ああ、世の中、俺にとっては、凹むことが多すぎる・・・・・・。あ、こんばんは。
実は、この話題で、本に出来ないかと考えています。この説の概要を書き加えていくことにします。
興味のある方は、このタイトルにある「古代天皇在位年代を示す未確認の紀年法みつけた鴨」のパート1をどうぞ。池を泳いでる鴨の話ではないです。
来年生きてれば続くとか書いてますが、最近首都圏直下型地震が迫ってるとか、東南海地震が迫ってるとかの危険性が警告されてるみたいで、来年生きてるかどうかもわからないので、生きてる今のうちに書くことにします。
○いつも助かっております
従来の古代天皇の在位年の特定方法
古代の天皇の在位年代を知る、従来の紀年法は「皇紀」で、Wikipediaに「天皇の一覧」があります。
表の中に「在位期間」の欄があり、そこに神武天皇元年が紀元前660年とあります。これが日本独自の紀年法、皇紀の元年です。
各天皇の年齢と60年置きに繰り返される干支の特徴を考慮すると、前660年になるということです。
前660年というのは、縄文時代末期と弥生時代の始まりが重なり、西日本が弥生時代へと移行する時期らしいです。
完全に神武天皇の実在を証明する、この時代の遺跡というのは、文字の刻まれた遺物が出土でもしない限りは確認不可能です。
奈良の纏向遺跡が、神武天皇の建設した橿原宮の可能性があるとか一説には言われてるのですが。纏向は紀元前7世紀じゃなく、3世紀頃の遺跡ですので。皇紀元年からは実に800年以上も差があります。
仮に纏向遺跡が神武天皇による創建の橿原宮とすると、皇紀は完全に間違ってることになりますですね。
また、神武天皇を崇神天皇や応神天皇などと同一人物とし、実在の天皇が日本列島を東征した時の伝承から、神武東征伝説が生まれたとする考えもあるようです。
どちらにしても、Wikipadiaで確認できる通り、雄略天皇以前の皇紀は、実際の年代とはかなりずれてるのではないかとの指摘があります。
「宋書」に記される「倭の五王」の在位年を知ると、分かっちゃいます。
倭の五王の倭王「武」は第二十一代雄略天皇で、和風諡号か諱である「大泊瀬幼武」の「武」を元にして、倭王武と記述されたのは確実みたいです。
このように、雄略天皇(倭王武)の在位年代は、海を隔てた日中の「宋書」と「皇紀」で、ぴったりと一致を見せています。
さらに埼玉県行田市にある、埼玉古墳群の稲荷山古墳出土「稲荷山鉄剣銘」に刻まれた金象嵌「獲加多支鹵大王(わかたけるおほきみ)」の年代。
これが辛亥年(471年)となっているところからも、雄略天皇=大泊瀬幼武=獲加多支鹵大王=倭王武なことがわかります。
次に6世代遡り、第十五代応神天皇のケースを見てみます。宋書では倭王「讃」とされる王が、応神天皇=誉田別であると考えられます。
こんなふうに、皇紀では応神天皇の在位期間を100年以上も昔のことと設定されてしまうんです。倭の五王の時代以前の皇紀は、明らかに水増しでおかしくなってます。
皇紀の在位年代と実際の推定年代の比較
以下は第十代崇神天皇から雄略天皇までの、天皇の皇紀による在位年代と、実際の推定在位年代を比較したものです。
こんなふうに、中国史書に記録される実際の在位年代と、皇紀による在位年代は、時代が古く成るほどズレ幅が大きくなるんです。
倭の五王は5人で、応神~雄略は7人になってますが、ここは記録されなかった天皇、または記録が合わせられてしまった天皇が2人いたようです。
皇紀を元にすると、神功皇后が「魏志」の女王卑弥呼になってくるのですが、見て分かる通り神功皇后とその息子「応神=讃」の時代は西暦400年前後なのですね。
卑弥呼の時代は西暦247年以前なので、神功皇后卑弥呼説は当てはまらないです。
ここに私説である「崇神天皇=卑弥呼+壱与」の考えを当てはめると、かなり現実味があることがお分かり頂けると思うのですが、この考えは、実は新たに見つけた紀年法が、根拠の一つとなっていました。
というわけで、3に続きます・・・・・・。
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