たっちゃんの古代史とか

誰も知らない日本とユーラシア古代史研究。絵も本も書く。闇の組織に狙われてるアマ歴史研究者。在宅勤務の自営業。

電子書籍化する予定の「前方後円墳矢印説」の冒頭部分 part1

状況が二転三転したせいで、電子書籍を発表できてないのですが、気まぐれで冒頭部分だけアップしたいと思います。

実はこれ、2015年12月の時点で発表予定だったのです・・・。

冒頭以降の内容も、少しづつ公開しますし、膨大な内容となった全体としては、電子書籍でいずれ公開しようと考えていますので。よろ。

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長文です。

 

封印された叡智の回復

前方後円墳と神社に秘められた「矢印機能」を解明する

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1・前方後円墳に秘められた役割を解読する

 

日本列島の各地で巨大な威容を見せながらも、ひっそりと佇み自然と同化している、前方後円墳。これは弥生時代末期以降から築造された、高貴な人々の陵墓。

しかし陵墓であるとは知られているとは言え、前方後円墳の形状に封印された、未知なる真意が、今ひとつ認知されて来ませんでした。

その前方後円墳に封じられた未解明の真意とは、井上赳夫(たけお)氏も著書で指摘しました。

「被葬者に関係する思い入れのある土地を指し示す矢印」としての機能です。

この事実を追求して行った結果、信じられないことに、

邪馬台国の女王、卑弥呼の冢(ちょう)(墓所)を特定」することに至ります。この点はいずれ別の機会に明らかとする予定です。

私は歴史・考古学を専門に学んではおらず、あくまでもお茶をすすりながら、独自の考察をする立場の不調法者です。でも素人考えだからこそ、専門知識に左右されず気づく事もあると思いませんか。

 

前方後円墳の中心軸の延長線上に古代の真相が眠る

 

紀元前4世紀、ギリシャ北方のマケドニアアレクサンドロス大王が、インドのインダス川流域に至るまでの、広大なアジア西部一帯を征服しました。この出来事についてはこの大王の時代の従軍記録を元にして、アッリアノスなどの文学者が、東征記を記しています。東征から間髪入れずに東征の出来事は複数の文字の文書として残されたので、アレクサンドロスの東征が史実であることに、疑いの余地は無いと言えます。

中国でも同様、古代より文字の記録が膨大に残されています。早い段階から文字を導入した諸民族は、日本の古代史に比較すれば、その文字の記録によって過去の出来事を知ることや、真偽を判断することが朝飯前なことでした。

一方で「神武天皇の東征」や「欠史八代天皇(実在性が不確実とされる歴代天皇)」については、実在性を「完全に証明」する方法は従来に存在しません。何しろ太古の神武東征については、東征の最中、または東征直後に間髪入れずに文字で記録された信憑性の高い書物が存在しません。

日本書紀』と『古事記』(記紀)の内容は、口承で子々孫々に受け継がれた神話・伝説を元にして『旧辞』などに文書化されたものです。数百年以上に渡り伝言ゲームが引き継がれた後に編纂された結果、内容の変貌を免れることができませんでした。云わば日本古代史については、霧の摩周湖の対岸の、霧中に浮かぶ人影の正体を肉眼で見破るに等しい程、従来の方法では、事績の真偽の判別が困難だったのです。

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 記紀の記録、考古学的な調査結果、これら断片的な記録を考証し、実在した・しない等、主観による理想的な虚像を膨らませるばかりです。

全国の巨大な前方後円墳の被葬者についても、同じことが言えます。全国津々浦々の巨大古墳の被葬者は誰かとの問題点は、完全解決に至っていません。

 

憂鬱な、ある日のことでした。

地図に拡大された前方後円墳を眺めていた時、これは後方が円形ではあるけれど、なんとなく矢印に似ている、そう思い付きました。そこで取り敢えず、神功皇后陵の中心軸を測り、なんとなく前後に線を引くと、神功皇后陵の中心軸の先には、神功皇后の宮殿がぴたり当てはまっているではありませぬか。前方後円墳が矢印として機能すると、仮説を立てる契機となりました。ブログ「たっちゃんの古代史とか」では2012年5月に、最初の関連記事を書いています。その頃からずっと研究を重ねてきました。

これが本当だとすると、「同一の古墳群に所属するのに、どうして前方部の向きがバラバラなの?」という、至って素朴な疑問に対する明確な答えを導き出せます。

大阪府の古市古墳群周辺図をご覧ください。見ての通り、西を向いたり東を向いたり、四方八方にバラバラで、方向の統一感をまるで感じられません。従来型の記紀研究、考古学調査における古墳の埋葬様式、埋葬物の様式などからは、前方後円墳の向きが何を意味するか読み取れません。

この問題点について、確かな説明がつく唯一の考え方は、「前方後円墳は被葬者に関係する、思い入れのある特定の土地の方向を向いている」という発想なのです。

 

広島の平和記念公園の中央には、「原爆死没者慰霊碑」が置かれています。毎年8月6日に広島平和記念式典広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式)が行われています。朝8時からテレビ中継が行われていますが、著者はテレビを見ません。アメリカ軍のB‐29爆撃機により原子爆弾が投下された1945年8月6日8時15分に合わせ、平和の鐘、サイレンなどが鳴り響き、全国の多くの人々が黙祷を捧げています。

この原爆死没者慰霊碑は、正面から見ると美しい石造のアーチ構造になっています。しかしてその実体は、上空から見ると長細いかまぼこ型のトンネルになっているのです。そのかまぼこ型トンネルは、ユネスコの「負の世界遺産」として知られる原爆ドーム(広島平和記念碑)の方向に向けられています。ふと、『雪国』(川端康成)の「トンネルを抜けるとそこは雪国だった」の一文が脳裏をよぎってしまいますが、トンネルの向こうに原爆ドームが見えるよう、原爆死没者慰霊碑のトンネルの方向が決められていたのは本当の話です。云わば原爆死没者慰霊碑前方後円墳と同様の役割、特定の対象地を示す矢印の役割を担っていました。古代人も現代人も、時を越えて同じ発想を保持していたと言えば、前方後円墳が矢印機能を持っている理由が、理解出来やすくなります。

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もう一つの具体例としては、現代人が交通標識で特定の対象地点を示す時、矢印を用いているが如き話であると言えば分かりやすいことです。国道を通ると必ず交通標識が目につきます。目標となる地名が矢印で示され、方角、距離などの情報が含まれています。前方後円墳も交通標識も、基本的な役割は同じであったのです。ちなみに描いた絵は国道4号線の交通標識を自分で模写したものです。

そして建物のそこかしこに設置されている「非常口」も矢印によって非常口の方向を表しています。

こうした叡智に迫ることができたのは、私の中では火星でタコ型の知的生命体と遭遇し、平和的にお茶会を催(もよお)した位の大した発見です。しかし私のような引き篭もりの社会不適合者が、古代史の問題の解決を図って良いのか、という不安のほうが頭を擡(もた)げ、泰然自若と出来ずに逡巡するのでした。

ところが原稿をまとめ終わって一息つこうとした時のこと。私設ブログに、とある方から情報を頂きました。

「既に前方後円墳矢印説みたいな説がある」と。まさに寝耳に水、癌に重曹な話となりました。しかしこれは思いがけぬ僥倖でもありました。

その書物とは、井上赳夫氏の著書『増補・日本古代史の謎は解けた!』です。若干うろたえながら、アマゾンの通販で取り寄せました。

この井上氏の著書の出版は1987年。この本が改定(増補)される前のオリジナル版は、私がまだ8歳だった1985年の出版でした。今から30年も前、私がまだ世界の仕組みを全く知らない幼少の頃、井上氏は前方後円墳の持つ真意に気づかれていたのです。敬服せずにいられません。

井上氏は、私が言う「前方後円墳矢印説」を、「前方後円陵の前方の方向法則」、または簡略化して「前方向法則」と呼び表しています。

この本の内容については、後にすこし解説を挟むことにします。完成した本書で、当初は「前方後円墳矢印説」と呼び表そうと考えましたが、井上氏の言葉のとおり「前方後円陵の前方の方向法則」、「前方向法則」と呼び表してまいります。


この仮説では、前方後円墳の中心軸を引き、「前方部と後円部、両側の延長線上」が、古墳被葬者と関係する対象を指し示すのが、事の真相とわかっています。さらに「造り出し」という古墳の特殊構造も、被葬者の関連対象を示す矢印と判明しました。

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唐突に5コマ漫画を載せていますが、これは筆者の私設ブログ「たっちゃんの古代史とか」の「前方後円墳矢印説は完成している」という記事に掲載したものです。

  

造出しは「ミニ矢印」

 
前方後円墳・前方後方墳には、「造出し」が付設されている古墳と、されていない古墳があります。造出しとは前方後円墳の両脇、または片側に見られる、突き出した特殊構造のことです。

造出しは被葬者を祀るための祭祀場だとの仮説がありますが、造出しが持つ他の機能については、特に明確では無かったようです。

前方後円墳の中心軸が矢印としての役割を果たすのならば、造り出しも「ミニ矢印」として機能すると発想することができ、本書では造り出しの指し示す方角についても、出来る限り調査を行っています。

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そもそも前方後円墳ってなに?

 

市街地化が弛まず進む、人口の密集した平野部にあって、緑の豊かな古墳は、野生生物にとって、無可有の郷とも表現される聖域と成り変わったようです。

陵墓に対する尊敬を忘却した人々にさえも安らぎを提供し、人間の我儘で拡大したヒートアイランド現象さえも緩和してくれる。広大な環境保全地域としての役割が大きくなり、古墳の持つ付加価値は時代と共に一変しました。

古墳の全盛期に於ける本来の役割は、発掘すると石室や棺が見つかり、中に人骨と共に副葬品が収められているから、死者を埋葬する墓の一形態であったのが明らかです。

埋葬施設に収められた、銅鏡や勾玉や剣などの副葬品。それらはあの世へ死者の霊魂を送り出す、または霊魂を守護する等の役割を持っていたと言われます。

死者の陵墓の役割だけを担うわけでなく、権力者が国内外の人々に絶大な権力を誇示する目的もあり、またはエジプトのピラミッドのように、民衆が農作業の出来ない時期、公共事業としての仕事の意味合いを兼ねたかもしれません。

前方後円墳には、道教の天円地方観が取り入れられたとの見方が『古代国家と道教』(重松明久著)にあり、円型は天、方型は地に対応するという道教的考えを取り入れている可能性が提示されています。

また、1972年出版の『魏志倭人伝』(山尾幸久著)では、前方後円墳は「壷の形」であるとされます。確かに前方後円墳は横から見た壷と言える形状です。しかも周濠が掘られて水を湛えているから、この解釈も充分に通用します。

記紀神話では、壷(または瓮)が神器であるとの記述が幾つかあります。神武天皇の伝説の真偽は兎も角、神武天皇奈良盆地を制圧する直前、夢に現れた天神の言う通り、天香久山の土で厳瓮(いつへ)(御神酒瓷(おみきがめ))を作り、丹生(にゅう)の川上の地で天神地祇に捧げ祭ったとあります。この厳瓮が纏向型前方後円墳型の形状であるなら、前方後円墳とは神に捧げた神器、厳瓮の形かもしれません。

その形状からは、被葬者が輪廻転生と再生を願って子宮の形を造成したとの説があります。縄文人・倭人は、勾玉という装飾品を重用しました。この勾玉の形が胎児の初期段階の姿を表すなら、古代の縄文人~倭人は、生まれ変わりを信じて胎児信仰を行い、子宮型古墳を必要としたことになり、前方後円墳は輪廻転生を叶える、魂の再生装置であると言えそうです。

これら全ての仮説は、概ね当てはまると思われますが、中国の歴史書『晋書』の「武帝紀」に、もしかすると他の役割の一つが示唆されるかもしれません。

──武帝司馬炎)の泰始二年(西暦266年)十一月己卯、倭人来たりて方物を献ず。 円丘と方丘を南北の郊に併せ、ニ至の祀りをニ郊に合わせる──

これだと何やら意味不明なのですが、分かりやすく現代語に直すと、「倭人が来てその産物を献上した。南北の郊外で円丘と方丘とを合し、冬至の祭祀と夏至の祭祀とを南北の郊外で合した」(漢籍訳出プロジェクト「漢々學々」より)。

倭人朝貢した記録の後に、前方後円墳を想起させる構造物の記録が続いています。これについては、中国内の出来事を記したとの解釈が正論ですが、一方で倭人についての一文に続けて、円丘と方丘を併せたという表現があることで、倭の前方後円墳を想起させるから「倭国内の前方後円墳の起こりが報告されたもの」とする見方もあるようです。そうだとすると前方後円墳の役割としては、冬至夏至の時に天神を祭る祭祀場として機能したことになります。倭人が古代中国の銅鏡などと同様に、冬至夏至の信仰の方法までも導入した可能性はあります。

以上のように前方後円墳とは古代の倭人の叡智を結集し、複合的な目的を兼ね備えた万能施設だったのです。これらに加えて今回、前方後円墳に被葬者を特定するための機能が確かに存在する事実を証明します。

 

 

前方後円墳矢印説を裏付ける? 古事記の記述

 

実は『古事記』に、前方後円墳が矢印であることを裏付ける記録があります。

崇神天皇の御宇、民の半数が死に至る程の全国的な疫病と混乱が起き、これを鎮める為に意冨多々泥古(おほたたねこ)(大田田根子)を神主として大物主神を祭りました。意冨多々泥古が大物主神の子孫との紹介文中に、奇妙な記述があります。

──ある時、活玉依毗売(いくたまよりびめ)は麗しき謎の男と恋に落ち、子を孕(はら)んだが、その男の正体が何者なのか、活玉依毗売の父と母には知れなかった。そこで父母は娘に、男の衣服に麻糸を通せと促し、活玉依毗売はその通りにした。すると男に縫いつけた麻糸は、扉の鈎(かぎ)穴を通って外に出て行った。その糸を辿ってみれば、三輪山大物主神の社にたどり着いた。その時に残された糸の量は三勾(みわ)のみ。これが三輪山の名の由来となり、活玉依毗売のお腹の子供の父親が大物主神であると判明する──

この説話の最初の注目点は、昔の家屋の扉には鍵穴があり、糸を通すことができて、鍵穴を覗けば外の様子が見えたふうな記述があることです。

古代オリエント(中東)や欧州では「スケルトンキー」と呼ばれる鍵と、「ウォード錠」と呼ばれる形状の錠前があり、これは扉に開けた穴に鍵を差し込み、鍵を回して解錠するタイプ。

ウォード錠の鍵穴は、前方後円墳に良く似ていて、「前方後円墳は鍵穴の形だ」との形容詞は、まさにスケルトンキーとウォード錠のことです。しかし前方後円墳型の鍵穴の錠前や鍵が古代の倭で使用されたか、現在のところ明らかでありません。

ちなみに、古代の日本で認識されるカギの様式としては、倉庫などに用いられた「枢(くるる)鉤(かぎ)」や、南京錠に似た「海老錠」が知られています。

そして「鍵穴から糸が出て、指し示す方角が、神の鎮座する山だった」との記述が、今回解説している、前方後円墳が何らかの対象物を指し示す矢印、言い換えれば古代遺跡の意味ある直列「レイライン」の役割を示唆していると感じます。

まさに鍵穴型の前方後円墳は、古代日本の謎の扉を解き放つための、重要な鍵と言えます。

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---part2に続く---

電子書籍化する予定の「前方後円墳矢印説」の冒頭部分 part2

 

 
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