古代中国人にとって、崑崙はとても重要な意味を持つ聖地でした。そして倭人自体も、実は崑崙と深く関わりを持つ人々が含まれていたのです。
今回はそこらへんに関係するお話ですが、内容はやや長めになってしまいました。
三角縁神獣鏡
— たっちゃん@古代史研究+アート (@t7a7t0o1) 2022年12月19日
「魏志倭人伝」にある、卑弥呼が魏から贈られた銅鏡が有力。倭国じゅうを夢中にさせた、神仙思想の銅鏡
描かれているのは神仙思想の絵柄。
崑崙山の西王母、東王父、王子喬ら仙人、
四神(青龍白虎朱雀玄武)や神鹿、馬車などhttps://t.co/zTdHKG0Sga pic.twitter.com/llMDPDaQLE
むかしから日本の各地では銅鏡が発見されていましたが、中でも注目度が群を抜くのが三角縁神獣鏡でした。この銅鏡は卑弥呼が実在した弥生時代のもので、全国で三百枚以上も見つかっていたりするとか。
「魏志倭人伝」に記述のある、卑弥呼が魏から贈られた銅鏡百枚とは三角縁神獣鏡であり、数が多いのは国内でどんどん鋳造されたからだと言われます。
この三角縁神獣鏡の表面を見ると人物や動物が描かれてますが、これは崑崙山に始まった神仙思想を図案化したものでした。
崑崙山の主神である西王母が描かれ、それに対応する東王父、それに名のある仙人である王喬と赤松子なども描かれてるようです。
さらに守護する四神は青龍、白虎、朱雀、玄武などがいて、神鹿までも含まれているとか。
この神鏡を祭祀に使うことによって、崑崙の龍脈パワーを得たり、四神の守護の力を得たり、西王母の桃の実の病気平癒や不老長寿のご利益などを願ったようです。
倭人にとって神に通じる宝物が、遠く新疆の崑崙山に由来したわけですけども。
じゃあなんで崑崙山の西王母の神鏡を、倭の偉い人たちは重視してたのだろう。そして日本書紀や古事記には、どうして崑崙山や西王母が登場しないんだろう。
という疑問があったりしますね。
実は当時大和民族のみやこがあった場所を見たら、答えが分かったりするのです。
崑崙山と三輪山は名前が似てるのは偶然じゃない件
三輪山は元々縄文時代から信仰されてきたとも言われ、当初は御諸(みもろ)山と言ったとか。
弥生時代になって、三輪山をご神体とした大神神社が創建されました。そこでは大物主神をはじめとし、様々な神さまが祀られたわけですが。
この三輪山のそばに、黒塚古墳があります。黒塚古墳では33面の三角縁神獣鏡が見つかって世間を賑わせました。
西方の広陵町の新山古墳では9面が見つかってますね。これらは一ヶ所で発掘された枚数としては、全国有数です。
まぁ奈良は大和の中心であり古墳が多いため、全国では三角縁神獣鏡の出土がダントツに多いようです。
それでこの三輪山自体にも、どうやら「崑崙山の信仰を入れ込んでいる」んじゃないかと気が付きました。
それは黒塚古墳の三角縁神獣鏡だけでなく、三輪山という名前自体にも現れていますよ。
例えば三輪山がなんで「輪」なのかは従来の由来などでは説明できないですが。
しかし「崑崙山を三輪山に鏡写しにしている」とすれば説明がつきます。
崑崙山 →山山山=三つの山
kunulu くぬる(チベット名)
崙→侖
三輪山 →三つの山
輪=車侖→くるろん
輪→侖
ツイッターで指摘いただいたのですが、崑崙山は「山」が三つ並んでる。
これが三輪山という名前で対応してるわけです(三山)。
しかも崑崙と三輪は「侖」の字で一致してたりもするし。
チベット名で崑崙は「クヌル」となるのですが、車侖を「くるろん」とすれば崑崙(こんろん)に似ている感じがしました。
こんなふうに、三輪山に崑崙山を重ね、鏡写しにしていると思うわけなんです。
すると記紀神話に三輪山が登場するシーンとは、実は崑崙山を重ねている感じになってるようです。
見た目も似てる件
西域から崑崙信仰を持ち込んだ古代大和民族の先祖は、大和盆地と三輪山の山地を見て、「崑崙山脈に似てる」と思ったかもしれないです。
比較してみました。
崑崙山脈と三輪山付近の比較 崑崙山脈 - Wikipediaとグーグルマップ使用
長く連なる崑崙山脈の山並みと、手前のタリム盆地(タクラマカン砂漠)。
山脈と盆地という構図もあわせ、とても似てますね。大和盆地とは、タリム盆地の鏡合わせの存在なよう。
まぁ笠置山地は標高がせいぜい200~500m台、一方の崑崙山脈は標高5000~7000m台と途轍も無い規模で、標高差は10倍以上あるんですけどね・・・。
市街地がなかった昔はもっと似てたでしょうね。特に奈良が砂漠色に染まる秋や、冠雪した冬には。
すると崑崙山脈を実際に見たことある人々は、「崑崙と三輪山って似てるねぇ🙃」と思ったに違いないです。それで三輪山を崑崙の鏡写しと選んだのは想像できるところ。
実際に風景を知ってないと無理だから、彼らはわずかな年数で崑崙から三輪山に辿り着いてるかもしれないです。
古代にはペルシャとか西域あたりから多くの渡来人が、日本まで数年~10年ほどかけて到達していました。そうした旅路は命懸けとはいえ、不可能ではなかったです。
笠置山地の三輪山の北側には、龍王山があります。この龍王山は戦国時代の龍王山城として知られてまして、古代には水神である八大龍王を祀る山だったとか言われてるところです。
不思議なことに、周辺を見れば龍・竜の地名や、龍を祀る神社だらけだったりするんです。九頭神社や龍王神社など数十ヶ所もあり、もはや異常なレベル。
龍王山が八大龍王を祀っていたように、風水の思想では龍神が住まう崑崙山脈の付近は八大龍脈の中心地になるところと言われていました。これは偶然の一致ではない感じがしますね。
三輪山を見れば八大龍王辨財天大神(龗神神社)があり、龗神という龍神水神を祀っていましたし。この神は罔象女神(みずはのめのかみ)、瀬織津姫とも同一視されたりもするとか。
もう三輪山と龍王山付近は龍脈の龍穴だらけで、ご利益をもたらす宝石箱みたいなところのようです。
神仙思想によると、崑崙山はエネルギーを放出する龍脈でありました。仙人に昇華する人の魂は龍の背に乗って、崑崙山に向かうと考えられたとか。
西王母がいたのは、崑崙山の中にある龍山、あるいは西亀山だとか伝わってました。
龍王山というのは、龍の王の山、つまり大地と水の神である龍と、西王母という仙人の女王とが住まう場所として相応しい命名になっています。龍山の鏡合わせが龍王山というわけです。
また仏教の世界観は、中央の須弥山の周囲の金輪に9つの山脈と8つの海が取り巻き、海には人間の住む島があるといいます。そして金輪際を境界とし、その下に水輪と風輪があるというわけですが。ここで九龍金輪が出てくるのと、崑崙が龍脈龍穴の場であること、龍神が水神風神であることは無関係ではないです。
そして三輪山の南に目を向けると竜門山地があって、その中心には竜門岳の姿。龍王山付近の龍脈は北から南へと長く伸びて紀伊山地へ向かっています。
風水龍脈ツアー
すると奈良盆地のあたりには、崑崙山とタリム盆地のような地名があるんではないかと深夜から朝方まで思い込みました。実際に探してみますと、気になる地名が幾つもあったのでまとめています。
・タリム
奈良盆地がタリム盆地の鏡合わせになっています。するとタリムやタクラマカン的な地名が、奈良盆地にあって然るべきですね。
ありました。三輪山の南側にある鳥見山。トリミ(torimi)タリム(tarim)そのまんまです。鳥見山は神武天皇が天神を祀ったと伝わってるところです。
・ニヤ
タリム盆地に尼雅(ニヤ/niya)があって、紀元前の遺跡が残っているのです。ニヤとミワ(miwa)なんか似てますね。三輪山には崑崙だけでなく、尼雅が影響してるのかと。
・ホータン
タリム盆地にはホータンがあり、古代西域の中心となるオアシスでした。ここはおそらく奈良盆地では、三輪山の目の前にある「太田」という土地かもしれないです。
ホータン、オータン、似てますし。
隣の豊田も「ホータン」ですし。
ホータンは「和田」と書くのですが、日本語だと「オタ」とも読めるので太田と一致するんですよね。ということで、全国の太田さんも和田さんもびっくり。
そして奈良の太田には、ちょうど弥生時代の纒向遺跡があるのですが。個人的な見解を言えば、纒向遺跡とはホータンに関わる遺跡じゃないかと思ったりしますね。
纒向遺跡では3,000個近い大量の桃の種が見つかってますが、神仙思想の祭祀跡であるとか言います。崑崙山の西王母が蟠桃園の仙桃の実により不老長寿をもたらすと信じられてました。
纒向遺跡をホータンに見立て、三輪山を西王母の崑崙山の鏡写しとして、3,000個の桃をお供えしたんでしょうかね。
崇神天皇の時に神がかりして大物主神を祀れと言った太田田根子も、「ホータン田根子」だったのかと。三輪山には大直禰子(おおたたねこ)神社があります。
・西亀山
西王母の居場所は、龍山か西亀山でした。西亀は音読みすればセイキで現地音だとシキに近かったんじゃないかと思います。
すると三輪山の前にある土地が「磯城(しき)」だったのも、西王母の居場所に合わせてたのかと。
崑崙山の目の前の盆地はタリム盆地で、タクラマカン砂漠とも呼ばれます。
この名がもしかすると、高天原の元になってるのかという感じもしました。
高天原はタカマガハラ、タカマノハラですが、タクラマカンが「タクラマハン」と転訛していればほとんど一緒の名前になるんですよね。
天岩戸神話の舞台が西域であったという話や、崑崙山が三輪山だという話をもとにすると、タリム=タクラマカンこそが高天原でおかしくない感じがしました。
・弓月
新疆のタリム盆地の北方の天山山脈の付近は烏孫でしたが、4世紀頃になると弓月国があったのです。ここは景教徒(ネストリウス派キリスト教)の国でした。
新羅や百済から渡来したという秦氏は、弓月国から来たと言ってます。これ、百済から来たという意味ではなくて、天山山脈の弓月国の方だと思っています。
それで奈良盆地のほう見てみると、やっぱり三輪山のすぐ北のところに、弓月ヶ岳があるんですよね。ここが弓月国と鏡合わせになってる証拠です。
・烏孫
そして以前にもお伝えしましたが、奈良盆地とは烏孫の居場所をも示していました。
イシククル(イシク湖)は西域の天山山脈のふもとにある湖で、このあたりに烏孫があったんです。
奈良盆地でいうと、安堵町や斑鳩町のあたりは3世紀頃まで大きな湖があり、大和湖とか奈良湖と呼ばれてました。ここがおそらくイシク湖に鏡合わせになったと考えられます。それで石切とか石上とか磯城という、イシク的な地名が残ってるわけなんです。
・ハンテングリ(天山山脈)
西域の天山山脈はハン・テングリといって騎馬民族が崇拝する山でした。テングリとは天上界、天神のことで澄み渡った青空がその象徴だったとか。そして天山山脈もテングリの山でした。日本でいうところの高天原の天神と言った感じです。
このテングリ山を表しているのが、平群(へぐり)という地名だったかもしれないです。テングリ→ヘングリ→平群。
生駒山は別の表記だと胆駒山だったとかで、タンコマだったとするとテングリからの転訛したものかと思ったりもします。
簡単な地図にまとめるとこうなります。
以前に作った地図
かつて奈良盆地にあった大和湖の本来の名はイシク湖だったりして
上記の記事のマップを元に、新たに作成したマップ
西域の地名を重ねて比較してみました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
まぁこんなふうに考えていくと、三輪山が崑崙山、奈良盆地はタリム盆地に対応した土地だったと理解できたんではないかと。妄想ですけども。😓
そして忘れていけないのが、崑崙山の神様である西王母の存在でした。次回はこの神さまの、知られざる正体を明らかとします。
ポチされでたすかっております
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