たっちゃんの古代史とか

誰も知らない日本とユーラシア古代史研究。絵も本も書く。闇の組織に狙われてるアマ歴史研究者。在宅お仕事中。

初期の天皇陵の総合的な配置計画が判明した件

初期の天皇陵は謎が多くあるなかで、少し真相に近づいた。

 

 

初代神武天皇~10代目崇神天皇までの実在年代

 

神武天皇 - Wikipedia

 

日本書紀」によると初代天皇である神武天皇橿原宮で即位したのは、皇紀元年で紀元前660年とされています。そして崩御年は紀元前585年であるとか。

以降の第10代崇神天皇まで、「紀元前の天皇」ってことになってます。

しかし崇神天皇と同年代の、倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)の墓所「箸墓(はしはか)」を見てください。発掘によれば、箸墓は3世紀半ばの古墳と判明してますので。箸墓は「魏志倭人伝」などに登場する、女王卑弥呼の、径百歩の冢(墓)と同一視されたりします。

あと崇神天皇の娘、豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)の墓所と伝わる、ホケノ山古墳も3世紀半ばですし。すると崇神天皇の実在年代は、どうみても3世紀ですね。崇神天皇は紀元前じゃないんです。

崇神天皇の時に百姓の流離反逆が起きたと日本書紀にあり、それが「魏志倭人伝」の2世紀末に起こったという、倭国乱(倭国大乱)だと見ることもできるでしょう。

古代の天皇の実際の在位は、適当に1世代20年と考えると? 崇神天皇より9世代前の神武天皇は、おそらく1世紀あたりになりますね。

記紀にあるとおり古代天皇は長生きだったこと検討しても、神武天皇の年代は紀元前2世紀~1世紀が良いところです。

ただ神武天皇欠史八代と呼ばれる天皇は、名前が複数あったりする。だから「複数人物の融合」だと想像したりすると、紀元前2世紀よりもっと古いことになりますが。

 

 

初期天皇陵の実際の建設年代を知る

 

天皇陵総覧」より

 

初期の天皇陵って、いつ建設されたのか知ってますか。

初代神武~第13代成務天皇まで、奈良盆地にあります。第14代仲哀天皇以降は大阪方面に集中しているので、13代までが一区切りで何か特別な意味を持っている感じがします。

改めて調べてみるとこうなってました。

 

歴代天皇 公称(通称) 建設年代/特徴 

①神武 畝傍山東北陵(四条ミサンザイ)5世紀半ば建設

②綏靖 桃花鳥田丘上陵(塚根山・塚山)円墳(年代不詳)

③安寧 畝傍山西南御陰井上陵(アネイ山)自然丘陵

④懿徳 畝傍山南繊沙渓上陵(マナゴ山)自然丘陵

⑤孝昭 掖上博多山上陵(博多山)自然丘陵

⑥孝安 玉手丘上陵 自然丘陵

⑦孝霊 片丘馬坂陵 自然丘陵

⑧孝元 劔池嶋上陵(中山塚1-3号墳) 5世紀建設

⑨開化 春日率川坂上陵(念仏寺山古墳) 5世紀前半建設

崇神 山邊道勾岡上陵(行燈山古墳)4世紀前半建設

⑪垂仁 菅原伏見東陵(宝来山古墳)4世紀前半建設

⑫景行 山邊道上陵(渋谷向山古墳)4世紀中庸建設

⑬成務 狭城盾列池後陵(佐紀石塚山古墳)4世紀後半建設

こうなっており、日本書紀皇紀での「紀元前の天皇」とは矛盾した結果になってます。

明治時代に宮内庁により、神武天皇陵は5世紀半ばの四条ミサンザイ古墳に治定されて、今日に至ってますが、実際のところ四条ミサンザイも、古墳じゃないとか言われますね。

その後の10代目崇神天皇の山邊道勾岡上陵(行燈山古墳)が4世紀前半と見られてるわけで、滅茶苦茶ですね。初代が5世紀の古墳で、10代目が4世紀。子がお爺ちゃんを産んだみたいになってる。

また初期天皇陵は軒並み、単なる自然の丘を山形古墳だとか言っていたりするわけで。

これは古代からの曖昧な伝承を元にしてたり、江戸~明治期の学者や偉い人が、間違った治定をしたり、無理やり整備を進めたことが影響したようです。

「古代の古墳の場所、分かんないからココで良いや(笑)」とか。やめてください。

 

 

初期天皇陵の総合的な設置計画を探る

 

新たに気づきを得たのが、2025年の12月1日のことでした。

 

まず初期天皇陵の位置をGoogleマップでプロットして、何処かを把握したんです。するとなんか綺麗な形状にまとまってることが、分かったわけなんです。

菱形的というか、レモン🍋的な形ですが。

適当な感じだったら、結びつけた線が滅茶苦茶になるわけですから、これが意図的な形状だなとわかりました。

 

 

配置の順序の判明と役割

 

しかも形がレモンなだけじゃなかったです。

これを突き詰めて行くと、古代天皇の「古墳の配置計画」の一端を知ることになりました。以下の図を参照。

紫の①が神武天皇。その後の初期の②綏靖、③安寧、④懿徳はオレンジ色。

①②③④といった初期の天皇陵は、畝傍(うねび)山のあたりに集中しているんです。しかも反時計回りで順番が揃ってる。

その後の⑤⑥⑦番目の天皇陵は、畝傍山の西側に配置されてる。

その後の⑧⑨⑩⑪⑫⑬番目の天皇陵は、畝傍山の東~北側に並んでる。

こうして綺麗なレモン形状が、出来上がってたわけです。

 

この形はなんだろうと思ったのですが、結界なのかもしれませんね。古代の天皇は神でしたので、その天皇陵は神様の神聖な場所、魔除けの役割を持つということです。結界として配置したのかもしれんです。

奈良の山と盆地の境界線に沿った形になっており、むかしの主要な集落を囲む形になってるようです。

このレモン形の配置にするために、自然の丘陵やら、年代が滅茶苦茶な古墳を選び出しているような感じにも思えました。要するに全ては計画的だったわけです。

これが古代の5世紀あたりのヤマト王権によるものか?明治政府によるものか?と考えたのですが。古墳年代が適当で、宮内庁が自然の丘陵を古墳としてるわけなので、後者の説が濃厚うまちょこミルクな気がします。

 

 

ぽちされたすかり

 

 

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