たっちゃんの古代史とか

誰も知らない日本とユーラシア古代史研究。絵も本も書く。闇の組織に狙われてるアマ歴史研究者。在宅お仕事中。

上神(かずわ)48号墳(6世紀)の壁画の地図は、倭文(しとり)神社周辺を描いたものだったか

現存する日本最古の地図についてのお話。

この記事は2013年に公開したものを、大幅に加筆して公開しています。

 

○いつも助かっております

 

 

 

 

上神(かずわ)48号墳(6世紀)の壁画

 

現存する日本最古の地図といえば、奈良~平安時代に作られた「大和国京北班田図」や「荘園図」が知られるのです。

しかし鳥取県倉吉市穴沢にある上神48号墳(6世紀)の壁画こそ、真の現存最古だと見られるのだとか。

壁画は6世紀頃のものと推定され、サイズは260×224cm。朱を塗った巨石の表面をみれば、家屋や道路や橋、そして鳥居や樹木などが刻まれてるようです。

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佐原の偉人より

中央に立派な入母屋造のお屋敷、というか社殿が二棟。近くに鳥居マークがあるので、神社ということで間違いなさそう。

右側に丸みを帯びた太鼓橋らしきものがあります。この時代から太鼓橋が掛けられていたのか。川の対岸にも鳥居が見える。

川の湾曲したところの神社を調べると、場所がわかるかも知れません。

樹木のようなものですが、おそらく地形的なものがも含まれていると考えました。山の稜線なのか、谷の凹みかといった感じです。左側には水鳥と小舟の姿。そして線がごちゃごちゃした区画は、集落の道のようです。

 

 

地図中の神社を探してみる

 


鳥取県倉吉市というと、古墳時代律令制時は伯耆(ほうき)国の河村郡久米郡

伯耆国倉吉市付近の延喜式内社を調べてみると。

 

伯耆国式内社一覧 ウィキペディア

倭文神社 湯梨浜町宮内

波波伎神社 倉吉市福庭

倭文神社 倉吉市志津

国坂神社 北栄町国坂

胸形神社 米子市宗像

大神山神社 米子市尾高

伯耆国の式内社一覧 - Wikipedia

古墳のそばにある灘手神社も候補地になる。上神神社(かずわじんじゃ)もあったが、いつから鎮座してるのか不明。

灘手神社(旧天照皇神宮)倉吉市穴沢

上神神社 倉吉市上神

 

探し方を検討すると、

1・上神48号墳を中心に探す

2・グーグルマップに神社の場所を付ける

3・近くに川が流れる場所と、道や地形を元に検討

こんな感じであるかと。では開始。

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まず古墳から離れすぎている、西方の胸形神社と大神山神社は除外してみました。すると候補は地図上の神社に絞られた。

川のそばという観点でいうと、だいたい図上の全てが当てはまるようです。神社のそばの湾曲した道が、川など水辺に沿っている可能性がありそうでした。それで調べていくと、古墳近隣には合致するところがなかったです。

分からないので諦めて適当な記事にまとめようかと思ったのですが。しかし一番離れたところの倭文神社が、なんか怪しいことがわかりました。

 

 

湯梨浜町倭文神社の周辺か

 

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まず当該の地図を180度ひっくり返して見たのです。

すると、周辺道路の形が倭文神社のあたりによく似ていました。おわかり頂けるだろうか?

端っこの真っ直ぐな線は、鳥取を代表する川の天神川だろうという解釈ができました。

水辺の湾曲した道、直線の道、そのあいだの橋の位置関係など、倭文神社周辺とぴったり一致するように見えます。するといまの湯梨浜町の市街地あたりも、詳細に描いてあるようです。

東郷池がやや小さいのは、思い出しながら線を刻んだので、正確性に欠けたことが影響しているのだろうか。誰でも地図を思い出して書くと、サイズや位置関係が狂ってしまうもの。それにしては地図を刻んだ人は、かなり記憶力や方向感覚はよかったようです。グーグルマップも見たこともないのに。

すると樹木のように見えたのは、川や水路と谷の地形だった。倭文神社周辺地図には、東方面の地理まで描いてあると思われます。

 

ところで倭文神社の由来を調べると、こんなふうにあった。

湯梨浜町倭文神社

倭文神社(しとりじんじゃ/しずりじんじゃ)は、鳥取県東伯郡湯梨浜町大字宮内にある神社。式内社伯耆国一宮。旧社格国幣小社で、現在は神社本庁別表神社。境内にある経塚は国の史跡に指定され、出土品は国宝に指定されている。

歴史

機織に携わった氏族である倭文氏が祖神の建葉槌命を祀ったのが起源とされている。ただし、社伝には下照姫命に関するものが多く、大正時代までは下照姫命が主祭神であると考えられていた。社伝によれば、出雲から渡った下照姫命が現在の湯梨浜町宇野に着船し、御冠山に登って現在地に鎮まったという。着船したと伝えられる場所には、下照姫命が化粧を直したという「化粧水」や、腰を掛けたという「お腰掛岩」などが残っている。

創建年代

具体的な創建年代は不明であるが、平安時代初期にあたる大同3年(808年)の医学書『大同類聚方』には「川村郡倭文神主之家所傳方 原者下照姫神方也 中暑小便止 頭痛煩熱 口乾者與之」(原文)という記述があり、これが文献上の初見とされている[1]。

倭文神社 (湯梨浜町) - Wikipedia

建葉槌命を祀った神社だそうですが、元々は下照姫命を祀る神社だったとか。出雲から下照姫命が船でやってきて、現在地に鎮まったという。

古墳の主はおそらく倭文神社に縁がある人物で、下照姫命を拝んでいたのかもしれませぬ。出雲出身なのだろうか。

 

 

現在の地名と合わせてみたら

 

そして古墳のひっくり返した地図全体と、現在の地名を組み合わせることにしました。するとこうなる。

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まず右上のおにぎりみたいなのは、日本海に突き出た長尾鼻という半島の可能性があります。なにしろ形状が完全に一致しているので、間違いないところです。

するとその付近はJR山陰本線青谷駅と周辺市街地です。その南方にいけば、有名な観光地の三徳山投入堂があります。ちなみに投入堂が完成したのは、この古墳より後のことでした。

はじっこの線をつなぐと海岸線になるようです。倭文神社の北方にはお台場公園があり、天神川の対岸は北条です。また倭文神社の南西方向にいけば、天神川のそばに倉吉駅があるといった配置です。

地図上には泊漁港とありますが、これは微妙なところです。

 

おそらく古墳の被葬者は、この地図の範囲を生活圏としていたのでは。それで思い入れのある土地を地図に描いたというわけです。とすると古墳のある場所は描かれてないわけですが、なんでこの場所に埋葬されたのかは謎。

 

といった感じで古代の地図を読み解けました。6世紀以降、1400年も謎だった壁画の正体が、解明できてるのかもしれないと考えると凄くないですか😅。今後も線刻壁画を調査して見ようかと思います。

 

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