人間が一生に受けるストレスは、平均で1000ポイントだとしますね。
俺は1日で100ポイントを超えた日が過去に何度かあり。
それは自宅前で、中学校の複数の生徒の集ストによって大絶叫爆撃の雨霰を受け続けた日々であるとか。
出先で何故か自分を見失って混乱し、右も左も何していいかもわからなくなった日だとか。原因不明の臭いに悩まされた時だとか。・・・。
そんなことが色々と積み重なって、俺の人生40年でストレスは1000万ポイントは溜まっていますよ。早くポイント交換で豪華商品を貰いたい、この頃。
追い込みが加速して、もうこのままココに居ると殺される勢いなので、ちょっと寿命を伸ばすために4月には転居をする予定です。
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梶山古墳
知らない人のほうが多そうなこの古墳、実はかなり重要な古代の情報を秘めているのではないかと。それはずっと追い求めている、「天皇と大和民族の中東起源説」を示す、ちいさな証拠みたいなものではないかと。
梶山古墳(かじやまこふん)は鳥取県鳥取市国府町岡益にある古墳。1978年(昭和53年)に中国地方で初めてとなる彩色壁画が発見されて注目され、1979年(昭和54年)に国の史跡に指定[1]された。その後の発掘調査で、日本最古の方形壇を持つ変型八角形古墳であることも確認された。
・石室と彩色壁画
石室は墳丘の南面にある。内部には凝灰岩を切石とした横穴式石室を構築している。石室の全長は9メートルほどで、幅60~80センチメートルあり、玄室・玄門・前室・羨道の部分からなり、玄室の高さは1.8メートルほどある。前室部の高さは2.1 メートルほどで、石室の中では最も高い。
石室の奥壁にはベンガラ(赤黄色の彩色)で魚や同心円(日・月)、竜文、三角文を描いている。石室は早くから開口しており、子供の遊び場となっていたが、1978年(昭和53年)5月、梶山古墳を訪れた同志社大学教授・森浩一により、彩色壁画であることが確認された。後になって、石室奥壁の壁画のことを地元の小学生が作文に書いていたことも分かった。
壁画の主題である魚は体長53センチメートルで、鮭か鯉を描いたと見られる。鮭は死者がもう一度よみがえり、生前の姿を見せてほしいという追慕の気持ち、鯉は滝を登ると竜に変わる『竜文の鯉』という中国の故事に由来しており、いずれにしても死者を弔う祈りの印である。
・被葬者
被葬者については不明であるが、675年(天武4年)に因幡に配流された皇族の麻績王(麻続王)(おみおう)であるとの説が有力である。
八角形の墳丘・壁画の魚・南面するプランなどは道教思想が濃厚であること、石室の切石の精巧な技術、壁画の技術などから大陸文化の影響が強くうかがえ、被葬者は相当に身分の高い人物であったことが想像される。
梶山古墳についてはこのサイトが詳しいです。
http://yz-t.com/bunbun/kokufu/kajiyama/kajiyama.html
サイトの現地の案内板の写真から、写し取った梶山古墳の彩色壁画の様子。
こんな奇妙な壁画があるとか。
これはおそらく「絵文字」として機能してるに違いない。
ウィキペディアでは、この壁画は道教の思想と関連すると結論付けて紹介されてますね。しかし、これは絶対に道教だけに関係すると、決めつけちゃって良いんですか。
俺の見方によれば、魚にはイクトゥス(ジーザス・フィッシュ)が関係するので、別の見解が浮かんでくるわけなのですよ。まぁこれは追々分かってきます。
梶山古墳の被葬者は「皇族の麻積王(麻続王)」だった。
というところから、この壁画は個人の思い入れあるモチーフを描いたか、はたまた天皇家に関係するモチーフを描いた可能性がありますね。
冒頭で、私的な移住の話を出しましたが。
古代の天皇家率いる大和民族の豪族集団が、広大なユーラシア大陸を、西の端から東の端へ渡って移住してきたのであるというこの仮説は、このブログで当初からのテーマのひとつになってきました。
梶山古墳の壁画によっても、この仮設は証明されることです。
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では壁画に何が書いてあるか、意味を解きたい欲求がスゴイですが、この梶山古墳の彩色壁画の解釈は、すでに5年前くらいに出していました。
△について
・卑弥呼を象徴する数字と三角形から導かれる「女王卑弥呼は天皇だった」
この記事で、「△=ミカド=帝=天皇」を意味する記号であると書いています。
3つの角があるから、ミカド。
超安易な発想ですが、たぶん文字を使わない昔の倭人は、こうしたいろんな記号を絵文字として機能させたのは確実です。または漢字を使うことを避けた皇族も、あえて記号に意味を込めたんです。
これは三位一体の神を表すのだとか、いろんな解釈があります。
神代文字もよく話題にのぼりますが、神代文字の殆どは江戸時代以降に創作された傾向が見えるとか。なぜなら神代には8母音あったはずなのに、いま伝わる神代文字は5母音のものばかりが残っているから。5母音化して以降に創作された神代文字が、いま蔓延っているわけですが、全部が捏造というわけでもないとか。
◎=太陽
D=月
~=蛇
みたいに解釈がされます。なるほど~と頷けるような、極めて単純な記号を絵文字として使っていたと。それは縄文時代あとの弥生時代でも継承されていて、古墳によく描かれているのを見かけます。
現代人でも実は絵文字は使っていますね。ネットのSNSでは顔文字で感情を表したりとか。
そもそもミカドって、いつからミカドって呼ばれ始めた?という答えは、おそらく弥生時代以降のこと。
ヨセフ・アイデルバーグの説によると、ミカド(帝)= ミガドル(高貴なお方)。
神言語ヘブライ語と日本語の共通点多すぎ!!日本人のルーツは“失われたイスラエル10支族”ユダヤ人なのか!?籠目文、鳥居、君が代、共通点他にも多数… |
個人的には日ユ同祖論を含めて、大陸各地の発祥のものが融合しているのが日本文化や日本語の正体であり、天皇という家系そのものが同様だと認識しているので、日ユ同祖論的な解釈も断然アリかと。するとミカドは弥生時代に天皇家と大和民族が渡ってきたのと一緒に、倭へともたらされた言葉なのかと。
彩色壁画で、左と右に2つ、△があるというのが注目点。
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◎について
倭ではいにしえより、◎印は太陽を表しているのは明らかで、これはエジプトと倭の共通した文字(記号)でもあります。
日本は日の丸の国旗を用いていますが、日の丸の中央の赤い丸は、天照大神を表しているということは、知らない人もいるかもですが。
つまり現代日本人も、◎という絵文字を太陽の象徴として継承して来ているわけですよね。
とすると梶山古墳の壁画では、太陽もまた左右に2つあるということになって、これは奇妙だということ。
大友克洋の「アキラ」で、「アキラがふたつ」現れた場面が思い起こされてしまいました。
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魚について
単刀直入に言えば、これは道教じゃなくてキリスト教における、イクトゥスです。個人的にはそう解釈します。
イクトゥス(イクテュス、ichthys ichtus、ギリシャ語: ΙΧΘΥΣ/ ἰχθύς 発音 [ikʰtʰýs]) は、弧をなす2本の線を交差させて魚を横から見た形に描いたシンボルである。初期のキリスト教徒が隠れシンボルとして用いた。
英語では、イクサス (ichthys, ichthus[ˈɪkθəs][1]) のほか、ジーザス・フィッシュ (Jesus Fish) やクリスチャン・フィッシュ (Christian Fish) とも呼ばれている。
頭文字の符牒
イクテュスはギリシャ語で「魚」という意味を持つが、同時にΙΗΣΟΥΣ ΧΡΙΣΤΟΣ ΘΕΟΥ ΥΙΟΣ ΣΩΤΗΡ (ギリシャ語でイエス、キリスト、神の、子、救世主)の頭文字を並べたものでもある。
古代ローマにおける用法
ミラノ勅令以前のキリスト教徒は、迫害や処刑されるおそれがあったため、信仰を公にできなかった。そのため、 隠れシンボルとして次のように用いられたといわれる。まず、1人の人間が明らかにランダムな直線や曲線を砂の上に描き、その線のうち1本を円弧にする(イクテュスの半分)。もし、もう1人が地面に線を何本か描き足す中でイクテュスの形を完成させれば、2人はお互いがキリスト教徒であると確認できた。
また、キリスト教はユダヤ教の流れを汲む宗教であるため、当初は偶像崇拝を禁止していた。そのため、3 - 5世紀頃の初期キリスト教美術では、イエスやその信徒を表す場合には魚やヒツジなどの動物に置き換えて描かれた[2]。
梶山古墳の壁画の魚は右を向いているので、進行方向は右向きだろうなと。
そして右を向いた魚の進行方向と、壁画上部の「曲線文」が関係していました。
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曲線文について
ぱっと見て、何だかわからないものが目の前にあるとき、人は今まで人生で培った知識をフル回転させて判断しますが。東洋史を中心に研究した人が、道教に関係すると言ったり、曲線文は龍を描いた四神の青龍だ、みたいな発想してもまた遠く外れてはいないです。
でも梶山古墳の壁画の曲線文は、はっきり言えば「地図」が正解なのではないかと。こんな単純な線のちずがあったとして、伯耆の国(鳥取)の狭小な範囲なのか、日本列島かと考えますが、違いました。
個人的に天皇家と大和民族は、西はエジプト、古代イスラエル王国、トルコからはじまり、真ん中は中央アジアの烏孫や月氏を経て、東は扶余や呉や三韓を通って倭に到達したと考えていて、過去記事もこんなのがあります。
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この梶山古墳の地図というのは、妄想している経路とぴったり合うものなのではないかと。
西のミカドと輪(倭人)は、シルクロードを経て、東に移転しているんですよ。
それを2つの△と◎と魚の進行方向とシルクロードの地図で表した、っていうことです。
出発点となるのが西はエジプト、古代イスラエル王国、トルコからはじまり、真ん中は中央アジアの烏孫や月氏を経て、東は扶余や呉や三韓を通って、さいごに倭に到達してます。
これと同じものが、実は福岡県の珍敷塚古墳をはじめとして、全国の古墳壁画にも描かれているのですが。それは次回。
梶山古墳自体が、日ユ同祖論が正解であることをあらわす回答の一端であることが、分かってきますよね。
でも日ユ同祖論を熱心に否定するひとは、この解釈も捏造だとか歪曲というかもしれません。このことを証明するのは難しいですが、被葬者と伝わる麻績王と梶山古墳自体の存在からも、「天皇と大和民族の中東起源説」は見えてきます。
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麻績王について
この古墳の被葬者は麻績王(麻続王)が有力とのことで、ウィキってみると、
麻績王(おみのおう、生没年不詳)は、7世紀末の皇族。麻続王、麻積王とも称される。出自をめぐって大友皇子(天智天皇の太子)、美努王(橘諸兄の父)、柿本人麻呂など諸説ある。また、年代的に無理があるが、聖武天皇の別名ともいわれる。
『日本書紀』には、675年5月17日(天武天皇4年夏4月18日)の条に天武天皇によって「三位麻続王に罪あり、因幡に流した」とあり、この他に『日本書紀』には、麻績王の子の1人を伊豆諸島の伊豆大島に流罪にし、もう1人を血鹿嶋(長崎県五島列島)に流罪にしたとある。また、『万葉集』巻第一では伊勢国の伊良虜の島(愛知県渥美郡伊良湖岬)に流罪されたとある[1]。さらに、『常陸国風土記』には常陸国行方郡板来村西の榎木林に居らせたとあって、流罪先も諸説ある[2]。
『万葉集』には、伊勢国の伊良虜の島に流された麻績王の事を悲しんだ人が「打麻を 麻績王 白水郎(海人)なれや 伊良虞の島の 珠藻刈ります」と歌ったのに対し、麻績王が答歌として「うつせみの 命を惜しみ浪にぬれ 伊良虞の島の玉藻刈り食む」と詠んだというの和歌が伝えられている。
親子ともども波乱万丈といった感でした。このかたも、もしかすると大勢に責め立てられて、ストレスは軽く1000万ポイント超えているかもですね。
麻績王(麻続王)は、麻績(麻続)と書いて「おみ」と読ませているのは、当て字というわけです。直感的には近江国(滋賀県)の生まれに因んで、「おみ(近江)の王」なのではと発想しますが。
「麻績」は、別の読み方をすると「マシャク」。
マシャと言ったら、メシア(マーシアハ)のことだとしたら。
要するに梶山古墳の壁画に何故、ジーザス・フィッシュ(イエス魚)が描かれているかの説明が付くわけなんですよね。
梶山の梶という1字は、「神に捧げる神聖な植物」ということだったので、やはりキリスト教に関係している地名、それが梶山だったのでは。
古代に俺の妄想のセンサーを飛ばしてみると、
近江のほとりで生まれた麻績王(おみのおう)は、
自らの名を「マシャ=メシア=救世主」として、異教を熱烈に信仰し、
日本の国政に影響させようとしたために、
「麻続王に罪あり、因幡に流した」等と、一家ともども流刑させられ、
鳥取に自分の墓(梶山古墳)を造った時に、
神に捧げる神聖な梶の木の名を取って梶山とし、
という話は想像しただけです。
こう考えると、なぜ壁画にジーザス・フィッシュ(イエス魚)があるか、被葬者の名前がマシャ(救世主)なのか、全ての辻褄が合ってくるわけなので。
そうすると、梶山古墳装飾壁画について、学者が「中国の道教の影響を受けた壁画だ」と結論づけていることについて、違和感を感じるしかないということんですよ。
まぁちょっとだけ「これはアリだな・・・」と思ってくれたら、それが積み重なって、「天皇と大和民族の中東起源説」や日ユ同祖論が真実の日本史の根幹にあることを、多くの人が認識できるようになって行くかもしれないなと。
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