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たっちゃんの古代史とか

誰も知らない日本とユーラシア古代史研究。絵も本も書く。闇の組織に狙われてるアマ歴史研究者。在宅勤務の自営業。

電子書籍化する予定の「前方後円墳矢印説」の冒頭部分 part2

ということで前回の続き。

前回

電子書籍化する予定の「前方後円墳矢印説」の冒頭部分 part1

 

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2・井上氏による「前方向法則」の把握

 

前方後円墳が、被葬者を特定する矢印の意味を持っている真相を解き明かしたのが、井上赳夫(たけお)氏の著書『増補・日本古代史の謎は解けた!』でした。

この本は前方後円墳の真実を知るために、必要不可欠の本となりました。しかしながら、1987年以前の考古学的・歴史学的な知識を元にしているので、新しい考古学的な調査結果と乖離するところがあり、誠に失礼ながら、井上氏の調査結果の中から疑問点を取り上げる必要があります。私もアマチュア研究者なので、あまり偉そうに知識を振りかざすことはできませんけれど。

何はともあれ、井上氏が「前方向法則の真相を発見した」こと自体に大変な価値があるということは、何度でも強調したいところです。

 

「前方向法則」を理解する

 

井上氏の「前方向法則」の中でも、一目見て正答なものを、奈良県奈良盆地上で取り上げてみると、解説図のようになります。

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垂仁天皇が葬られたという宝来山古墳の中心軸は、垂仁天皇の宮殿「師木玉垣宮方面」を指す。

神功皇后の葬られたという五社神(ごさし)古墳(神功陵)の中心軸は、神功皇后の宮殿「磐余若桜宮」に一致。ここは現在、桜井市谷の若桜神社。

磐之媛命が葬られたという磐之媛命陵の中心軸は、磐之媛命の「葛城高宮方面・葛城地方」を指す。

図(図2)で表したような例が、井上氏が発見した「前方向法則」であり、前方後円墳の中心軸と、被葬者の関連地が結びついている、具体的な例となります。後にこれらの古墳についての仔細な解説を挟むことにします。

『増補・日本古代史の謎は解けた!』の19頁に、以下のようにあります。

 

──前方の意味する方向から、誕生地、宮都、陵の直線関係を発見でき、陵に眠る天皇、后妃、皇子が明白になり、現在の陵の裏付けができ、不明の陵が解明できることになったのは、古代史への強い支えを得たことになる──

 

誠に仰せの通りであると思います。本書は井上氏の主張をさっぱりと支持し、それを執拗に証明するものとなります。

「前方向法則」については「フリー百科事典ウィキペディア」にも紹介されておらず、紛れも無く倭人が導入していた本物の叡智の筈なのに、主役級の扱いを受けないのかと訝(いぶか)しく思って、猫背が酷くなりそうでした。私は背筋を伸ばしつつ、既に完成していた原稿に、井上氏の解釈を反映させる作業に取り掛かりました。

井上氏の理論を、完全に把握しようと努めました。しかしながら、井上氏の解釈は一昔前の情報と知識を元にしているので、若干の問題点が含まれており、それを完全に解消しなければ、先へ進めないと分かりました。

 

欠史八代天皇陵とその虚構性

 

井上氏は1987年の著書『増補・日本古代史の謎は解けた!』の中で、幾つもの天皇・皇后の前方後円墳の中心軸の延長線が、具体的にどこの場所を指し示しているかを考察しました。

天皇・皇后の御陵は、全て3世紀初頭より以前の前方後円墳と断定した上で、綿密な調査を行っていました。

ところが・・・。井上氏の指摘している「3世紀以前の天皇・皇后の御陵は全て前方後円墳である」との解釈は、現時点の考古学的調査結果からすれば、全く当てはまっていないことが、明らかなのです。

『「天皇陵」総覧』(新人物往来社)の記述を引用しながら、簡単に解説します。

 

井上氏が著書の第一章「前方後円陵の謎を解く」の中で最初に取り上げているのが、奈良県磯城郡川西町に所在する「島の山古墳」です。

井上氏は島の山古墳は2世紀の孝霊天皇の妃・細姫の陵と断定しています。その理由としては、前方後円墳である島の山古墳の中心軸の延長線上に、孝霊天皇黒田盧戸宮(宮古神社)と、橿原市十市の細姫生誕地があるという情報を元にしています。しかし現在、島の山古墳は4世紀末~5世紀初頭の築造年代と判明していて、孝霊天皇が実在したとすれば考えうる年代(井上氏は2世紀とする)と古墳の年代が、全く整合していなかったのです。

 

以下の古墳について、井上氏は「全て前方後円墳である」と断定して話を進めていました。

第二代の綏靖陵は、『日本書紀』によれば桃花鳥田丘上陵(つきたのおかのえのみささぎ)(『古事記』では衝田崗)とあるのに、現地の古墳は「丘の上には無い」という矛盾を抱えます。しかも綏靖陵は前方後円墳ではなく、実際には円丘なのです。

同様に第三代安寧陵、第四代懿徳陵、第五代孝昭陵は、いずれも自然の丘陵を江戸時代以降に改修し、御陵と治定したのであって、御陵(古墳)とは縁遠かったのです。

井上氏が孝昭陵とする「掖上鑵子塚(わきがみかんすづか)古墳」は、現在では5世紀中頃~後半に造られた前方後円墳と判明していて、欠史八代天皇の実在年代(3世紀以前)と、時代が整合しません。

第六代孝安陵は、自然丘陵の上に円丘があるものの、やはり前方後円墳では無い。

第七代孝霊陵は「小円丘」で、これも同様に前方後円墳では無い。

井上氏が孝霊陵だと指摘した宮堂大陵(宮堂古墳)は、現在では古墳であるとの話が聞かれないようです。

第八代孝元陵(中山塚)は、4世紀から5世紀の前方後円墳と円墳の古墳群。

第九代開化陵(念仏寺山古墳)は5世紀前半の前方後円墳

 

以上の例を挙げた通りに、井上氏が『増補・日本古代史の謎は解けた!』の中で、天皇陵・皇后稜として調査した古墳は、幾多の問題点を含んでいたと言わざるを得ない結果となりました。

宮内庁欠史八代の山形墳、円丘と治定している欠史八代天皇の御陵の殆どが、江戸時代以降に改修されて現在の姿となりました。

また、現実の形態(自然丘陵)と合致しません。前方後円墳であっても、年代が古墳時代中期以降(4世紀以降)なのが実際でありました。

欠史八代の実在年代については、井上氏は紀元前1世紀から3世紀初頭としますが、実際の古墳の年代と整合しません。したがって欠史八代陵については特に、心苦しくも井上氏の認識を訂正する必要がありました。

 

『「天皇陵」総覧』を元にしても、現在の欠史八代天皇陵は、「本当の天皇陵では無い」ものばかりなのが実情と判明するのであり、本書では欠史八代天皇陵の調査は、除外することにします。

 

前方向法則=前方後円墳矢印説は不可能を可能とする

 

とはいえ、「前方後円墳の中心軸が被葬者と関連する土地を指す」という、井上氏の「前方向法則」の正しさは、揺るぎないものであると確信しています。

私がこれから成すべきことは、すでに目の前にある味噌汁に、足りない具とダシを加えて味を調整する作業というわけです。

『「天皇陵」総覧』「五十瓊敷入彦命(いにしきいりひこのみこと)墓」(福岡澄男著)の頁に、考古学者の梅原末治の興味をそそる言葉が引用されていたので、ご紹介したいと思います。

「本来古墳墓の被葬者の何人なりやの考定は、それ自体に墓碑、墓誌等を欠く我が国の場合に於いて、殆んど不可能事に属することは学会のほゝ一致する見解であるから、本墳(西陵古墳=筆者註)の場合また遂に究む可からざる疑問として、推定せられた時代に於ける吾人の祖先たる一有力者の奥城たることに満足して、そこに史蹟の価値を求むべきである」(昭和7年『大阪府史蹟名勝天然記念物調査報告』)

要約すると、日本の古墳の実際の被葬者を特定することは、もはや不可能なのであるから、祖先の古墳が残されているだけでも有難く思っておけよ、とのことです。

確かに全ては不可能、闇の中といった考えは、多くの学者や歴史考古ファンに共通した認識であったかもしれません。

しかし誠に僭越ながら、その不可能ごとに挑戦するのが、積み上がらない石を積むような人生を過ごして来た者と本書であります。

前方後円墳には、不可能を可能とする未知の叡智が含まれており、それをこれから解読して行くのです。

井上氏の「前方向法則」のような発想は、真剣に研究を積んでいなければ思い浮かぶものではなく、井上氏の素晴らしい発想自体が称賛されるべきであり、ここから、井上氏の発見(発想)の正しさを証明するものとします。

 

3に続く

パート3

 

 
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