たっちゃんの古代史とか

誰も知らない日本とユーラシア古代史研究。絵も本も書く。闇の組織に狙われてるアマ歴史研究者。在宅お仕事中。

平清盛が作った「京都六地蔵」…しかし清盛と平家はご利益を授かれなかった件

以前に京都の小野篁(おののたかむら)が作った閻魔大王の結界の話しました。それにより平安京は守られていたわけです。

それとは別に、小野篁の作った地蔵が元になって、京都六地蔵の結界が作られてたわけなのです。それに関連して、変な要素まで見つけてしまいました。

 

 

平清盛が作った京都六地蔵

 

京都市街地の6か所に、京都六地蔵があります。

その歴史は852年に小野篁が地蔵を手彫りして大善寺に祀ったことが始まりだったとか。

後白河天皇の勅命により、平清盛が保元年間(1156~1159年)に西光に命じて街道口6カ所(下記)にそれぞれ六角堂を建て、六体の地蔵菩薩像を一体ずつ分置したそうな。疫病退散が目的だったというから、やはり京の結界だったようです。これが後の「江戸六地蔵」のモデルになったと伝わっています。

平清盛太政大臣となり、武家中心の世の中を完成させた人物だったとか言いますね。しかしトップに立ってからやりたい放題やってたので、多くの反発を招いて日本はしっちゃかめっちゃかとなり、平家滅亡の引き金を引いたのも平清盛でした。。

 

当初の京都六地蔵はこんな配置で、現在とは若干違っているようです。

六地蔵の街道と寺院

奈良街道、伏見 大善寺

大坂街道、鳥羽 浄禅寺

丹波街道、桂 地蔵寺

周山街道、常盤 源光寺

鞍馬街道、賀茂 深泥池畔(現在は上善寺)

東海道、山科 徳林庵

京都六地蔵 - Wikipedia

 

小野篁の地蔵が当初からあったのは、南方の伏見区大善寺です。

上善寺の地蔵は、当初は平安京の北部の深泥池畔にあったのが、明治時代に現在の上善寺に移されたとか。全体を見ると、意外と綺麗な六角形にはなっていないんですね。

しかし調べてみると、平清盛によって六地蔵がこの配置としたのには、明確な理由があってのことだったと分かるのでした。

 

 

六地蔵平安京の結界であり、清盛お気に入りの場所を囲ってた件

 

まずこの六地蔵は、明らかに平安京をすっぽり取り囲む、結界になってるのは明らかでした。そりゃま時の天皇の肝いり計画だったわけで。しかし六地蔵結界は、平安京よりも東に大幅にずれてます。

これは平清盛と平家に縁のある土地までも、取り囲んで守護する設計だったからだと思われます。その中心地となるのが、平家の拠点となっていた六波羅蜜寺(ろくはらみつじ)です。

六波羅蜜寺空也が創建して、当初から悪病退散や縁結びで知られるお寺でした。六波羅蜜寺の「口からなんか変なの出してる像」は有名ですが、あれは空也像であり、口から出てる変な何かは阿弥陀仏なのでした。

その六波羅蜜寺周囲には、平清盛邸を始めとし、平家の六千軒にも及ぶ邸宅が並んでたとか。

六波羅蜜寺 - Wikipedia

 

しかも六地蔵結界の中には、平清盛が創建した新熊野神社三十三間堂、親族のいた八坂神社、平清盛の邸宅があった泉殿や西八条第跡、信仰した伏見稲荷大社若一神社下鴨神社なども見えるのですね。当然平安京の政治の要だった大内裏も含まれてます。

こうして平清盛に縁のある土地を、ぐるっと囲っていたわけなのです。

 

平清盛に縁のある場所の詳しくは、以下のサイトでどうぞ。

平清盛のゆかりの地めぐり | おすすめの京都観光コース | 京都観光情報 KYOTOdesign

 

あと六波羅蜜寺を中心とした時に、西北側と南側の三角形がほぼ完全な二等辺三角形になっているのも意図的ではないかと。特に六波羅蜜寺~深泥池畔間と、六波羅蜜寺~源光寺間は距離的にほぼ一緒だったりしましたし。

当時の破天荒な平清盛が何を考えて京都六地蔵を設計したのか、これでなんとなく分かったというわけです。

 

 

 

日本書紀に秘められた古社寺の謎──神話と歴史が紡ぐ古代日本の舞台裏

 

 

 

 

結界の中で最後を迎えた平清盛。そして現在まで続く結界の威力

 

あともう1つの謎にも迫ってみました。

平清盛は病死した上、直後に平家は滅亡してしまったので、この結界は平家にとっては全く役に立たなかったわけですが。・・・というか、終末期に鬼として扱われた平家を滅ぼすために、機能してしまったというべきか。

平清盛がどこで亡くなったかの記録があり、それによれば今の京都駅に近い、「平清盛の終焉推定地碑(高倉天皇誕生地)」のあたりだったようです。地図にも記してますけども。

平清盛の終焉推定地は、平安時代の当初は六地蔵の真ん中じゃなかったです。しかしその後時代を超えて明治時代になり、地蔵が上善寺に移された後、何故か六地蔵のド真ん中に位置するようになったのでした。謎ですね。

なんかこれも意図的な感じがしました。南の浄禅寺と北の上善寺は音が一緒であり、平安京朱雀大路に沿って南北に並ぶ形だったりするし。そんでもって六地蔵がなにかオベリスクというか、神道式の墓石の形のようにも見える。

まさに平清盛が作って、自らが結界に組み込まれている京都六地蔵・・・明治時代に上善寺を移転させた人は、その辺を意図したのかもしれません。

「災い転じて福となす」とは、平清盛と京都六地蔵のことを現したことわざのよう。

京都は近世の戦火で消失したことがないのも、小野篁閻魔大王結界と、この京都六地蔵のおかげもあるんですかね。疫病退散をもたらし、人々を守護する力がありそうです。

 

ぽちされでたすかりまs

 

 

関連記事

9世紀の京の都に小野篁が刻みつけた三角の結界

江戸六地蔵は江戸城を守る結界だった。何故か7地蔵で神田明神にも深く関与してる件

戸田蕨の立てこもり発砲事件・・・現れた不可解な三角形と目玉

 

人気ブログランキング