前々回には、倭迹迹日百襲姫命(やまととひももそひめ)は、時間を司る巫女だとか言ってました。前回には家屋文鏡には日時計が描いてあるとか言ってました。
今回は日時計が設置されていた場所が、見つかったとか言ってます。
吉野ヶ里遺跡の変な環濠集落
弥生時代の後期、倭迹迹日百襲姫命が時間を日々測ったのは神浅茅原。それは奈良だと言われてるのですが。どうもそうとは限らない感じがします。
というのも奈良の三輪山と同じ名前の山が、福岡の筑前町にもあるからなのです。現在は小鷹城山と呼ばれてますが、その昔は大三輪山だったそうですよ。
その福岡の大三輪山に向かって中心軸をむけてるのが、弥生時代に作られた吉野ヶ里遺跡の北内郭でした。つまり吉野ヶ里遺跡の北内郭は、大三輪山に関わる施設だったんですよ。
記紀の伝承にある三輪山といえば、崇神天皇や倭迹迹日百襲姫命が大物主神を祀ったところ。
倭迹迹日百襲姫命は以前に記事にした通り「時の巫女」でした。しかも卑弥呼と同一人物だと思われます。個人的には崇神天皇と同一人物だと思っていまして、三者が同一存在なわけですが・・・。
すると本来は福岡の大三輪山が本来の三輪山であり、吉野ヶ里遺跡が、宮殿の場所だったのかも知れないと思ったわけですが。
北内郭の構造はそのまんま「ディスくん」で環濠が取り巻いています。4ヶ所に張り出し構造があり、それぞれに物見やぐらが配置されてたらしいです。そしてひときわ大きな建物が、あったりするのです。
ここは環濠集落と言われてますが、明らかに異質なところ。住居よりは宮殿であり、政治や宗教的な役割を兼ねたと想像できます。
しかもこの環濠、夏至と冬至の太陽にむかって左右対称の形になっている。そのため、太陽の観測所だった可能性が見えてくるのです。
吉野ヶ里遺跡の公式サイトのほうに、これについて書いてあります。
北内郭の中心線
北内郭の形は英語のAの形に似ています。この形は真ん中からちょうど左右対称に分かれる形をしていますが、この左右対称に分ける線については夏至の日の出と冬至の日の入の点を結ぶ太陽の運行線に合っていると言われており、当時の人々の精神生活を知る上でとても興味深いものと言えるでしょう。
以下でこの環濠の、さらなる秘密に迫ってみます。
この環濠の施設は、時計やカレンダーの役割があったんじゃないかと思うわけなのです。
それでは北内郭の構造は、古代のカレンダー「二十四節気」や東西南北に当てはめると、どうなるか見てみましょう。
北内郭を見ると、複数の建物があります。大きな建物、櫓(やぐら)、小屋など。これらは発掘した時に見つかった柱跡をもとにして、復元されたものだとか。
そしてその建物の配置を見て下さい。ちょうど環濠の膨らんだ部分の方位に、櫓が建ってるではあーりませんか。
これらの櫓がちょうど冬至、夏至、南(南中高度)、北の方角に対応してることが分かります。太陽を観測し、日時計やカレンダーとした証拠です。
おそらく中心あたりに、長い棒を斜めに一本たてたんじゃないですかね。家屋文鏡にあるように。
柱を立てることで、その影が移動して、時計と冬至や夏至にあるやぐらを示す役割になったと思います。
「家屋文鏡」の建物に付いてる巨大な傘。
— たっちゃん@古代史研究+アート (@t7a7t0o1) 2024年1月7日
これもしかすると、日時計だと思った。
日時計の指針(中央の棒)は、北向きとし、地軸に平行に(斜めに)設置することで正確に影を投影できる。
倭人は日時計を駆使したのだろう。
日時計https://t.co/n1ZpfNxPJp
日時計の作り方https://t.co/c66XCL9ufJ pic.twitter.com/vn4x7UF8EU
現地の中央に斜めの長い棒を立てまして、日時計カレンダーとしてどんなふうに表示されるか、実験してみたらいいです。
古代中国の二十四節気(にじゅうしせっき)の一部は、倭人も取り入れてました。夏至、冬至、春分、秋分などですが。
古代の夏至や冬至は、いまと時期が違ったようですが。この場所にあった観測所で、田植え時期などを調べたのかもです。収穫、祭りの時期なども、ここで見計らったのかも。
東西南北の方角もだいたい合っているので、弥生時代と現代では四方の方角はズレてないのかもしれないです。日本列島は弥生時代から、あんまり動いていない?
古代人は日の出と共に1日を始め、日没と共に1日の仕事が終わったのでしょう。
現代で言うと5月末には日の出の朝4時台から活動しはじめて、夜の7時くらいに仕事を終えるという生活リズム。おそらく銅鐸をジャンジャンと鳴らして、正午や日没の時報としてたんじゃないですかね。
鐘を叩くアルバイトの巫女が、雇われてたかもしれんですね。
そうした太陽で時間や時期を測る役割を担ったのは、当時から神主、巫覡、巫女だったんじゃないですかね?地鎮祭する時も、太陽の方位にこだわってるので分かる通り。
だから巫女である倭迹迹日百襲姫命は、時を司る巫女でしっくりと来るわけで。
安本美典著「天照大御神は卑弥呼である」にもあるのですが、奈良(大和)と福岡(筑紫)の古地名はほとんど一緒なんです。それでむかし福岡が大和=邪馬臺国だった名残ではないかというわけなのですが。三輪山も筑紫平野に存在しましたし。見た目も似てますね。
ということで、倭迹迹日百襲姫命が時間に関わる祭祀をした場所。それは大物主神を祀る三輪山(大三輪山)に向いていて、日時計の役割もあったここ、吉野ヶ里遺跡だったかもしれないなと、妄想するのですが。
全国各地の遺跡にも日時計・カレンダーが設置された可能性
まぁ古代の集落には、こうした日時計・二十四節気カレンダーを設置した場所が、他にもあったのかもしれんですね。
それはストーンサークルじゃなく、家屋文鏡にある絵みたいに、建物に付属して柱一本立てるみたいな感じで。
夏至、冬至、南中高度のほうに石や建物を配置すれば、見る人が見れば分かるカレンダーになるわけですし。
ただ奈良の唐古鍵遺跡だとか、他の場所ではこの北内郭の環濠みたいなものは、見つからないですが・・・。二十四節気を感じさせる何かがあったら、日時計カレンダーの可能性があるんじゃないかと。
全国にある遺跡や神社など、見直してみれば、各地の日時計らしき痕跡が見つかるかも知れませんよ。
ぽちでたすかりまs
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