吉野ヶ里遺跡の「北内郭」という謎の環濠のエリアがあるんですよね・・・。
これは明らかに左右対称のへんな形で、やはり意味があるわけなのです。2017年の電子書籍でも取り上げてましたが、改めてこれについて考えてみました。
吉野ヶ里遺跡には、左右対称の形をした変な環濠エリア「北内郭」があるのですよ。
その変な環濠のエリアですが、横向きにした「ぐでたま」形というか、ディスクシステムのキャラ「ディスくん」みたいというか。左右対称で手足のあるような、変な形をしてるのです。
手足の部分には物見やぐらが4カ所に置かれてまして、中央付近に大きな建物があって、明らかに吉野ヶ里遺跡の中枢といった復元がされていますが。
ここがおそらく国を代表する長っさん(おっさん)の政治の拠点で、会議場で、神殿とかの役割をもった複合的な施設。そんな感じします。
内郭で内閣というわけで、駄洒落を意図してるんでですかね・・・。
それで、左右対称ということは、当然のごとくに線を引いてみたくなるものですが。
この環濠エリアに中心軸を引きまして、その延長線上をずーっと辿って行くのです。するとなにか意味がある情報が、見つかるんじゃないかと思うわけです。
これが矢印の役割になってる
— たっちゃん@古代史研究+アート (@t7a7t0o1) 2023年6月18日
吉野ヶ里遺跡の北内郭 pic.twitter.com/bCgGg9I7TM
これは古墳の中心軸を導き出し、それを矢印として延長していくと、線上に複数の情報が見えるという「前方向法則」を適用してみたわけですが。
以前にその前方後円墳の電子書籍「封印された叡智の回復」を書いたのは2017年のことでした。暇がなくて疲れて続きが書けないのがアレですが。
するとその矢印の27km先には、福岡県筑前町の「大三輪山(小鷹城山)」と「大巳貴(おおなむち)神社」があったりするんですよね。27km離れてるのに、寸分の狂いもなかった。
三輪山といえば、倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)のエピソードで知られる山ですけども。
奈良県にある三輪山というのは、大物主神を祀る大神神社(大神神社)の神名備、御神体だったりします。大巳貴命といえば古来より、大物主神と同一視されたりもするんですよね。
筑紫にも三輪山があったということは?
いま三輪山は奈良盆地にありますが。実はそれ以前には、筑紫にも大物主神を祀る三輪山があったということ。その名残りが筑前町の大三輪山ではないか?と思うわけなのです。
それは邪馬台国がもともと筑紫平野にあって、後に奈良盆地に邪馬台国が移っている証拠だと思われます。
筑紫平野の地名と奈良盆地の地名はそっくり同じであることは、「天照大御神は卑弥呼である」(安本美典著書)に解説されていました。
この筑前町の大三輪山のそばには、おあつらえ向きに「奈良」という地名(小字)までありますし。筑紫に加えて佐賀の平野部も、邪馬台国だったんじゃないですかね。
あと以前にも、奈良の三輪山、筑紫の大三輪山の見た目まで、瓜二つな事実も突き止めていました。
以下はグーグルのストリートビューからいただいた画像でございますが。
卑三輪だったかもしれない卑弥呼と三輪山の地形から求める邪馬台国の所在地
昔の人が「ここは三輪山に似てるから三輪山にしよう」と考えたのは明らかですね。例えて言えば、マイケルに似てる人がマイケルと呼ばれるみたいなものですよ。
色んな要素が合致しているようです。環濠の方角、山の名、山の地形。
吉野ヶ里遺跡の変な環濠の中枢施設が、大三輪山と大物主を指し示すということは、その信仰が三輪山信仰、大物主神信仰であったからに他ならぬと考えてしまいます。
封印された叡智の回復 (1): 前方後円墳と神社に秘められた矢印機能 (たっちゃんの古代史とか出版)
すると吉野ヶ里遺跡の王というのは、三輪山と大物主信仰に関わる人々であると推測できるわけです。
「古事記」を見ると、弥生時代後期頃の当事者が誰なのか、というのは分かることがあります。
三輪山の伝説の主人公は、孝霊天皇の皇女で巫女である倭迹迹日百襲姫命であり、このかたが卑弥呼なのではないかという説が根強いです。
倭迹迹日百襲姫命は神懸かりによって、大田田根子(おおたたねこ)を神主として大物主神を祀れば、疫病は収束すると言っていました。
この時代の統治者は崇神天皇でした。崇神天皇といえば「古事記」では「賢しき后」とあって、后=女性で女帝が示唆されているのでした。
崇神天皇が女帝ということであれば、女王卑弥呼と同一人物じゃないかという説は、個人的に持ってたわけですが。
なにしろ「魏志倭人伝」には当時の倭の頂点は女王だったとしか書かれてわけないわけですし。
女王卑弥呼が男装して崇神天皇というのは、「日本書紀」で天照大神や神功皇后が男装したのを見ても間違ってなさそう。
舎人親王による編纂の「日本書紀」では、神功皇后条に卑弥呼と壱与の記述があるんですよ。まるで神功皇后が卑弥呼+壱与のように書いてます。
しかし神功皇后は4世紀の天皇のような存在であり、卑弥呼とは100年の差があるんで、ちょっと別人28号な感じがいなめ茸ですよね・・・。
ただ神功皇后が卑弥呼であるという舎人親王の解釈には、卑弥呼が天皇だったことの示唆が含まれてるようです。
あと、大物主神が祀られた時は百姓が反逆したり疫病が流行してたそうです。
それが邪馬台国が別名で、「やまい国(邪馬壹国)」である元になってる気がしますし。
邪馬壹=病(やまい)なんですよ。邪馬壱国って、弥生時代の駄洒落だったんですよ。
「後漢書」や「魏志」にある倭国大乱、倭国乱というのも、大陸からの移民が押し寄せたことで起きたであろう出来事な感じがしますし。色々と、魏志倭人伝と崇神朝の世界観は合致しているのですよね。
吉野ヶ里遺跡には、当時の女王(天皇)を中心とした、記紀に登場する主要メンバーが集ってたんじゃないかなと。想像してしまうのですが。
・・・
そういえば平塚川添遺跡も同じように大三輪山を指し示す、環濠遺跡あるのですよね。平塚川添遺跡こそが、崇神天皇の瑞籬宮だったと思ってるわけですが。
すると吉野ヶ里遺跡は、崇神天皇の桑間宮じゃないかという想像は過去にしていましたが。
次回は平塚川添遺跡など、周辺の環濠遺跡を交えて掘り下げて知られざる話を進めます。
ぽちで助かります(最近スケベ広告が出るのでやめようか検討中)
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