たっちゃんの古代史とか

誰も知らない日本とユーラシア古代史研究。絵も本も書く。闇の組織に狙われてるアマ歴史研究者。在宅勤務の自営業。

電子書籍化する予定の「前方後円墳矢印説」の冒頭部分 part4 豊城入彦命の御陵の候補地を探る

パート1

パート2

パート3

の続き。

 

ここから内容を幾つか、前方後円墳の新事実を小出しにしていきたいと思います。

ただ電子書籍にする予定なので、ここで全ての公開はできませんけれど。

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4・私的調査の結果

  

豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)の御陵の候補地を探る

 

豊城入彦命は『日本書紀』によれば、第十代崇神天皇の皇子で、垂仁天皇の異母弟。崇神天皇から東国を治めよと命じられ、関東地方へ赴き毛野氏の祖となりました。

『明解国語辞典』(三省堂)によると、「豊」は「物事が充分で満ち足りている様を褒め称えて言う言葉」、「豊年、豊作」とあります。「豊城入彦」とは豊かな城(地)に入る男という縁起の良い意味を込められたとして、間違ってはいないようです。

豊城入彦命の存命した時代については諸説存在しており、はっきりした年代が特定されていません。

豊城入彦命の親である崇神天皇の実在年代についても、紀元前から4世紀まで幅広く諸説あります。私見としては『魏志倭人伝』と『日本書紀崇神天皇条の内容は、話の展開がほぼ同一だと見ています。従って女王卑弥呼・女王壱与(いよ)と、崇神天皇は、まったく同じ時代の統治者とします。ちなみに著者であるわたくし、「卑弥呼と壱与が、崇神天皇と同一の存在である」と捉えています。この点については『封印された叡(えい)智(ち)の回復』第2巻で、崇神天皇卑弥呼と壱与の習合された天皇であることを証明しているのでご覧頂ください。或いは既存の拙著『崇神天皇に封印された卑弥呼と壱与』、『日本の地名の真の由来と神武東征のカラクリ仕掛け(上・下)』(電子書籍)にも同様にあるのでご覧いただきたい。

以上の理由から、豊城入彦命が生きていた年代は、女王壱与の時代である3世紀後半から、壱与の逝去後の4世紀の初頭までの範囲と捉えています。

 

お茶を入れつつ、豊城入彦命の時代はいつだったろうと考えを巡らせ、真の御陵の候補となる古墳の条件とは、何かと考えました。

一・豊城入彦命の守備範囲=北関東を中心とする毛野氏の地域に所在すること。毛野氏の地域は、一般的には北関東の下野国(栃木県)の南部、上野国群馬県)の両県を中心とした地域とされます。上野国下野国は元は上毛野国、下毛野国であり、鬼怒川(衣川)は毛野川と言われています。古墳の形状や出土遺物などから、常陸国茨城県)の筑波山麓、武蔵国(埼玉県)の北西部も毛野氏の領域に含まれるとされます。

毛野国の位置を特定する方法としては従来の伝承のほか、神社の祭神や社伝を調べることでもある程度把握が可能です。

一・崇神天皇の在位年代を3世紀とする場合、葬られて築造された古墳は、3世紀末葉から4世紀初頭の築造になること。

一・豊城入彦命の伝承等が残る地域であること。

一・権力者に相応しい規模を持つ古墳であること。

一・尚且つその古墳の中心軸の延長線が、豊城入彦命の関連地を示すこと。

 

これらの条件を満たす古墳を、つぶさに探索すればよいのです。しかも豊城入彦命の御陵の場所を知るには、神社の伝承が重要な地位を占めています。豊城入彦命が、ほんとうに眠っている御陵は、一体何処にあるのだろうか。取材班(私)は北関東に活路を求めることにします。

調査する古墳は、関東地方で、豊城入彦命の伝承があること、古い年代の古墳であり、それなりの規模を誇るといった条件を満たす古墳はかなり絞られ、候補地が幾つか浮上しました。

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まず豊城入彦命の御陵としての伝承や、関連経緯を持つ古墳を調べると、以下の通り。

(古墳名 全長 所在地 年代)

(a)丸山古墳 55m 茨城県石岡市 5世紀初頭

(b)総社二子山古墳 90m  群馬県前橋市 6世紀後半

(c)前二子古墳 94m 群馬県前橋市 6世紀初頭

(d)郷見神社裏山古墳 群馬県高崎市 古墳時代

 

次に豊城入彦命が3世紀中頃~4世紀初頭の人物と仮定した場合、豊城入彦命の推定没年「4世紀初頭前後」に合致する北関東の古墳。

(e)鷺山(さぎやま)古墳 60m 埼玉県本庄市 3世紀後半~4世紀初頭(4世紀中庸)

(f)八幡山古墳 129m 群馬県前橋市 4世紀前半~中頃

(g)三王山南塚1号墳 46m 栃木県下野市 4世紀初頭

(h)三王山南塚2号墳 50m 栃木県下(しも)野(つけ)市 3世紀末

 

(a)石岡市の丸山古墳は豊城入彦命の奥津城(おくつき/御陵)として伝えられてきました。実際には前方後方墳であり、築造年代が5世紀初頭と、崇神天皇からはかなり遅れているのが明らかです。しかし丸山古墳からは重要な情報を導き出せているので、その調査結果は後ほどご紹介します。

(b)前橋市総社町植野にある総社二子山古墳は、豊城入彦命の葬られた前方後円墳と言われてきました。『東国大豪族の威勢・大室古墳群(群馬)』シリーズ「遺跡を学ぶ」(前原豊著)によると、明治時代の1871年からの陵墓の全国調査の折、1874年に教部省により、豊城入彦命の御陵と認められた経緯があるようです。しかし総社二子山古墳の場合には、近年までに6世紀後半頃に造られたとの調査結果が出ていて、豊城入彦命の時代には1ミリもかすりもしません。

(c)前二子古墳は、群馬県前橋市の大室古墳群に所属しています。群馬県では明治初期に豊城入彦命の御陵の探索が行われており、明治11年(1878年)に一旦は群馬県により豊城入彦命陵と決定されますが、その後すぐに証拠不十分として却下されたとの経緯があるようです(ウィキペディアより)。実際のところ築造年代も6世紀初頭であり、豊城入彦命の時代とはかけ離れています。

(d)高崎市下里見町の郷見神社の裏山にある古墳には正式名称が無いらしく、(仮称)郷見神社裏山古墳とします。この郷見神社では、裏山の古墳が豊城入彦命墓所であるとの古文書が、代々の墓守である富沢氏に伝えられて来たとの話です。しかし明治時代の段階で既に現存せず。明治時代に豊城入彦命の御陵と名乗り出るも、古文書が存在しないために、明治政府に却下された過去があるそうです(ウィキペディアより)。現地の郷見神社の看板にも「古くは豊城入彦命の陵墓と伝えられ・・・」と書いてあるそうです。古墳時代の円墳であると見られる以外は、まったく手がかりが掴めません。

(e)本庄市の鷺山古墳の土地は毛野氏の領域であり、規模も年代も十分整合します。しかし前方向法則(前方後円墳矢印説)で調査してみた結果、豊城入彦命の名前に関連する情報が特に見つからないのでした。

(f)前橋市八幡山古墳は全長129メートルの立派な前方後方墳。毛野氏領域ではかなり大型で初期の古墳。豊城入彦命の死没時の時代に近いと言えますが、若干遅く感じます。

 

というわけで、残ったのは栃木県下野市の、(g)三王山南塚1号墳、(h)三王南塚2号墳の2基となります。

「え、じゃ下野市の三王山って、豊城入彦命の伝承が残ってるの?」という質問があれば、ひとまずは「ない」としか答えられません。

過去に豊城入彦命の御陵とされたことも、伝承も無いのに、突然呼ばれて飛び出て豊城入彦命候補となった、栃木県下野市の三王山1号墳と2号墳。

果たして、この古墳に封印されていた叡智とは、如何なるものか。

 

つづく

 ・パート5

 

 
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