たっちゃんの古代史とか

誰も知らない日本とユーラシア古代史研究。絵も本も書く。闇の組織に狙われてるアマ歴史研究者。在宅お仕事中。

八百八町のお江戸の起源 平安時代の始まりなのか律令時代の余戸郷か

何かこんなご時世でも関係なく、高層ビルが凄い勢いで増えてる東京ですが。あそこは徳川家康により世界最大規模の都市、八百八町の江戸の都が造成されたのは知られた史実ですね。

では家康が江戸を建設する以前、どんな場所だったかというのは、あんまり知らなかったです。そこで古地図やネット情報から調査してみることにしました。

 

○ワタス、助かる

 

 

 

 

徳川家康が統治を始めた江戸

 

江戸 - Wikipedia

 

時は戦国の1590年(天正拾八年)豊臣秀吉に敗れた後北条氏の土地を、徳川家康が統治することになりました。

家康は広大な東国の土地にある候補地の中から、老朽化してオンボロになった、武蔵国江戸城を居城とすることに決めた。当時の江戸城江戸湾東京湾)海域の日比谷入江にぴったりくっついた形でした。今では跡形もないですが、江戸城南東部を含む湾岸エリアはほとんど埋め立てられておらず、海が間近に迫っていたからです。

江戸城の改築工事では建物と周濠がどんどん作られ、豪華で堅牢な城へと生まれ変わって行ったとか。それと同時に小さな城下町には人が集まり、規模が拡大していきました。

関ヶ原の合戦徳川家康が豊臣政権に勝利すると、征夷大将軍となった家康の江戸城には大名屋敷、武家屋敷が大集合し、全国から商人町人が集まって政治と経済をになう大都市へと変貌。明治維新以降の東京へと繋がっていくのでした。

 

 

平安時代に始まった江戸

 

江戸の都は江戸時代からというのは思いがちですが、実は江戸の街は平安時代後期(12世紀)からだったというのは意外なことです。

当初の江戸は武蔵国の豊島郡の領域であって、最初のころはまだ江戸城も無かったとか。

最初に開発に着手したのは桓武平氏の後裔の秩父氏=江戸氏の江戸太郎で、歴史上で最初の江戸城が作られました。

平安後期の江戸の記録は少ないですが、海のそばの隅田川沿いには小さな村があり、これが「和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)」という昔の百科事典みたいな書物で「江戸郷」と記されていたとかいいます。

江戸の由来は河口の地形を意味する江の津だとか、川と港があったから江の港だと言われますが定かではないです。

ちなみに「江戸はえぇど~😅」か何かだと思ってたら違ったようです。

 

グーグルマップ使用 参考:江戸 平川 - Google 検索

 

昔ながらの下町が、いまも東京に残ってますが。最初の江戸郷の場所は、千代田区の平川沿いの、神田駅付近にありました。

ネット検索で当時の集落を調べてみると、東側では神田駅付近にあった千代田村を中心とし、日本橋にあった宝田村や江戸下宿。どれも海に接した集落でした。

日比谷入江の江戸湊(港)沿いでは、本丸前の江戸上宿、江戸前島(銀座付近)にあった老月村、霞が関桜田村、その南方の日比谷村。

江戸城西側では、麹町にあった国府方。

その他江戸では昔から幾つかの港町があり、石浜城と港のあった浅草港、品川湊が代表格です。東京は神田明神だけでなく古くからの神社仏閣も数多いですが、それぞれ小さな門前町もあったと思われます。

初期はどの村も人口数十~数百人の規模であったと見られるので、田舎の田畑と海に接した集落と同様の景色だったようです。

 

気になったのは神田明神は創建が奈良時代ということで、東京でも有数の歴史を持っていますけども。平安時代の江戸の人々も、今と似た神田明神の風景を見ていたようです。

神田のあたりには、お玉が池という池がありました。今は池の姿が見当たらないですが、お玉が池跡の祠が名残をかろうじて留めているとか。

いま首都高速都心環状線の一部取り壊す計画が進んでいますが、その首都高速の真下に日本橋川が流れていますが。あの日本橋川、昔からあるのかと思いきや、平安時代にはなかったようです。15~17世紀に掘削された人工河川だったんですね。それで古地図上にないのは変だなという疑問は解消しました。

 

 

奈良時代以前にあった「余戸郷」が江戸の語源説

 

では平安時代より昔は、江戸はほんとに無かったのだろうかというのは疑問に思った処です。昔というのは奈良時代飛鳥時代古墳時代弥生時代の頃。

 

東京は古墳時代から武蔵国豊島郡なわけですが、「和名抄」を見ると古代の郷名は7つが記録されていました。

日頭、占方、荒墓、湯島、広岡、余戸、駅家

 

豊島郡 (武蔵国) - Wikipedia

今残っている地名は湯島郷だけで、ほかの郷の名前は消失してしまいました。したがってほとんど仮説を立てて今のこの場所のことだろうと言ってるようです。

湯島郷は湯島天神があるところで、神田明神と接し江戸郷からも離れてません。江戸郷には湯島郷が含まれているのだろうかと、考えたりします。

 

しかし何か余戸も捨てがたい気がしました。

余戸は「よど」で今の新宿の淀橋のことだという解釈があるようですが。余戸はなんか、江戸っぽいではないですか。

江戸はその昔、「イェド」だったそうで。エドとイェドじゃ全然印象が違いますね。すると江の津や江の港が語源というのは、なにか違う気がしたもので。

 

江戸 イェド yedo(古訓)

余戸 ヨド  yodo

と比較するとますます似てくるのですよね。江戸の語源は余戸郷説もアリかと思ったところです。あれ、すると「江戸はイェド~😅」で良いのかも。

 

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といった具合で、あの付近の過去の様子がだんだんわかってきました。吉野ヶ里遺跡でもそうでしたが、兎に角陸地の場所はむかし海だったことを前提に見てみると、違った情景に見えてくるようです。

 

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