古代天皇家はユーラシア大陸を、西から東へ移動したという話をします。
○いつも助かっております
諡号は地名
日本史の定説だと「天皇家は昔から日本を統治した、縄文・弥生の豪族の出身」ということらしいので、「またバカがなんか言ってるぞ」と嘲笑されるだけなんだと思います。
ワタスの電子書籍をこっそり見た!という人はレアですが、下巻ではこんなことを書いていました。
「歴代天皇の諡号は地名」であると。これは江上波夫さんも指摘したことなのですよ。ここでまた「江上波夫って騎馬民族が来たとか妄言して今じゃ誰も支持してないでしょ」なんて思われることでしょう。でも江上さんの言ってることは8割方正しかった、少なくとも「騎馬民族が天皇家の先祖」ということについては。
このことは電子書籍やブログでも度々指摘してますが、もっとも重要な要素の一つをまたまた提示。
崇神天皇についてはこの記事
を参考にすると、御間城入彦五十瓊殖は、「任那=御間城」から「委奴(伊都)=五十瓊(五十)」へ入ったという情報が含まれていたということなのでした。
電子書籍下巻では、「欠史八代」と呼ばれる存在性が不確かな天皇についても、考察をしていました。
歴代 諡号 記紀の和風諡号 含まれる古代国名
(下段古事記)07 孝霊天皇 大日本根子彦太瓊 太瓊(フトニ)=扶余・匈奴(フンナ・フンド)
大倭根子日子賦斗邇 賦斗邇=扶余・匈奴08 孝元天皇 大日本根子彦国牽 国牽(クニクル)=高句麗
大倭根子日子国玖琉 国玖琉=高句麗
こういう解釈を電子書籍下巻でしてましたが。
補足すると、太(ふと)が匈奴のことです。「匈」は「ふん」でしたので。瓊(ni)が奴(na)のことです。
国牽・国玖琉は「こっくり」で高句麗を表します。
半跛はh-h(b-b)の音なので日日・毘毘で表されていました。
古事記を書いた太安万侶や、日本書紀を書いた舎人親王らは、このことを知っていて、高句麗などの古代国家の名前をあえて分かりにくくしているんではないか?と思う所ですけども。なぜかというと例えば「国牽」ですが、「牽」は牽引(けんいん)の字ですがこれは「牛に綱を付けて引っ張る」意味だから、「国を引いた」ことを意味しているのですよ。つまり国牽という名には、「国を移動させている」意味を加えているのが明らかです。
地図で表すと、北から順番に
(07)匈奴、扶余、(08)高句麗、(09)弁韓、(10)委奴(倭)
となっているではありませんか。
画像はウィキペディア夫余より
つまり記紀には、ちゃんと天皇家の移動ルートが示されていたのでした。
この記事にも書きましたが、この扶余・高句麗の地域には「ヤマト」の地名が集積してたのですね。
天皇の民が居た場所がヤマトと名付けられているんですよ。(下巻参照)
これらの国家は1世紀から2世紀までにあてはまる国家でしたので、第七代孝霊天皇から第十代崇神天皇までの移動年代は、1世紀から西暦2世紀までの間で、匈奴~扶余~高句麗~弁韓~倭と通過してきたと、具体的に「古事記」「日本書紀」は示していることになるんです。騎馬民族説が正しいことは、古事記と日本書紀が証明してくれるのではないかと、いう仮説なのです。
それぞれの天皇は、移動中にはそれぞれの国家で族長のような役割だったかもしれませんが、最終的に日本に到達して天皇となっているので、移動中の世継ぎも天皇に数えられているんだと思われます。
ここまでは天皇家は「北から南」という移動経路でしたが、古代天皇諡号の情報は、これに留まりません。記紀では基本的には「西から東」であることが指摘されているんではないかと考えました。彼ら天皇家の移動集団が、東夷諸国を自在に移動できたのは、東夷の王族も天皇家も、共に烏孫の昆莫の子孫だったからと考えるのですが。
続く
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