以前から倭の女王卑弥呼について、様々な考察してました。
とくに卑弥呼の男女二面性について。
今回は卑弥呼の名前や事績から、さらに男の情報を引き出してみます。
○ワタスが助かる広告
卑弥呼は天照大神と同じであるとの話は、安本美典氏の著書「天照大神は卑弥呼である」にあります。いわゆる「天照大神卑弥呼の同一説」です。
「日本書紀」を開けば、天照大神はスサノオと契約するにあたり、武装を身につけた角髪を結ったとありました。武具も角髪も男性の象徴だったので、言い換えると天照大神は男装してたわけです。
天照大神卑弥呼同一説からすれば、天照が男装したんだから、卑弥呼も角髪を結って、男装していて然るべきことです。
一方で実質的に天皇として君臨した神功皇后は、「日本書紀」の本文中で卑弥呼と同一視されています。
しかし卑弥呼は3世紀前半、神功皇后は4世紀後半と100年以上、数世代の開きがあって同一とするには無理がありました。
この神功皇后、新羅出兵にあたり男装したことが伝えられることから、卑弥呼の格好までも意図していたことが伺い知れるんですよ。
つまり天照、卑弥呼、神功皇后の三者は、男装した女君主だったわけです。
これは天照大神が男装したことに倣っているものであり、のちの皇極天皇(斉明天皇)も天照大神と卑弥呼の行動を踏襲していました。
古代の女性天皇は、天照大神の動きに倣うことで自身が天照大神の化身だーとか、生まれ変わりだーみたいなアピールがあったようです。
「古事記」で太安万侶は、崇神天皇を「后」と表現し、あたかも天皇妃のように記していました。すると崇神天皇の正体は女性、女王だったと、太安万侶は密かに発想していたようでした。
すると卑弥呼が男装してお出かけした姿が、崇神天皇だったとしておかしくないと考えています。その証拠は卑弥呼と崇神天皇の名前からも伺い知れるのですが。
巫女と皇子
卑弥呼の「みこ」は、巫女との解釈が昔からありました。巫女は神懸かるシャーマンの役割を担う女で、倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)が代表格です。
だから卑弥呼は日巫女であるとの仮説は、江戸の昔からありました。
一方で記紀でみこと言えば、皇子(みこ)のことだったりしました。すると卑弥呼は、日皇子も当てはまってることになる。
女を表す巫女、男を表す皇子、どちらも卑弥呼に含まれています。名前に皇子と男情報を込めているのは、卑弥呼が天照大神のように男装をしたからだと考えるんです。
そして崇神天皇の和風諡号である、御間城入彦五十瓊殖を観ると、女を象徴する文字が見つかります。「瓊」は赤い玉のことで、これは「日本書紀」に登場する海を超えてきた天之日矛の妻、阿加流比売神(あかるひめ)に関わるものだったりする。
崇神天皇の諡号は「任那城(御間城)から委奴(五十)国に入った」ことを表し、彦と瓊(あかるひめ)男女両面を持っていることも無視できなかったりします。
古代に男の武具だった弓を持つ卑弥呼
検索してみると、もう16年も前の記事でこんなの見つけた。
「礼記-射義-」考 第四 古代中国における礼と弓a1a3b1
●古代中国における礼と弓
弓矢は強力な武器であり、武力によって征服した異民族を制圧するため、必要な最も重要な手段(武術)だった。その為、奴隷所有の支配階級者にとって弓射は不測の暴乱に備えた必須の条件で、軍事力強化を目的に大いに奨励された。
「禮記」中の内則(だいそく)第十二には息子(男子)が生まれたらドアの左側に弧(桑の弓)を一張り懸ける、「懸弧」とあり、成童(十五歳)になると射御(弓術と馬)を習うのが義務である、と述べている。(注1)これは「弓術は男の仕事である」という意味で、弓術は男性に必須の科目であり、必ず備えなければならない能力であるということを意味していた。
また、「資料」は夏・殷・周三代の頃の父親は、「桑でできた弧、蓬(ヨモギ)で作った矢六本を以て、天地四方を射た」(注2)と述べ、これは、男の子が成長した暁には弓射の威力をもって天地四方及び自然世界を征服する事を願ってのことで、弓矢が世界を支配する為の重要な武器である、ということを表現した儀式であった。
今でこそ弓道は、女性参加者が多い武道ですけども。
古代中国にあっては、弓矢で獲物を取るのは完全に男だけの仕事でした。これは日本でも、江戸時代までは同じ傾向にありました。
江戸時代のころの女性が弓関わるときは、弓道場や鷹場にて矢を拾う矢取とされたのみでした。弓矢を志す女性がいたとしても、数えるほどでとてもめずらしいこと。
日本で多くの女性が弓道を志し始めたのは、戦後の高度経済成長時代より後のことだったとか。
卑弥呼の漢字をみれば、弥は彌でありますが、これは弓+璽(しるし)ですね。
しるしと言えば天皇の宝物を意味しているので、この人が天皇だったことは想像できます。崇神天皇の諡号の御間城の「間」も、門から見える月を表しているので、ここでも卑弥呼と崇神天皇の繋がりがあったります。
弓が付いているのは、女王卑弥呼が弓を持つ男装をして、崇神天皇になっていたことの現れなようです。
要するに天照大神が武装した姿にならい、卑弥呼に弓の字を使っているのでしょう。これが卑弥呼が男装した証拠の1つです。
卑弥呼のいた土地は弓の土地
ちなみに弓は弓張月や月の弓というとおり、三日月を表す言葉でした。卑弥呼の所在地は、おそらく月を象徴する土地であることを表すとみています。古代人は名前に地名が入っているのは、多々あることでしたので。
福岡の古名、筑紫国の筑は「つき」で、月を意図してることはあまり知られない事実です。福の「畐旁」は酒を満たしたとっくりで、酒を飲むときの容器は杯(さかづき、酒月)。だから筑紫が月に関係しているのも、無視できないところ。
また筑紫には白日別(しらひわけ)という古名があり、白の字源は陰陽をあらわす「入二」とされることから、ここでも崇神天皇が福岡に関係することがわかったりするのです。
入が女性をあらわすのは、女性の象徴を女陰と描くことからもわかります(^o^;)
つまり崇神天皇は、男女入替る存在であることが、男性的な彦、女性的な入と瓊という漢字で示されているでしょう。
ちなみに個人的には安本美典氏の卑弥呼の居城は朝倉説を支持していますが。筑紫国の上座郡・下座郡(あさくらぐん)と思っていました。座は高御座を表す上に、ここは平塚川添遺跡という巨大遺跡があります。座は「います」と読むと弓矢を射ますので、卑弥呼の弓の場所に相応しいと思えます。
弓張月は秋の季語ですが、福岡には秋月という土地があります。ここはちょうど、平塚川添遺跡と同じ朝倉市内で、地理的に近いことも偶然ではなさそう。
安本氏の話で顕著なのは、「北部九州と奈良の地名の同一性」です。
福岡の大三輪山のそばに秋の弓張月こと秋月があり、奈良の三輪山のそばには弓月岳が接しています。地名が福岡の第一邪馬台国から、奈良の第二邪馬台国(大和)へ移されたことと関わるようです。
あと個人的に思う卑弥呼の拠点候補は、吉野ヶ里遺跡です。こちらは弥生時代後期最大の都市遺跡であり、城のような場所もあることから卑弥呼の居場所に相応しいです。
卑弥呼が崇神天皇の姿をしていたとすると、あのへんを闊歩したのかと妄想しています。
卑弥呼の名前の解釈については、他にも色々あるので、関連記事を参照してください。
関連記事
人気ブログランキング