続き。これから豊城入彦命の謎を解きます。
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二荒山神社によって示された三王山南塚1号・2号墳
著者は今回、二荒山神社が豊城入彦命の御陵を特定する情報を保持しているとの、未知なる新事実を得ることができました。豊城入彦命の御陵を知る上でも、特別な存在だったのです。
二荒山神社で最も重要なのは、「社殿と参道の向き」です。神社の社殿の向きには深い意味があるとは、昔から指摘のあったことですが、具体的に何を表しているか、はっきりとは断言できませんでした。二荒山神社の社殿の向きについても同様です。
まず、二荒山神社の社殿と参道の調査を行う必要がありました。調査とは言っても、筆者は引き篭もりのプロフェッショナルなので、現地へ向かうことはせず、グーグルマップを使用して、二荒山神社の境内の建物と参道の配置を図案化するところから始めました。
図を見ての通り、二荒山神社の本殿・拝殿の角度は、間近の参道とまったく同一です。社殿から伸びる参道は、真南より6度ばかり東にずれた、南南東の方角を指しています。
試しに、前方後円墳矢印説と同様に、参道からの直線を延々と伸ばしてみました。すると社殿から19.8キロメートル離れたところに、全く寸分の狂いもなく、下野市大字三王山の三王南塚1号墳と2号墳があったのです。
豊城入彦命の御陵としての伝承が残る場所は、北関東の茨城県と群馬県のみです。そんな中で栃木県下野市は、茨城県と群馬県の中間地点に所在しています。
栃木県下野市の付近は、鬼怒川、田川、姿川といった流れにより、農耕文化が古くより育まれた土地です。ここは豊城入彦命が支配した、毛野氏の土地の北部に位置します。
三王山のあたりは関東平野北部で、少し高台に登れば遠方まで見通しがよく、古墳時代に土地を縦横無尽に移動する拠点としては、交通の利を得られる土地でした。
下野市内は、奈良時代の天平13年(741年)、聖武天皇が全国に建設を進めた国分寺の一つ、下野国分寺があったことで知られています。
独断と偏見に満ちた見地で、ひねりを加えて穿(うが)った見方をしてみますと、三王山南塚1号、2号の地域にも、昔は豊城入彦命の御陵としての伝承があったとして、決しておかしくない、地理的な位置と歴史的な経緯があると思われました。実際に豊城入彦命を祀っていたり、伝承を残している神社は多くあるからです。
豊城入彦命を祭神とし、本拠地であった最も重要な二荒山神社が、この遺跡を示しているのは、一体何を意味しているのだろう。生え際が薄くなるほど悩んだ挙句、回答を出すことができました。
豊城入彦命の宮殿であった二荒山神社が、「豊城入彦命の御陵は三王南塚2号墳である」と、体を張って訴えかけているのです。
二荒山神社の社殿と参道には、本来そうした意味合いがあったのに、悠然と経過する時間が人々の記憶を掻き消し、やがて真意は失われてしまったようなのです。しかし豊城入彦命の時代より連綿として、神社の社殿・参道の方角と古墳が、地元の方々により大切に維持されて来たことで、今回の仮説を導き出すことができました。
「神社の本殿・拝殿と、真正面の参道が、神社の祭神の関係地名を示す」ということになれば、「神社矢印説」が浮上してくることになります。おそらく二荒山神社の場合にはこれに該当しているとして間違っていません。
この「豊城入彦命の本拠・二荒山神社が、豊城入彦命の御陵を示す」という仮説、実は宇都宮二荒山神社だけに限らないことがわかってきました。
つづく
・パート7
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