たっちゃんの古代史とか

誰も知らない日本とユーラシア古代史研究。絵も本も書く。闇の組織に狙われてるアマ歴史研究者。在宅お仕事中。

天海が見定めた「江戸の北の富士山」は日光の男体山だったか

最近も密かに集ストに色んな形でフルボッコにされてますが・・・集団いじめをニタニタ楽しそうにする人が多くて困る。

それで近ごろは解毒、悪意の感情の除去などで精神の健全化を進めています。

その一環で急坂を自転車で登ったり、できるだけ仕事や作業に熱中したり。鍛錬、修行を好んでいます。

それで日々膨大なストレスを受けつつ、精神状態は保っている感じ。

 

○いつも助かっております

 

 

 


天海による富士山の変な話

 

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天海 - Wikipedia

 

そういえば、近頃は明智光秀がテロビのアレの主役だったらしい。見ないけど。

明智光秀といったら、慈眼大師天海だった説は根強いですね。知らんけど。

江戸城の基礎を作ったのは太田道灌だったわけですが、江戸城を拡大して田舎町だった江戸の城下町を大発展させたのが徳川家康でした。

その家康の指南役、教師として、名を馳せた僧侶に、天海という老人がいました。

天海は定説によると会津生まれで、大津の延暦寺、奈良の興福寺、上野寛永寺など各地の住持になった高僧だそうです。

しかし実は老年になるまで、その詳しい足取りは謎だらけだそうな。

それで同年代の明智光秀を示唆する逸話がいくつもあり、昔から比叡山延暦寺などに、明智光秀天海説があったようでした。

彼は誰よりも風水やら陰陽五行説に詳しい人で、その思想を元にして江戸の城と市街地の設計をしたとか。

徳川家康の没後には、家康の霊廟である日光東照宮を造営、家光の時には、天海は高齢ながらも日光山と上野寛永寺の住職となりました。

さて徳川家康から江戸城づくりの命を受けた天海さん。武蔵国の海辺の江戸(東京)で、陰陽五行説の四神相応に基づく都市設計を進めました。

この時に天海は、妙なことを言ってました。

東に隅田川、西に東海道、北に富士山、南に江戸湾があるから、江戸が四神相応にかなう

北に富士山。はて、富士山は江戸城から見たら西のはずなのに、北に富士山?

定説では、富士山を北にあると仮定した話だとか。

「四神相応」とは、東に川が流れ、西に低い山や道が走り、南に湖や海があり、北に高い山がある土地は栄えると考えられたものである。

天海は、東に隅田川、西に東海道、北に富士山、南に江戸湾があったことから、江戸が四神相応にかなうと考えたとされる[1]。

なお、富士山は実際には「北」(真北)から112度ずれているが、天海を始めとする当時の江戸の人々は、富士山をあえて北とみたてて、江戸を四神相応にかなうとみなしたという[1]。

江戸城の大手門の向きが「北」からずれているのも、富士山を「北」とみなしたためだとされる[1]。

天海 - Wikipedia

いやいや、富士山は確かに西にあるんだから、無理矢理に北ということに、する訳ないではないか。

 

 

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江戸の北にある郷土富士

 

この「富士山をむりやり北にした説」は後世の発想なわけで、実際の天海がどう考えたか定かでないです。

個人的には、天海の言葉を見た瞬間に、「あ、郷土富士のことか」と思い付いたので、疲れながらも調査に本腰いれました。

日本には昔から、郷土富士というものがあったのですが。おらが村の富士山みたいなもので、意外とあちこちにあるあるものです。

「一ふじ、二たか、三なすび」と有難がられる縁起ものを地元に置けるとか、地元に富士ができて観光名所になるとかメリットありました。

なにしろ、誰かが富士山に似てるといえば、それが郷土富士になるのだから。全国に昔からあり続け、いまや400を越えるまで、小さな富士山が量産された情況です。

では肝心な江戸の北を見てみる。

埼玉、栃木、茨城ですが、この付近で郷土富士を探すと、意外と数があります。

 

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栃木

・富士山 那須塩原市 497m

・日光富士(男体山日光市 2486m

・富士山 塩谷町 364m

・富士山 日光市 427m

・富士山 鹿沼市 323m

・芳賀富士(大平山)益子町 202m

・中村富士(京路戸山)佐野市 323m

・足利富士 足利市 108m

群馬

・富士山 渋川市 564m

・富士山 桐生市 160m

・榛名富士(榛名山高崎市 1449m

茨城

・真壁富士 桜川市 272m

・富士山 石岡市 152m

埼玉
・富士山 日高市 221m

江戸の北には、たしかに富士山が幾つかあった。ぜんぶ偽物ではあるけど、富士山には違いない。

江戸城の真北には、富士山、富士山、富士山、富士山(ふじやま含む)。

天海が口にした北の富士山とは、これらの1つであっても、解釈としてはおかしくなさそう。なにしろ、小さくてもすべて富士山なのだから。

特に那須塩原の富士山、今市の富士山は、東経線上で江戸城の真北にあたるので、ここらへんは偶然の産物と言いがたいです。

 

しかし天海が言う富士山は、標高100~500mではなく、きっと風水的に大きな影響のある、でっかい山だったろうなと。

で、江戸の北で一番重要視できる郷土富士はどれかなと、考えると。やはり日光東照宮に近い、中禅寺湖の「日光富士(男体山」が相応しいかと。

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男体山 - Wikipedia

 

男体山は標高2486mの、立派な成層火山

周囲は日光国立公園で、華厳の滝があったり戦場ヶ原のトレッキング、中禅寺湖ニジマス釣りなんかも人気があるとか。この山が北の富士山な理由は、幾つか思い付いています。

 

男体山には日光二荒山神社の奥宮があって、山体全体が二荒山神社の境内らしい。男てこっ体。

一方でじつは、二荒山神社の「本宮」があるのは、天海が建てた日光東照宮の真横だったりしていました。

日光東照宮は、江戸のほぼ真北にあたる位置関係なんすよ。つまり、

・江戸の北に日光二荒山神社本宮

日光二荒山神社の奥宮は男体山にあり

・その男体山は日光富士

・後に二荒山神社本宮のよこに日光東照宮建設

・後に日光富士の近くに天海が明智平命名

・後に天海は日光山の住職になる

・天海が日光を選んだのは明智光秀の「明(日)光」を意図したもの

 というわけなので、男体山こと日光富士が、天海と関係し、天海は「北の富士山」とした可能性はあるような感じなのです。

しかも、なにしろ男体山のそばには、天海が作った東照宮と、彼が名付けた明智平明智光秀を短縮した「明光」を意図する、日光があるのだから。

天海は日光富士を北の富士山としたとするなら、後に富士山の近くに日光東照宮を造営したのも頷けるところかと。

 

 

ちなみに明智光秀天海説

 

「鳴かぬなら鳴かせてみせようホトトギス」・・・じゃなくて、「鳴かぬなら◯してしまえ」と物騒な織田信長を、殺害したと伝わる明智光秀。彼が天海本人だとされた理由は、いくつもありました。

比叡山には本能寺の変後に明智光秀が隠れて僧になった記録がある

・天海は江戸に比叡山にならい、上野寛永寺を建てた

・天海が建てた日光東照宮は徳川家の霊廟なのに、関係ないはずの明智光秀の家紋がついた立派な座像がある

・天海は日光東照宮のそばに明智平を名付けた

・天海が日光を選んだのは、明智光秀の「明(日)光」を意図

・天海の尊号は南光坊で、光秀の1字が入る

・天海の院号は智楽院で、明智の1字が入る

明智の「あ」、光秀の「み」で、天(あ)海(み)

 明智光秀・・・日光、南光坊、智楽院、天海

もうなんか、天海は明智光秀本人でも構わない感じがしました。

織田信長が本能寺で殺害された後、天海になって、徳川家康の側近になってるわけです。色々な意味で、得をしたのは家康しかいない。

想像上ですけども、家康が明智光秀を懐柔して、信長暗殺計画を仕込んで、両者は後に江戸で仲良く過ごしたことも、あった鴨。知らんけど。

 

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