ずっとおもちゃにされて、世界がおもちゃなことにも気づいたので、人生くだらねーという感じでいっぱいなので、出来るだけ好きなように生きたいというか、好きなように終わりたいです。
○いつも助かっております
赤城山の神
びゅーっと平野部に赤城おろしが吹く赤城山は巨大な火山で、上毛三山や日本百名山にも入る屈指の山だとか。
この山は全国に300社ある、赤城神社の総本社がある山だったりします。その本社は赤城山てっぺんの大洞赤城神社など複数の説があるようですが、いまだ確定せず。
赤城神社は赤城山そのものを御神体としてますが、それぞれの赤城神社では祭神が違ってたりするようです。
大洞赤城神社
赤城大明神、大国主命、磐筒男神、磐筒女神、経津主神、豊城入彦命
三夜沢赤城神社
豊城入彦命、大己貴尊
これ見ると、崇神天皇の子で、3世紀後半以降に関東を治めた豊城入彦命、国土開拓や医療の神である大国主神(別名大己貴/おおなむじ)。この二方が確実に入っているようです。
で、ここに赤城大明神という謎の神が含まれていました。この神は記紀神話には登場しないので、神奈備である赤城山そのものを神格化したという見方ができます。
しかしどうも赤城大明神の正体を考えていくと、赤城山の大蛇と同一なのだろうかとの疑念は消えませんでした。
赤城山の神話の大蛇
むかしから赤城山では、こんな神話があったりした。
日光市・男体山の北西麓の戦場ヶ原には、男体山の神と赤城山の神がそれぞれ大蛇と大ムカデになって戦い、男体山の神が勝利をおさめた、という伝説がある。
赤城山の北にある老神温泉の地名は、このとき落ち延びた神が追われてやってきたことに由来するといわれ、「アカギ」という山名も神が流した血で赤く染まったことから「赤き」が転じたという説もある。
戦場ヶ原で負けた赤城山の神は老神温泉で傷を癒した後に男体山の神を追い返したという。
また、開湯伝説では、赤城山の神が大蛇、男体山の神が大ムカデとなっており、大蛇が勝利したという説になっている。
「戦場ヶ原神戦譚」には、地名の由来となった伝説が記されている。すなわちこの湿原は、当時下野国(現在の栃木県)の二荒神(二荒山(男体山))と上野国(ほぼ現在の群馬県)の赤城神(赤城山)がそれぞれ大蛇(男体山)と大ムカデ(赤城山)に化けて戦った戦場であるというもの。なお、争いの原因は中禅寺湖を巡る領地争いで、この伝説で勝ったのは二荒神(男体山)であったとされる[1]。
神話によると日光の戦場ヶ原で、大蛇と大百足が戦ったとか。赤城山の神が大蛇なのか大百足なのか、はっきりしないところですが。
「戦場ヶ原神戦譚」という書物では、二荒神と呼ばれた男体山が勝ったとか。この男体山の二荒山神社は、大巳貴命(大国主)を祀っているところです。
大ムカデがいなくなった赤城山。赤城神社の祭神となっているのは、大国主神で、別名として大物主神と記されてるのです。
この大物主が蛇神であるとは、「日本書紀」を読むとわかることです。
ちなみに蛇というのは昔、おろち、はば、とか呼びましたが、かが、かがちという呼び名があったりしました。
a-ka-gi(赤城)
a-ka-ki
ka-ga(かが)
ka-ga-chi(かがち)
カガチというのは、赤いほおずきの意味も持っているので、赤い蛇みたいな意味合いになるかと。
そうするとどうして赤城山が赤で、大蛇なのかという理由もわかってくる気がしました。本来は神話の赤い大蛇を、赤城という名で示したのが、いつしか風化したんだろうかと。
しかし赤城山の名前の由来は、大蛇だけでは語れないのです。ここには当時の統治者の出自が大きく関係しました。
むかし赤は紅色、くれない、緋色などと呼びました。赤というのは沈む夕日の色で、太陽神天照大神をあらわす色でした。
日の神こと天照大神の子孫が日向三代、その先に神武天皇がいて、21世紀までその系譜が続いているというわけなのですが。
「日本書紀」を見ると、崇神天皇は倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめ)に、大物主神を祀らせることで、百姓の反乱と疫病を治めたとか。
大物主=大国主は古代ギリシア神話のアスクレピオスに繋がる、蛇を司る医療神であったので、疫病を沈めるには必要だったんすね。
この「日本書紀」の記述が、「魏志倭人伝」における倭国大乱の、卑弥呼の祭祀を表したと、考えることもできます。
個人的な発想でいうなら、卑弥呼が男装して崇神天皇、卑弥呼が巫女の姿になって、倭迹迹日百襲姫命を演じ、大物主を祀ったと想像しますが。
何しろ赤城神社の祭神である豊城入彦命の親は、崇神天皇なので。
「日本書紀」では、崇神天皇が豊城入彦に東国(関東)を治めよと指示したわけで、上野(こうずけ)国(群馬)に豊城入彦が入って赤城神社が創始されたのも、崇神天皇の意向が関与していたんだろうなと。
だから豊城入彦が赤城山に、崇神天皇の名を刻んでもおかしくないです。古代の天皇絶対主義みたいな時代を考慮すれば。
そして崇神天皇の諡号を見ると、赤城山との関係が見えてくるのですよね。
崇神天皇の謚号は、御間城入彦五十瓊殖(みまきいりひこいにえ)とあるのですが。
「瓊」とは、赤い玉の意味を持っている漢字だったりします。
名に赤い玉、城、を持つわけなので、赤城とは崇神天皇の名前を意図したものかもしれないと、想像がつくところ。
さらにさらに。
御間城の名前が、どうも赤城そのものだったようです。
御間城(みまき)
おかぎ
あかぎ
赤城
御を「お」と読み、それを読み替えて赤城と命名してるのではなかろうかと。
つまり赤城山とは、御間城山の名を元にしたもので、豊城入彦命による命名だったのではないかと。
崇神という後の漢風謚号も、なにか関係してました。これは8世紀に淡海三船が選び出した漢字でしたが、なぜか赤城山と関係してるようです。
崇は「あが」で、「あか」にも似た読み方。赤城は崇城(あがぎ)にしてもしっくりくるじゃないすか。
そうすると赤城山の大蛇とは、崇神天皇が祀った大物主神であり、赤城とは崇神天皇のことであろうという想像が付くわけです。
そうすると、「日本書紀」で崇神天皇が大物主神を祀った出来事が、そのまま赤城山の名前に対応してるわけです。
大蛇対大ムカデの神話は、崇神天皇の軍勢(豊城入彦命)と、それより以前から赤城山にいた土着勢力・大百足が敵対した出来事を表しているのかと。
こうして古代の情報を元にすると、こんな結論に至ってしまいました。
まぁ当たりかわからんですが、想像を巡らすことで、未知の真相に近づくのは確かなのでは。