第2回 仲姫命陵
第2回目ですけど
ところで俺って普通なことが何にもできない。迷惑ばかりかけてる。やたら馬鹿にされてますけど。
それでいて、なんか訳の分からない物事には、集中力やら読解力があるような気がしたりして。なんなんですかね。
そんな俺がちょっと再チャレンジしようと思ってることがあるので。まあ俺がなにか行動すると、逐一拡散され共有化されて、さんざん笑い者にされる人生なので、隠しても仕方ないんですけど。今回は準備万全にしますが。まぁ、既に情報流出が酷いんすけど、これについてはまた報告しますので。
○いつも助かっております
仲姫命陵
では、前方後円墳矢印説について、最もわかりやすい実例を取り上げます。
大阪府の仲姫命陵(なかつひめのみことのみささぎ)。
大阪府藤井寺市の仲津山古墳は、応神天皇の皇后である仲姫命の御陵(みささぎ)に治定され、仲津姫陵とも言います。仲姫命と書いて「なかつひめのみこと」と読み、「中津姫」とも表記します。この古墳は5世紀前半の築造で、全長290mの威容を誇っています。
仲姫命の父は、景行天皇の孫にあたる品陀真若王(ほんだまわかのみこ)。母は日本武尊東征時の副将軍だった建稲種命(たけいなだねのみこと)の女(むすめ)、金田屋野姫命。
この古墳は本当に仲姫命の御陵なのか、今までの所、はっきりとした証拠は出ていません。
ただ「ここに仲姫命が葬られたぞよ」と、古来より伝承されていたのです。
では仲津姫陵の被葬者は本当は誰なのか、前方後円墳矢印説で解いてみます。ほんとうにわかりやすい結果が出るのですよ。
古墳の西方から見ていきます
古墳の中心軸を伸ばしていくと、四国の徳島県東部、小松島市と勝浦町の境に位置する仲津峰山を示します。小松島市の付近は、元は名方郡と呼ばれました。
仲津峰山は標高773メートルの小高い山で、古来より海域の船が現在位置を知るための道標の役割を果たし、阿波三峰として崇められてきたとか。
この山の名前を見ただけでも、瞬時に仲姫命(仲津姫命)と同じ名だと理解できますが、従来はこの仲津峰山が、仲津山古墳の被葬者が仲姫命であることを証明するモニュメントであるとは、全く知られてきませんでした。おそらく徳島県には、従来は言い伝えがあったものが、千五百年の年月を経て忘れ去られていたのです。
中津峰山から近い、西北方面、徳島県の名西郡石井町に、父・品陀真若王の社址がありました。その近くには中王子神社があり、祭神は中日売命(仲姫命)となっています。
さらに南西へ視線を移すと、徳島県の南西部は那賀郡を通過し、高知県の高岡郡四万十町の山間部付近を調査したところ、窪川中津川、大正中津川の地名がありました。高知県には並んで2つの中津川が流れていました。
これ以上西には無いだろうと考えて、ここで一旦調査を打ち切ったのですが、後に九州にも仲津姫の名を冠する地名があることに気づきました。
鹿児島県霧島市北部、霧島山を望むことのできる位置に、上中津川、下中津川が存在していたのです。
仲津姫陵の前方部が指し示す、最終到達地点は鹿児島県の薩摩半島にある南さつま市北部の、中津野であることがわかりました。
次に古墳の後円部方向(東方)
愛知県の名古屋市のある濃尾平野から美濃三河高原にかけて、祖父・建稲種命が祭られている神社、内々(うつつ)神社、尾張戸神社、熱田神宮が集中しておりました。
三重県北東部に、大仲新田の地名があります。
岐阜県の山間部へ視線を落としていくと、中津川市を通過。この場所は古くは中津川宿として知られ、名の由来となっている延喜式内社・中川神社があります。市内には中津川が流れています。
その先の埼玉県の西端に発見したのは、秩父の関東山地を西から東へ流れる中津川。その峡谷の名を中津峡と言い、秩父の名所となっています。
東側の最終到達地点は、栃木県と茨城県に流れる那珂川、そして茨城県の那珂郡であるかもしれませんが、「なかつ」では無いので無関係かもしれません。
以上の通り、仲津姫陵の東西両方向には、仲姫命(仲津姫)の地名と、親族由縁の土地が連続していました。
特に中心軸の線上に中津、中津、中津、中津、中津と、しつこく中津が並べられています。中津川という河川が、ありえぬほどにいくつも。
仲姫命の御陵であることを裏付けるために配置された、計画的な「なかつ地名」の配置が存在していたのです。偶然ではあり得ない地名の羅列状態を作って、気づかれるように、忘れないように。
1500年ほど前には、これらは既にあったことでせう。
そうすることで、古墳被葬者が仲姫命であると、誰でも十分に把握できるようになっていたのでした。しかしこの叡智は、かなり古い時代に忘れ去られた状況となっていました。
こうした事実から、大阪府藤井寺市の仲津山古墳こそ、間違いなく仲姫命の御陵であると言って差し支えなさそうなのです。
3に続く
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