この前は佐賀の吉野ヶ里遺跡が、大三輪山を指し示すことをお伝えしました。
今回は福岡の平塚川添遺跡も、まったく同じ役割なんじゃないか?という不思議なお話。
しかしカルト権力の連中が植え付けられた、臭い攻撃とうるさい攻撃によって精神的に削られている。
平塚川添遺跡とは
筑紫平野の朝倉の平野部にある、平塚川添遺跡。弥生時代中期から古墳時代初頭(紀元前1世紀~西暦4世紀)にかけての多重の環濠集落遺跡でした。
1990年ころ、工業団地の造成中に発見され保存復元に至ったらしい。
竪穴式建物300軒、掘建柱建物100件と大規模。すぐ近くの集落も含むと倍の規模だとか。吉野ヶ里の集落と並んで当時の拠点だったそうです。
中心軸を求めて線を引いてみると大三輪山に向いていた件
この多重環濠、最初はいびつな形だと思ったのですが、最近よくよく見ると左右対称に見えてきました。何か吉野ヶ里遺跡の北内郭と同じく、形に意味があるような。
左右対称となれば中心軸を求めたくなるのは、箱があったら入りたくなる猫同様に自然の摂理。
水色の線が左右対称に見える環濠です。
なにかまるっきり「牡蛎(かき)」みたいな形してました。牡蛎の画像を検索して見たら貼る気が湧きませんでしたが・・・。
真ん中にオレンジの線を引いてますが、これはここから北5.4kmほどのところにある、大三輪山(小鷹城山)の頂上に向けて引いた線。
ちょうど環濠を、左右にきれいに分割できるところに通る。
次の図は広域的なものになってます。
こうして環濠の中心軸の線を北に伸ばしていくと、平塚川添遺跡が大三輪山に向いてることは明確なわけです。
その理由は、彼らにとっての信仰対象だったからではないかと。
筑紫平野一帯は、古代から奈良盆地と同じ地名が並ぶところでした。だから「奈良の三輪山の前身」だった可能性があります。筑紫平野の奈良的地名が、奈良盆地に移された証拠の1つなんじゃないですかね。
古来より奈良の三輪山では大物主神を祀ってたので、大三輪山でも同様に大物主神を祀ったと思われます。
その証拠としては、大三輪山のそばに大巳貴(おおなむち)神社があること。この神社は大国主神を祀っていますが、大国主神の別名には大物主神が含まれているのも一致点。
「日本書紀」によれば大物主神は神代のころ、出雲の大国主の元に渡来した神で、三輪山に移ったとの伝承があります。
崇神朝では疫病や反乱が起きてましたが、これが「魏志倭人伝」の倭国乱、倭国大乱と同じ出来事なんだろうという感想です。疫病という病が起こったので、「邪馬壱国=病国」と表しているでしょう。
その崇神天皇のご時世の混迷の時、倭迹迹日百襲姫命が神懸かりし、三輪の大物主神を祀り、神主に太田田根子を用いれば疫病は収束するとのお告げがあり、それを実行して混乱を鎮めたとか。
つまり大物主神は崇神天皇直々に歓迎した神であった。当時の都や瑞籬宮(みずかきのみや)といった宮殿の場所は、きっと大三輪山の近くにあったたと、言えるんじゃないですかね。
「和名抄」によればこの付近は律令制下では上座(かみつあさくら)郡と下座(しもつあさくら)郡となっていて、その「座」の名からは「高貴な人物の座する所」といった印象も受けます。
そうすると平塚川添遺跡がなぜ「牡蛎」の形であるかを考えたらいいんですよね。
瑞籬(みずかき)とは、水牡蛎であるから、拠点を牡蠣の形にして名前を表してるんだろうという感じがします。
ダークフィン水かきグローブ
西方の吉野ヶ里遺跡との関係
前回の記事のほうでは、吉野ヶ里遺跡の主要部である北内郭が、大三輪山を指し示す話をしました。
いっぽうで平塚川添遺跡も左右対称であり、大三輪山を指し示す意味で全く同じでした。
弥生時代後期の筑紫平野の2大拠点都市が、どちらも大三輪山を示しているのは、この平野一帯が、大物主神を信仰した証拠である感じがします。
そして両遺跡の統治者が、同一権力だったことの現れです。
それは倭国乱、倭国大乱時に崇神天皇が大物主神を祀ったことに、由来するんではないかと思うわけですが。すると邪馬台国はこのへんにあり、その中枢が平塚川添遺跡、吉野ヶ里遺跡だと、言える気がします。
以前の記事では平塚川添遺跡が磯城の瑞籬宮であり、吉野ヶ里遺跡が桑間宮(くわまのみや)であるとしました。
個人的に言うと崇神天皇とは「賢しき后」なので女性天皇であり、女王卑弥呼の男装した姿です。
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