どこかの王様やお姫様が、庶民の格好をして出歩く。というシチュエーションは漫画や童話でありがちですが。
実は卑弥呼も男装して出歩いてたのでは・・・と言う仮説。そして
卑弥呼は記紀のなかで複数に分かれて記録された・・・という仮説。今回はこのへんについて。
○いつも助かっております
(1)男装してた卑弥呼
これについては3世紀の「魏志倭人伝」、712年の「古事記」、712年の「日本書紀」と、2012の「崇神天皇に封印された卑弥呼と壱与」なしには語れません(同列にしてしまった・・・)
個人的に、崇神天皇には卑弥呼と壱与が習合されたとします。それで、男の天皇と女王が同じ人物じゃ、性別が違うからおかしいではないか。という意見が当然なことに出てきます。当時、本を書いた時、この点はあんまり考慮しませんでした。これには巨大な根拠、略して巨根拠がありました・・・。
卑弥呼という人は、弥生時代末期にあって、あまりに存在が大きすぎました。それは倭を統治した者であり、神に通じる最高位のシャーマンであり、「女王様が最高位の大魔導師」みたいなゲームとか漫画みたいな設定が、3世紀にリアルで存在してたわけなので。
日本の記録に確実に残されているのは明白と考えられました。
1人だけというわけじゃなくて、日本史の中で複数の人物や神として散りばめられていておかしくなかったのであると。
安本美典氏の著書「天照大御神は卑弥呼である」では、天照大御神(あまてらすおほみかみ)の正体を卑弥呼としていました。どちらも女性で太陽の巫女で倭の女統治者で・・・とあまりに共通点が多いからです。
「日本書紀」では神功皇后の記録のなかに、卑弥呼と壱与の記録を登場させています。つまり編者の舎人親王らは、神功皇后に卑弥呼を重ね合わせて見てた、ということが想像できました。
個人的にも、
合ってると思います。
「男装した」
という特徴的な記述なのです。
天照大御神はスサノオと対峙するにあたり、男物の衣服(はかま)、男の髪型(みずら)、多数の武器と防具で完全に男性の姿となって出迎えました。(「日本書紀」、素盞鳴尊との誓約)
一方で神功皇后は新羅に攻め入るにあたり、男性の髪型である髪型(みずら)とし、斧まさかりを手にとって男装で船に乗り込みました。
ここで神功皇后ついて考慮すべき事柄として、
1・神功紀に登場する新羅王、百済王がことごとく4世紀の人物であること
2・神功皇后の墓所と伝わる五社神(ごさし)古墳が4世紀の墓であること
3・神功皇后が百済から下賜された七支刀が4世紀の品物であること、つまり七支刀が渡されたのも4世紀
であることを踏まえると、卑弥呼の時代(2世紀末~3世紀中葉とは、ぜんぜんあてはまってないのです。明確に神功皇后が卑弥呼と同一人物と、言うことができないのわ分かりますね。
ということで卑弥呼の出来事を投影させている天照大御神と神功皇后の2人、2人とも、男装をして戦地におもむいたという状況が見えてくるということは。
「卑弥呼自身も男装をして外を出歩いていた状況」が見えてくるではないですか。
「魏志倭人伝」
倭国乱れ相攻伐すること暦年、乃(すなわ)ち共に一女子を立てて王となす。名づけて卑弥呼という。鬼道に事(つか)え、能(よ)く衆を惑わす。年巳に長大なるも、夫婿(ふせい)なく、男弟あり、佐(たす)けて国を治む。王となりしより以来、見るある者少なく、婢千人を以て自ら侍(はべら)せしむ。ただ男子一人あり、飲食を給し、辞(ことば)を伝え居処に出入りす。
(「中国正史日本伝(1)(」石原道博編訳)より
これに男装と関連付けてみる
・衆(民衆)を惑わした(男装して)
・王となりしより以来、見るある者少なく(卑弥呼は男装をして外出するから誰も気づかない)
・ただ男子一人あり、飲食を給し、辞(ことば)を伝え居処に出入りす。(この男子一人とは卑弥呼自身だったりして)
すなわち卑弥呼が男装した姿が、日本書紀での崇神天皇。ということになるわけなのですが。
(2)卑弥呼が封印された複数の人物
卑弥呼という人は、歴史上の複数の人物に投されてたことは、なんとなく分かってきましたね。ここで気になるのは、
「日本書紀の神功皇后の記録に、卑弥呼だけでなく壱与の記録までも挿入されてる」のは何でかということですよ。
神功皇后は4世紀の人なのに、3世紀の卑弥呼と壱与の記録を入れ込む必要があったのかという問題点。これについては卑弥呼と壱与、天照大御神、崇神天皇、神功皇后という上流階級の人々を比較検証することで、わかってくることがあったのですけれど・・・。
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卑弥呼と壱与が投影された人物の検討
以下でこれを検討してみます。
a・卑弥呼と壱与
まず「魏志倭人伝」などに記録のある、この2人の倭の女王が基礎になっていると言える。
b・神功皇后
「日本書紀」の4世紀の神功皇后の中に、なぜか3世紀の卑弥呼と壱与の記録が挿入されていました。神功皇后に卑弥呼と壱与の記録があるということで、日本書紀編者の舎人親王は、歴代天皇・皇后の中で卑弥呼と壱与を当てはめるとしたら、どうしても神功皇后じゃないと駄目だという思いがあったようです。つまり
なのであり、「神功皇后は女王2人分」の情報を有しているのでした。
c・崇神天皇
「崇神天皇に封印された卑弥呼と壱与」でも書いてましたが、「古事記」にあっては崇神天皇とは「賢后(さかしききみ)」であり、女性天皇としての示唆が見えていました。編者の太安万侶は、おそらく崇神天皇の中に卑弥呼を見いだしたのか、過去から存在していたの異伝が、彼の処に存在していてそこから得た情報なのか。
・倭迹迹日百襲媛命
崇神天皇については「日本書紀」で、天皇家の巫女である倭迹迹日百襲媛命(やまとととひももそひめのみこと)についての話も入っていました。
倭迹迹日百襲媛命こそが卑弥呼であるという仮説も存在していますが、これも実は正解のひとつと思われます。
「日本書紀」崇神天皇の時代の出来事と、「魏志倭人伝」卑弥呼の時代の出来事を比較して並べてみると、倭国大乱の状況、共にはじめての人口調査をしているなどなど、非常に似通っていることがわかります。これについては過去記事か著書参照。
要するに崇神天皇と卑弥呼は、同じ3世紀の時代の人物だったわけなのですが。個人的に両者は同一人物としたのが「崇神天皇に封印された卑弥呼と壱与」。
崇神天皇についての記録は、倭迹迹日百襲媛命の死をもって前半部が終了。後半も崇神天皇の時代が続いていくわけなのですが。つまり崇神天皇が「后」で女性天皇であり、別人格としての倭迹迹日百襲媛命が、合わせて記録されていることを踏まえると、
という仮説が浮上してくるわけなのでした。これは拙著に書いた処。
安本美典氏の著書「天照大御神は卑弥呼である」これも正解だと考えられました。
「日本書紀」では素盞鳴尊が暴れたせいで、天照大神は天の岩屋に入って一度引きこもって、岩戸を閉じてしまい、世界は闇につつまれてしまいました。天照大神を引き出すために、八十万神(やそよろず)の代表格であるアメノコヤネ、アメノウズメ、らが必死になっていたのが天の岩戸でしたが。ちなみに安本美典氏は同著書で
の立場を取っていました。
ここで登場した岩屋とは墓を意味していています。
「天照大御神が岩屋に入る=死」を意味しているわけなのですよ。そして
「儀式を経て岩屋から出る=復活」を意味しているわけなのです。そういう意味があったので、天照大御神は一度死んだあとに再生した、ことが表されていて、イエス・キリストみたいですが。
簡単に言うと天の岩屋神話とは
天照大御神の死と再生 = 卑弥呼の死(女王の死)と壱与擁立(女王の再生)
という現実の出来が込められていたと思われました。
これら複数の「2人で1人」をまとめると、以下のような表になります。
ちょっと見づらいですが。
この記事の内容も「封印された叡智の回復」に含まれてたのですが。予定通り出版できないので、ブログで先に書いてしまいました。。
ちなみに天の岩屋神話は、これもまた日本固有神話ではない様子で、ユーラシア大陸各地に天の岩屋神話同様の神話が伝わってるとか。ということは、日本神話の中にユーラシアの要素が入っていておかしくないことに。
これについては次回。
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ついでに今日のイラスト。
なにも資料見ないで、下書き、ペン画、色つけで2時間かけた。
まぁこんなものではないかと。色つけは手抜きで。
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