方が東アジア、近畿地方が中央アジア、に対応する土地の証明。新日本雛形論

 

関連記事

 

大陸のタングートと日本の丹後国が関係ある件

ヤマガタがマガダに見マガうモノガタリ

中央アジアの烏孫の昆莫は「イワレビコ」の名前を持ってた」かもしれない件について

【日ユ同祖論】「大陸のヤマト地図」の検証。歴史作家の推定移動ルートに照らし合わせる

古代に三輪山の大物主神になったらしき崑崙山の西王母

日ユ同祖論を解くカギとなる古代筑紫の恪勒国

 

人気ブログランキング

 

出雲大社と大ピラミッドの共通点は△△△・・・同じ形、同じ役割

今回も以前に取り上げた、出雲大社と大ピラミッドの話。また何か面白いことを見つけてしまいました。

 

 

〆縄

 

注連縄 - Wikipedia 二見浦(三重県)の夫婦岩のしめ縄

 

しめ縄 神界との境界に付けられる縄。

しめ縄の向こう側が神さまがいる神界、しめ縄の手前が人がいる現世ということです。あるいはしめ縄とは雲を現し、また蛇を現しているのだとか。

〆縄、標縄、占縄、注連縄、七五三縄、締縄と表記されるようです。

 

「しめ」とは、神が占める場所、神が占う場所、神が締める(〆る、しめる)場所、その土地の標(しるし)。

しめ縄には、神界の結界、邪気を払う魔除けなどの意味があるようです。紀元前の弥生時代の古くから、あったのでしょう。縄文時代にあったかは定かではないですが、世界にはしめ縄に似た文化があるようです。

 

締め(〆)はなんか意味がわからないですが、要するに神社や神域に拝むことで悪運を締め(終わらせて)、幸福をもたらすこと。

七五三縄とは、一定の間隔で藁(わら)の束(〆の子)を三本、五本、七本と垂らすことに由来するそうです。

「注連」とは死者が出た家を現す中国の言葉であり、ちょっと縁起が悪い感じもするので、注連縄は使わない方がいいかもしれないんですね。

 

 

しめ縄の〆の子と紙垂

 

注連縄 - Wikipedia 天津神社のしめ縄

 

〆の子(しめのこ)と紙垂(しで)は、しめ縄に付けられる飾り。

しめ縄とは雲を現し、三角錐の〆の子とは雨を現し、ギザギザの紙垂とは雷を現すのだとか。それは出雲大社の神が、雨という天の恵みをもたらし五穀豊穣を授け、雷という天罰を与えるからであると。

しめ縄 雲 ねじった形

〆の子 雨 三角錐

紙垂  雷 ギザギザ

 

 

スフィンクス狛犬

 

スフィンクス - Wikipedia

 

一般的にスフィンクスとは古代のメソポタミア、エジプト、ギリシアなどの神獣、怪物。エジプトでは神殿の守護者。

ライオンの身体、人の頭を持ち、メソポタミアではワシの翼を持った姿。スフィンクスはエジプト以外では、死を見守る者、死をもたらす者として恐れられた。

ギリシア語「スピンクス」が語源であり、その意味は「首を締める者」だとか。これはスフィンクスが人間に謎掛けし、答えられ無かったら食らうとのこわい神話に関係しているようです。

 

一方で日本の神社にいる狛犬は、元はスフィンクスだったのが、平安時代に日本に導入されたものだそうです。平安時代以前には、まるで無かったのかは不明ですが。

狛犬スフィンクスも、どちらも神殿の守護者です。狛犬があることで神域を現しているので、しめ縄の役割に似てますね。

狛犬は獅子=ライオン、一角獣=ユニコーンは一般的ですが、狐や十二支の動物の場合もありました。

 

 

大ピラミッドは魔除けだった

 

おや?

スフィンクスは「首を絞める者」

神社にあるのは「締め縄」

「締め」で日本の神社とスフィンクスは共通してるわけですが・・・

そうすると、しめ縄みたいなものが、エジプトに存在するのだーろか?

と思って調べてみたら、存在しました。

 

 

エジプトに古来からある、小麦の魔除け飾り。なんか、日本のしめ縄に似てます。

菱紋にも見える。菱紋は「四方の突起」が魔を遠ざける、魔除けであるとか。

この魔除け、真ん中にピラミッドがありますね。要するにしめ縄とピラミッドは、同じ役割何だなと思いました。

ギザの大ピラミッドとは、日本のしめ縄や菱紋と同じ。神界の境界であり、突起により魔を寄せ付けないための魔除けや結界であり、神が占める場所、神が人を締める場所。

であるということですよ。

 

つまりギザの大ピラミッドは、しめ縄と同じで、入り口の飾りに過ぎない。

その本体は地底深くにあり、人類の究極の叡智が宿る場所なんだろうなと想像してます。

 

 

風水開運置物 狛犬(獅子狛犬)金8 cm

 

 

出雲大社=大ピラミッド内部構造なのはしめ縄が証明する

 

出雲大社 - Wikipedia 神楽殿

 

出雲大社の神楽殿のしめ縄は、日本一の巨大なものです。長さ13mで重さ5.2トンもあるとか・・・俺の誕生日、昭和52年1月30日なので何故かぴったりなんですよね。

なんでこんなに巨大なのか、それは出雲大社が巨大なので、それに釣り合わせているためでした。

 

ここで出雲大社の神楽殿のしめ縄が、大ピラミッドに関係していることがわかるのですが。

しめ縄・・・巨大・・・巨大な雲、蛇

〆の子・・・三角・・・ピラミッドの形

〆の子の数・・・3つ・・・3大ピラミッド

出雲大社本殿・・・大ピラミッドの内部構造

 

雲の下、あるいは蛇の下に、3つの△△△。

これはまさにギザの三大ピラミッドじゃないですかね。

 

しかも出雲大社の神殿と言えば、大ピラミッドの内部構造を現してるみたいだし。

大ピラミッドの地下には巨大な蛇が横たわっている壁画もありますし。

まぁ、偶然の一致が幾つも重なるのは、必然だからであり、歴史の真相なんだろうと思っています。

 

 

ぽちられてたすかります

(最近エロが増えてるのだが嫌がらせ?)

 

 

 

関連記事

エジプトの大ピラミッドの地下構造は既に超最深部まで調査されている

「出雲大社本殿=大ピラミッド内部構造」であることを踏まえ48m本殿の復元図を作る 

出雲大社の高層神殿がマヤ文明のティカル神殿に影響してるかもしれない件

 

人気ブログランキング

「出雲大社本殿=大ピラミッド内部構造」であることを踏まえ48m本殿の復元図を作る

近頃も「出雲大社の本殿はエジプトの大ピラミッドの構造」だとの話題を目にしました。確かこれ、十数年前に「ムー」の本に登場してた話だと思いますが。

これを自分なりに考えてみることにしますた。

 

 

出雲大社と大ピラミッドの比較

出雲大社 - Wikipedia

 

出雲大社本殿    大ピラミッド

位置 出雲の海辺  位置 ナイル川のほとり

地名 出雲     土地 イテル(出る) 

形状 大社造    形状 三角錐

素材 木      素材 石

高さ 48m,96m   高さ 146m

年代 弥生時代後期 年代 紀元前2500年

階段 南向き    大回廊 東向き

屋根 切り妻    王の間の頂点 切り妻状

御神座 東向き   王の間 北向き

 

ギザの大ピラミッドは大回廊と王の間を中心としたものですが、女王の間や地下室、あと意味不明なシャフトがあります。さらに入り口がない秘密の空間も、あちこちにあるとか。

一方で出雲大社本殿は、大床(下段・上段・御神座)に階段が付いてる構造ですが、ちょっと気になることがありました。

 

 

周辺の地理について

出雲大社は今は内陸にあるようですね。しかし実は平安時代の頃までは弥生海進の時期で、平野の内陸のほうまで浅い海が広がっていました。

だから出雲大社は、海辺に高層神殿が建っているような感じだったとか。船でも訪れることができたでしょう。

するとギザの大ピラミッドがナイル川のほとりにあって、船で人々が拝みに来ていたのと一致するわけです。

そういえばナイル川は昔、「イテル」という名前だったらしいです。「イテル→いでる→出る」ということで、出雲の名と合ってるような気がしました。

 

 

入り口と通路と大回廊

ギザの大ピラミッド - Wikipedia

 

大ピラミッドは入り口が東側にあるのです。入り口の近くには、9世紀にアラビアの指導者アル・マムーン氏が開けた通路が掘られているとか。

本来の通路は巨石を詰め込まれて通れないですが、大回廊に繋がる通路の分岐点を過ぎ、地下の間へと伸びてます。かつて大ピラミッドには化粧石があったのですが、その化粧石の表面から分岐点まで測ると、だいたいおよそ24mほどです。

さらに分岐点からは細い通路が38.7m伸び、それに接続して天井の高い大回廊が46.6mほど続いてる。その先に前室含め7mほどの通路があり、その先に王の間があるという形でした。

一方で出雲大社本殿の「金輪造営図」によれば、昔の本殿には109mの通路が接続してたとか。109mの階段がついていたと考えられます。

ここで大ピラミッドの通路の長さと、本殿の通路の長さを比較してみたいのですが。

・大ピラミッド

入り口~分岐:約24m(たぶん)、分岐~大回廊:38.7m、大回廊:46.6m

合計:約109m

 

出雲大社本殿

金輪造営図にある通路:109m(金輪造営図による)

不思議と同じ距離だったりするんですよね。これは偶然じゃないなと。

 

 

王の間と控えの間

ギザの大ピラミッド - Wikipedia 、グーグルマップ

 

大ピラミッドの大回廊を進んで行くと、控えの間という前室があり、45度曲がった先に王の間があるのです。

一方で出雲大社本殿は、階段を進んでいくと前室があり、そこを曲がると御神座があるのです。

通路と御神座の角度差は45度なのは同じですね。これも偶然じゃないなと。

 

重力拡散の間の最上部の、切り妻屋根状の岩に対応しているのが、本殿の切り妻屋根でした。王の間と重力拡散の間を合わせた全体の姿が、出雲大社の本殿全体の姿に対応しているのでしょう。ティカル1号神殿にも近くなっています。

すると紀元前の当初に出雲大社を作った大国主神少彦名命らは、ピラミッドの内部構造を知っていたことになるわけですが。あちらから移住してきた人の末裔だったんですね。

 

 

女王の間と地下の間

出雲大社 - Wikipedia

 

大ピラミッド女王の間にあたる構造が、出雲大社の本殿にあっておかしくないわけです。

出雲大社本殿の写真を見ると、床下に仕切り板があって、床下の小部屋みたいなものがあるとわかるのです。これが大ピラミッドの、女王の間に対応してるようでした。

中に何があるのか不明ですが、女王の間のように、何もないのかもしれないですね。

古代の高層神殿にも、おそらく床下部屋があったんではないかと思いました。

しかし大ピラミッドの地下室に当たる構造は、出雲大社には無かったんですかね。まぁ巨大な柱跡が見つかっていて、そこには加工の跡も見つかってるので、木材を組んで空間を作ってたかもですが・・・。

 

 

未知の空間

いま大ピラミッドでは、未知の空洞の存在が話題になってます。

実は出雲大社本殿には、床下のほかにも未知の空間がありました。

それは屋根裏部屋。

屋根裏は通常は入ることができないので構造は不明ですが、大社造の屋根は合掌造りの内部構造のように、柱と梁が渡されて広い空間になってるんではないですかね。

そこが大ピラミッドの未知の空間に対応しているんではないかと。

 

 

古代出雲イスラエル王国の謎―神社に隠された日本人のルーツ (ムー・スーパーミステリーブックス)

 

 

死者の魂

大ピラミッドは、死者の魂が移動する装置だという記録があるんだとか。すると大ピラミッドと同じであるという出雲大社も、そうなんですかね?

そういえば、出雲大社本殿の天井には「八雲の図」があるのです。ふわふわした雲が飛んでいる絵ですが。

実はあれって死者の魂なんだろうか、という思いがよぎってしまいます。まぁ出雲の大国主命素戔嗚尊は、冥界の神であるというから、そういった設定もあるのかもしれんですね。個人的には「出雲に大陸から人々が来た」ことの現れかと思っていましたが。

 

 

古代出雲大社の適当な復元図を作ってみた

大ピラミッド構造を参考にして、48m時代の出雲大社の復元図を適当に作ってみました。出雲大社に関係していると見られた、ティカル1号神殿の形状も参考にしています。

本殿の通路の長さは、大ピラミッドの内部通路と同じ109mです。通路は大ピラミッドのように、出口に近い所で折れ曲がっていたのではないかと。現在も本殿には折れ曲がり構造がありますし。

109mの通路に屋根が被っているのは、ピラミッドのトンネルを現すためです。

主要な柱を支える梁は、5段にしました。これは大ピラミッドの王の間上部の、重力拡散の間の石が5段になってるのにあわせています。

床下は現状の本殿と同じく格子状の柱と梁が、全体にめぐらされています。鎌倉時代の金輪造営図を見ても外側に線が引いてあるので、古代にも格子状の支えはあったのでしょう。

本殿の地面に近い位置に、ピラミッドの女王の間に対応する部屋を描きました。現在の出雲大社にも謎の床下部屋があるので、あって然るべきでした。

こうしてみると本殿のてっぺんの千木って、ピラミッドの謎のシャフトのようにも見えてしまいますが。どうなんですかね。

まぁ、割と特徴が合致していると思いますが。出雲大社の祭神の大国主命って、クフ王が集合された存在だったんでしょうかね。

謎は尽きま千円。

 

ぽちされたすかります

 

 

関連記事

出雲大社の高層神殿がマヤ文明のティカル神殿に影響してるかもしれない件

3大ピラミッドの建築方法の考察・・・ギザ台地を眺めて思いついた新仮説

 

人気ブログランキング

卑弥呼の鬼道はシャーマニズムを根源とした件でちょっと

あのー、「魏志倭人伝」によると、卑弥呼は鬼道を用いたとかいうのです。

鬼道の正体には諸説あるのですが、シャーマニズムを根源としたと言われています。今回はそんなはなし。

 

 

卑弥呼の鬼道は霊魂にまつわる

 

魏志倭人伝」にはこうありました。女王卑弥呼は「鬼道を用いて衆を惑わす」と。

鬼道が道教であるとか、神道であるという仮説はあるのですが。実際に見た人は生きてないので想像に頼るしか無いです。

しかし漢字から鬼道の正体を知ることはできるのではないかと。

 

「鬼」っていうと角があり、赤鬼青鬼、鉄の棍棒、鬼ヶ島なんて思い浮かべます。古来より日本で鬼と言えばそういった存在でした。

鬼道も、角がある鬼が関わるのかと思ってしまうところで。

しかし漢字で鬼と言えば本来は幽霊のこと。中国では今でも幽鬼とかいって、死者を祀る祭事を鬼節と呼ぶとか。

 

鬼が幽霊なのは、漢字の本来の意味が、霊魂だからでした。

鬼 - ウィクショナリー日本語版 を使用

 

ウィクショナリーにある殷の時代の甲骨文字、流伝の古文字などは、みんな幽霊をかたどったものだそうですね。紀元前2,000年の古代から、人々は幽霊やら魂やらを信じてたのが現れてるらしいのです。

それで卑弥呼のいた漢の時代も、鬼といえば幽霊みたいなものだったわけでした。

すると鬼道とは「霊魂に関係する道」なわけですよね。もし鬼道が神道のことなら、明らかにシャーマニズムに近いものだったと思いました。

 

 

鬼道のシャーマニズム神道の元になった

 

雨乞い - Wikipedia

 

先祖霊を祀るって、21世紀になっても相変わらずやっていますね。仏教ではお盆に先祖霊を祀ることは、普通にやってますし。先祖の供養をするのは、神道でも同じでした。

まぁ個人的には供養する機会もなくなってしまいましたが・・・。

 

死者の魂に線香と水と供物を供え、魂を鎮めますし。ひとに悪霊が付いたり祟りがあると言われ、みんなこぞってお祓いを受けたりしますし。

霊魂を呼び寄せ憑依させ口寄せする、青森のイタコ、沖縄のユタなども継承されてきました。これらは卑弥呼の時代の「神憑り」と大差ないものです。

日本書紀」には倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめ)が神憑りした話がありました。

その神憑りやイタコなどのシャーマニズムの降霊術では、音楽や薬物によってトランス状態をつくり、神や霊や精霊と呼ばれるスピリチュアルな存在を、霊媒となる巫女に憑依(降霊)、あるいは脱魂(魂が抜け出してあの世へ行く)するわけです。

そして憑依した神霊の話を聞くことで、未来や吉凶を占って国や村落の道を定めたりしました。龍神さま、お稲荷さまに祈願して雨を呼ぶ、雨乞い神事も、シャーマニズムの一種ですし。

要するに卑弥呼の鬼道とはシャーマニズムであり、それが現在の神道の原型だったというわけでした。

シャーマニズム - Wikipedia

 

倭人が全身に入れ墨をしたとの記録や、縄文土偶が全身に入れ墨をしていることも、シャーマニズムの証拠になっているんです。

入れ墨と言えば海の魔獣に噛まれることを防ぐ、魔除けであると「魏志倭人伝」にもありますし。陸上では悪霊除けとして機能するものだったでしょう。隼人の渦巻き模様や、唐古鍵遺跡の楼閣の渦も縄文土偶の意匠に通じてますが。

結局は魔除けなのでした。

 

紀元前の大陸の匈奴。そのシャーマニズムは天の神を崇め、呪術や祈祷を中心としたものだったとか。すると匈奴シャーマニズムは、鬼道や神道によく似ているものだったとわかるのですが。

そういえば匈奴には、犬が先祖霊を導くとの思想があったらしいです。それが何か、古代の日本武尊(やまとたけるのみこと)が白犬(白い狼)に導かれて進み、やがて不幸な死を遂げたとの伝承に関係するような感じもします。

日本武尊の魂は白鳥になって飛び去ったのですが、匈奴には白鳥信仰もありましたし、日本の鬼道・神道匈奴シャーマニズムとの繋がりがあると考えるには、違和感がないような感じします。

 

 

【生霊や悪霊の悪しきオーラや念、邪気を祓い消す刀印護符】

 

シャーマニズムは古代のどのへんで発祥したかは不明です。しかし古代のメソポタミア、エジプト、ギリシアイスラエルなどに記録があるとか。

古代人は洋の東西を問わず、霊魂と死者の世界の認識があり、霊媒に対しての霊が憑依し予言や吉凶を得たり、魔除けを行うなどのシャーマニズム儀式をしたようです。

つまり4大文明や縄文時代という太古の昔からあったとか。シャーマニズムは世界共通の信仰という感じで広まってたのは、興味深いではないですか。

憑依 - Wikipedia

 

・・・・・・・・・・・・・・・・

しかし鬼道の根源は、シャーマニズムだけじゃなかったです。別の思想や信仰までも、含んでいるものだったわけなのですよ。

続く

 

ぽちされたすかります

 

 


関連記事

十種神宝は古代中東発祥魔術シジルの原物だったか 

水の性質が何故か人の霊魂と似てるので輪廻転生の実在が証明できるのだろーか

精神メタバースは人を取り込み既に稼働しているんだろーか

 

人気ブログランキング

盾形銅鏡が出た富雄丸山古墳。モーセの十戒石板みたいな形だった意味とは?平群木菟宿禰の墓所?

奈良の富雄丸山古墳から、凄いやつが出土したとか言ってました。それで被葬者からアレの正体に至るまで、気がついたことを取り上げてみました。

まぁいつも通り、トンデモの領域まで入るので気をつけてください。

 

 

富雄丸山古墳とは

 

盾形銅鏡と蛇行剣が見つかって話題の、富雄丸山古墳。奈良県北西部、奈良市富雄に所在する4世紀後半の古墳だそうです。

大きな作り出しがあって、前方後円墳のようにも見えますが、分類は円墳ってことにしてるようです。円墳としては日本最大で直径が109mもあるらしい。

富雄丸山古墳 - Wikipedia

 

4世紀後半といえば、ちょど神功皇后の時代であるかと思いますが。

神功皇后陵こと五社神(ごさし)古墳は、4世紀後半です。神功皇后百済からもらった七支刀には「泰■四年」とあるのですが、あれは「太和四年(369年)」となるようです。

 

 

富雄丸山古墳は平群木菟宿禰(へぐりのつくのすくね)の墓所かも

 

古墳の持ち主は誰かって、いろんな意見があるかもしれないですが。古墳ができた4世紀頃、あの付近は平群氏が支配した土地でした。

記紀に登場し、長く天皇家に仕えたという武内宿禰(たけうちのすくね)。彼の息子に平群木菟宿禰(へぐりのつくのすくね)がいて、その人が平群氏の祖となったとか。

武内宿禰神功皇后の時代まで存在したと言うことで。

すると年代的に、平群氏の祖である平群木菟宿禰墓所であろうと、そういった想像がつくわけです。

 

拙著「封印された叡智の回復(1)」にあります、「前方後円墳矢印説の法則」では、

前方後円墳の中心軸や造出の延長線上に、名前や関連する土地を並べることで、被葬者が誰かを示している

という叡智なわけですが。(2巻目を作る気力がない・・・)

 

この円墳の場合は、「作り出しの方角を見ろ」ということになります。

そちらで「木菟(つく)」とか「木」「うさぎ」に関係する地名を適当に探すと、

・木津町・・・木、津(つ)

・木津川・・・木、津(つ)

・和束(わつか)・・・つか→つく

伊吹山・・・日本武尊小碓尊)の伝説(うす→うさ)

 

やはり平群木菟宿禰の情報が出てくるようでした。詳しく調べたらもっと出るかも。

祖先の日本武尊小碓命(おうすのみこと)で、「うす」が「菟(うさ)」っぽい。

おそらく造出が北東に向いているのは、名前と関連する地名を結びつけて、被葬者が平群木菟宿禰であることを示しているのだろうなと。

 

 

盾形銅鏡はモーセが授かった十戒石板なのか

 

銅鏡って、神さまに祈って、邪気を祓う道具だったらしいですね。銅鏡がくっついてる盾形銅鏡って、かなり威力がすごいやつだったんでは。

 

形が似てるから同じだとは言いませんが。「名は体を表すように、形は正体を表す」ものだと思っております。関連付けちゃって申し訳ありませんが。

旧約聖書」にある、神さまがモーセに授けた十戒の石板に、似てますね。

 

気づいた人もいたかもしれないですが。これ、偶然ですかね?

これだけじゃないんですけど。

被葬者がもし平群木菟宿禰の場合、木菟(つく)・・・木菟(もうさ)・・・

平群木菟宿禰

木菟

もうさ

モーセ

平群木菟宿禰という名前の中に、十戒石版を授かった、モーセの名があるんですけど。

彼がモーセを信仰していたから、木菟(モーセ)の名を名乗り、盾形銅鏡を十戒石板の形にして、アロンの杖で蛇行剣を置いてるんですかね?

ぜんぶ偶然だろうか?

しかしこの宇宙では、なにごとでも偶然が重なると意図的であるでしょう。

 

 

蛇行剣とはアロンの杖だったりするのか

 

 

モーセものがたり(旧約聖書)―エジプトからのがれて (みんなの聖書・絵本シリーズ) 日本聖書協会

 

ツイッター十戒石板みたいだと言ったら、「蛇行剣はアロンの杖だ」との意見を得ました。

たしかに盾形銅鏡が石板ならば、古代イスラエル三種の神器である、アロンの杖もセットになってるはずですね。

蛇行剣とは実用性に乏しいので、祭祀用に使われたと考えられてる古墳時代の剣。

その手がかりは記紀からは得られませんが、記紀に登場する神剣はやたら蛇に関連づいていました。天津神の神威の象徴であり、用いることで御神徳を得ていたのではないかと思いますが。

 

アロンの杖とは、モーセがエジプトで授かった、神の奇跡を起こすアーモンドの杖です。

旧約聖書」の出エジプト記では、蛇に变化させることができたり、10の災いを起こしたり、海を割ったり、契約の箱と合体して奇跡を起こしたりしました。

じつは日本の三種の神器である草薙剣は、アロンの杖と特徴が重なってると思うのですが。「ナギ」とは凪で、波際の意味です。蛇行剣は「~~~」という形状なので蛇や凪のようだし。

これとモーセ十戒の石版みたいな盾形銅鏡が、セットになってたのは意味深。お買い得なハッピーセットなのか。

 

 

古墳がマナの壺なのか

 

十戒石板とアロンの杖があるということは、マナの壺もないとおかしいですね。

ありました。富雄丸山古墳の形状自体が、マナの壺でした。

 

発掘調査図を適当に写し取ってみたら、こんな感じでした。北東の造出のところで、盾形銅鏡と蛇行剣が出たそうです。鬼門に盾形銅鏡と蛇行剣が配置しているので、たしかに邪気を祓う意味合いがあるかと。

まぁ盗掘されているらしいですが、これから発掘が進むといろいろ出てくるかもしれないです。

 

・・・

2023年の1月に、邪気を祓う神器が発掘され、それは古代イスラエル三種の神器みたいな感じでした。個人的には平群木菟宿禰墓所であるとおもったわけですが。

コロナ禍に現れたということで、邪悪なる存在が一掃されると示された感じもします。

以上、最新の妄想でした。

 

ぽちされでたすかりまs

 

 

関連記事

 

モーセ五書と「伊邪那岐の黄泉の物語」を比較するとわかる一致。イザナギモーセ

□□ 真経と八咫から分かってくる、八咫鏡の■■な実体 

草薙剣とアロンの杖はあまりに似すぎてる件

 

人気ブログランキング

 

【日ユ同祖論】「大陸のヤマト地図」の検証。歴史作家の推定移動ルートに照らし合わせる

そろそろ日ユ同祖論も、新たな段階に進めばよいなと思って、大陸のヤマト地図を取り上げました。

世界の闇情勢とは切り離して考えています。長い与太話ですが、暇ならばどうぞ。

 

たすかっております

 

 

 

 

中国東北部に残されたヤマトの地名

 

大興安嶺山脈 - Wikipedia

 

日本人なら「ヤマト」という地名は、日本固有のものだと、ずっと思ってましたよね。

大和は奈良の別名。日本の異称。大和民族、戦艦ヤマト、大和撫子、コヤマトヒゲブトアリヅカムシ…?

しかし世界地図を調べてますと、歴史の常識をくつがえすようなものが見つかります。ユーラシア大陸に、ヤマトという地名が幾つも存在することがわかったのです。

これは2012年のニートだった頃、グーグルマップでちまちま調べた結果でした。

実はいま検索しても出てくる数は減ってしまっています。とくに中国のヤマトは消されているようで。研究の妨害か。

全部グーグルのMymapのほうに記録したり、画像で保存してたりしますが。消えちゃってるところを見せても、証拠不十分になってしまいそうです。

中国東北部の東北平原や大興安嶺山脈のあたりを調べてみると、ヤマト地名はこんなふうになっています。

内蒙古自治区東部

yamatuo雅马托、yamatu雅玛图瓊査、yamate雅馬特、yematu野馬吐、yimatuguo一马吐沟

遼寧省

yaomutou腰木斗、Yemataohai野马套海、Yangma Datun养马大屯、

吉林省

yangmutun杨木屯

たしかにyamatuなど、ヤマトそのまんまな地名ではないですか。他にもヤマトっぽい地名は、幾つも見つけることができているのです。

これは実際にグーグルマップで検索すると出てくるので、試してみてください。

 

 

ヤマトがある理由は大和民族と繋がってるから

 

ではなんで遠くはなれた中国に、ヤマトがあるのだろう?

発想としては、かつて大日本帝国満州や沿岸部を支配してたから、その名残なんじゃないかと思いますね。しかし第日本帝国の支配域から離れた場所にもヤマトがあるので、違うようなんですよ。

しかも大和や日本じゃなくて「当て字でヤマトになってる」のです。雅馬特だの野馬吐だのと。

古代の段階から先住民族が残したヤマト的な地名に、中国人が適当な漢字を当ててあるわけです。

ヤマトは日本の代名詞なわけなので、無関係なはずがないなと思うのですが。すると弥生人とか倭人とか、「日ユ同祖論」みたいなものが関係するんじゃないかと。

この東北平原のあたりはかつては満州があり、それ以前は女真族で、さらに遡ると東夷の扶余や高句麗があったところです。倭人の一種である汗人もいたとか伝わっていました。

扶余と言えば百済の元になった国で、古代の世界でも倭人と通じている国でした。高句麗も同様。

古代の日本語と扶余語・高句麗語が、とても似ていたことは興味深いです。これ学会のほうではあんまり取り上げられないようですが、不都合な真実ってやつですね。

あとは高松塚古墳壁画が北朝鮮の空を描いたもので、高句麗の様式にそっくりなのは知られてる。日本と扶余高句麗は繋がってました。

 

そして実は高句麗を建国した朱蒙(しゅもう、チュモン)の物語って、神武東征と内容がそっくりおんなじなんですよね。

日本神話には大陸の出来事が習合されてる・・・(一問一答方式)

 

「王が西の宮殿を出発して東へ向かい、亀の助けで水をわたり、カラスに助けられ、三人組に助けられ、戦いの末に新天地に宮殿を建てる」っていう。同じですね。

朱蒙の神話のルーツが日本にあるなら、「東から出発して西の高句麗へ向かう内容」になるべきです。「朱蒙西征」「神武西征」のはずなのに、そうなってないですしね。朱蒙はあくまでも西から東へ行っていますから。

神武武天皇のルーツは、西の大陸にあると言って過言ではないようなんですよ。

しかし多くの日本人は、天皇のルーツが大陸にあるだなんて信じたくないみたいで。眼の前の事実より、教わったことや信念を曲げたくない問題なのだだろうかと。

 

それで扶余には、ヤマトの名を関する人々、大和民族の祖先がいたのは、間違いないんだろうなと思ったりしたのです。

扶余と日本の言語や伝承がほぼ同じだったことと、ヤマトの名を好んで使っていたのは、完全に起源が繋がることを意味するでしょう。

 

 

ヤマト地名の道は中東から伸びている

 

 

ところが調べて行くと、このヤマト地名はシルクロードに沿って西に続いているものだと分かるのです。

そうすると扶余や高句麗が、満州のヤマト地名の起源じゃないことになるわけで。

このヤマトの道の本隊は、人口が多いシルクロードに近いとこにあるのですが、チベット雲南のほうにも続いているようでした。

中央アジアから西ではメソポタミアの土地に通り、地中海沿岸のトルコだとかイスラエルのあたりまで続いていることがわかりました。

代表的なヤマト地名を取り上げると、

新疆

キルギス zamantoo

タジキスタン yamit

ウズベク yamantol

トルコ yamadi

などあります。

2000年以上が経過しても、なかなかヤマトぽいまんまではないですか。ヤマトの地名を名付けることで、ヤマトの民が存在した証拠を残していたんではないかと。いわばヤマトの印です。

 

日ユ同祖論の有名な本に、「日本書紀と日本語のユダヤ起源」(ヨセフ・アイデルバーグ著)があります。

全部読んでみると、日本人や天皇神道や日本文化の起源となる場所は、古代ヘブライだとか古代イスラエルだという内容になっています。

古代イスラエルの失われた十支族が、日本に入り込んでるみたいな中身です。

たしかに日本の神社とか、神話、山伏、数詞、言葉などあらゆるものが、古代イスラエルと似てるものが多いんですよね。昔から興味深くみていました。

この本では「新疆ウイグル自治区にヤマトがあるよ」的な話しもあるのです。本のなかでは一か所しか言及してないですが。

大陸の膨大にあるヤマト地名が、これと関連付くのは明らかです。

重要なのは、ユダヤ人だった著者は、日本で使われてるヤマトは「ヤー・ウマト」であり、ヘブライ語でヤーはヤハウェ、ウマトは民で、合わせて「神の民」の意味なんじゃないかと言ってることです。

ヤウマトが短縮してヤーマト、ヤマト。

すると泥沼の偉い人が「日本は天皇を中心とする神の国だ」だとか言ってたのも、ヘブライ語の直訳みたいな感じだったようですね。

すると大陸に見つけた膨大なヤマトの地名は、イスラエルから日本までの「移動ルート」をあらわすと言って間違ってないようですよね。

 

 

ヤマト地名ができた時代と移動の経路

 

では個人的な妄想を交えまして、やマト地名ができた時代と移動の経路を探って見たいと思います。

古代イスラエルと言えば紀元前6世紀頃、バビロニアに攻め込まれて多数が捕虜となって連れていかれてました。古代イスラエル人たちは中央アジアバクトリアに連れていかれたとか。

で彼ら捕虜が開放されたあと、本国には帰らずに東方に向かったと記録にあるようでした。

一方で「日本書紀」を見ると、神武天皇が日向の高千穂から東征を始めたのが、紀元前7世紀の頃となっていますので、年代が近いのは関係ありそうです。

以前に九州の日向のかたちが、なんか古代イスラエルぽいことは記事にして示してました。つまり神武東征の物語とは、一見して日本を舞台にしているようで、じつはイスラエル人が故国を出発して東方に向かった歴史的出来事を表すかもしれないんです。

日本列島を大陸にあてはめて考えると、本州はユーラシアです。

出発地の日向=イスラエルですので、その到達地点である本州の奈良とは、ユーラシア大の中央アジアあたりなんじゃないですかね。

神武天皇とはいわば桃太郎の原型みたいなもので。

円形の干支の図を見ると、犬猿雉はすべて西側に配置されているのです。つまり桃太郎と犬猿雉は西から出発し、目指した鬼門は東北みたいな話です。

神武東征と朱蒙の物語と、よく似てますよね桃太郎の昔話。このヤマト地名の地図が、桃太郎の道のりなんじゃないですかね。

 

この地図は古代イスラエルを出発したヤマトの民の一団が、いつ何処を通っていったかを妄想したものです。青い線が推定される主要ルートになっています。

トルコのあたりを見ると、ヤマト溜まりがあるではないですか。この付近は当時はサカなどの諸民族が入り乱れていたのですが。イスラエルの失われた十支族は、騎馬民族や周辺の諸民族と融合したといわれてます。トルコもそのひとつだからヤマトみたいな地名があるんではないかと。

 

紀元前4世紀のマケドニアアレクサンドロス大王の頃、ヤマトの民が大王軍と共に東征した出来事は、関係すると思います。

アレクサンドロス大王の東征、神武天皇の東征、朱蒙の東征、桃太郎の東征。王が東へ向かって統治するっていう骨子は同じになってますし。

桃太郎にあてはめると、桃太郎は神武天皇イスラエル王。トルコはもしかすると鳥の子(酉)で雉なのかもしれませんね。するとお供になった猿は騎馬民族サルマタイ(サカ)。犬は狛犬ならばスフィンクスで、エジプトから出てきた民みたいな感じですかね。

アレクサンドロス大王ギリシャの隣のマケドニアから出て、わずか5年~10年でインドまで達していました。ヤマトの民は中央アジアあたりで離脱し、パミール高原を超えて新疆の方面に向かってもべつにおかしくない感じがします。

むかしギリシャ人はインドまで到達して、インドグリークになってましたし。新疆のタリム盆地にいた月氏ギリシャ系な可能性があるようです。ギリシャ→ガッシ(ゲッシ)みたいに名前も近いですし。

1世紀の歴史家ヨセフス・フラビウスという人が、十部族はユーフラテス川の彼方で膨大な群衆となっていると記録をしていました。(日本書紀と日本語のユダヤ起源p117)

 

新疆ウイグル自治区の北部にヤマト地名集積してますが、ここらへんは烏孫だったと思われます。烏孫の昆莫は神武天皇と共通点が非常に多いことは、過去に記事にしていました

神武東征ことイスラエル王の到達地点が烏孫で、神武天皇の物語烏孫の昆莫の物語だろうと、想像するのですが。

イスラエルから烏孫までが、神武東征の日向から奈良までの経路と同じだと思っています。「古事記」など見ると奈良のあたりに烏孫のような地名が多くなっているのも、これを表すと考えていました。

パミール高原のあたりに烏孫の前衛国とみられる「難兜」がありました。烏孫の始まりは難兜靡という人物によるものであったので、無関係ではないです。

難兜靡は敦煌月氏の領域に、初期の烏孫を建国しました。これが紀元前3世紀ころのこと。

難兜靡を引き継いだ息子の昆莫が、前2世紀にイシク湖のあたりに拠点を移動させて正式な烏孫となり、そのあと烏孫の領域は拡大したようです。

そしてここから先の烏孫王の話しは推定なのですが。

紀元前に烏孫を出た一部の烏孫王族=ヤマトの民が、東方へと移動をはじめ、南匈奴を通って、扶余、高句麗に到着したようです。元々扶余や高句麗烏孫と同じ系統だったから、すんなりそういうことが出来たんじゃないですかね。中国の東北平原にヤマト地名が集積しているのがその証拠だと思います。

 

古代の欠史八代天皇諡号を見ると、扶余、高句麗三韓的な地名があるのも、彼らがそこで生まれて代々かけて倭へ向かったからではないですかね。

例えば神武天皇のあとの第六代孝安天皇は、諡号が「国押人」なのですが。なんだか国を移動させたことが示唆されてるではないですか。

第七代は孝霊天皇なのですが、妃の名が春日千乳早山香媛(かすがのちぢはややまかひめ)で、娘の名前が千千速比売(ちぢはやひめ)なんです。

もし孝霊天皇が扶余あたりにいたとすると、ちぢはやで「チチハル」っていう地名を表している気がしますね。直感的なものですが。チチハルは古代からあったようです。

妃に蠅伊呂杼(はえいろど)っていう方いるんですが、妃が蝿っておかしいですよね。扶余の転訛な気がします(扶余→fuyo→huye→ハエ)。

第八代の孝元天皇諡号は「大日本根子彦国牽天皇」なのですが、国牽、国玖琉とかいて「くにくる」なのですね。

なにか「高句麗」をもじってくるくるぱーみたいな感じを受けるのですよね。高句麗にいたんじゃないですかね。

宮殿名が軽境原宮なのも「軽」とは「句麗」のことで、高句麗の国境近くにいたのでしょうかね。

第十代崇神天皇諡号は「御間城入彦五十瓊殖天皇」で、なにか「任那城から委奴(五十)に入った人」みたいに見えるのです。任那から九州に移動したことを意味しないですか。

すると初期の天皇烏孫から扶余、扶余から高句麗高句麗から三韓三韓から任那任那から九州へ移動を繰り返してきたことが分かる気がしますね。

彼ら欠史八代の移動は、西暦1~2世紀末までというのは想像してるのですが。

烏孫の昆莫が紀元前2世紀、そのあと烏孫の6代目王である孝安天皇が出発して、扶余・高句麗三韓任那を経て、崇神天皇が委奴国に入るのが2世紀末というわけです。

 

こうした天皇大陸所在説を語ると妄想だって失笑されてたのですが。

大陸のヤマト地名と照らし合わせていくと、なんか違って見えませんか。

まぁ天皇は古代から日本で誕生したとかいう話が通説です。それを語るのが「日本書紀」や「古事記」などの古典でありました。古代の天皇は日本を永住地に定める上で、古代から支配したことを明確にしたくて物語を作ったんじゃないですかね。

記紀の記録はあきらかに、大陸的なものがいろいろはいっていますし。

天地開闢はなんか聖書の冒頭みたいだし、イザナギモーセなわけだし、天照大神と月読が目から生まれたというのは中国の萬古の神話そのまんまであるし。ヤマタノオロチヘラクレスヒュドラの戦いだし、とか。三種の神器についても、イスラエル三種の神器と重なっていたりするし。

あと朱蒙の神話が、まるっきり神武東征と同じなのは衝撃的ではないですか。

みんな大陸のお話に、日本的要素をくっつけたものなんすよ。

 

以下は補足ですが、秦や漢にも、ヤマトの民が流れていたようです。一説に始皇帝古代イスラエルからという説がありますので。無関係ではないです。

秦の拠点があった甘粛省もヤマトの地名が集積してますが、秦の拠点だった街を調べても、明確なヤマト地名が見当たらないんですよね。

途中のチベット雲南のほうにもヤマト地名が連なっているのは、パミール高原烏孫あたりからのヤマト民族の別働隊があったと考えています。

 

 

ヤマトフーズ 黒ゴマのタラちゃん10袋入り

 

 

作家の方との整合性(ヨセフ・アイデルバーグ、百嶋由一郎

 

実は古代イスラエル人の移動ルートについては、歴史家の方々がそれぞれ独自に推定していたりするのです。それをちょっとご紹介しようかと思います。

 

青い線がヤマト地名の集積地で、当研究室が推定しているルートになります。

 

ヨセフ・アイデルバーグの推定ルート

このユダヤ人の推定移動経路は、オレンジ色の線で示しています。

日本書紀と日本語のユダヤ起源」の本にある地図から、適当にうつしとってみました。

古代イスラエル→イラン→中央アジアパミール→新疆→甘粛省の秦→開封黄海北岸→朝鮮半島→九州

(イランから南と北のルートに分かれ敦煌で合流している)

こんなルートになっています。

ヤマト的な地名が多いトルコや烏孫や扶余高句麗などについては、まったく言及がなかったです。あとユダヤ人の溜まり場だった開封を通っていると言ってますが、あんまり関係なさそうですね。

しかし西アジアから新疆、そして秦にかけてまでは、ヤマト地名の分布とだいたい合致するようにみえますよね。だからヤマト地名のルートが正しいことの証明ができるわけなんですよ。

 

百嶋由一郎の推定ルート

あとは「百嶋神社考古学」というところの、日ユ同祖論のルートも取り入れてみました。むらさき色の線です。

百嶋さんは、日本の神々と天皇家とは、古代イスラエルにも起源があったと主張しているようでした。

ネットで調べると東アジアのほうだけ、地図に描かれた推定移動ルートを見つけることができました。それによりますと

中国の雲南省海南島→台湾→沖縄→倭

河南省あたりの苗族→倭

呉→倭

朝鮮半島→倭

こんな感じ。まぁ従来の弥生人の渡来範囲みたいな感じです。

しかし百嶋さんが残した文章によれば、以下のような移動ルートも推定されていたので、地図に加えてみました。

古代イスラエルペルシャパミール高原→新疆→秦

秦→雲南→沖縄→倭

秦→朝鮮半島→倭

(点線)

百嶋氏の仮説では、烏孫や扶余については言及が見当たらないのですが、全体を眺めるとヤマト地名の分布と一致しているように見えました。

中国南部の湖南省のあたりにヤマト地名が並んでいまして、ここに苗族という人々がいるそうなんです。この方々が古代イスラエルの末裔で、倭へ向かっているということでした。

雲南省の人々が海南島や沖縄経由で倭へ向かったということですが、雲南省あたりにもヤマト系の地名の痕跡がチラホラあるんですよね。するとこちらも合っていることになりました。

西アジアのほうをみても、ヤマト地名の推定移動ルートに重なっているような感じだと思われますね。

教えていただいて、地図を作る参考にしたサイト

日本列島へやって来た人々の移住経路:百嶋由一郎先生講演より : 肥後翁のblog

阿蘇高森夏合宿 百嶋由一郎先生講演 2012年7月28~29日 : 肥後翁のblog

 

他の作家さんの提唱するルートが他にもあったのですが・・・面倒なのでいつか機会があればということで。

まぁこの大陸に刻まれたヤマト地名が、天皇大和民族の移動ルートであるとの仮説が事実ならば?

天皇古代イスラエル、秦、烏孫、扶余、高句麗などの王の血筋を、正当に受け継いでいる存在であるでしょうねぇ・・・。

日本の歴史が根本から間違ってる証拠なわけで、ちゃんと調べないといけないと思いますが。まぁあらゆる学問の真相を隠蔽したい勢力が、世界の根幹にあるようなので、今後どうなることやら。

 

関連記事

日本の神武朝は「中央アジアの烏孫の昆莫王朝」と同一視できることのまとめ 

古代天皇家は「西から東」へ移動して来ている 2

モーセ五書と「伊邪那岐の黄泉の物語」を比較するとわかる一致。イザナギモーセ 

崇神天皇が任那から九州へ移動したことを証明する新説

 

人気ブログランキング

 

モーセ五書と「伊邪那岐の黄泉の物語」を比較するとわかる一致。イザナギモーセ

今回は久しぶりに、日ユ同祖論に関する妄想です。これの一部は何年も前に一部だけ書いたんですが、2022年版はわりと集大成な感じになってしまいました。

日本神話は国内と大陸の出来事の融合なのですが、イザナギの中にはモーセが隠れていてることを証明します。

 

助かつております

 

 

 

イザナギの黄泉紀行をみる

 

イザナギ - Wikipedia

 

では古事記日本書紀にある、イザナギの黄泉紀行をちょっとあらすじ。

 

火の神カグツチを生む時に焼かれた妻イザナミが亡くなり、黄泉(よみ)へ旅立った。するとイザナギは妻を追って、黄泉の世界に足を踏み入れてしまった。

しかし黄泉で再会した妻は、全身が腐り雷神が巣食う化け物の黄泉大神となって、旦那を殺しにかかるのだった。恐妻か。

絶望と恐怖を抱いたイザナギは、黄泉から一目散に逃げ出した。しかし黄泉大神は死者の軍を操り、イザナギをぶち殺そうと追いすがる。

イザナギは様々な技や能力を駆使して、命からがら脱出するのだった。そしてイザナギは、日向の檍原(あわきはら)で禊ぎ祓いをし、数多くの神と三貴士(アマテラス、ツクヨミスサノオ」)を生み出した。

こんなふうに、なかなか面白いストーリーになってるのです。

 

 

モーセ五書モーセの物語を見る

 

では「旧約聖書」の出エジプト記にある、モーセ(モーゼ)の脱出劇のあらすじも見てみます。

エジプトで奴隷となっていた、ヘブライ人(イスラエル人)の中に現れたモーセ。やがて燃える柴の前で神に出会い杖(アロンの杖)を得ると、ヘブライ人の奴隷解放を求め、エジプト国王(パロ)と敵対することになる。神は十の災いを起こして、国中を破壊した。

モーセ率いるヘブライの民はエジプトを脱出するのだが、パロは軍隊を率いて追いかけ殺そうとする。モーセは神の杖の力を借りて海を割り、海底を歩いて逃げていく。軍隊も後に続くのだが、彼らは海に飲み込まれてしまうのだった。

このあとモーセらはシナイ山へと向かい、マナの壺や十戒石板を授かる。

モーセはカナンまであと一歩のところで亡くなるのだが、子孫たちは目的地カナンにたどり着くのだった。

Ten Commandments - Wikipedia

 

まぁ普通は日本書紀と聖書は、何の関連もないだろうと思ってしまいますね。

しかし実はイザナギの「黄泉からの脱出」と、モーセの「エジプトからの脱出」は、テーマや流れが非常に似通っていると思っています。

実際比較神話学では、そのことは既に知られてることですし。

比較神話学の見地から見るとイザナギイザナミ神話は各地の様々な神話を組み合わせて形成されたと考えられている[8]。

出典:少年社、後藤然、渡辺裕之、羽上田昌彦 『神道の本 八百万の神々がつどう秘教的祭祀の世界』 学研

イザナミ - Wikipedia

ここにある「各地の様々な神話」の中の中心に、旧約聖書があったと考えているところです。

 

 

黄泉とケメト

 

黄泉(よみ)がエジプトに対応してる理由の1つには、地名の一致があります。

古代にエジプトは歴史上、ローマ時代にはアイギュプトスと呼ばれ、その後はミスルとかエジプトになったのです。エジプトという国名は、アイギュプトスが転訛したものだったとか。

それ以前はどうだったか。紀元前15世紀頃には、ケメト(kemet)の名がありました。モーセが実在した時代は紀元前12世紀とかそのあたりなんじゃね?とか言われますが、その頃もケメトだったわけでした。

一方でイザナギが向かった黄泉ですが、これは日本古来の地名として知られています。出雲に黄泉の出口である伊賦夜坂(いふやさか)があり、これが黄泉平坂であると言われています。だから出雲あたりの地下に黄泉があるんだなとか、思うわけですが。

しかしモーセイザナギの物語が同じなら、黄泉もなんかヒントになってるんじゃないかなと。

そこで黄泉がよみではなく「キミ」と読めることに注目。

黄泉

キ-ミ

ke-met

そうなのです、イザナギが向かった世界はケメトに対応しているから、黄泉(きみ)が当てられているというわけです。

 

 

モーセイザナギの出来事の一致点を見出す

 

イザナギが黄泉から脱出するシーンが、モーゼがエジプトから脱出するシーンに合致してます。

そうならば、「旧約聖書日本書紀の文章そのものが一致する」はずですね。

これは古文献の流れや、登場する神様の名前を見ると、分かることでした。

 

 

(1)イザナギ天安河原(’あめのやすのかわら)から黄泉へ向かう

モーセがミディアンからエジプトへ向かう場面に一致

 

ミディアンは、モーセが幼少の頃に過ごした土地でした。ここはサウジアラビア北西部のタブーク州だとか。

ここで地名に注目してみたいのですが。

天安河原・・・天安・・・テンアン

ミディアン・・・ディアン・・・テンアン

という風に天安河原モーセが過ごしたミディアンを指しているように見えるのですが。

偶然じゃないような。

 

(2)イザナミの体に虫がたかり、声はむせびふさがり、八雷神が取り憑いた姿

モーセが神の杖を使い十の災いを起こす場面に一致

 

黄泉大神の姿と、十の災いを比較してみる。

黄泉大神の姿 十の災い

・体が腐れ  = 腫れ物ができた

・蛆がたかり = 害虫が大発生し食害

・大雷 = 大規模な落雷が発生した

・土雷 = 土からぶよが大発生した

・黒雷 = 暗闇に覆われ続けた

・火雷 = 落雷から火災が発生した

・折雷 = 雹が降り作物は悉く折られた

・若雷 = エジプトの幼子(長子)は殺された

・鳴雷 = ナル=ナイル?の水が血に変化。或いは雷鳴や虫の羽音や狂騒

・伏雷 = 疫病で家畜が伏せた(死んだ)

ここでいう雷が災いのことでした。まぁ個人的な妄想の解釈も含まれていますが。

黒は闇、折は雹で作物が折られた、若は若子に関する、伏は死んだ意味だと、なんとなく分かりませんか。

かなり一致してるんではないかと思われますね。

 

(3)イザナギの逃走

モーセヘブライ人の逃走劇に一致

この部分で一致してるなぁと、最初に気がついたわけです。

 

(4)八雷神と黄泉醜女(よもつしこめ)がイザナギを追撃する

パロの戦車と兵隊が、モーセを追撃する場面に一致

 

たぶん「日本書紀」にでてくる八雷神(ほのいかづちのかみ)という名前が、パロ(王)に対応するんです。

八雷・・・パライ

パロ・・・パロ

それで雷神と言わず、わざわざ「八」を付けてあるわけです。

まぁ追ってくる軍隊は、醜女みたいな奴等だったんでしょうかね。

 

(5)黄泉比良坂を通過する

モーセの神の杖が海を割り、人々が渡った場面に一致

 

わたすはこの黄泉比良坂が、モーセが奇跡を起こし海を渡る場面だと思ってますが。それには理由があります。

日本書紀」を見ればイザナギの逃走中、幾柱もの神々が登場するのです。それらの神の名がモーセの渡海を表すと見られるからなんですよ。では解釈してみると、

 

・岐神(ふなと)イザナギが杖を投げると岐神になった。これはモーセが神の杖を持って、船戸=海辺に立ったことに一致

・長道磐神(ながちは)イザナギが帯を投げ現れた神。モーセの道のりが長いことに一致

・煩神(わづらひ)イザナギが衣を投げて現れた神。モーセが軍の追撃をかわす道のりは、とても煩わしいことに一致

・開囓神(あきぐひ)イザナギが袴(はかま)を投げて現れた神。モーセヘブライ人は、海中に開かれた口に食われるように進んだことに一致

・道敷神(ちしき)イザナギが靴を投げて現れた神。モーセと神が道を作り、足を進めたことに一致。

・道返大神(ちがえし)イザナギが黄泉の坂を封じた岩の神。モーセらが海を抜けた時に道を閉じ、軍隊を海に封じた(道を返す=道を閉ざした)ことを示す。

・千引の岩(ちびき)道返大神の別名。イザナギは千人が引いて動くほどの大岩で坂道を塞いだ。モーゼは千人単位の人々を率いたことを示す。

・渡海の場所はナイル川デルタの場合。古代にケメトのナイル川はiteru(イテル)川だった。一方で黄泉比良坂伝承地は伊賦夜坂であるが、これは出雲にある。

iteru

イテル

出る(いでる) 雲

モーセが海を渡った地点は、地中海沿岸の浅い海か、ナイル川(イテル川)の下流域だったと言われてます。自然現象で海が割れたと説明する向きがあるんですが、奇跡を起こす機械的なものがあってもおかしくないんじゃないかなと思うこの頃です。

それで、出雲は「出る(いでる)雲」だから。ケメトの「イテル」とすれば、黄泉が出雲にあることに一致してるし、発音も近いではないですか。

古事記」だと禊ぎの後に出てくる神に一致してますが。年月が経過したので曖昧になっているのは仕方ないところです。

とにかく黄泉比良坂とは「モーセの神が海に作った逃げ道」というわけです。

 

(6)イザナギは海を抜けた後、日向の橘の檍原に向かい、みそぎ払いした

モーセはエジプトを脱出し、シナイ山に移動してすごしたことに一致

 

シナイ山 - Wikipedia

黄泉から脱出したイザナギが禊ぎをしたのが、筑紫の日向の橘(たちばな)の小戸(おど)の阿波岐原(あわきはら/檍原)です。ここは宮崎市阿波岐原町産母の江田神社のあたりだと言われています。

日本書紀」にシナイという名前は無いみたいで、対応シナイのですが。

シナイ山と日向の阿波岐原は、関連つく土地なようです。

シナイ山はホレブ山、ジェベルムーサ山、ラウズ山など別名が多いですが、いずれも対応はしませんね。残念。

しかし日向の形は古代イスラエルなことは、以前に解説しました。シナイ半島イスラエルのすぐ近くです。

そして阿波岐原がもしアーク原だったら?

阿波岐原

アハキ

アーキ

アーク(十戒石板を納めた聖櫃)

そうすると阿波岐原はアーク原であり、十戒を受け取りアークを作ったシナイ山を表しているようですね。

すると小戸(おど)はエドムかと思いました。紀元前7世紀、シナイ半島シナイ山あたりまで、エドム国の領域になってたので(世界史年表地図によると)。

まぁ妄想なんですけどね。

そういえば、イザナギが生んだ神に級長津彦命(しなつひこ)がいて、風の神でした。風といえば乾燥。乾燥といえば砂漠。シナイ半島は乾燥した風が吹きつける砂漠。ということで、しなつひこ。ということなのかもしれない。

 

(7)イザナギは三貴士を生み出した

モーセシナイ山で、神から三種の神器を授かったことに一致する。

 

三貴士とは、イザナギが右目と左目と鼻を洗ったことで生まれた、天照大神、月読尊、素戔嗚命のことです。

日本の天皇が受け継ぐ「三種の神器」のうち、八咫鏡八尺瓊勾玉は天照の所有物、草薙の剣はスサノオの所有物でした。いわば三貴士こそが、本来の三種の神器の保持者をあらわします(まぁ月読尊は所有者じゃなくて、丼斗魚利ーな感じですけども)。

いわばイザナギが三貴士を生んだことは、三種の神器の誕生と係わるわけです。

一方でイスラエル三種の神器といえば、アークに納められた十戒石版、アロンの杖、マナの壺。

これらのうち十戒石板はモーセシナイ山の頂上で神から授けられたものであり、マナの壺はシンの荒野という場所で神に与えられたものでした。

これらのうち、アロンの杖は草薙剣、石板はヤタの鏡、マナの壺が勾玉に一致すると考えられます。

そしてイザナギ天照大神高天原を治めよ、月読尊は蒼海原を治めよ、素戔嗚命は天下を治めよと言っています。これがモーセヨシュアに対して後継者となり、カナンの地へ入るように言ったことに対応するのかと。

 

(8)イザナギのみそぎでは禍々しい神と穢れを祓う神も現れた

モーセに付き従ってきた人々の反乱と鎮圧に一致する

 

イザナギが黄泉から持ち込んだ黄泉のエキスから、八十禍津日(やそまがつひ)、大禍津日という忌々しい神が出てしまいました。そこで神直日神、大直日神といった穢れを祓う神も現れて、静められた出来事がありました。

これは旧約聖書では、以下の出来事に一致するような。

モーセシナイ山で石板を授かったあとに下山すると、アロンと人々が金の牛の像を作って崇めているのを見ました。自分たちの神でなく、禁止されてる偶像を崇拝していたのでモーセはキレて石板を破壊し「大いなる罪だ」と言っていたんです。

これが古事記に登場する「大禍津日(大いなる災の日)」のことなのかもしれないなと思ったりします。しかしせっかく神さまに貰った石板、破壊しちゃっていいのかとつっこみどころですね。怒られた人々は猛省(もーせー)したとか、モーセなだけに😓。

 

(9)イザナギは晩年に淡路島の多賀の幽宮で過ごした

モーセヨルダン川近くのネボ山で死に、モアブの谷に葬られたことに一致。

 

多賀の幽宮(かくれみや、かくりのみや)は、いまの伊弉諾神宮だと言われています。

モーセが亡くなった場所はネボ山で、モアブの谷に墓所があるんだとか。しかしその場所は行方不明になってるようです。

モアブの「アフ」が、もしかすると淡路の「淡(アフ)」に合わせてあるのではないかと。

伊弉諾神宮境内の末社に根神社があり、これがネボ山に対応するのかもしれません。「ネ」だけなんとか覚えてたのかも根。

モアブ・・・アブ・・・アフ

淡路・・・淡・・・アフ

 

ネボ山・・・ネボ

根神社・・・根(ネ)

するとイスラエルのモアブ谷に、タガやカクレみたいな地名があれば、そこにモーゼの墓があるかもしれないです。妄想ですけども。

 

 

古代勾玉(まがたま)ペンダント ヒスイ[翡翠輝石 Jadeite]

 

 

というわけで

 

むかしから記紀旧約聖書の古代日本版なのではないかと、仰る人がチラホラといました。こうして見ていくと、確かに似すぎているなと感じるところがあります。

旧約聖書の伝承地を、日本各地に当てはめている、となると意外に思うところですが。

まぁ日本神話が聖書だとすると、かなりの独自進化バージョンであるのは間違いないところ。何しろ別の日本や大陸の伝承神話まで、記紀神話のなかに融合しちゃていますので。

このイザナギモーセの伝承が一致するのは単なる妄想かもしれないですが、興味深いことだと思っています。

 

関連記事

イザナギ神話に旧約聖書の「十の災い」が入ってるとかいう日ユ同祖論

モーセの出エジプトと「イザナギの出黄泉」は同じだった

日ユ同祖論 の検索結果 - たっちゃんの古代史とか

 

人気ブログランキング