たっちゃんの古代史とか

誰も知らない日本とユーラシア古代史研究。絵も本も書く。闇の組織に狙われてるアマ歴史研究者。在宅お仕事中。

下野市の三王山南塚が豊城入彦命の墓であることの証明(補強)

セミが地中から抜け出てミンミン鳴きはじめる夏が来たのに、俺はまだ家から抜けだせていませんが・・・。

だめな奴なので、何事も躓いてばかり、すんなり行かない。

 

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○いつも助かっております

 

 

ひまがない

 

古代の天皇陵や天皇家の墓というのは、なかなか不確定要素に満ちていて、はっきりと決まってるわけではなかったりするんですが。たとえば欠史八代天皇陵は、ほとんど実際の天皇陵ではないんですよ、「天皇陵総覧」によると。古墳時代以前の天皇陵と伝わってるうち、何割が正解なのだろうか。古代に遡るほど、不正確要素に満ちているんだと思いますけど。

豊城入彦命のお墓とされる場所も不明瞭だったのですが、以前の記事で、下野市の「三王山南塚1号墳・2号墳」がそれではないかとの指摘をしました。ほんとは論文にまとめたほうが良いんでしょうが、ひまがないので・・・。

この仮説を補強する材料があらたに見つかったので、低学歴なりに適当に公表したいと思います。

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関東地方で、豊城入彦命が祭神となってる、または豊城入彦命の伝承のある神社をグーグルマップ上にプロットしてみました。その上で、それぞれの神社の社殿が、どちらを向いているのかを調べています。

ポイントから伸びている線の方向が、神社の社殿の真正面に向かう線ということになります。

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ここで分かったことは、

(a)・豊城入彦命に関係している神社の方角は、太陽とはほとんど無関係なものが多く見られた

(b)・豊城入彦命の多くの神社は、特定の方向に向いていること。それはすなわち

 ①赤城山に向いてる 9社

 ②三王山南塚1号墳・2号墳に向いてる 7社

 ③筑波山に向いてる 4社と古墳1基

 

豊城入彦命に関係する神社の社殿が、この③カ所に集中していたということは予想外なことでした。

つまり素人的な見地から推察してみるに、おそらく神社というのは

「信仰対象に向かって社殿を建てる」

という目的が古代の神道黎明期からあったのではないか、という予想がつくことでした。これは豊城入彦命の神社だけでなく、日本の江戸時代以前に創建された数万社の神社は、ほとんど全てがそうだったはずです。

近年は都会に新たに神社を創建する場合、道路の道に沿って建物を造営したり、土地の区画に社殿を合わせる傾向があるみたいです。本来の神社の向きについては、こだわらなくなってしまっているようですが。これは多分本来の意味合いが失われたことが影響してるかもです。

ということで従来からあった「太陽の冬至夏至や南中高度の方向に神社を向けてる」という神社の向きの仮説だけじゃ、社殿の向きは説明がつかなかったんですね。

 豊城入彦命の神社の場合は、信仰対象として選ばれた方角が赤城山であり、筑波山であり、三王山南塚だったわけなのですよ。ここで問題なのは、なんで神社の信仰対象に三王山南塚が含まれてるかってことでした。

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赤城山

赤城山というのは前回の記事までは、未調査で触れていませんでした。豊城入彦命に関係する重大な役割があったと気づいて、さっそく調べてみたのです。

f:id:kl117cr233:20160712105900j:plain写真は赤城山 - Wikipedia より

赤城神社 (前橋市富士見町赤城山)
社伝では、豊城入彦命が上毛野を支配することになった際に山と沼の霊を奉斎したという。

赤城神社 (前橋市富士見町赤城山) - Wikipedia

 赤城山というのはつまり、豊城入彦命が最初に信仰対象とした山なんではないかという予想はつきました。豊城入彦命の崇拝した赤城山だから、豊城入彦命を祀る神社9社が赤城山に向けられている、これは至極単純で納得の行きそうな話。

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筑波山

次に豊城入彦命の複数の神社が、なぜ筑波山に向いているのか。について。

筑波山は元々は東毛野を象徴する信仰の山だったことは、疑いの余地がないことでした。かつての豊城入彦命の治めた毛野国とは、北関東(群馬、栃木、茨城、埼玉)を中心とした土地。このあたりが豊城入彦の支配地の中心をなすところで、筑波山は支配地の東に位置します。

筑波山という山自体が筑波山神社の祀っているご神体そのもので、昔から淤能碁呂島であるとも言われてきたとか。筑波山の山頂は男体山と女体山の2つに分かれ、それぞれに筑波山神社の本殿が置かれています。男体山本殿で筑波男ノ神=イザナギを祀り、女体山本殿で筑波女ノ神=イザナミを祀っています。

筑波山の斜面の南方にある筑波山神社は拝殿だとのことです。つまり筑波山神社の拝殿に拝むということは、筑波山そのものとイザナギイザナミに拝むことに等しいというわけでした。

むかし一説に日本武尊が祭神とあったそうなのですが、その名残をとどめているのが筑波山神社の境内にある随神門です。現在の随神門では、拝殿向かって左側に倭健命(やまとたけるのみこと=日本武尊)の随神像が立っているんです。そして興味深いのが、随神門の右側に豊木入日子命(とよきいりひこのみこと=豊城入彦命)の随神像も立っているというところ。この随神門は文化8年(1811年)の再建ということでしたが、最初の随神門が建立されたのは寛永10年(1633年)に3代将軍徳川家光の寄進だったということなのです。

つまり江戸時代初期頃までは、筑波山神社では日本武尊といっしょに豊城入彦命筑波山神社の祭神の一柱だった可能性があるわけなんですが。そもそも筑波の山のあたりは豊城入彦命の支配地であったので、この可能性はあってしかるべきだったのですよ。

だから関東の豊城入彦命の関連神社の社殿が、筑波山に向いているのはあるていど納得できる話ではありました。

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筑波山神社 - Wikipedia より(右側にチラッと見えてる豊城入彦命の像)

 

 ②三王山南塚1号墳・2号墳

ということで、豊城入彦命の崇拝した・崇拝された山だった、「赤城山」「筑波山」に、豊城入彦命の神社の社殿の向きが整えられている、この事実を踏まえれば、三王山南塚に豊城入彦命の関連神社の社殿が向いている、このことの意味はおのずと分かってきました。すなわち、

「三王山南塚1号墳・2号墳が、豊城入彦命墓所であることを示している」

これの信ぴょう性は高いものだと思うわけなんですよね。この点についても電子書籍に加えたいところ。

ということでこれについての説明は省略するので、あとは前回の記事「電子書籍化する予定の「前方後円墳矢印説」の冒頭部分 パート1~9」を参照してください。

 

参考
電子書籍化する予定の「前方後円墳矢印説」の冒頭部分 パート1~9」

パート1

パート2

パート3

パート4

パート5

パート6

パート7

パート8

パート9

 

 

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