今回も従来の遺跡の調査では、知られてなかった謎を解明しています。
まるで堤防が取り囲んでいる遊水地みたいな円形の広場。ここが弥生時代の輪壕集落の跡である、板付(いたづけ)遺跡でした。
板付遺跡は福岡市博多区板付にあり、縄文時代晩期から弥生時代後期にかけて営まれた遺跡だそうです。環濠自体は弥生時代初期なのかもしれないですが。環濠集落としては日本で最初期のものだとか。
調べてみると、江戸時代以前にこの場所は筑紫国那珂郡の板付村でした。
那珂は「奴国」の名が残ったものではないかと見られ、弥生時代には倭奴国、伊都国(もしくは倭の奴国)の領域だったようですた。
それで、もし板付村が古代からあった地名だとすると、思いつくことがあるんですが。
板付とは「いた付」で、「いた」も那珂と同じく、「倭奴国、伊都国」の名残りかと思ったりするのです。
つまり倭奴・伊都に付いている村だから、「いたづけ(倭奴付)」となって、その名が江戸時代までに板付になり現代まで残っているんだろうと。
まぁ想像に過ぎないですけども。
板付遺跡は平塚川添遺跡と深く関わる
輪壕は左右対象な楕円形をしてるので、吉野ヶ里遺跡や平塚川添遺跡と同じく、中心軸を導けました。
これをずーっと伸ばしてみると、26.2km先で平塚川添遺跡に当たったわけなのですよね。これについては何処にも仮説がなかったです。
板付遺跡と平塚川添遺跡が結びつくのは、当時の国策みたいな感じで、複合的な計画なのだと思いました。
板付遺跡の中心軸をはかって延ばすと
— たっちゃん@古代史研究+アート (@t7a7t0o1) 2023年6月23日
平塚川添遺跡にたどりつく
計画的な設計 pic.twitter.com/keEzWsVk3U
2つの遺跡がむすびつくので、板付遺跡の技術者らが関与し、平塚川添遺跡の測量やら建設に関与しているような気がします。
この近くには那珂遺跡群などもありますが、巨大な環濠はここだけなので、有力者の政治の中心であり、住居兼用だったと考えられますね。
板付遺跡というのは奴国の有力者であった兕馬觚(じまこ)、副官の卑奴母離(ひなもり)らもいたし、当然ながら卑弥呼も立ち寄っていたんじゃないかと思いますけども。
想像が膨らみます。
ぽちされでたすかりまs
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