崇神天皇の話がしばらくなかったのですが、久しぶりにひとつ。
この前に佐賀の吉野ケ里遺跡の話をまとめていて、ちょっと気づいたことがあったんですよね。
いつも古典やネット情報をかき集めては、想像と洞察を繰り返して答えを導き出しています。当てずっぽうの作り話みたいですが。俺の当てずっぽうも意外と当たっちゃうこともありますのでね。
○いつも助かっております
もう何年も前に思いついたこの説、流行ってませんが、いまも一貫しています。
その内容は、
(1)崇神天皇は太安万侶がまとめた「古事記」の序文では「后(きさき)」と高貴な女性的な扱いになっている
(2)卑弥呼は日御子・日巫女で天照大神の生き写し的な女王となったが、天照大神は素盞嗚命と対峙するにあたり角髪(みずら)と武装で男装した
(3)天照大神や卑弥呼に倣った神功皇后も、新羅出兵で角髪を結い武装し男装した
(4)ならば卑弥呼も天照大神や神功皇后と同じく、角髪を結い鎧を着ることで男装したことになる。だから太安万侶は、崇神天皇のことを「后(女)」と書いている
(5)崇神天皇の和風諡号の「印」とは公用印であり、卑弥呼の「弥」と同じ意味を持つ。
(6)古事記の崇神天皇の諡号が「御真木入日子印恵」で「日子印」は並び替えると「日印子」で「卑(日)弥(印)呼(子)」になる。
(7)「魏志倭人伝」に弥馬升の名が出ているが、これが崇神天皇の「御間城」であり、男装の姿かもしれない。
ちなみに魏志倭人伝に登場する邪馬台国の位置は、九州の第1邪馬台国+畿内の第2邪馬台国=1つの邪馬台国としてしまっているようです。
だから文章の邪馬台国までの距離や方角の説明がおかしい具合だったりするのです。これは又別の機会に。
男装した神功皇后。「日本書紀」には、神功皇后と卑弥呼とを同一視する解説がある。しかし実際の神功皇后の実在年代は、4世紀であることが判明している。
福岡の朝倉の平塚川添遺跡が卑弥呼の居城の可能性がある。この仮設は、安本美典さんが以前から提唱したものでした。筆者もこれは正解に含まれていると感じていました。
それで卑弥呼の邪馬台国の範囲は、筑紫平野のかなり広範囲だったと考えるようになりました。しかも卑弥呼と崇神天皇の同一性を踏まえると、思いつくこともあります。
(1)北部九州と奈良盆地の地名が、古代において全く同じだった。これは北部九州にかつて首都ヤマトがあったから(安本美典説)
(2)卑弥呼の居城というのが、個人的に言えば崇神天皇の、磯城の瑞籬宮(みずがきのみや)と同じ。
(3)瑞籬宮は「古事記」では水垣宮であり、水の垣根。つまり水の環濠を伴う居城だったのが明らか。
(4)それなら環濠のない奈良の瑞籬宮伝承地は、デタラメ。奈良と同じ地名を持つ福岡の、朝倉の平塚川添遺跡でしっくりと来る。
(5)当ブログの過去記事にあるとおり、卑弥呼の政治手法に倣った斉明天皇は、宮殿を筑紫平野の平塚川添遺跡に近い朝倉の高台に建てた。これは卑弥呼の居場所を知っていたがため。
(6)福岡に磯城瑞籬宮の「磯城」という地名は無いが、福岡は古来には筑紫城(ちくしき)だった。
(7)上座郡(かみつあさくらのこおり)と下座郡(しもつあさきらのこおり)の「座」は、古訓で「しき」だった。ので、これが磯城に対応してる。
(8)福岡の朝倉のあたりを上座郡というのは、そこが王の上座(かみざ)、つまり女王卑弥呼、崇神天皇の居城だったから。
(9)奈良盆地は邪馬台国をそっくり東遷した姿であり、三輪山も瑞籬宮伝承地も、写し。「万葉集」には三輪山を移動したという、一見意味不明な一句が見つけられたりするのですが、これは三輪山を中心とする邪馬台国を東に移したことで説明がつく。
上記については、何回読んでみても整合する話だと、自分なりに感じ取ってます。
したがって元の邪馬台国と卑弥呼=崇神天皇の居城は、九州の福岡の筑紫平野にあった平塚川添遺跡なのだと。そんな具合に考えると、パズルのピースもあるべき溶け込んでいくわけなのですが。
そしてこれを裏付けるかのようにいたしましとぇ。「日本書紀」を読むと、崇神天皇の居た実際の場所は、佐賀や吉野ケ里と書いてるのではないかと、それを思い当たりました。
崇神天皇の3つの池
崇神紀を読んでみると、このかたが居所の近くに3つの池を造ったとあります。
江戸時代以来の定説では、いずれの池も畿内の奈良盆地や、大阪平野にあったのではとされていました。
B・苅坂(かりさか) 定説地は不詳
この3つ。
しかし邪馬台国の地名が九州から畿内に移されているとすれば、これら3つの池も元々は、筑紫平野あたりにあったものだと考えられるんですよ。
するとこの前の吉野ヶ里遺跡の話が、リンクしてきたりする感じです。
崇神天皇のもう一つの宮殿「桑間宮」が吉野ケ里遺跡
「日本書紀」の翻訳本によっては、記述が飛ばされてしまったりするのですけど、崇神天皇は実は2ヶ所に居城を構えていたことが書いています。
1・磯城瑞籬宮(しきのみずがきのみや)
2・桑間宮(くわまのみや)
最初の崇神天皇の磯城瑞籬宮こそが卑弥呼の居城と同一で、平塚川添遺跡の可能性が高い説明はしました。
問題は崇神天皇のもうひとつの居城、桑間宮。
桑間宮というのはくわまですが、古訓にすると「くはま」だったりします。
桑はカイコの好物となる植物のこと。養蚕やら機織りなどの産業もあった土地なのだろうと。そんな感じも受けます。
桑という漢字は「又又又木」とあり、これは「ジャク」で、葉っぱの大きい木のことなんだとか。
桑間がジャクマだとすると、短縮して「ジャマ、邪馬」になって邪馬台国の一部なのかと思ったりしました。
それから日本語の特性というのは大和言葉でもすでに顕著なのですが、音訓を入り乱れて使うのです。
たとえば古い地名にもある「筑」を参考にすると、筑紫(ちくし)だったり杵築(きづき)だったり。「大」の場合は大和(やまと)だったり大神(おほかみ)だったり。
そういえば天孫(てんそん)は大和言葉では「すめみま」、日本武尊(にほんぶそん)は「やまとたけるのみこと」で、読みはどっちでも使えるみたいな感じです。
だから桑間宮も、もしかすると訓じてくわまと読むのではなく、音読みが正解かもしれなかったりするのです。
桑間を音読みしてみると「ソーゲン(so-gen)」
でこれがおそらく「佐賀(sa-ga)」に対応するのであろうなと。
桑間 ジャクマ→ジャマ→邪馬→邪馬台国
桑間宮 ソウゲン(so-gen)→佐賀(sa-ga)宮
吉野ケ里遺跡はアテネ=アシネ(吉野・エシノ)の写しでアクロポリスであり、倭名は桑間宮であったと。そう解釈してみました。
そうすると、「日本書紀」で桑間宮とワンセットになってる、3つの池の場所もやっぱり佐賀なんだろうなと。そんな発想が出てきておかしくなかったりします。
ゾンビランドサガ
3つの池の解釈
前回の記事でも、吉野ヶ里遺跡のあたりはやたら「ヶ里」地名が多いっていう話が出ました。これは佐賀の古代史のガリ勉ならばご存知らしいです。
そういえば、ここは古代には神埼郡でした。あと3つの池のうち2つまでが「サカ」を含むのは偶然じゃないですね。
佐賀というのは、古い地名では「サカ」だったと見られます。
さらに依網池というのは、これは実は吉野ヶ里の地名に関する名称なようです。
A・依網(よさみ)
B・苅坂(かりさか)
C・反折(さかおり)別名を軽酒折池
以上の情報から3つの池を解釈すると、以下のようになったりします。
・桑間宮・・・桑間(so-gen)→佐賀(sa-ga)宮
これは発音的にも一致するはず。
A・依網池・・・依網(yo-sa-mi)池→吉野(yo-si-no)池
ヨシノがヨサモになってヨサミになったかも。いずれにしても「吉」に当てはまる「依(よさ・よし)を使ってるのは意味深なこと。
B・苅坂池・・・苅→ヶ里、坂→佐賀、神埼(kamu-saki)→苅坂(kari-saka)
カリ(ガリ)とサカ(坂・佐賀)のありえない一致。カムサキとカリサカは似てる。
C・反折池・・・反(さか)→佐賀
ここにもサカがあるのは、全部を佐賀に合わせているとしか思えない。
というふうに、結局は4つとも全部、佐賀と吉野ケ里に対応していました。
これは偶然ではないだろうと。
あと反折については、恐らく反(そる)+折(おる)で、「高千穂の添山峯(そほりのやまのたけ)」だとか、曾富理神(そふり・そおりのかみ)に関連があるのではと考えられたりもします。
何しろ吉野ケ里遺跡の隣接地をよくよく眺めてみたら、辛上(からかみ)という集落があったりするので。朝鮮半島の倭地出身かもしれない卑弥呼が、加羅神、韓神を祀っていてもおかしくないなと。
3つの池は佐賀の吉野ケ里遺跡にあったのか
それでこの3つの池は、佐賀のどこにあったんだろうと言う話。
もう古い池なので埋まっていたり、田園に変えられていたり、名前が変わっていたりするのではと考えられました。
しかし、吉野ケ里遺跡を航空写真で眺めていると、気が付きました。
3つの池の場所は、吉野ケ里遺跡なのかもしれないと。
吉野ケ里遺跡というのは、細部までも弥生時代の様子を復元しているらしいですね。なんか、おあつらえ向きに池が3つあったりするのは、古代のとおりに復元している結果なのかと、そう思ったりしたのですが。そのへんは確認が取れてません。
この記事で解釈した「崇神天皇の3つの池は吉野ヶ里のあたり」を示すかのように、運命的に吉野ヶ里に3つの池が揃ってたとでも言うのか・・・。
まぁ全部、筆者の想像なんですけどね。
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