たっちゃんの古代史とか

誰も知らない日本とユーラシア古代史研究。絵も本も書く。闇の組織に狙われてるアマ歴史研究者。在宅お仕事中。

電子書籍化する予定の「前方後円墳矢印説」の冒頭部分 part8

中途半端なのもどうかと思うので、豊城入彦命の古墳については最後まで掲載することにしました。

パート1

パート2

パート3

パート4

パート5

パート6

パート7

 

○いつも助かっております

 

 

豊城入彦命御陵候補地、三王山南塚1号墳の正確な方向を求める

 

そんな風雲急を告げる中で、下野市役所文化財課から『南河内町史 資料編1 考古』の測量図を提供していただきました。

 

当初、三王山南塚1号・2号墳の「分布図」と「測量図」の方位をそのまま元にして、古墳の中心軸を求めて延長線上を調査していました。しかしあまりにも関連地名が少なかったので、おかしいなと首をひねりすぎ、それなりに痛めておりました。

測量図は研究に大いに役だったのですが、どうも先ほど紹介した「五十瓊敷入彦命墓平面図」と同じように、測量図の中の古墳の方位には、ズレがあるのではないかと気づき始めました。

そこで以下では、三王山南塚1号・2号墳の、より正確な方位と古墳の向き・中心軸を求めた上で、具体的な調査へと進めています。

 

  1. 南河内町史」の「分布図」を提供されたが、何かおかしい。記載してある古墳の方角が違っているのではないかとの疑惑浮上。
  2. 地理院地図」の近隣道路の形と、「分布図」を照らし合わせると、「分布図」の方位は合っている様子であった。
  3. もう一枚の「測量図」を見ると、古墳の方向と、方位針の方角が、間違っていることが判明する。
  4. それを元にして「分布図」上の、古墳の正しい方角と方位を求めた。
  5. 後に、下野市役所文化財課より、やや方位が修正されている分布図・測量図を提供して頂いたが、やはり多少のズレがあったので、使うことができなかった。
  6. 当初の「南河内町史」に掲載してある測量図でないと、ほかの研究者が現状と見比べることができないと判断し、従来通り「南河内町史」の測量図を用いた。

 

三王山南塚1号墳の調査結果は豊城入彦命陵に相応しい結果

 

まずは三王山1号墳の調査結果です。1号墳は4世紀初頭の築造で、『南河内町史』では前方後方と判断されています。4世紀初頭という年代は、豊城入彦命の没した年代を考えると十分に有り得る範囲と言えます。掲載している測量図は、前述の通りにできる限り正確に修正した方位を使用しています。

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まず「前方向法則(前方後円墳の方向法則)」では、前方後円墳の中心軸を測り、線を引きます。それがすべての基本線となっており、中心軸を延長した先に、古墳の被葬者に関連する地名が複数箇所存在していることで、被葬者の特定に繋がっていくのです。

三王山南塚1号墳の中心軸の延長線上では、豊城入彦命の名に合致する地名が、想像を超えてずらりと並んでいました。

まず重要なポイントである大きな地名を見ていきます。

 

中心軸からの線は、「豊」を持つ遠江国静岡県)の豊田郡を通過していたと判明しました。豊田郡は現在の浜松市天竜区の、天竜川の流れる山岳地に所在した古郡名です。

ラインの南西の最終地点に紀伊国がありますが、「とよきいりびこ」は「きい(紀伊)」の名を持つ人物であることにお気づきでしたか。(とよ「きい」りびこ)だから、古墳は紀伊方面に向けられていると考えられます。そういったダジャレの要素がソコカシコに取り入れられているのは、おそらく日本古来の伝統なのかもしれません。

北東の最終地点では陸奥国福島県いわき市)の石城郡・石城国造の場所を示しており、これは諡号の「城」を表します。石城郡の付近は奈良時代に一時的に石城国がありました。この付近は豊城入彦命の時代から、石城という地名だったかもしれません。いわき市の夏井川の南方にある豊間村は古くからの村名です。また、線上の最東端のいわき市内に、豊向という地名がありました。これは「豊城入彦命の御陵の向かう先」を意味しているとしたら辻褄が合うようです。

静岡県浜名湖と隣接する猪鼻湖付近には、本城山という山があり、城の名を含みます。

静岡県豊橋市は、明治2年(1869年)6月の版籍奉還により、吉田から豊橋に改称したので、直接的の関係はありませんでした。豊橋の豊とは、豊橋平野を流れる豊川に由来しているのが通説で、この豊もまた豊城入彦命の名に合致しています。

 

豊橋市豊清(ほうせい)に、豊清神社があります。名の由来と祭神は不明でしたが、伊勢市伊勢神宮豊受大神宮(外宮)の摂社清野井庭(きよのいば)神社の「豊」「清」を併せ持っており、豊清神社では本来は豊受大神を祀っていたかもしれません。しかし豊城入彦命の情報が込められた線上に、寸分も狂わず位置することから、豊清神社は本来「豊城神社」であり、漢字が一字変わって豊清神社になった可能性は捨て去れません。

三王山南塚が豊城入彦命の御陵とした場合、「豊」地名が9地点、「城」地名が8地点合致することになります。

「入」は常陸国茨城県常陸大宮市)の入本郷、栃木県茂木町の入郷、それに浜名湖畔の本城山の南方にある入出など、4地点が挙げられます。

利根川の流れを横目に見る、埼玉県羽生市常木。羽生スカイスポーツ公園に隣接する常木神社の祭神は、調査してもわかりませんでした。しかしこれについても「豊城神社」がいつしか常木神社に転訛していておかしくないようです。羽生市の付近は、豊城入彦命を祭神とする神社の集積地に含まれているからです。

武蔵国(埼玉県比企郡)の都幾(とき)川は、豊城を「とき」と呼んだ音に思われます。7~8世紀に創建された、都幾山の東山麓に所在する慈光寺の山号が、都幾山であることが、この山名と河川名の由来という話です。三王山南塚1号墳は、この都畿川方面を通過することを想定していました。一方で都幾川の語源については、「清めることを意味する「斎(とき)」から来ていると考えられている」(埼玉県立川の博物館 『かわはくNo.29、2007年7月号』、ウィキペディアより)という情報もありました。何はともあれ、都畿川は元々「豊城川」であったという連想も可能です。

 

こうした豊城入彦命の名に関係する地名が、幾つも並んでいるという結果が出たことにより、三王山南塚1号墳が豊城入彦命の真の御陵であることが示されていると考えられました。おそらくもう少し気合を入れて探索すれば、さらに多くの関連地名が見つけ出せますが、全身に乳酸が溜まって疲労困憊なせいか、気合が足りませんでした。

4世紀初頭という古墳の築造年代は、私が最初に考えていた豊城入彦命の死没年代に合致しています。妹の豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)の陵墓が、奈良盆地のホケノ山古墳(3世紀半ば)であるならば、兄妹の時代はある程度整合していますし、崇神天皇の時代(壱与の時代)とも一致します。その場合、豊鍬入姫命はかなり短命だったことになります。

全長46メートルという規模は、天皇の第一皇子としては、若干の物足りなさを感じます。しかしながら中心軸の延長線上の地名の羅列、毛野氏の地理的な位置、豊城入彦命の神社の分布、古墳年代、二荒山神社の社殿と参道の先に所在することなど複合的に考慮すると、豊城入彦命の御陵の候補地として相応しいと考えます。その場合これらの地名は、豊城入彦命の名に関係する方向に中心軸を向け、造営と共に新規に地名を付けていったと考えられます。 

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或いは三王山南塚2号墳が豊城入彦命陵か

 
隣接している三王山南塚2号墳からも、豊城入彦命の情報を取り出すことができました。2号墳は3世紀末に築造された全長50メートルの古墳です。『南河内町史』の「周辺図」からは、元は前方後方墳であったとの知られざる情報を得られます。しかし纏向型の前方後円のようでもあり、東側にある出っ張りは造り出しのようにも見えます。後円部に造り出しがあるケースは、近隣にある行田市の埼玉古墳群の稲荷山古墳でも確認できます。

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中心軸を測り線を延長していくと、大きな地名では東北端に陸奥国から一時期独立した、石城国の名が挙げられます。この名は石城郡の名同様であり、この地域は豊城入彦命が存命中から「石城」だったと想像するばかりです。

関東では武蔵国(埼玉県)入間郡入間川に当たりました。これらにより名の「入」を表しています。ちなみに現在の荒川の川越~東京区間は、古代には入間川に含まれていた区間でした。川口市より東南の荒川放水路は、大正時代~昭和初期に掘削された人工河川です。現在のさいたま市岩槻区を流れる元荒川が、古代の荒川の本流でした。

延長した線が、4つの城山を通過していたことも、偶然には感じられない興味深い結果です。最南端には伊豆半島の真城(さなぎ)山。中世以前の謎の城砦跡があると言われますが、豊城入彦命の「城」を元にしているのかもしれません。

こちらは「豊」地名は少なく、北端に豊前・豊後という大分県地域の名を冠する地名が2つあるだけでした。「城」は4地点。「入」は6地点。全体として1号墳よりも関連地名が少ないようでした。

とはいえ、1号墳、2号墳の延長した線上では、いずれも豊城入彦命の情報を数多く残していたことになります。僅かでもずれると、豊城入彦命の関連地名が出てこなくなるので、この結果は無視できないと言えます。どちらも豊城入彦命の御陵候補地に成り得ると考えます。かた一方は豊城入彦命の奥方か親族の古墳としてもおかしくなさそうですし、2つともが、豊城入彦命墓所兼記念碑としての意味合いがあるかもしれません。

そして三王山南塚1号・2号墳のいずれか、あるは両方が、豊城入彦命の御陵であることを示唆する古代の情報源は、他にもありました。

 

つづく。次回で最後。

パート9

 

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