古墳石室には色々な絵が描いてある。装飾古墳データベースから引用すると、同心円文。これが最も多く見られるとか。今回は虎塚古墳の石室の壁画についての一考。
(この記事は2013年に書いたものを再考察し、加筆したものです)
○ワタスが助かる
そんな中で、茨城県にある虎塚古墳の壁画は、模様がシンプルではっきりしています。
形状 前方後円墳
年代 7世紀前半
サイズ 56.5m
壁画を見てみると、中央になにか目立つ絵があります。砂時計のような形。これは三角文を合わせたものだとか。
古墳時代の特殊器台だとすると、「うてな」なのかと想像できます。なんでこれを石室の最も目立つ場所に配置するのかは、意味不明。
しかしこの三角形の図形、「実は文字だった」として解するとどうだろう・・・。
ちょっと思いついたのが、昔の漢字。古代中国にヒントがあるようです。
古代の漢字の5が⌛だった
まず漢字の種類をざっと見てみる。すると
甲骨文字
甲骨文字(こうこつもじ)とは、中国・殷(商)時代の遺跡から出土する古代文字。古代中国でおこなわれた占卜を、当時の文字でカメの甲羅やウシの肩甲骨の上に刻みつけて記録したものである。漢字の原初形態であり、現在確認できる漢字の最古の祖形を伝えている。亀甲獣骨文字、甲骨文ともいう。
金文
金文(きんぶん)とは、青銅器の表面に鋳込まれた、あるいは刻まれた文字のこと(「金」はこの場合青銅の意味)。中国の殷・周のものが有名。年代的には甲骨文字の後にあたる。考古学的には、「青銅器銘文」と称されることが多い[1]。また鐘鼎文とも呼ばれる[2]
篆書体
篆書体(てんしょたい、モンゴル語:ᠭᠣᠷ ᠦᠰᠦᠭ᠌[1]、満州語: ᡶᡠᡴᠵᡳᠩᡤᠠ ᡥᡝᡵᡤᡝᠨ[2] 転写:fukjingga hergen)は、漢字やモンゴル文字、満州文字の書体の一種。「篆書」「篆文」ともいう。 Chinese characters logo.svg 漢字 XiaozhuanQinquan.jpg Song ding inscription.jpg 書体 篆刻・毛筆 甲骨文 金文 篆書 古文 隷書 楷書 行書 草書 木版・活版 宋朝体 明朝体 楷書体 字体 構成要素 筆画 筆順 偏旁 六書 部首 標準字体 字様書 石経 康熙字典体(旧字体) 新字体 新字形 国字標準字体 常用字字形表 通用規範漢字表 国字問題 当用・常用漢字 同音の漢字による書きかえ 繁体字(正体字) - 簡体字 漢字廃止・復活 漢字文化圏 日本 朝鮮 ベトナム シンガポール 派生文字 国字 方言字 則天文字 仮名 古壮字 字喃 女書 契丹文字 女真文字 西夏文字 →字音 広義には秦代より前に使用されていた書体全てを指すが、一般的には周末の金文を起源として、戦国時代に発達して整理され、公式書体とされた小篆とそれに関係する書体を指す。 公式書体としての歴史は極めて短かったが、現在でも印章などに用いられることが多く、「古代文字」に分類される書体の中では最も息が長い。
時代によって、字体が全然違ってるのです。
漢数字も同じでした。中国の基本漢数字書体一覧が下記のサイトにあります。
数学史5-2 ~紀元前の中国(数字)~ | Fukusukeの数学めも
ここから漢字の「五」を調べてみると、
これ⌛
つまり虎塚古墳石室の真ん中にある砂時計は、漢数字の「五」の旧字体ということになるんでは?と考えてみました。
「学研漢和大字典」によれば、上古音・中古音・漢音・呉音でもいずれも「ゴ」だった。現代中国人が、5を「ウー」と読むのは、中世以降のことです。
つまりこの古墳の砂時計状記号の読み方は、「ゴ」かもしれないなと思うのですが。
古墳時代にゴと言えば呉なのでは・・・
古代の古墳時代、倭人がゴと言ったら、三国志の「呉」かと思いました。大陸の、いまの中国の上海など沿海部が歴史上で呉越の地域でした。沖縄や長崎からは目と鼻の先だったりします。
もし虎塚古墳の壁画の中央が「五=呉」ならば?被葬者が呉を出身とするか、祖先を呉人とする人物がこの場所に葬られたのかもですが、
それで石室の最も目立つ中心部に、五を表したということかもしれませんよ。
旧字体が用いられているのは、倭人が漢字の旧字体を僅かに知っていたからとなりそうです。七世紀前半といえば古事記の成立より昔のこと。
輪っか2つで和珥(わに)氏なのか
その下の輪っか2つは意味不明で、真っ赤な太陽崇拝でもしてるのかと思いましたが。しかし輪っかが2つ・・・
輪2→わに→和珥氏?かもしれないと想像しました。
それで和珥氏が茨城県にいたかどうか、調べてみました。すると和珥氏の本拠地の一つが、茨城県鹿嶋市鰐川流域であると判明したじゃないですか。むむむ・・・。
つまり虎塚古墳は呉を始祖として崇める、和迩氏の系統の被葬者かもしれないという想像ができたのですが。
和迩氏とは孝昭天皇の長男である天足彦国押人命が始祖と言ってるのですが、実は和迩氏は渡来系という話しは実しやかです。ネット検索でも色々出てきます。和迩は中国の「王(ワン)」が転訛して和迩になったという話しがあります。
そう言えば昔応神天皇のとき、王仁(わに)という人物が百済から来て、千の漢字をもたらしたとか。この人はひょっとすると山東半島の琅邪王氏で、王姓だったようです。
虎は大陸にしかいないのに、日本で虎塚なのは
この記事で、虎塚古墳の被葬者は大陸系であるというと、ちょっと訝しい感じで見る人もいるかもしれません。だからもう少し被葬者が大陸系であることの理由を述べます。
この古墳は昔から虎塚と呼ばれたのです。御存知の通り、虎というのは日本列島の自然界には存在しない肉食動物。
いま虎が生息している日本から最も近い場所は、ロシア極東のアムール川のあたり、ここにアムールトラがいたりします。この種は、昔は朝鮮半島にも生息していました。中国南方にもインドシナトラがいます。
だから昔の日本では「虎といえば大陸」でした。これ念頭におきます。
そして「虎(とら)」といえば四神に対応させると白虎のことで、色は白、方位は西を表してるのですね。要するに西の大陸から来た人々が葬られたから虎塚。
しかも古墳の絵文字が「五=呉」であるといったことになれば、虎塚古墳の被葬者が大陸系(呉系)和迩氏あることを表していると、そういう風に考えることができてしまったというわけでした。
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全国の装飾古墳には同様に、現時点では絵として認識されている文字が、他にもあるかもしれませんよ。
おわり
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