たっちゃんの古代史とか

誰も知らない日本とユーラシア古代史研究。絵も本も書く。闇の組織に狙われてるアマ歴史研究者。在宅お仕事中。

欠史八代の孝元天皇「大日本根子彦国牽」が牽牛と高句麗の名を持ってた

2014年に、電子書籍の「日本の地名の真の由来と神武東征のカラクリ仕掛け(上・下)」を出してました。

しかし思うところあって、内容変更することにしました。それでアマゾンの販売ページから消えています。

上下巻だったのを、完全に分離したものにします。完了は1年後か、2年後か、10年後か、あるいは未完ということで。

 

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孝元天皇は大日本だし、そもそも天皇は日本出身、縄文系の王統で決まってるでゲソ。」

これが純粋な従来の日本仁的な論調です。でもなんか、自分としてはしっくり来ませんでした。

 

○いつも助かっております

 

 

 

天皇大和民族の東夷起源

 

この幻の本では、欠史八代中央アジア烏孫の昆莫王から出た後、1~2世紀頃に東アジアの東夷(扶余・高句麗・半島)の土地を通って、倭に移ってきたことを書いてました。

同時に崇神天皇卑弥呼と同一人物であり、朝鮮半島の倭から九州に渡ってきたということも書いていました。

いわゆるトンデモ本で良いわけなのですが。近頃はなんか、トンデモのほうが真実だったと、明らかになってきてるらしいですね。

これは日ユ同祖論とか、天皇の大陸起源説で、ユーラシア大陸を超えてきたという発想を理解できる立人なら、納得できる話かと思います。

  

第7代~第10代が東夷諸国を移動した

 

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これが本に記した解釈だったのですが。こんなふうに、それぞれの天皇は東夷諸国を移動して、日本列島に入ってきてるのです。

それが、長い間「日本列島の天皇だ」と決めつけられて隠蔽されていた、記紀欠史八代天皇の秘密だったんではないかと。

 

例えば孝元天皇を例に取る

  

このなかにいる、第8代孝元天皇ですが。

「大日本根子彦国牽(大倭根子日子国玖琉)」という、キラキラネーム的な和風諡号があるのですね。これを解説すると。

国牽(くにくる)

国玖琉(くにくる)

こんなちょっと変な諡号を持ってたのです。

 

で、昔の天皇や皇族というのは、自分の名前に出身地、あるいは縁のある土地の名を加えるみたいな習わしも、取り入れられている傾向にあります。

だから、これも出身地か縁のある土地を表すのだとすれば、地名でした。

自分なりに、ちょっと解析してみたのです。

 

国はコクだとして考えられました。あと日本語の特徴として、同じ音が続いたり発音する過程で促音化する(ちっちゃい「っ」が入る)みたいなことがあるようなので、そこも検討すると、

国牽(こくくる)

国玖琉(こくくる)

koku kuru

kokkuru(こっくる)

高句麗(こうくり、kokuru、kokuri)

 牽・玖琉の「くる」というのは、古来より高句麗の「句麗」と同じで、古い国名でした。高句麗って、もともと句麗だったとか。

だから孝元天皇の「国牽、国玖琉」は高句麗のことなのではないかと。だから諡号の中に、こうした高句麗情報を入れているのではないかと。考えてみたわけです。

 

 

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古代中国の牽牛が七夕の彦星となった

 

ところで話は空に跳びますが、わし座のアルタイルは牽牛星というのです。七夕は古代の中国から日本に輸入されて、定着した行事。

牽牛という人は、日本に入ってくると彦星という名前になりました。

アルタイル - Wikipedia

 

それで、「中国大陸の牽牛」という情報が、実は孝元天皇からもでてきてしまうんですね。

大日本根子「彦国牽」

牽牛は彦星、

孝元天皇は、彦・牽・・・

ここで「日本書紀」編者の舎人親王は、どうも孝元天皇の「ひこくにくる」の音にあえて「彦・牽」の漢字を用いていることが明らかに見えました。

これによって、孝元天皇こと彦国牽が、彦星牽牛と同様に、大陸にいたのだと、それを暗号として残したのかもしれないんですね。

 

孝元天皇の家族の名を見てみれば

 

倭迹迹日百襲姫命(ヤマトトトヒモモソヒメノミコト)迹迹・・・とと、タタル

大彦命(オオビコノミコト)帯(おび)→帯方郡

・少彦男心命(スクナヒコオココロノミコト)心(こころ)→高句麗

・倭迹迹姫命(ヤマトトトヒメノミコト)迹迹(とと)→タタル

伊香色謎命(イカガシコメノミコト)伊香色(いかし)→いくし、沃沮

・埴安媛(ハニヤスヒメ)埴(はに)→はな、匈奴(フナ)

武埴安彦命(タケハニヤスヒコノミコト)埴(はに)→はな、匈奴(フナ)

妄想ですが、彼らみんな、烏孫から東夷諸国を移動する時に誕生した人物です。

だから烏孫から東夷までの名前を付けてるのです。

 

だから孝元天皇の都の名前が軽の境原宮とあるのは、「軽=句麗」ということです。

 

孝元天皇高句麗滞在したのはbc1-ad2の間

 

歴史上で高句麗の出現は、紀元前1世紀(紀元前37年)以降なので、孝元天皇高句麗に滞在したと記録するならば、その年代は紀元前37年から、卑弥呼以前の紀元2世紀までの間ではないかと。推測しました。 

孝元天皇だけじゃなく、その後の第十第崇神天皇、第十一代垂仁天皇のほうまで、「大陸出身天皇家」という発想なのですが。

 

もちろん妄想で。

 

かつて「騎馬民族征服王朝説」を出した江上波夫さんが、ここに気づいていたら、なんか違ったかなと思うのですが。

まぁ筆者は別に大陸出身ではない、一応純粋な日本国籍人です。でもぶっちゃけ日本的な価値観、感性、歴史観が嫌いになるところまで追い込まれましたが。

誰にも縛られませんので、どうしても自然と、従来の歴史観とは遠ざかって解釈してしまいます・・・。 

 

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