第3回 仁賢天皇陵
○いつも助かっております
第3回目ですけど
多分俺みたいなうつけ者が何かしゃしゃり出たりすると、気に入らないという人もいるかもしれない。
何もしなければ、それもまた批判対象になる。だから何かしても何もしなくても一緒だ。それなら何かしていたほうが良い。しかも誰かの為になることをしていたほうがマシではないかと思われる。
天皇陵・皇后陵を始めとして、被葬者の伝わる全国の古墳について、ほぼ全てを調査済みです。
足掛け3年で、日本にある被葬者名の伝わっている古墳を調査してきました。
何度も調査を重ねるごとに、新たな発見があったりしました。
やはり調査は一度だけでなく、何度も調べて結果を重ねていくことが重要だなあと思った次第です。漫画を描く時、ネーム(構想段階の絵)は何度も描き直したりするのと同じように。
のんびりと全ての図版を完成させ、原稿自体は2015年の春の出版を目指しているところ。
前方後円墳についての叡智は『封印された叡智の回復』の全体構想の一部を担い、残りの4つの叡智についてはその後、順次発表していきます。
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系図を表すと、「履中天皇─市辺押磐皇子─顕宗天皇・仁賢天皇」
ということになる。
弟である第二十三代の顕宗天皇と共に、清寧天皇の時代に「発見された兄弟」として伝承されます。
仁賢天皇の在位年代は5世紀の末頃(西暦488~498年頃)です。なぜこれがわかるかというと、次のような具合です。
『日本書紀』『古事記』の天皇の年齢、崩年などの情報と共に、以下の情報も取り入れます。
仁賢天皇の少し前に在位した雄略天皇(獲加多支鹵大王)の名は、埼玉県行田市の埼玉古墳群にある稲荷山古墳から見つかった「稲荷山古墳出土鉄剣」に刻まれていました。その鉄剣には獲加多支鹵の名と「辛亥年(471年)」の年号が記録されていたことから、雄略天皇が471年ころの天皇と分かりました。雄略天皇は中国の『宋書』で西暦459~478年に登場する、倭王武のことだと認識されます。
次に顕宗天皇・仁賢天皇の後に在位した武烈天皇のとき、『日本書紀』には百済の末多王と武寧王が登場していまして、この2人の王の在位年代は特定されてます。
末多王は、韓国の『三国史記』では東城王、中国の『南斉書』では牟大、『梁書』では牟太、の名で登場します。ようするに『日本書紀』の末多=牟大=牟太=マタ(ムタ)なのでした。
末多王は西暦479~501年の百済王であり、武寧王は502~523年の百済王。
この末多王の頃が、ちょうど顕宗天皇・仁賢天皇の時代であると言えます。こうして計算していくと、仁賢天皇のおおよその在位年代がわかってきます。
『日本書紀』によれば、顕宗天皇の諡号(諱)は弘計(をけ)、仁賢天皇の諡号(諱)は億計(おけ)。
または『古事記』によれば顕宗天皇は哀祁(をけ)、仁賢天皇は意冨祁(おほけ)。
むかしは「を(wo)」「お(o)」の区別が明確だったのに、現代の日本語ではあまり区別されなくなりました。もはや適当でOKになったのでせう。
ところで、いまの日本語の母音は5つですが、平安時代以前には「上代特殊仮名遣」というものがあり、母音が8つありました。いまは50音ですが、平安時代以前の日本語の音は88音あったといいます。
あるいは8母音でなく6母音だったとも。
歴史・言語の研究では、万葉仮名の漢字は甲類、乙類と分けられます。
だから8母音・88音あった平安時代以前の遺物である神代文字と呼ばれるものの殆どが、なぜ5母音・50音の表現しか残っていないのか?という疑惑の目はつきまとうのです。
明らかに残存している神代文字というものの殆どは、5母音・50音で構成されているからです。ほとんどが平安時代以降の創作物と見られて仕方ないことになります。
もちろん神代文字が平安時代以前からあったとする可能性は残りますけど。その場合神代文字がかつては8母音88音あったという記録もないとおかしいですけど。
これについて詳しくは、手っ取り早くウィキペディアの上代特殊仮名遣の項で。
さて、仁賢天皇陵は野中ボケ山古墳と言って、大阪府藤井寺市に所在します。
大阪なのでボケ山だとすればツッコミ山古墳もありそうだったのですが、探してもありませんでした。
ボケ山古墳は6世紀初頭のものと言われています。仁賢天皇の在位が5世紀末だったので誤差が少なく、実際に仁賢天皇の御陵であると見られます。
仁賢天皇陵の中心軸を測ると、こうなります。
中心軸は後円部が北東方面を向き、造り出しは東側に一つ合って東方を示します。これらは全て、仁賢天皇陵の被葬者が仁賢天皇であることを示す、矢印になっています。この方角には仁賢天皇に関係する情報が残されているのです。
幾度かの調査の結果、以下の情報が導かれました。
上記の図はいずれも『封印された叡智の回復』に用いる予定のものです。
意冨とは、「大(おほ)」と同じ音です。
昔は大きいことを「おほ」と言いました。だから延長線上には「大」が羅列しているだろうと想像するには十分でした。
調査すると、予想通りに「大」という地名が幾つも並べ立てられていました。東北地方にかけて、大字小字、沢(河川)や谷など含め、あまりに「大」地名が多いので、山岳名と島嶼名に限って掲載しました。
これほど大の付く山岳が並ぶのは、全国でもこの方角の線上だけと見られ、これらの山岳名の大部分が、仁賢天皇の諡号「意冨祁」に由来していると見ることもできます。
中心軸の線上では、古保志塚も近いところにありました。この古墳は父である市辺押磐皇子の御陵と伝わっているのです。
この古墳の造り出しの延長線上では、顕宗天皇陵(傍丘磐杯丘陵)の方角を示していましたが、正確には指し示していません(図版参照)。しかも顕宗天皇陵を調査してみても、中心軸の延長線上に、顕宗天皇と関係する地名をほとんど見つけることができなかったのです。いま顕宗天皇陵と宮内庁により治定されている古墳は、残念なことに実際には顕宗天皇の御陵ではないようです。
仁賢天皇陵の造り出しの矢印で示されている、馬見古墳群の乙女山古墳や巣山古墳は、なにか仁賢天皇に関係する人物の墓所ではないかと考えられました。それについても調査を進めたところ、驚くべき事実が浮遊するクラゲのごとく浮かび上がってくることになりましたが、詳しくは、発表する予定の拙著で。
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