「よく生きていられるよね」「恥知らず」とはよく言われて、精神的に追い詰められる経験は続きました。
恥を知っているから、何でも途中で辞めてきたんですが。
挑戦が大事だと言われて挑戦しても、途中で辞めて恥を晒すことは何度もありつつ、世間の冷酷な嘲笑の嵐を経験しながら、ここまで生きて参りましたが。
今回久しぶりに一つのことを成し遂げました。電子書籍の上下巻の完成という形で。
(しかし2022年現在で販売中止していますので結局アレでした😅)
○いつも助かっております
江上氏の「騎馬民族征服王朝説」は、いまや日本史の中で支持を失い、歴史考察の中心から外れた、淘汰されたと言って過言ではない状況です。
じつは今回の下巻では、「天皇家の祖先は騎馬民族だった」との認識に到達しているので、ボクチンもまさか淘汰、迫害されてしまうのか?とドキドキしています。
では今回の下巻の内容のなかで、どのように天皇家と騎馬民族を結びつけているのか、少し解説。
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上巻で、日本の地名の、知られざる連鎖構造を解き明かしました。
日本は西から東まで、同一地名が連なっている、そういった世界でも稀に見る特徴のある国土だったのです。それは天皇・大和朝廷の人々が、過去の伝承を元にして、西から東へ、支配地に次々と同一地名を名づけて行ったと、見ることが出来たのでした。
下巻では、神武東征伝説とは、「九州~近畿」という従来の区間のみならず、
それ以前に「朝鮮半島の倭~九州」の区間にかけても、神武東征と同じ地名が存在していることを突き止めました。
さらに下巻では、神武東征伝説が、
騎馬民族である扶余・高句麗の「東明の東征」と、全く同じ内容の説話であることを証明しています。神武東征が扶余の東明の東征と同じであるならば、天皇家の出自についての回答は絞りこまれます。
江上氏は「騎馬民族国家」でこれを指摘していましたが、他の問題に焦点が当たり、こちらは無視されてしまったのでした。
なぜ神武東征伝説が、騎馬民族の伝説と、まったく同一形態なのだと思いますか。
その答えは、「日本の天皇家と大和民族のルーツが、騎馬民族にあるから」だとすれば?
天皇家が扶余系騎馬民族の末裔である証拠は、実は記紀を始めたとした東アジアの幾つもの古文献に記録されており、下巻ではそれをまとめました。
例えば渤海国国書、海東諸国紀、隋書、古事記、日本書紀、といった錚々たる書物に、天皇家が扶余・高句麗から日本列島へ流れたという情報が、散りばめられていたのです。
満州のヤマト
これは下巻にある図版ですが、グーグルマップ上で、ユーラシア大陸の地名を全検索した結果、導かれたものです。
中国の東北部の満州地域に、特に「やまと」という地名が集中している様子を見ることができます。
この地域は、古代の扶余・高句麗を中心とした、騎馬民族系住民の居住地となります。
「やまと」は、古くは天皇と大和民族が居住し、天皇の首都が置かれた地域でなければ、ありえない地名であるのですが。
こうした地名が、とくに扶余に集中していた事実が判明しています。
さらに記紀の中には、「天皇家が扶余・高句麗から日本列島へ移動してきた」情報が確かに記録してあったのでした。
実質的に大陸から日本列島へ渡ったのは、崇神天皇でした。
崇神天皇の諡号が、崇神天皇は朝鮮半島の倭から、九州の倭へ渡ってきた王朝だったことを表していたんですよ・・・。
崇神天皇が奈良にいなかった理由は、これらの諡号・称号に奈良の要素が無いこと、崇神天皇の時に幾多の戦闘が起きたのに、奈良盆地では金属製武器が見つからないことなどがあります。
九州と奈良の地名が同一なのだから、崇神紀で起きた出来事は実際には九州で起きたのだと考えられました。後の時代に、九州の出来事は、同一地名の奈良の出来事として、置き換えられたのです。
崇神天皇以前の、神代~神武~欠史八代の出来事についても、同様に「別の場所で起きた出来事が、同一地名の奈良盆地の出来事として置き換えられている」
ということです。
日本史のアカデミズムの常識 を盲信してる方には、ちょっと信じがたいかもしれませんが。
今回の下巻にて、未知の情報をいろいろと発掘しています。
詳しくは下巻で。
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