たっちゃんの古代史とか

誰も知らない日本とユーラシア古代史研究。絵も本も書く。闇の組織に狙われてるアマ歴史研究者。在宅お仕事中。

江戸六地蔵は江戸城を守る結界だった。何故か7地蔵で神田明神にも深く関与してる件

何気なく知ることになった、江戸六地蔵・・・。江戸時代から大きな信仰を集めていたとか。調べてみると、退っ引きならぬ意外な事実がわかったりするのでした。

 

 

江戸六地蔵について

江戸六地蔵は宝永3年(1706年)から江戸市中に設置され始めた、合計で6体の地蔵菩薩坐像でした。

深川の地蔵坊正元という人が、江戸各地の有力な寄進者を得て、各地に作ったそうです。当時の江戸の人口40万人の1/6にあたる、7万2000人がお金を出したと考えるとかなりすごい。

京都六地蔵に倣ったものであり、病気平癒のご利益があるとして人気になったとか。最初の地蔵が旧東海道沿いに作られたように、江戸の各街道筋に作られるのが基本だったようです。

江戸六地蔵 - Wikipedia

 

 

六地蔵の位置を見る

 

位置図がなかったので作ってみたら、左右対称的な図形が現れました。江戸城を中心とした形なので、やはり江戸を守る結界の役割のようです。

当初の六地蔵は五角形に近い形です。一方で明治以降の六地蔵のほうは、なんか弓矢の鏃、あるいは初心者マークのような形に変化してました。

 

それぞれの寺院の位置や、地蔵の製造年をまとめると以下の通りになってます。

 寺院  製造年 街道   所在地

品川寺 1708年 東海道  品川区南品川三丁目

東禅寺 1710年 奥州街道 台東区東浅草二丁目

③太宗寺 1712年 甲州街道 新宿区新宿二丁目

④真性寺 1714年 中山道  豊島区巣鴨三丁目

⑤霊厳寺 1717年 水戸街道 江東区白河一丁目

⑥永代寺 1720年 千葉街道 江東区富岡一丁目

⑥浄名院 1868年 言問通り 台東区上野桜木二丁目

 

⑥番は本来的には、江東区にある永代寺でした。しかし後になり浄名院が重複して「我こそ⑥番じゃ」と主張しています。これは明治元年に永代寺が廃寺となったせいで、代わりに浄名院に地蔵がつくられたことに端を発するんだとか。

ただ江戸六地蔵の元々の寄進者の界隈などでは、浄名院の地蔵は完全に認められてはいないようです。浄名院があるのは街道筋ではなく、上野公園そばの言問通りに面した立地。そのへんでも他とは異質な感じになっています。ちなみにこの浄名院は無数の地蔵が立っていることで有名なところです。

現在は永代寺とお地蔵さんは復興していますが、当初の地点から少しズレており、以前の地蔵は無くなり代替品が立っているとか。

 

この配置は一体何の意味があるのだろーか。そう思って、ひとまず線を引いてみることにしました。

するとこうなってました。

この時点では江戸六地蔵ラインには、何も意味がないように思えますね。適当に配置したのだと、普通は思うかも知れませんね。

しかし調べていくと、江戸六地蔵に秘められている退っ引きならない意図が分かってきました。

 

江戸六地蔵ラインの真意の解明

 

まず当初の江戸六地蔵のほうを見てみる。

①から⑥までの寺院を結びつけたライン上には、有名な神社が幾つも配置されてるような感じでした。これは偶然なのだろうか?

ライン上には、江戸時代以前に創建された、著名な神社仏閣ばかりが並んでる。

しかも神田明神日枝神社がぴったりと重なっている。これは記憶を頼りに考えたところ、江戸の主要な祭りの開催地に関係するような気がしました。何故なら江戸の街には、格式の高いお祭りと寺社があったからです。

・天下祭

神田明神日枝神社

 

江戸三大祭 

神田明神神田祭)、日枝神社山王祭)、富岡八幡宮深川祭

当時の格式が高い神社仏閣は、このようになってます。

神田明神は730年に創建され、祭神は大己貴命少彦名命、さらに平安時代以降には平将門命を祀るようになりました。日枝神社室町時代に創建され、徳川家康江戸城の守護神とした神社です。

天下祭は江戸時代に始まった、徳川将軍家が認めたお祭り。天下祭の2大神社「神田明神」と「日枝神社」は江戸市中の全ての神社より、ずっと格式が高いところだったそうで。天下祭 - Wikipedia

神田明神神田祭は、京都の祇園祭、大阪の天神祭とならんで、日本三大祭にも数えられることでも、存在感の凄さがわかりますけども。

 

これらの神社仏閣が、江戸六地蔵ラインにぴたり重なっていたのです。

おそらく当初の江戸六地蔵は、江戸の著名な神社仏閣の名所を、ラインで結びつけた設計だったのでしょう。

その証拠に天下祭で準ずる地位にあった、小石川の白山神社、浅草の三社権現(浅草神社)、本郷の湯島天満宮富岡八幡宮なども、この六地蔵のライン上に乗っかった位置にあるんですよ。牛込の赤城神社もラインに近い場所に位置づけられているし。

ほかにも日枝神社が守っていた江戸城本丸、不忍池、水天宮、品川神社荏原神社など、当時江戸で重要だった名所を、江戸六地蔵ラインが通るような設計になっているようです。

 

個人的な想像を進めますが。

六地蔵を設計した江戸時代の当初、深川の地蔵坊正元や各寺社の住職など主要な関係者の間で、こういう仕組みを作ったのです。

しかし時代を経て忘れ去られたんだと思いますね。わたすが想像を膨らませ、本来の記憶を呼び覚ましてしまったようですね・・・。

ここで重要なのが、公式なほうは「④真性寺と⑥永代寺を結んで神田明神が浮かびあがる」ところなんですよ。

 

 

明治以降に六地蔵に入った浄名院も神田明神を意図した設計だった件

 

明治以降の江戸六地蔵を見てみる。

先程は「当初の④真性寺と⑥永代寺を結んだライン」が消えてましたね。

その代わりに浮かび上がるのが「①品川寺と⑥浄名院を結んだライン」です。

不思議なことに、こちらの新たなラインのほうにも、天下祭で格付け1位の神田明神が浮かび上がっているんですよ。つまり、

当初の江戸六地蔵では④真性寺と⑥永代寺を結んで神田明神が浮かび上がる

明治以降の江戸六地蔵では①品川寺と⑥浄名院を結んで神田明神が浮かび上がる

ようするに2つは全く違うラインなのに、どっちの六地蔵も江戸で最重視された神田明神を捉えているのは、偶然じゃなかったというわけです。

明治元年以降の六地蔵の浄名院が、「わしが正式な六地蔵じゃ」と主張している理由は、このあたりにあるんじゃないですかね。

まぁ想像に過ぎないですけれども。江戸六地蔵のお寺の方に聞いてみたいところです。

 

とにかく六地蔵は東京を守護する結界であり、病気平癒のご利益があるということで、暇な時に巡ってみたら良いと思います。

 

 

ぽちされでたすかりまs

 

 

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