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豊城入彦命の神社と毛野氏の勢力範囲の謎
豊城入彦命の真の古墳を特定する前に、豊城入彦命と毛野氏の勢力範囲についての一考を挟みます。
右の図は関東地方における、豊城入彦命を主祭神とする神社、配祀する神社と、豊城入彦命にまつわる伝承を保存する神社、それに豊城入彦命の御陵候補地70社余りを、調査して取り上げた図面になります。参考にさせて頂いたのは「玄松子の記憶」、「栃木県の神社」、「延喜式神社の調査」」、「神社人」などのサイトになります。ちなみに本書の最後に付録として、関東地方で豊城入彦命を祭神とする神社のリストを載せておくので、研究に利用してください。
河川の情報は『日本史年表・地図』などを用い、古代の主要河川のみ描いています。
祭神が豊城入彦命の神社の分布を見ると、上野国(こうずけのくに)(上毛野国)=群馬県と、下野国(しもつけのくに)(下毛野国)=栃木県に多いのは頷けます。従来より両毛と呼ばれた群馬・栃木両県が、毛野氏の中心地と位置づけられてきたからです。
しかしどうも、武蔵国(埼玉県・東京都・神奈川北東部を合わせた地域)や常陸国(茨城県)でも、かなり広く祭神とされていることが分かってきます。と記していましたら耳元に蚊が寄ってきましたが、蚊よりもずっと気になります。
これは豊城入彦命が存命したより後の時代、勧請・分祀されて祀られ、創建されたものも含まれることは確実です。たとえば埼玉県入間市木蓮寺の桂川神社の祭神は豊城入彦命であるが、江戸時代に徳川家忠が群馬の赤城神社から勧請したのが始まりだという話にあるが如くに。このリストには、近世になってからの新しい神社も含まれていることになります。
もう一つの見方としては、埼玉県北部と茨城県の西部に色濃く、豊城入彦命の関連地があるのは、豊城入彦命と毛野氏の領域が、従来考えられるよりもずっと広かった事実を意味し、この分布図が証明するのだと考えられます。
地図上には含めていませんが、福島県にも豊城入彦命を祀る神社が3か所あります。この豊城入彦命の神社の分布と、豊城入彦命の御陵としての伝承の残る神社、そして筆者が豊城入彦命の古墳の候補として取り上げた古墳分布とは、よく重なっているのが見て取れます。
これら豊城入彦命を祭神とする神社の中でも、宇都宮二荒山神社の存在は特別なものです。その理由をこれから明らかとします。
宇都宮二荒山(ふたあらやま)神社は豊城入彦命の本拠地だった
栃木県宇都宮市。人口51万人を擁する中核市で、北関東の中心となる都市です。
近代的な商業施設の立ち並ぶ中心市街地に建つ、大きな朱の鳥居。その鳥居の後背地、石畳の広場の向こう側に、ひときわ存在感を醸し出す深緑に囲まれた、高台の石階段を臨むことができます。
昇るのも一苦労なほどの急勾配な石階段を上がった先に鎮座する神社が、豊城入彦命を主祭神とする宇都宮二荒山神社です。
宇都宮二荒山神社サイトの「神社の起源」によれば、その起源は第十代崇神天皇の頃に遡るとあります。第十六代仁徳天皇の時、毛野国が上下2つに分けられ、豊城入彦命の4世孫の奈良別王(ならわけのきみ)が下野国の国造(くにのみやつこ)に命じられました。この時に荒尾崎の下之宮(宇都宮パルコの西側、現二荒山神社前の大通りの向こう側)に豊城入彦命を祀ったのが始まりで、その後838年に現在地「臼ヶ峰」に遷座されたとのこと。
他の資料を調べると、豊城入彦命は最初、現二荒山神社本殿のある臼ヶ峰に祀られ、その後奈良別命により下之宮の場所に祀られ、838年に現在地に還座したとか。
宇都宮の町は、二荒山神社の門前町として発展したのは知る人ぞ知る話で、二荒山神社こそが古代宇都宮の中心地でした。二荒山神社が、元は豊城入彦命の活動の拠点だったとして相応しい状況を感じ取れます。
二荒山神社は、単純に豊城入彦命の霊魂を祀っているだけではありません。
実は豊城入彦命の「宮殿(拠点)が宇都宮二荒山神社だった」ことを証明する社伝が、宇都宮市内に存在していると判明しました。
先程も紹介した「栃木県の神社」サイトに再びお世話になります。宇都宮市逆面町の白山神社の情報を分析してみます。それによると、この神社では「天下一関白流神獅子(逆面獅子舞)」という獅子舞が、徳川家康の頃より続いているそうです。紹介されている白山神社の写真を閲覧していると、何やら祭神は菊理姫命で、一見して豊城入彦命には無関係なようでしたが、文章を読み進めて行ってみると、これは二荒山神社が豊城入彦命の宮殿だったことを証明する、第一級の手がかりだと確信しました。神社の由緒には、以下のように書いてあったからです。
「白山神社」
祭神 菊理姫命(くくりひめのみこと)
天照大神の御母伊弉冉命(あまてらすおおみかみのおんははいざなみのみこと)
神皇 国常立命(くにとこたちのみこと)の娘
本社は加賀の国一の宮白山比咩(しらやまひめ)神社です。
今から二千年前第十代崇神天皇の第一皇子豊城入彦命は、東国治定のため数多(あまた)の将兵と千人の従者をひきいて、宇都宮に下向され上野国、下野国を統治されました。
従者は各地に分散して集落をつくり農耕を始め、加賀から来た人たちは郷里の白山神社を祀って鎮守の杜(もり)としました。
昭和五十七年十月・・・・・・
豊城入彦命は「宇都宮に下向され上野国、下野国を統治されました」・・・つまり豊城入彦命が、西の崇神天皇の都を出て、上野国・下野国を統治する拠点とした土地は、宇都宮だった、と白山神社は伝えていたのです。
『日本書紀』(岩波文庫)の崇神紀には「兄(このかみ)(豊城入彦命)は一片(ひとかた)に東(ひむがし)に向けり。当(まさ)に東(あづま)国(のくに)を治(し)らむ」、「豊城命を以(も)て東(あづまのくに)を治(をさ)めしむ。是(これ)上毛野(かみつけのの)君(きみ)・下毛野(しもつけのの)君(きみ)の始祖(はじめのおや)なり」とあるのみで、具体的に宇都宮という地名は出てきません。しかし逆面町白山神社の由緒書きを元にすれば、毛野国を統治した本拠、宮殿の場所とは、豊城入彦命を祀る神社の中でもひときわ立派な、宇都宮二荒山神社であることで相違ないと捉えられます。
宇都宮の由来が「東宮(あづまのみや)」の転訛で「あづまのみや→あづのみや→うづのみや」であるとしたら、土地の名が『日本書紀』にあったことになります。それに宇都宮の「宮」とは、本来豊城入彦命の宮城を表したものと計り知れます。
豊城入彦命を祭神とする神社の中で、ひときわ立派で重要であることが分かった宇都宮二荒山神社ですが、この神社が「豊城入彦命の御陵の位置を特定する情報を保持している」としたら、信じられますか。
つづく
・パート6
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