たっちゃんの古代史とか

誰も知らない日本とユーラシア古代史研究。絵も本も書く。闇の組織に狙われてるアマ歴史研究者。在宅お仕事中。

吉野ヶ里遺跡の石棺は古代フェニキアに関係する気がする件

先日に吉野ヶ里遺跡で、歴史的にとても重大な発見があったそうで。今回は吉野ヶ里遺跡に関する、変な話。

 

 

吉野ヶ里遺跡日吉神社で発掘された石棺

 

吉野ヶ里遺跡 - Wikipedia

 

近年は神社の境内から、古墳が見つかる出来事が相次いでるようです。古来よりの聖地となっている神社は、やはり大昔から重要な意味を持っていたようで。

弥生時代に創建された小高い丘の神社、多くが元々古墳なのであり、有力者の石棺が埋まってるのかもしれない。そんな気がしました。

さて佐賀の吉野ヶ里遺跡邪馬台国の候補地として知られてますが、当方も筑紫平野一帯は、卑弥呼のいた邪馬台国だったと思っているのでした。

 

 

吉野ヶ里遺跡には日吉神社が鎮座していまして、そこは長らく未発掘の「謎のエリア」だったとか。そこが石棺の発見場所だそうです。

そういえば、ここ数日で奇妙な出来事がありましたが・・・。

 

何か、因縁めいたものを感じてしまいます。深い所で結びついているのだろうか。

 

日吉神社と言えば大巳貴命、大山咋命を祀る神社だそうですね。

日吉大社 - Wikipedia

出雲の神と山の神。そこの地下に1800年間も横たわっていた石棺ということで。そんな神さまを崇めていた邪馬台国の王族やら皇族みたいな、歴史的な人物なんですかね。

 

 

妄想すると石棺の主はフェニキア人の末裔

 

まぁいつもの妄想ですが、あの石棺からはフェニキア的なものがふつふつと湧いてくる感じがします。その理由を簡単に解説しますが・・・。

佐賀や熊本や長崎のあたりは、古代には火の国でした。

個人的な「日本列島大陸ひな形論」によれば、火の国はフェニキアに対応する場所なのですよ。

古代の大陸と日本列島を照らし合わせてしまった妄想地図の最新版 - たっちゃんの古代史とか

 

名前を見てもそれが証明されたりするのです。

火の国   hi-no-kuni

フェニキア phoe-ni-cia(fe-ni-cia)

フェニキア→フィノクニ→火の国

 

不知火海(しらぬいのうみ)…(有明海八代海

不死鳥 フェニックス・フェニキア

 

フェニキアの「キア」とは 地名接尾辞の一種で、「国とか地域」の意味があるのだとか。

フェニックスとは火の鳥で不死鳥ということも踏まえると、なにかフェニキアと火の国は似通っていますね。火の国には不死鳥を思わせる「不知火海」がありますし。不知火は光の怪奇現象だとか言いますが。

そういえばフェニキア人は紀元前600年にアフリカ大陸一周したそうで、航海術に長けてましたが、海の民である倭人に似てますね。

そのアフリカ一周を頼んだのはエジプト王「ネコ2世」だったそうなのですね。

それで熊本はケメト(エジプト)に対応する土地であり、火の国熊本には根子岳があるのも、やはり必然的なものを感じてしまいました。

 

 

妄想すると石棺の記号はフェニキア文字

 

しかも石棺には、フェニキア文字らしきものがあるではないですか?

まぁ一般的には「記号」であるっていうかもしれないですが。誰がどう見てもフェニキア文字ですよね。

 

 

フェニキアと鏡合わせの火の国で、フェニキアの末裔の王であるから、石棺にフェニキア文字が刻まれている、ってなるとスムーズな展開だと思うのですが。

もし石棺の記号がフェニキア文字だとすると、日本の最古級の文字は漢字や神代文字や、ペトログリフだけではなかったことになりますね。倭国ではフェニキア文字も使われてたことが、明らかになってくるわけですが。

まぁシルクロード中央アジア、中東と繋がっていて、古代にペルシア人が来ていた記録もあるわけなので、中東の人々や文物や文化風習が到達していてもおかしくないわけですけども。

 

 

ホシサン デコポン 火の国ぽん酢

 

 

石棺がフェニキア

 

それで石棺の写真をじっと見つめたのですが。分割したサツマイモか、埼玉みたいにいびつな形で奇妙な感じを受けますね。

 

 

だいたい全国で見つかってる墳丘墓や古墳の埋葬部は、木棺や石棺を用いて左右対称な立方体型だったりするのに。吉野ヶ里遺跡から発見されてるお墓も、そんな感じでしたし。

北墳丘墓|吉野ヶ里歴史公園

なぜいびつな形なのだろう?と小一時間考えたのですが。

 

なんかあの石棺、フェニキアの形に見えてきました。

以下はフェニキアの当初の拠点であった、レバノンあたりの地図です。

フェニキア人 | 世界の歴史まっぷ

 

桃色のとこですが。一見すると、あんまり似てませんね。

しかしフェニキアの南部を切り取ってみると、あら不思議。石棺の形と一致する気がしますね。

まぁ妄想ですけども。

偶然が幾つも重なるということは、偶然んじゃないことを意味するんではないかと。

 

フェニキアの流れを汲む有力者だから、フェニキア文字が刻まれていて、フェニキア(南部)の形をした石棺になってる、と考えたら自然ではないかと。

 

 

吉野ヶ里遺跡フェニキアギリシア要素

 

フェニキア - Wikipedia

 

実は以前に吉野ヶ里遺跡とは、ギリシアの古代都市アテネアクロポリスを模したものではないかとの仮説を立ててたのですが。

ギリシアフェニキアは紀元前の地中海で、覇権を争った海洋民族でした。両者は別物ではありますが。

「火の国という土地にあっては、彼らの子孫も融合した」んだろうなと思うわけです。

 

フェニキア人は地中海沿岸のチュニジアに、カルタゴを建設したんだそうですね。海の民であるがゆえに、海辺に拠点を構えたというわけです。

一方で吉野ヶ里遺跡は当時、海辺の町だったことが分かっています。

筑紫平野は弥生海進かなにかで現在より海面が高く、有明海不知火海、筑紫海)が内陸まで入り込んでいたからです。

古代に吉野ケ里町は神崎郡とか言われてましたが、崎とは岬のことを表すので、比較的海に近いところだったことが地名にも現れています。「神の岬」なので神殿の場所にはぴったり。

ここが仮に邪馬台国だと、船の移動は容易だったでしょうね。しかし対外的には場所を知られては不味いので、「魏志倭人伝」では「水行20日とか陸行1月」とかでたらめを書いておかねばならなかった気がしますですね。

 

そしてこの吉野ヶ里遺跡は、どうもアテネアクロポリスのような気がしました。

・アテネのアクロポリスの要素が吉野ヶ里遺跡の設計図に含まれていたか

配置も良く似ているようでした。まぁ妄想ですけども。

 

そういえば佐賀には「ヶ里地名」がありまして、これが謎とされてるのですが。

カルタゴ kar

ギリシア graecia

ヶ里  gari

ヶ里の正体は、これだったりして。

 

・・・・・・・・・・・・

というわけで、吉野ヶ里遺跡が古代フェニキアに関係する理由はこんな感じになっています。また発掘が進んだら、詳しくわかるかもしれませんね。

 

 

ぽちでたすかります

(望んでないのにスケベ広告を入れられて酷い・・・広告やめようか検討中)

 

 

人気ブログランキング