たっちゃんの古代史とか

誰も知らない日本とユーラシア古代史研究。絵も本も書く。闇の組織に狙われてるアマ歴史研究者。在宅お仕事中。

8世紀から興福寺を守護したらしい、玄昉のバラバラ死体の結界

8世紀の奈良時代に、玄昉という方いました。奈良の頭塔の主と言えば、知る人もいるかもしれないですが。

その玄昉が残した、知られざる謎の結界があったのですよ。そんな話。

 

 

玄昉のバラバラ死体

 

669年に創建された興福寺 興福寺 - Wikipedia

 

玄昉は奈良時代養老元年(717年)に遣唐使として唐に渡って、あちらで18年を過ごしたらしいです。時の皇帝玄宗に才能を認められたとか。

帰国後は政治に参加しましたが、藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)の乱に巻き込まれたりしたそうな。

746年に亡くなったそうですが、この死は「続日本紀」では藤原広嗣の怨霊によるものと言い伝えられてました。

その死の瞬間は「元亨釈書」にあり、

「空中から手が現れて玄昉を連れ去り、後日に玄昉の頭部が興福寺に落ちてた。これは広嗣の霊の仕業だった」

とか記録されてるんですよ。亜空間から手が現れて、引きずり込まれて殺された、ってなんか怖い。

玄昉については頭だけが残されていた他にも、こんな伝説があるのです。

玄昉の体が筑紫から飛来し5カ処に落ちたが、首が落ちた地に墳廟が造られ頭塔と呼ばれた。後の各書で首落下地伝承地は分岐するが、ほとんどは興福寺域内とされている。

江戸時代にはこの他玄坊の肘を埋めたとされる肘塚(かいのづか)、眉と目を埋めた眉目塚(まめづか)、胴を埋めた胴塚の伝承が生まれた。しかし、中世以前の表記をみると、肘塚は「甲斐塚」「貝塚」で、「眉目」も「大豆(まめ)」が元の地名で、頭塔の伝承に合わせる形で変形されたものである。肘塚は、塚の場所の記述があるが[12]、この塚の伝説に付会して記されたものとされている[13]。脚注

玄昉 - Wikipedia

 

いわゆる興福寺の玄昉バラバラ死体事件でした。

それで、その玄昉の死体が埋められた各地についてを調べてみると、不思議なものが見えてきました。

 

 

興福寺の結界になった玄昉

 

以前に京都の方で、知られざる小野篁(おののたかむら)や平清盛(たいらのきよもり)の結界を見つけることができたのでした。

それでこの玄昉のバラバラ死体も「結界なんじゃ?」って思ったのです。

それでネットで調べてるうちに、すでに以下のブログで結界説が紹介されてることがわかりました。

どうやら2017年以前に、元興寺文化財研究所っていうところで、玄昉の死体を使った結界説が出されてたようでした。知らなかったです。

akadama 奈良町玄昉ゆかりの地を訪ねる現地学習会

 

地図上で玄昉のバラバラ死体の埋葬地を、全て明らかにしてみましたら、こうなりました。

・頭塔(ずとう)・・・・・高畑町921

・胴塚(弁財天)・・・・・押上町12-4

・肘塚(かいのづか)・・・中辻町

・眉間寺(聖武陵参道)・・法蓮町1416

・眉目塚(崇徳寺)・・・・大豆山町7

興福寺・・・・・・・・・登大路町48

こんな感じになってました。

江戸時代に塚が増えて、結界は拡張したらしいです。

4か所から5か所になった?どれが江戸時代のものかはわかりませんでした。眉間寺?

そう言えば眉間寺と眉目塚って、「眉」で被ってないか?と思ったのですが良いんですかね?・・・眉と目は、左右に2つあるからってことで。

ただこれらの塚や寺に、実際に死体やミイラなどがあったかどうかは、現状で定かではないそうで。

そのバラバラ死体の中心に、興福寺がありましたが、玄昉のバラバラ死体が祀られる場所は、昔はほとんど興福寺の範囲でした。

玄昉の強い霊力を守護の力として利用し、結界としたのではないかと考えられます。

 

 

頭塔の真南に箸墓古墳、真北に正倉院がある

 

あと気になったのは、頭塔だけが他の結界の塚などより、ずっと立派なことでした。頭塔なだけに、ずっと立派なのかと。

 

頭塔 - Wikipedia

まず760年に3段の頭塔が作られたあと、767年にそれに覆いかぶせるようにして実忠(じっちゅう)が7段に作ったんだとかで。実忠って十中八九「さねただ」かと思ったら「じっちゅう」ってぜんぜん読めませんでしたが。

これの真北になぜか正倉院があって、真南にはなぜか箸墓古墳があるんですよね。

正倉院は756年創建なので、頭塔建設と時期が被ってるので、意図したんじゃないかという感じがしました。

箸墓古墳は霊力が高いとかの理由で、結界に関連付けがされてるのかも。これらもふくめて、レイラインを意図したのかもしれんです。

 

 

ぽちされたすかりm

 

 

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