しかし、何も出来ないゴミクズ鼻○と言われた時代を経て、その頃からずっと弛まず溜めてきた研究成果をさらけ出している今。成果の正否は、いまだ不明。
一体何か報われるんだろうか、という疑問は尽きませんね。ゴールは何なのだろうかって、思うわけですけどね。無慈悲にバカにしてくる人々にも、無料公開し続けて、輪をかけてバカにされるという理不尽が続いてるみたいですそういえば、もうそろそろだっていう話も聞きますよね・・・。
○いつも助かっております
個人的な研究が確かならば、昆莫と神武天皇は共に紀元前2世紀に実在した、同一人物で、前漢、日本のそれぞれは、違った語り口で昆莫=神武を伝えてきました。
この両者の伝承の一致は、もう明らかだったと思うんですが。伝承の中の全体的に似た所をまとめてみました。
※ここでいう「王」は「王=昆靡(烏孫)、大王=天皇(倭)」という意味で使ってます。
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(1)神武=昆莫、神=昆莫
これは名前を比較すれば分かってくることですが。
昆莫 kun-mo(kuen-mo)
神武 kan-mu(神武をカンムと読んだ場合)
神 ka-mu(神武天皇の諡号「神日本磐余彦(かむやまといわれびこ」)
まぁ一致してますよね。
(昆莫は厳密にいうと2代目なのですが、烏孫の初代と2代目の事績の両方を合わせた存在が神武天皇ぽいです。)
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(2)王位継承の出来事
これは興味深い一致。
[烏孫] (a)昆莫の孫が王位継承 (b)大禄(turk)が王位を奪おうと反逆
[日本] (a)神武天皇の三男が皇位継承 (b)手研(turgish)耳が皇位を奪おうと反逆
(a)について。烏孫では「昆莫の子の子」が王位継承となってるのに対し、日本では「神武の子の弟」が皇位継承となっている。
孫というのは、「a本人、b息子、c孫」というふうに、本人から見て3番目の存在なのです。三男というのも3番目の存在なので、どちらも3番目じゃないですか。孫か三男かというところで、「記憶違い」が起きてるようですが、おおむね合っているように見えますね。
(b)について。反逆した者の名前は大禄=ダルク(turk)、手研=タギシ(turgish)と、どちらもturk系の名前だった。同じ出来事を記しているんではないか。日本では数百年も口承だったので、名前が違ってるか、舎人親王が違う漢字を用いて誤魔化したんではないかと。
ちなみに中央アジアに実際に3世紀頃、トルギッシュという国がありましたが、説明するまでもなくテュルク系遊牧騎馬民族の国でしたが。
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これはこちらの記事で既に紹介しました。
第2代綏靖天皇と、烏孫の軍須靡の名が似すぎている件 - たっちゃんの古代史とか
ということだったのですが、記事から内容をコピペすると、
諱(本名)は「日本書紀」によると「神渟名川耳」っていうのですよ。
「古事記」では「神沼河耳」で、「かんぬなかわみみ」、「かむぬなかはみみ」。
この名前、烏孫の昆靡名(王名)にありました。
烏孫の3代目は「軍須靡(クンシュミ)」というんですが、名前比べてみたら、
神渟名 kan-jou-mei(日本書紀)
神沼 kan-sho(古事記)
軍須靡 kun-shu-mie(秦・漢時代の音)
神渟名をカンジョウメイと音読みした場合、なんでこんなに似てるんですかね。。
「渟」は音読でジョウ。
さらに軍須靡には別名があって、「岑陬(ジンゾー・またはジンス/ジンシュ)」っていうのですが、これも神渟名川耳の中にちゃんとありました。
神渟 jin-jou
神沼 jin-sho
岑陬 jin -zou(jin-su/jin-shu)
神渟でも神沼でも、岑陬と一致させることができるんです。こんな偶然は無いんじゃないかと。つまり必然なんじゃないかと。
ということで、つまり2代目の綏靖天皇(神渟名川耳)は、3代目の軍須靡(岑陬)と同一人物であっておかしくないです。詳しくは記事参照。
さらに(1)と(2)と(3)を踏まえて以下の3つ目の一致を見てください。
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(4)二人の王に嫁いだ后
后の記録も一致してました。
[烏孫] (a)江都公主(劉細君)が → (b)烏孫王二世代の后となった
[日本] (a)「五十鈴媛」が → (b)天皇二世代の后となっている
こうした話の流れの一致点があるんですよ。
五十鈴媛については「そんなこと書いてたっけ?」と半信半疑かもしれませんが、簡単に解説します。
烏孫の江都公主は、昆莫と岑陬(軍須靡)、2人の王の后となったのです。これは「漢書」「史記列伝」など参照してください。初代の妻を2代目が引き継ぐ、これはレビラト婚みたいなものなのですが、騎馬民族ではよくありました。
で、重要なのが「日本書紀」で、この様子が仄めかされていることなんです。
初代の神武天皇の皇后は媛蹈鞴五十鈴媛で「五十鈴媛(いずずひめ)」なのです。
2代目綏靖天皇の皇后は「五十鈴依媛(いすずよりひめ)」なんですよね、「依」がくっついただけでこちらも五十鈴媛。
初代天皇、2代目天皇と、共に「五十鈴媛」を皇后としてたわけなんですよ。
古代の天皇家で、2代連続で皇后の名前が一致するというのは、他にないことなのですよ。
なんで烏孫と一致してるのか?
つまり五十鈴姫というのは、江都公主劉細君と同一人物だと考えられたのです。
それで以前も指摘しましたが、五十鈴媛と江都公主劉細君は、名前も一致します。
「日本書紀」の媛蹈鞴五十鈴媛は、「古事記」では「冨登多多良伊須須岐比売(ほとたたらいすすきひめ)冨登多多良伊須気余理比売(いすけよりひめ)」と言っています。これと比較。
劉細君 r - iu- sai - kun
良伊須須岐 ra-i- susu -ki
良伊須気 ra-i - su - ki
子音を一致させて母音が変化して構わないというのが、古代日本の漢字の使い方であると見られます。
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(5)歴代王名の一致
以下の様な途中経過。漢字の意味や古訓を調べれば、もう少し詳しく分かってくるかも。
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(追記)と、ここまで来て、間違ってることに気づい箪笥・・・。
昆莫は2代目でした。初代は難兜靡でした。ということで、
1神武 1難兜靡
1神武kan-mu 2昆莫kuen-mo
神ka-mu 昆莫kuen-mo
2綏靖sui-zei 3岑陬zin-zo
神渟名kan-jou-mei 軍須靡kun-shu-mie
3安寧(浮穴宮)uki 4肥王(翁帰靡)o-ki
4懿徳
5孝昭・訶恵志泥 5泥王
6孝安・押人osi-hito 6烏就屠u-shu-to
[解説]
1神武天皇とは、烏孫の難兜靡と昆莫を組み合わせた存在だという見解なんですが。詳しくはいずれまた。
2綏靖天皇という諡号を名付けた淡海三船は、岑陬に似た名前を選んで綏靖と名づけているしているのではないかと思う。
3安寧の場合は、宮殿名と一致させていた。記憶が散逸し、混乱を生じてる。
4懿徳はよくわからなかった。たぶん肥王の息子を記録しているかも。
5孝昭の諡号には「泥」が含まれて、泥王と一致する。
6押人は「オシト」と読めば「烏就屠」にそっくりになる。古代「烏」は「う」と「お」の音になる。
孝安天皇は国押人で「国を押した人」だからこの天皇の時に東方へ向かっている。
途中で一代ずれが発生しているが、これは記憶違いが発生しているのか、意図的にずらしたのかというところです。
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一応ある程度、一致するところは見えてきたんじゃないですか。比較神話学で考えてみれば、出来事に加えて名前まで一致させていることは、信じられないレベルじゃないすかね。
まさか日本古代史が中央アジア史だったなんて、どこ教授も言いませんし、歴史教科書にも書いてませんけど。想像はできました。
あとは烏孫と日本の近畿地方の「地名の一致」も、指摘しておこうかと思います。
(この記事は 9月23日に改正しました。)
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