たっちゃんの古代史とか

誰も知らない日本とユーラシア古代史研究。絵も本も書く。闇の組織に狙われてるアマ歴史研究者。在宅お仕事中。

【日ユ同祖論】「大陸のヤマト地図」の検証。歴史作家の推定移動ルートに照らし合わせる

そろそろ日ユ同祖論も、新たな段階に進めばよいなと思って、大陸のヤマト地図を取り上げました。

世界の闇情勢とは切り離して考えています。長い与太話ですが、暇ならばどうぞ。

 

たすかっております

 

 

 

 

中国東北部に残されたヤマトの地名

 

大興安嶺山脈 - Wikipedia

 

日本人なら「ヤマト」という地名は、日本固有のものだと、ずっと思ってましたよね。

大和は奈良の別名。日本の異称。大和民族、戦艦ヤマト、大和撫子、コヤマトヒゲブトアリヅカムシ…?

しかし世界地図を調べてますと、歴史の常識をくつがえすようなものが見つかります。ユーラシア大陸に、ヤマトという地名が幾つも存在することがわかったのです。

これは2012年のニートだった頃、グーグルマップでちまちま調べた結果でした。

実はいま検索しても出てくる数は減ってしまっています。とくに中国のヤマトは消されているようで。研究の妨害か。

全部グーグルのMymapのほうに記録したり、画像で保存してたりしますが。消えちゃってるところを見せても、証拠不十分になってしまいそうです。

中国東北部の東北平原や大興安嶺山脈のあたりを調べてみると、ヤマト地名はこんなふうになっています。

内蒙古自治区東部

yamatuo雅马托、yamatu雅玛图瓊査、yamate雅馬特、yematu野馬吐、yimatuguo一马吐沟

遼寧省

yaomutou腰木斗、Yemataohai野马套海、Yangma Datun养马大屯、

吉林省

yangmutun杨木屯

たしかにyamatuなど、ヤマトそのまんまな地名ではないですか。他にもヤマトっぽい地名は、幾つも見つけることができているのです。

これは実際にグーグルマップで検索すると出てくるので、試してみてください。

 

 

ヤマトがある理由は大和民族と繋がってるから

 

ではなんで遠くはなれた中国に、ヤマトがあるのだろう?

発想としては、かつて大日本帝国満州や沿岸部を支配してたから、その名残なんじゃないかと思いますね。しかし第日本帝国の支配域から離れた場所にもヤマトがあるので、違うようなんですよ。

しかも大和や日本じゃなくて「当て字でヤマトになってる」のです。雅馬特だの野馬吐だのと。

古代の段階から先住民族が残したヤマト的な地名に、中国人が適当な漢字を当ててあるわけです。

ヤマトは日本の代名詞なわけなので、無関係なはずがないなと思うのですが。すると弥生人とか倭人とか、「日ユ同祖論」みたいなものが関係するんじゃないかと。

この東北平原のあたりはかつては満州があり、それ以前は女真族で、さらに遡ると東夷の扶余や高句麗があったところです。倭人の一種である汗人もいたとか伝わっていました。

扶余と言えば百済の元になった国で、古代の世界でも倭人と通じている国でした。高句麗も同様。

古代の日本語と扶余語・高句麗語が、とても似ていたことは興味深いです。これ学会のほうではあんまり取り上げられないようですが、不都合な真実ってやつですね。

あとは高松塚古墳壁画が北朝鮮の空を描いたもので、高句麗の様式にそっくりなのは知られてる。日本と扶余高句麗は繋がってました。

 

そして実は高句麗を建国した朱蒙(しゅもう、チュモン)の物語って、神武東征と内容がそっくりおんなじなんですよね。

日本神話には大陸の出来事が習合されてる・・・(一問一答方式)

 

「王が西の宮殿を出発して東へ向かい、亀の助けで水をわたり、カラスに助けられ、三人組に助けられ、戦いの末に新天地に宮殿を建てる」っていう。同じですね。

朱蒙の神話のルーツが日本にあるなら、「東から出発して西の高句麗へ向かう内容」になるべきです。「朱蒙西征」「神武西征」のはずなのに、そうなってないですしね。朱蒙はあくまでも西から東へ行っていますから。

神武武天皇のルーツは、西の大陸にあると言って過言ではないようなんですよ。

しかし多くの日本人は、天皇のルーツが大陸にあるだなんて信じたくないみたいで。眼の前の事実より、教わったことや信念を曲げたくない問題なのだだろうかと。

 

それで扶余には、ヤマトの名を関する人々、大和民族の祖先がいたのは、間違いないんだろうなと思ったりしたのです。

扶余と日本の言語や伝承がほぼ同じだったことと、ヤマトの名を好んで使っていたのは、完全に起源が繋がることを意味するでしょう。

 

 

ヤマト地名の道は中東から伸びている

 

 

ところが調べて行くと、このヤマト地名はシルクロードに沿って西に続いているものだと分かるのです。

そうすると扶余や高句麗が、満州のヤマト地名の起源じゃないことになるわけで。

このヤマトの道の本隊は、人口が多いシルクロードに近いとこにあるのですが、チベット雲南のほうにも続いているようでした。

中央アジアから西ではメソポタミアの土地に通り、地中海沿岸のトルコだとかイスラエルのあたりまで続いていることがわかりました。

代表的なヤマト地名を取り上げると、

新疆

キルギス zamantoo

タジキスタン yamit

ウズベク yamantol

トルコ yamadi

などあります。

2000年以上が経過しても、なかなかヤマトぽいまんまではないですか。ヤマトの地名を名付けることで、ヤマトの民が存在した証拠を残していたんではないかと。いわばヤマトの印です。

 

日ユ同祖論の有名な本に、「日本書紀と日本語のユダヤ起源」(ヨセフ・アイデルバーグ著)があります。

全部読んでみると、日本人や天皇神道や日本文化の起源となる場所は、古代ヘブライだとか古代イスラエルだという内容になっています。

古代イスラエルの失われた十支族が、日本に入り込んでるみたいな中身です。

たしかに日本の神社とか、神話、山伏、数詞、言葉などあらゆるものが、古代イスラエルと似てるものが多いんですよね。昔から興味深くみていました。

この本では「新疆ウイグル自治区にヤマトがあるよ」的な話しもあるのです。本のなかでは一か所しか言及してないですが。

大陸の膨大にあるヤマト地名が、これと関連付くのは明らかです。

重要なのは、ユダヤ人だった著者は、日本で使われてるヤマトは「ヤー・ウマト」であり、ヘブライ語でヤーはヤハウェ、ウマトは民で、合わせて「神の民」の意味なんじゃないかと言ってることです。

ヤウマトが短縮してヤーマト、ヤマト。

すると泥沼の偉い人が「日本は天皇を中心とする神の国だ」だとか言ってたのも、ヘブライ語の直訳みたいな感じだったようですね。

すると大陸に見つけた膨大なヤマトの地名は、イスラエルから日本までの「移動ルート」をあらわすと言って間違ってないようですよね。

 

 

ヤマト地名ができた時代と移動の経路

 

では個人的な妄想を交えまして、やマト地名ができた時代と移動の経路を探って見たいと思います。

古代イスラエルと言えば紀元前6世紀頃、バビロニアに攻め込まれて多数が捕虜となって連れていかれてました。古代イスラエル人たちは中央アジアバクトリアに連れていかれたとか。

で彼ら捕虜が開放されたあと、本国には帰らずに東方に向かったと記録にあるようでした。

一方で「日本書紀」を見ると、神武天皇が日向の高千穂から東征を始めたのが、紀元前7世紀の頃となっていますので、年代が近いのは関係ありそうです。

以前に九州の日向のかたちが、なんか古代イスラエルぽいことは記事にして示してました。つまり神武東征の物語とは、一見して日本を舞台にしているようで、じつはイスラエル人が故国を出発して東方に向かった歴史的出来事を表すかもしれないんです。

日本列島を大陸にあてはめて考えると、本州はユーラシアです。

出発地の日向=イスラエルですので、その到達地点である本州の奈良とは、ユーラシア大の中央アジアあたりなんじゃないですかね。

神武天皇とはいわば桃太郎の原型みたいなもので。

円形の干支の図を見ると、犬猿雉はすべて西側に配置されているのです。つまり桃太郎と犬猿雉は西から出発し、目指した鬼門は東北みたいな話です。

神武東征と朱蒙の物語と、よく似てますよね桃太郎の昔話。このヤマト地名の地図が、桃太郎の道のりなんじゃないですかね。

 

この地図は古代イスラエルを出発したヤマトの民の一団が、いつ何処を通っていったかを妄想したものです。青い線が推定される主要ルートになっています。

トルコのあたりを見ると、ヤマト溜まりがあるではないですか。この付近は当時はサカなどの諸民族が入り乱れていたのですが。イスラエルの失われた十支族は、騎馬民族や周辺の諸民族と融合したといわれてます。トルコもそのひとつだからヤマトみたいな地名があるんではないかと。

 

紀元前4世紀のマケドニアアレクサンドロス大王の頃、ヤマトの民が大王軍と共に東征した出来事は、関係すると思います。

アレクサンドロス大王の東征、神武天皇の東征、朱蒙の東征、桃太郎の東征。王が東へ向かって統治するっていう骨子は同じになってますし。

桃太郎にあてはめると、桃太郎は神武天皇イスラエル王。トルコはもしかすると鳥の子(酉)で雉なのかもしれませんね。するとお供になった猿は騎馬民族サルマタイ(サカ)。犬は狛犬ならばスフィンクスで、エジプトから出てきた民みたいな感じですかね。

アレクサンドロス大王ギリシャの隣のマケドニアから出て、わずか5年~10年でインドまで達していました。ヤマトの民は中央アジアあたりで離脱し、パミール高原を超えて新疆の方面に向かってもべつにおかしくない感じがします。

むかしギリシャ人はインドまで到達して、インドグリークになってましたし。新疆のタリム盆地にいた月氏ギリシャ系な可能性があるようです。ギリシャ→ガッシ(ゲッシ)みたいに名前も近いですし。

1世紀の歴史家ヨセフス・フラビウスという人が、十部族はユーフラテス川の彼方で膨大な群衆となっていると記録をしていました。(日本書紀と日本語のユダヤ起源p117)

 

新疆ウイグル自治区の北部にヤマト地名集積してますが、ここらへんは烏孫だったと思われます。烏孫の昆莫は神武天皇と共通点が非常に多いことは、過去に記事にしていました

神武東征ことイスラエル王の到達地点が烏孫で、神武天皇の物語烏孫の昆莫の物語だろうと、想像するのですが。

イスラエルから烏孫までが、神武東征の日向から奈良までの経路と同じだと思っています。「古事記」など見ると奈良のあたりに烏孫のような地名が多くなっているのも、これを表すと考えていました。

パミール高原のあたりに烏孫の前衛国とみられる「難兜」がありました。烏孫の始まりは難兜靡という人物によるものであったので、無関係ではないです。

難兜靡は敦煌月氏の領域に、初期の烏孫を建国しました。これが紀元前3世紀ころのこと。

難兜靡を引き継いだ息子の昆莫が、前2世紀にイシク湖のあたりに拠点を移動させて正式な烏孫となり、そのあと烏孫の領域は拡大したようです。

そしてここから先の烏孫王の話しは推定なのですが。

紀元前に烏孫を出た一部の烏孫王族=ヤマトの民が、東方へと移動をはじめ、南匈奴を通って、扶余、高句麗に到着したようです。元々扶余や高句麗烏孫と同じ系統だったから、すんなりそういうことが出来たんじゃないですかね。中国の東北平原にヤマト地名が集積しているのがその証拠だと思います。

 

古代の欠史八代天皇諡号を見ると、扶余、高句麗三韓的な地名があるのも、彼らがそこで生まれて代々かけて倭へ向かったからではないですかね。

例えば神武天皇のあとの第六代孝安天皇は、諡号が「国押人」なのですが。なんだか国を移動させたことが示唆されてるではないですか。

第七代は孝霊天皇なのですが、妃の名が春日千乳早山香媛(かすがのちぢはややまかひめ)で、娘の名前が千千速比売(ちぢはやひめ)なんです。

もし孝霊天皇が扶余あたりにいたとすると、ちぢはやで「チチハル」っていう地名を表している気がしますね。直感的なものですが。チチハルは古代からあったようです。

妃に蠅伊呂杼(はえいろど)っていう方いるんですが、妃が蝿っておかしいですよね。扶余の転訛な気がします(扶余→fuyo→huye→ハエ)。

第八代の孝元天皇諡号は「大日本根子彦国牽天皇」なのですが、国牽、国玖琉とかいて「くにくる」なのですね。

なにか「高句麗」をもじってくるくるぱーみたいな感じを受けるのですよね。高句麗にいたんじゃないですかね。

宮殿名が軽境原宮なのも「軽」とは「句麗」のことで、高句麗の国境近くにいたのでしょうかね。

第十代崇神天皇諡号は「御間城入彦五十瓊殖天皇」で、なにか「任那城から委奴(五十)に入った人」みたいに見えるのです。任那から九州に移動したことを意味しないですか。

すると初期の天皇烏孫から扶余、扶余から高句麗高句麗から三韓三韓から任那任那から九州へ移動を繰り返してきたことが分かる気がしますね。

彼ら欠史八代の移動は、西暦1~2世紀末までというのは想像してるのですが。

烏孫の昆莫が紀元前2世紀、そのあと烏孫の6代目王である孝安天皇が出発して、扶余・高句麗三韓任那を経て、崇神天皇が委奴国に入るのが2世紀末というわけです。

 

こうした天皇大陸所在説を語ると妄想だって失笑されてたのですが。

大陸のヤマト地名と照らし合わせていくと、なんか違って見えませんか。

まぁ天皇は古代から日本で誕生したとかいう話が通説です。それを語るのが「日本書紀」や「古事記」などの古典でありました。古代の天皇は日本を永住地に定める上で、古代から支配したことを明確にしたくて物語を作ったんじゃないですかね。

記紀の記録はあきらかに、大陸的なものがいろいろはいっていますし。

天地開闢はなんか聖書の冒頭みたいだし、イザナギモーセなわけだし、天照大神と月読が目から生まれたというのは中国の萬古の神話そのまんまであるし。ヤマタノオロチヘラクレスヒュドラの戦いだし、とか。三種の神器についても、イスラエル三種の神器と重なっていたりするし。

あと朱蒙の神話が、まるっきり神武東征と同じなのは衝撃的ではないですか。

みんな大陸のお話に、日本的要素をくっつけたものなんすよ。

 

以下は補足ですが、秦や漢にも、ヤマトの民が流れていたようです。一説に始皇帝古代イスラエルからという説がありますので。無関係ではないです。

秦の拠点があった甘粛省もヤマトの地名が集積してますが、秦の拠点だった街を調べても、明確なヤマト地名が見当たらないんですよね。

途中のチベット雲南のほうにもヤマト地名が連なっているのは、パミール高原烏孫あたりからのヤマト民族の別働隊があったと考えています。

 

 

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作家の方との整合性(ヨセフ・アイデルバーグ、百嶋由一郎

 

実は古代イスラエル人の移動ルートについては、歴史家の方々がそれぞれ独自に推定していたりするのです。それをちょっとご紹介しようかと思います。

 

青い線がヤマト地名の集積地で、当研究室が推定しているルートになります。

 

ヨセフ・アイデルバーグの推定ルート

このユダヤ人の推定移動経路は、オレンジ色の線で示しています。

日本書紀と日本語のユダヤ起源」の本にある地図から、適当にうつしとってみました。

古代イスラエル→イラン→中央アジアパミール→新疆→甘粛省の秦→開封黄海北岸→朝鮮半島→九州

(イランから南と北のルートに分かれ敦煌で合流している)

こんなルートになっています。

ヤマト的な地名が多いトルコや烏孫や扶余高句麗などについては、まったく言及がなかったです。あとユダヤ人の溜まり場だった開封を通っていると言ってますが、あんまり関係なさそうですね。

しかし西アジアから新疆、そして秦にかけてまでは、ヤマト地名の分布とだいたい合致するようにみえますよね。だからヤマト地名のルートが正しいことの証明ができるわけなんですよ。

 

百嶋由一郎の推定ルート

あとは「百嶋神社考古学」というところの、日ユ同祖論のルートも取り入れてみました。むらさき色の線です。

百嶋さんは、日本の神々と天皇家とは、古代イスラエルにも起源があったと主張しているようでした。

ネットで調べると東アジアのほうだけ、地図に描かれた推定移動ルートを見つけることができました。それによりますと

中国の雲南省海南島→台湾→沖縄→倭

河南省あたりの苗族→倭

呉→倭

朝鮮半島→倭

こんな感じ。まぁ従来の弥生人の渡来範囲みたいな感じです。

しかし百嶋さんが残した文章によれば、以下のような移動ルートも推定されていたので、地図に加えてみました。

古代イスラエルペルシャパミール高原→新疆→秦

秦→雲南→沖縄→倭

秦→朝鮮半島→倭

(点線)

百嶋氏の仮説では、烏孫や扶余については言及が見当たらないのですが、全体を眺めるとヤマト地名の分布と一致しているように見えました。

中国南部の湖南省のあたりにヤマト地名が並んでいまして、ここに苗族という人々がいるそうなんです。この方々が古代イスラエルの末裔で、倭へ向かっているということでした。

雲南省の人々が海南島や沖縄経由で倭へ向かったということですが、雲南省あたりにもヤマト系の地名の痕跡がチラホラあるんですよね。するとこちらも合っていることになりました。

西アジアのほうをみても、ヤマト地名の推定移動ルートに重なっているような感じだと思われますね。

教えていただいて、地図を作る参考にしたサイト

日本列島へやって来た人々の移住経路:百嶋由一郎先生講演より : 肥後翁のblog

阿蘇高森夏合宿 百嶋由一郎先生講演 2012年7月28~29日 : 肥後翁のblog

 

他の作家さんの提唱するルートが他にもあったのですが・・・面倒なのでいつか機会があればということで。

まぁこの大陸に刻まれたヤマト地名が、天皇大和民族の移動ルートであるとの仮説が事実ならば?

天皇古代イスラエル、秦、烏孫、扶余、高句麗などの王の血筋を、正当に受け継いでいる存在であるでしょうねぇ・・・。

日本の歴史が根本から間違ってる証拠なわけで、ちゃんと調べないといけないと思いますが。まぁあらゆる学問の真相を隠蔽したい勢力が、世界の根幹にあるようなので、今後どうなることやら。

 

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