最近邪馬台国はやっぱ奈良の纏向だったみたいなニュースを目にしました。
邪馬台国論争「新たな段階」纒向遺跡で発見続々 : カルチャー : 読売新聞(YOMIURI ONLINE)
でもまだ日本中を納得させるような流れには、なってないのでは。
○いつも助かっております
卑三輪
「古代人の名は地名を含む場合がある」という発想。
これはもう20年近くも前、江上波夫著「騎馬民族国家」を呼んで始めて知りました。この書物自体は意外と古く、初版が1967年だったので、自分がオギャーするより、10年も前です。
古代人の名に地名が入ってる例としては、
神日本磐余彦(日本)
倭迹迹日百襲姫命(大和)
御間城入彦(任那)
壱与(伊予)←(伊予国)
みたいなの。
じゃあ卑弥呼は・・・?
卑弥呼の名前が、所在地を表していると考えるのは、決しておかしくないことです。
ちなみに個人的な立場では、卑弥呼は朝鮮半島の倭の拠点から渡ってきたという話で固定化して戻すことができません。
なぜなら朝鮮半島の馬韓の倭人地には、卑弥呼と名前が同じ、「卑弥国」があったから。
ここは心臓に負担がかかるからなのか、保守的な古代史研究者の皆さんが、避けるところです。
それで、それに加えて、卑弥呼さんの魂から、こんな発想を呼び覚ましてみました。
まず卑弥呼の「呼」の字が気になったので、調べてみた。すると、
「呼」
よぶ
上古音「hag(ハ)」
中古音「ho(ホ)」
(学研漢和大事典)
弥生時代には、卑弥呼は「ひみこ」じゃなかったかもしれないというのは、どっかで聞いたことがありました。本来の音は「ピミハ」であると。
この「呼」は、とても重要な情報なのですよ。
なぜかというと、卑弥呼が三輪山と切っても切れない関係にあったことの、強めな証明になるから。
卑弥呼の名前は「ピミハ」と呼んでも正解だったとしますね。
するとこの中には、「ミハ」が含まれているじゃないですか。
これ、「三輪(ミハ)山」のことですよ。
卑弥呼は卑三輪だったというわけで。
なにしろ卑弥呼は天照大神や倭迹迹日百襲姫命と同一視されたりしますが、両者とも三輪山と密接な関与があるからですね。倭迹迹日百襲姫命のほうは、三輪山の大物主神と婚姻までしていたので。
要するに卑弥呼が三輪山と切っても切れない関係だったので、三輪の音を込めて、卑三輪=卑弥呼にしていると、そんな想像ができますが。
卑弥呼とその側近は漢字の読み書きを使いこなしたというのは、「魏志倭人伝」から読み取れました。倭の邪馬台国の女王に対しては、魏の使いが幾度となく、詔書(公的文書)を卑弥呼に手渡しに向かっているのだから。
「魏志倭人伝」には三輪山の名は出てこないけれど、卑弥呼の名前に三輪山が含まれている。これは漢字を使いこなした邪馬台国の中枢の、聡明さのほどが伺えますね。
ならば奈良の三輪山のそばに邪馬台国があり、卑弥呼ちゃんがいたのだ。
・・・と言って確定かと言えば、そうじゃなかったです。
・・・・・・・・・・
分身した三輪山
関係ないですが、子供の頃、文金高島田は分身した高島田なのだから分身高島田なんだと思っている頃がありました。あと野球の盗塁のことを「透明」と言っている同級生がいて、意味が分かりませんでした。比較的にどうでもいい話でした。
話を戻すと、奈良の三輪山のそばに邪馬台国があり、卑弥呼ちゃんがいたと断言できないのです。
なぜかと言えば、三輪山は奈良盆地の1か所だけじゃなく、もう1か所、あったから。
大三輪山という名は、奈良の三輪山の、三輪(みわ)と大神(おおみわ)の2つを兼ね備えています。しかも祭神も似通っていました。大物主と大国主は同一視もされますが、それぞれの三輪山で祀る神は、大物主、大国主だったのです。
というふうな一致を見せていました。
それからこの福岡と奈良の両地域は、古代の数十もの地名が、そっくり瓜二つなことでも知られます。安本美典著「天照大御神は卑弥呼である」で指摘されていましたが。
というふうに、東西の三輪山は、不思議と名前も祭神も同じなわけですが、同じなのはこれだけじゃなかったです。
見た目まで。
全国には郷土富士と呼ばれる山がいくつもあり、それらは富士山をモデルにして、富士に似た形だから我が村の富士山だ、郷土の富士だというわけでした。
しかし三輪山というのは、全国に数えるほどしかないです。そのわずかな三輪山のうち、主要な2つがなぜか外観と、周囲の地理的な特徴、地名までも一致を見せていました。以下の写真はグーグルマップのストリートビューからですが。
両方共、西側からの角度にすると、こんなふうに似通って見えます。
・中央にこんもりとした三輪山
・左側に同じくらいの高さの山々が連なり
・右奥にうっすら山並みが見える
というふうに。
これでしかも
・周辺地名が一致している
・三輪山が見える範囲に大規模遺跡が存在する
ここまで揃うと、無関係なわけがないです。無関係とかいう人は、豆腐の角で頭ぶつけて死ねないと思い込んでる人みたいな人ですね。豆腐は凍らせると釘が打てるほど硬くなるという事実を抜きにして話さないでください。
古代の人々は、まったく似通った構図の地形を見つけて、三輪山と名付けているというわけで。日本全国に三輪山があるかもですが、名前に加えて地形まで一致するのは、福岡の筑前町の三輪山と、奈良の桜井市の三輪山だけです。
ここまで一致させていると、三輪山とは、地形などの地理的な条件面が重要だったのではないかと。
邪馬台国の東遷の跡
これは簡単にいえば、どちらか一方が最初の三輪山であり、もう一方が忠実にコピーした、2番手の三輪山なのは確実です。
本来の三輪山を元に、似た地形を見つけ、三輪山と名付け、その新三輪山の周囲に同じ地名をとことん名付け、そっくり土地の移動を完了させたのであると考えられました。
なんでこんなことしたか?それは邪馬台国=天皇家が倭国を統一したあとに、東方に支配地を拡大し、拠点を東遷するための「首都機能移転」が目的だったから。個人的には「邪馬台国東遷説」押しです。
福岡の大三輪山が、卑弥呼が祭祀をした大物主の三輪山であり、最初の邪馬台国が、筑後平野上にあったろうと勝手に予想しています。
さらに言えば、2番めの奈良の三輪山の主は、女王壱与だったのではないかと想像できるわけなのですが。
・福岡の三輪山のそば
最初の邪馬台国(すでに発掘されている有名な遺跡)
祭祀場:大三輪山
国家の斎主:卑弥呼
・奈良の三輪山のそば
祭祀場:三輪山
国家の斎主:壱与
福岡の邪馬台国候補地は、すでに発掘されているし、その地元でも邪馬台国だとか卑弥呼の里だみたいに宣伝してますね。果たしてそこはどこでしょうか。
おそらく奈良の纏向を中心とした邪馬台国は、女王卑弥呼の死後から、女王壱与の居城として機能しはじめたのではないかと。想像ですが。
邪馬台国論争は、新たな段階に入ってきました(かってに)。
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