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たっちゃんの古代史とか

誰も知らない日本とユーラシア古代史研究。絵も本も書く。闇の組織に狙われてるアマ歴史研究者。在宅勤務の自営業。

聖徳太子は中央アジアから来た・・・西突厥の王族だった?

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聖徳太子の話題がツイッターにけっこう流れてきてましたので、気になっていました。最近の教科書は聖徳太子じゃなくて、厩戸皇子とか呼ばれて聖徳太子の呼称は控えられてるらしいです。実在性が疑わしいとかで。

以前取り上げた蜂子皇子と知り合いだったそうで、日本書紀にもかいてありますが。

聖徳太子は実在した、実在しなかったとは以前から論争があったのですが。架空の人物説だとしても、モデルになった人物はいた、それが廐戸皇子だという話になってると思うんですが。

 

ところで、

たっちゃん@古代史研究@t7a7t0o1  

一周忌の法事、辞退しますた。 理由?現時点で、精神的な疲弊。大勢の知り合い、の前に行くことの不安。 俺がいることで、悪感情を起こさせたくない。 俺がいなくても一緒、むしろいないほうが良いに違いない。 などなど。だから不参加

 

まぁ俺が生きてるだけで、通常の10倍以上のストレスが発生するっていうのは、本当です。「セカイを支配する巨大な怪物が、俺の行動に合わせて動き出してしまう・・・」と言っても、どのくらいの人が理解できるんだろか。

 

ということで、聖徳太子の話ですが、「聖徳太子中央アジア人説」ってあるんですが知ってますか。小林靖子著「本当は恐ろしい万葉集」からも概要は読み取れますよ。本の内容から引用するとこうです。

ササン朝ペルシアのホスローⅡ世(五九〇~六二八)は突厥と親交し、版図を西に広げようと六一七年から六一九年にかけてエジプトまで遠征した。このホスロー二世の冠が同時代の西突厥の達頭(タルドウ)、私の推測する聖徳太子の冠と酷似しているのである(『聖徳太子の正体』)。

 

つまり小林氏によれば聖徳太子の正体は、西突厥の王族、達頭という人物だったということなのです。「聖徳太子の正体」という本に詳しく書いてあるそうです。まだ読んだことがないので詳しく存じませんが。

達頭というのは達頭可汗という西突厥の可汗(王)で、阿史那氏の出身なんですが、栗本慎一郎氏の『シルクロードの経済人類学』によると、昭和の著名な歴史学者だった白鳥庫吉は、「阿史那氏は烏孫の後衛」であると考えていたとか。

つまり烏孫の後衛の西突厥の達頭が、日本へやってきて聖徳太子厩戸皇子)になったと、いうことがこれらの著書から導き出されました。

そして栗本慎一郎氏は、天皇烏孫があったセミレチアから来ていると言っていますし、もっと遡るとメソポタミアに遡りうると指摘していますが。

天皇と大和民族の先祖は、中央アジアの付近から来ているという認識の学者の著書はいくつもあるのでした。古代の天皇聖徳太子中央アジアから来たと主張していると、そんなこと、あるわけないだろボケという意見が強くあります。

でも何が本当かは、これから何らかの形で証明が果たされるんではないかと期待しております。

もしこれらが本当なら、中央アジア烏孫の末裔である聖徳太子が、中央アジア烏孫から日本へ先に到達していた天皇の下へやってきたのは、必然的であったと、そう考えることもできます。

 

聖徳太子中央アジアから来たであろうことを示す証拠が他にもあることには、実はすでに気づいていました。

廐戸皇子の名前から、ちょっとした推測が可能だったのでした。。

 

厩戸と聖徳から導かれる中央アジア

 

「廐戸」って変な名前ですが、なんでこの漢字じゃないといけなかったのですかね。実は、

「廐」は音読みで「キョウ」と読むのです。「戸」は「と、ど」ですが。

そうすると、「廐戸皇子=キョウド皇子」になるのですよ。

キョウドと言ったら「匈奴」のことなんですが。

つまり廐戸皇子は、匈奴皇子の異名を持っていたのではないかと。それを廐戸の字で誤魔化しているふうでもあります。まさか聖徳太子匈奴人だった?(いいえ違います)

それから、聖徳太子の「聖」ですが、これは古訓で「サカシ」です。

サカ+カシで、「サカ」と「月氏」という中央アジアの遊牧騎馬民族の名前が含まれてるではないですか。

 

すると、

「徳」は現在の日本語ではtokuで、紀元1世紀前後の漢の時代の音に近いのは「tok」でした。これを踏まえるすと、さらに答えに近づく気がします。

突厥というのはturkから派生した名称なのですが、そうすると突=tur 厥=kなのですよね。つまり徳(to-k)は、突厥(tur-k)の音が反映されてるのではないかと。

 

「聖」にはサカ、月氏の情報、「徳」には突厥の情報が、「厩戸」には匈奴の情報が含まれてたんですよ。いずれも中央アジアに君臨した歴史的国家でしたので、聖徳太子厩戸皇子が何処から来たか?を2つの名前によって暗示してたんではないかと・・・。妄想ですけど。

 

小林氏の仮説に当てはまるではないですか。聖徳太子が西突厥から来た説は、無視すべきではないと思います。

 そういえば蜂子皇子と聖徳太子は仲良しだったらしいのですが。なぜなのか?それは両者とも中央アジアから渡ってきているからとすれば。

蜂子皇子から知る、蘇我氏=サカ人仮説(1) - たっちゃんの古代史とか

 

そうすると聖徳太子の「徳」持っている、四国の徳島とは一体なんなのか?という疑問の答えに近づく気がしませぬか。徳島が仮に「突厥の島」→徳島ということになれば。以前取り上げた画像に、書き加えてみれば。

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これは書き加えた画像ではありませんが。

四国の徳島が突厥、すると阿波、淡路、淡海といった「アハ・オホ」は、トハリスタンから出て西突厥の後に中央アジアを支配した「エフタル」の「エフ」じゃないですか。っすると香川県は可汗(カガン)なのかと。

ちなみにウィキペディアによると、エフタルには嚈噠(ようたつ、Yàndā)、囐噠(さったつ、Nièdā)、挹怛(ゆうたつ、Yìdá)、挹闐(ゆうてん、Yìtián)という別称があり、イダというふうだと、中央アジアにいたユダヤ人の国であるかもしれませんが、これ、ほんとかもですが。。

 

日本にも関係ありそうな予感はあります。日本の別名が一時期「大養徳国」になったことがあり。

奈良時代中期の737年(天平9年)、令制国の「やまと」は橘諸兄政権下で「大倭国」から「大養徳国」へ改称されたが

大和 - Wikipediaより

養徳は嚈噠、挹怛、挹闐に関係があり、ユダの音写ということも。大和朝廷の正体というのは、一筋縄の考え方では、知ることはできそうにないです。

 

話は戻って、四国の阿波にエフタルが関連しているとの発想は、実際に証明が可能だったんです。

達頭可汗の時代(6世紀後半))に、なぜか西突厥には「阿波可汗」という人物がいたのですよ。阿波といえば、四国の徳島の阿波ではないですか。中央アジアの西突厥になぜか日本の地名と同じ阿波という人がいて、徳島=阿波である。つまり

 

突厥(tur-k)、阿波(apa)、エフ(eph)

徳(to-k) 阿波国、アハ(awa,aha,apa)

 

は、一致しているんですよね。不思議なことに。なんで西突厥の可汗は、日本の阿波という漢字を用いていたのか?

烏孫の後衛である天皇のいる日本列島の情報が、烏孫の後衛である西突厥の阿史那氏のところに届いていたから。そして日本列島がユーラシア大陸の雛形であるとの情報まで、西突厥に伝わっていたからとしたら。

と、妄想してみました。

 

 

 以下ご参考に。

天皇と大和民族の烏孫起源論のあらまし3 まとめ

 

王号

倭の王号は大王(オオキミ・オホキミ・キミ)

烏孫は昆弥(発音はクンミで短縮すればキミに近い)

 

動物に助けられる王

烏孫の昆莫は子供の頃、鳥と狼に助けられた(これは騎馬民族の神話)。

神武天皇は鳥(八咫烏・金鵄)に助けられた。神武伝説に狼は登場しないが、天照大神に助けられており、大神(おおかみ)が狼を示唆する。

 

大移動

烏孫の昆莫は月氏の本拠のあった敦煌付近から、天山山脈の北方へ大移動した。

神武天皇は九州の日向から奈良盆地へ大移動した。

 

息子が王位を奪うために反乱

・昆莫の息子、大禄は王位を奪うため反乱を起こした。

神武天皇の子、タギシミミは皇位を奪うため反乱を起こした。

 

つまり神武天皇とは烏孫の王その人、だったわけなのですが。これは「日本の地名の真の由来と神武東征のカラクリ仕掛け(下巻)」の続きとして書く予定だったんですが、なかなか思うようにいかないので、とりあえずブログに書き溜めております。

んなことあるかアホ~妄想癖~と言われそうな具合が、真実だった。それが古代の日本だったんですが、ちょっと。

なにしろ「日本の天皇と大和民族の歴史は日本列島が根幹」と言って硬化している日本の歴史学会は、この回答を殆ど出してくれないので低学歴のワタクシが調べるしかないという。聖徳太子の頃の知識人は、みんな知ってたのでしょうけど。

まだ説得力に欠けているかもしれないので、今後もさらに調査を進めすすめます。

 

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