たっちゃんの古代史とか

誰も知らない日本とユーラシア古代史研究。絵も本も書く。闇の組織に狙われてるアマ歴史研究者。在宅お仕事中。

古代天皇家は「西から東」へ移動して来ている 2

古代天皇家は「西から東」へ移動して来ている 1

の続き。

 

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欠史八代

 

前回は、古代の天皇匈奴~扶余~高句麗弁韓~倭と移動していると指摘しました。これは既に2014年の電子書籍に書いてあることで、成否はともかく、世界で最初の指摘となりました。( ゚д゚)ポカーン。

 

歴代 諡号  記紀の和風諡号   含まれる古代国名
       (下段古事記 

07 孝霊天皇 大日本根子彦太瓊  太瓊(フトニ)=扶余・匈奴(フンナ・フンド)
       大倭根子日子賦斗邇 賦斗邇=扶余・匈奴

08 孝元天皇 大日本根子彦国牽  国牽(クニクル)=高句麗
       大倭根子日子国玖琉 国玖琉=高句麗

09 開化天皇 稚日本根子彦大日日 大日日=大半跛(はへ、弁韓の中心国)
       若倭根子日子大毘毘 大毘毘=大半跛

10 崇神天皇 御間城入彦五十瓊殖 御間城=任那、五十=委奴、伊都
       御真木入日子印恵  御真木=任那、印=委奴

んなことあるわけないと嘲笑されるかもしれません。これは確かに突拍子もない。

かつて騎馬民族征服王朝説を提唱した江上波夫さんは、最終的には歴史学会からフルボッコにされていました。いまでは9割9分否定される江上さんの発想ですが、個人的には江上さんの発想は正しかったと思うので、ひっくり返してやろうと思います。

この欠史八代天皇の情報について、補足しておこうと思います。

(2022年追記ですが、この電子書籍は書き換えるため停止中です、いつ販売再開かは未定、やらないかも?)

 

 

孝元天皇天皇高句麗に移動しつつ滞在したことの証明

 

まず分かりやすい所から、孝元天皇について。記紀には孝元天皇高句麗にいた、あるいは高句麗を通過したことが、はっきり明示されているんじゃないか?という可能性が見えます。

日本書紀」で孝元天皇についての記述は非常に短いです。具体的な事績の記録がなく、実在性が不確かなので、史実として欠けている、だから欠史の天皇なのだとされてきました。

でも違ったんですよ~。欠史八代と呼ばれる天皇は、実在しました。しかも日本国内ではなくて、大陸に実在したのではないかと。

奈良県で現在、孝元天皇稜として治定されている古墳は、実際の孝元天皇の時代とはかけ離れた年代と形状(4世紀の前方後円墳)が、適当に当てはめられたりしてるのですね。現在の孝元天皇稜が実際の孝元天皇稜ではないことは、「天皇陵総覧」でもある通り、公式的に言われていることです。

 

 「古事記」を見ると、孝元天皇諡号は大倭根子日子国玖琉で、世界で最初に指摘した通り、「国玖琉(kunikuru)」とは「高句麗」(国-玖-琉=kok-ku-ri)のことなんですよ。

諡号高句麗が含まれているのは、孝元天皇高句麗の土地に留まったからです。高句麗の支配者ではないことは、中国の歴史書を見るとわかりますが。大倭根子日子国玖琉という名の人物は高句麗王朝の歴史に登場しません。

ただ気になることは書いてあります。高句麗の始祖である朱蒙の伝説が、神武東征に似ている点です。扶余を出発、川を渡り、からすの名が付く人々にに導かれ、3人の味方をつけ、敵を我がものとするために戦う。これは神武東征の話の骨子に似ています。

 

朱蒙を(Ju-Mo)とにごって読めば、なんだか神武(Jin-Mu)ぽいじゃないですか。諡号を決定した淡海三船は、そのへんが頭にあったと思いますね。彼の先祖はおそらく中央アジアらへんに居たと思うので。この人の名前の船とは匈奴のことなんじゃないかと想像できますし。

 

それはさておき、「古事記」の孝元天皇の記述に登場する地名と人物を、ちらりと見てください。 

・軽の堺原宮(かるのさかひはらのみや)孝元天皇の宮殿 

・伊迦賀色許売命(いかがしこめのみこと)孝元天皇の妃

・比古布都押之信命(ひこふつおしのまことのみこと)孝元天皇の御子

・波邇夜須毘売(はにやすびめ)孝元天皇の妃

・建波邇夜須毘古命(たけはにやすびこのみこと)孝元天皇の御子

 

軽の堺原宮というのは、従来は奈良県橿原市の大軽町といわれてきたそうです。

しかし孝元天皇高句麗にいたなら、高句麗の情報が含まれていて然るべきですよね。

含まれていました。

軽というのはこの場合高句麗の「句麗(kuri)」が「軽(karu)と表記されているんではないかということなんですが。堺原宮というのは不明ですが、北朝鮮の北西部に「朔州」という古い地名があり、これは古くからあるようです。朔が境になっているかもしれず。

 

そして比古布都押之信命の「布都(ふつ)」。これは「布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)」という、奈良県の石神神宮のご神体と、茨城県鹿島神宮の国宝布都御魂剣、2か所に保存されている剣の名と同じです。

布都御魂剣は神武東征の際に武甕槌神神武天皇に授けた神剣。この剣があったことにより、いまの日本があると言って過言ではない剣なのです。

以前指摘しましたが、関東というのは日本固有の地名ではなくて、中国の満州も古代から関東と呼ばれてたのです。

参考記事

聖徳太子は中央アジアから来た・・・西突厥の王族だった? - たっちゃんの古代史とか

 

神武天皇大和国奈良県)が、烏孫に当てはめられている」と仮定すると、烏孫に対応する大和の石神神宮に布都御魂剣、大陸の関東に対応する日本列島の関東の鹿島神宮布都御魂剣、2か所に置かれて繋がりを示してるということになるのです。

想像なんですけども「布都(fu-tu)」というのは本来、烏孫高句麗を結びつける「匈奴(fun-t」のことなのではないかと。

孝元天皇の先代の孝霊天皇太瓊(フトニ)=扶余・匈奴(フンナ・フンド)の名を持っているだけに、孝元天皇の御子に匈奴の名(布都)がついておかしくないと言えるんではないかと。

 

次に孝元天皇の妃の伊迦賀色許売命ですが、伊迦賀色許というのは、複数の出身をあらわしてます。

江上氏が指摘してました通り、古代天皇の号は地名、古代人の名前は地名なのです。

この理論を応用すると、伊迦は沃沮、賀色は月氏ということなんではないかと。沃沮は高句麗・扶余の別種の国でした。

 

波邇夜須毘売、建波邇夜須毘古命の「波邇(ha-ni)」は明確に匈奴のことだと考えられました。匈奴はhu-na、hun-nuとも読めるし、そう発音されてたからです。

 

 ここまで登場してきた国名、地名は、匈奴高句麗、沃沮、といった同時代(1~3世紀)の国家にあてはまっていますよね。では孝霊天皇のほうも同じように見てみます。

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黄色いしるしは、ユーラシア大陸の東西に横断するヤマトという地名です。今後さらに具体的に明らかにします。

 

 

孝霊天皇匈奴・扶余に移動しつつ滞在したことの証明

 

孝元天皇の父である孝霊天皇匈奴・扶余を移動しつつ滞在したと述べてきました。これの証明。

・黒田の廬戸宮(いほと)孝霊天皇の宮殿

孝元天皇(大日本根子彦国牽)孝霊天皇の御子

・春日の千々速真若比売(かすがのちぢはやまわかひめ)孝霊天皇の妃

・千々速比売命(ちぢはやひめのみこと)孝霊天皇の御子 

・蝿伊呂杼(はへいろど)孝霊天皇の妃

 

孝霊天皇(大日本根子彦太瓊)には、太瓊(フトニ)=扶余・匈奴(フンナ・フンド)の情報が込められていたと仮定すれば、黒田は匈奴のことだと思われます。黒田(kuro-da)に匈(ku)奴(do)の情報が入っているでせう。

廬は現代の音だと「いお、いおり」のことで、建物のことを意味してます。まぁこれは関係なくて、重要なのは「ほと」です。「ほと」は日本の昔の意味だとアレのことなんですが、これも関係ないです。あるいは冒頭単于の冒頭を「ぼど」と読んで、匈奴のことを示唆しているんです。

中国の地図を広げると、かつて匈奴のあった土地には、「浩特」という地名があって、現地音では「ほと」なんですが。場所は中国の内蒙古自治区で、ウランホト、シリンホトなどという地名があるのですね。ここは昔匈奴・扶余の版図にありましたので、まさに孝霊天皇がここを通ったとすれば、宮殿の場所はウランホトのあたりの地名ということになってきますよね。

だから古事記では孝霊天皇諡号に、匈奴の情報「太瓊、黒田、廬戸」を込めてるんではと想像したんですが。

 

 これを補強するのが天皇以外の人物名であります。

匈奴・扶余の情報が入っているなら、孝霊天皇の条の人物名にもこのあたりの国名が含まれている筈ですよね。

まず「千々速真若比売」は「千々速」でピンときますが、満州にはチチハル市という独特な地名があるじゃないですか。千々速がチチハルのことです。千々速比売命も同様です。

「春日」とあるのはこの場合、チチハルの近くの都市ハルビン=春日のことではないかと。チチハルハルビン間はおよそ200km程度ですが、このあたりに千々速真若比売の出身地があって、孝霊天皇が居住してたとすると、想像が膨らむばかりではないですか。あるいは鮮卑をシュンピと読んでいいなら春日と書けますが。

で、この中国の関東のチチハルが、日本の関東の秩父ちちぶ)に対応しているんですよ。いわゆる出口王仁三郎の日「本ユーラシア雛形論」ですが、これは本当でした。

「速」は扶余のことです。同じように蝿伊呂杼も考証しますと。蝿(はへ)はブーンと五月蝿いハエじゃないんです。人物にこんな名前好んでつけません。「はへ」という音が扶余に近かったから、これを使っているんじゃないかと思われるのですが。

 

そんでもってこれも想像を膨らませてるだけですが。中国史書を読むと、扶余人は自らを亡命者と自称しています。これは烏孫から亡命して扶余へ来ていることを意味すると思うのですが。

そういえば扶余の王の一人に、「夫台王」がいまして、この人は尉仇台王という歴史上で活躍した王の前に在位しました。西暦167年には2万の兵を率いて、後漢玄菟郡を攻めています。この夫台王は、実のところ孝霊天皇じゃないかと思いました。電子書籍にも書いてますが、諡号の夫台は日本語読みだと「ふと」になるので、孝霊天皇が「太(ふと)」であるのと一致しているし、年代的にも合っているのではないかと。この年代が正しいという点は別の記事「諡号紀年法」で書いてました。

これも世界で最初に指摘しちゃったんですがー、

古代天皇在位年代を示す未確認の紀年法みつけた鴨2 - たっちゃんの古代史とか

 

この考え方によれば、倭の孝霊天皇の時代は、後漢の孝霊皇帝の時代と合っているからこそ、倭の王を孝霊天皇と呼んでいるのだと、いうことになるんです。他の天皇の場合でも一緒です。これはすでに原稿で完成していて、いつでも出せるんですけども。 面倒だしいろいろあって予定が遅れています。

 

ここまで匈奴、扶余、高句麗の周辺の情報が、第七代孝霊天皇~第八代孝元天皇の情報から読み取ることができますたね?

開化天皇崇神天皇についても、おんなじふうに地名の情報が読み取れます。

かつて天皇家大和民族の豪族は烏孫のあたりにいました。騎馬民族国家の中で、大陸の諸民族を引き連れながら、烏孫から東へと移動して、日本に辿り着きました。大陸の情報は全てが日本列島に当てはめられました。いつしか日本人は大陸と日本列島の出来事の区別ができなくなり、記紀の全ての出来事を日本列島での出来事だと思いこむようになった、と想像できるのですが。

 

神武東征とそっくり同じものが、扶余・高句麗にあった理由は、「天皇家烏孫から扶余・高句麗へ伝承も運んで、最終的に倭へ伝承を運んだから」ということで解決するんですが、また今後も補足していきます。。

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日本単一民族説のウソ

東アジアの民族と日本列島の地名については、ここでも指摘があるようでした。

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