この記事は2022年3月に改訂しています。海底の話を改定・・・😳
○いつも助かっております
神の天皇
よく知られる例としては、初代の神武天皇、第十代崇神天皇、第十五代応神天皇。
これらの漢風諡号は、8世紀の皇族で文人だった淡海三船により、撰進されたとか。
だから普通に考えれば、これら「神」のつく天皇の諡号についても、おそらく淡海三船が考案したんではないか、ということで。
神武天皇と崇神天皇は、双方とも「ハツクニシラススメラミコト」で同じ称号を持っていたので、一説によれば同一人物だったとか。だから双方とも「神」がつくのだとか。
また、江上波夫氏は、神武東征を実際に行ったのは応神天皇であるとして、神武・応神を同一視しました。
私見としては、神武・崇神・応神はそれぞれ個別の存在だったと思います。
崇神天皇は卑弥呼と壱与の習合と捉えているのですけども。崇神天皇=卑弥呼+壱与説については、本の中でもしつこくさんざん述べてきましたが、明確な証拠物件を『封印された叡智の回復』で提示する予定です。マグロご期待ください。
ところで「神」が付く天皇は、ほかにもいましたし。
和風諡号に神がつく、あるいは明確に神と呼ばれた方もいたのです。
列挙すると、
・崇神天皇
・神功皇后(気長足姫尊)
というふうな結果。神功皇后は大正時代以前は天皇として数えられました。
なお、歴代天皇とは皆「現人神(あらひとがみ)」であるとの表現は、今回は除外して考えてみることにします。
これらの漢風諡号・和風諡号に「神」がつく天皇と天皇、及び準ずる立場の人物には、なにかしら共通点があるに違いないと考えました。
神渟名川耳命と神八井命は、神武天皇の皇子なので神がついているのやら。
海を超えた天皇
崇神天皇は、拙著で明らかとしている通り、弁韓・朝鮮半島の倭地(任那)から、海を越えて九州へと上陸を果たしていると思われます。そういう意味で、古代にあっても神武東征と崇神東征が同一視されたでせう。それは日本列島の地名が、九州と近畿で同一系統であるとの調査結果からも、そう捉えておかしくないところ。
崇神天皇の諡号「御間城入彦五十瓊殖」を解読すると、「御間城(任那)から五十瓊(委奴・伊都)へ入った」と導き出せます。
崇神天皇の父・開化天皇の諡号の「大日日(大毗々」は、倭人の本拠のあった弁韓地域の「大伴跛」だと考えます。そうすると、開化・崇神は朝鮮半島の倭地に拠点を構えており、そこから九州へ渡ったのが崇神天皇であると諡号で示されていたことになります。崇神天皇が九州を目指したことは、諡号の中に奈良の要素が微塵もないことからも伺えます。
これについては拙著(電子書籍)参照。
神功皇后については、2度の新羅出兵を敢行しており、神のごとき進撃を見せたことが記録にあります。
応神天皇は、神功皇后が新羅出兵の際に、子宮の中にいたまま移動し、その後誕生したので、神渟名川耳命と同様の理由で、諡号に神が付いているといえた。
また、一説に応神天皇は百済の王族だったという話もどこかで聞いたが、その本は読んでない。(これだった→百済から渡来した応神天皇)
A・歴史的な大移動を果たした天皇には神が付く
B・その大移動を果たした神の天皇の子も、神が付く
この2つのケースがあるように考えられました。
Aに当てはまるのは、神武東征の神武天皇、新羅出兵の神功皇后、そのお腹にいた応神天皇。
そしてやはり崇神天皇に神が付くのは、Aに該当し、「崇神天皇が大移動を果たしたからである」と解くことができてしまいます。
だとすれば崇神天皇が「大移動を果たした」ことを淡海三船は熟知していて、崇神天皇の諡号に「神」を付けたと言えます。当時はそうした情報がまだ生きていたかもしれません。
Bに当てはまるのは、神武天皇の子の、神渟名川耳命(綏靖天皇)、神八井命(神武天皇の皇子)、応神天皇。神武天皇自身も、鵜葺草葺不合命という神の子なので当てはまっています。
しかも神武天皇の東征は私見によれば、日本列島で現実に起きた出来事でなく、信じがたいことに、夫余・高句麗の東明聖王(朱蒙)その人の行動が、日本列島に投影された(当てはめられた)ものという見解。
さらに東明の東征、神武東征、これらは、実は「オリジナル神武東征」を元にして現在地に投影されていると考えるのですが・・・。
これについても拙著(電子書籍)参照。
天皇家は確かに騎馬民族系だった・・・下巻の内容 。こちらも参照。
というふうに、神が付く天皇の共通点を見いだすことができたんですけど、真相はどうだったか、淡海三船の霊を、恐山のイタコに降霊していただいて、聞き出したいところです。
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