一見シテ無関係なところに関係性ヲ見いだせる・・・。これはたぶん潜在的な深い処では無関係ではなく、運命的繋がりもあるからなのだろうと。そんな感じもするのですが。
そう言えば新たな元号の「令和」についても、なんか同じようにして運命を感じさせる響きを持ってました。
今回は考古学者も見落としてしまうであろう、佐賀の吉野ヶ里遺跡とギリシャにあった、アテネの繋がり。ちなみにこの記事は2週間くらいから書いてますが、時間を掛けるごとに気づきが多くなるというのは分かっています。
○いつも助かっております
自分自身が高台に住んでいると、古代の人が高台を好んだ理由は分かったりします。
・高台は海のそばなら確実に津波や高波の様子もわかるのでもってこい。
・高台は樹木がなければ、かなり見通しが利いて防衛にもってこい。
・高台は敵襲があっても、敵の勢いを斜面で遮ることができてもってこい。
・高台は天の神を祀る人々にとっては、天に近い意味で祭祀用にもってこい。
利便性のみを追求して平地を好み、戦闘も津波も警戒しないで過ごす現代人は、あまりしない発想だったりしますが。
古代ギリシアのアテネ(正しくはアテーナイだとか)はよく耳にする名前です。
イオニア人が住んでいたギリシアの中心都市がアテネだったとか。
その神域はキダテナイオンと呼ばれ、パルテノン神殿が置かれた丘はアレオパゴスの丘と言い、丘の上を含む都市がアクロポリスと呼ばれてました。
これは手元にある「世界史年表・地図」という図録なのです。第1版が平成7年ということで、1995年当時の歴史的な情報と知識ですが、これ以上に使える書物は見つけてないので、時々眺めては新しい気づきを得ていたりします。
アテネのキダテナイオンのアレオパゴスの丘のアクロポリスのパルテノン神殿・・・
日本でいうと、東京の23区の山の手の千代田区の皇居の宮殿みたいな感じ。
この遺跡、紀元前6,000年から街が築かれていたというから、始まりは縄文時代くらいです。
アクロは英語では「始め、先端、高い」みたいな意味だった。古代ギリシア語のakrosでも同じで、要するに高台、丘の意味だったとか。
それでpolis=ポリスというのは城や砦を意味しているので、要するにアクロポリスは直訳で「高台の城、丘の砦」を意味していたと分かりました。
日本語の方も無関係ではないようでした。なぜなら「丘」はokaなので。
英語 acro a-c
ギリ akros a-k
日本 oka o-k
ak(アク)とok(オカ)は発音的にとても近いので、古代ギリシア語のアクロと日本語の丘は、深いところで繋がっているのであろうと。
ac-ro-po-li-s(丘砦)
oka-no-to-ri-de(丘の砦)
と書くと母音と子音が類似するところがあり、アクロポリスとはやっぱり「丘の砦」だったんだなと。
そう言えば日本語で、
・上がる(agaru)高い場所に行く
・崇む(agamu)高天の神を拝む
これらは明らかに丘に通じる言葉で、しかもアクロやアクロスに似てますね。
acroとかakrosを濁って「アグロ・アグロス」と言えば、「アガル・アガム」になって、発音も意味合いも通じるものがあるかと。
ひょっとすると弥生時代に、倭語のなかに古代ギリシア語が入り込んだのかも。倭に入ってきている烏孫系や月氏系には、東征したバクトリア(ギリシア北部)のアレクサンドロス大王の軍団の子孫のギリシア系や、インドグリーク王朝の子孫が含まれたのだから。
古代佐賀の吉野ヶ里遺跡
一方で佐賀の吉野ヶ里遺跡ですが。最近劣化したとか言われてる、グーグルマップで航空写真をみました。ここは近年も遺跡の範囲が拡大していて、遺跡公園の拡張工事中らしいです。
それでグーグルマップの3D仕様や国土地理院地図のほうで拝見すると、この吉野ヶ里遺跡は高台にあることがわかったりします。
吉野ヶ里遺跡の標高は、全体が10~20m台の小高い丘で、高いところでも25m程度。北側を調べると筑紫山地が広がっていますが、大高山から南に伸びる尾根上に、吉野ヶ里遺跡が位置するようにも見えます。
ところで弥生時代当時は海水面の弥生海進とかいって、海水面はいまより平均3~5mは高い状態だったことが知られています。
すると吉野ヶ里遺跡は遠浅の海に囲まれ、岬の突端にあるような印象の城塞都市だったようです。
フロードマップで吉野ヶ里遺跡を見ると、こんなふうに今と違って海沿いの遺跡が想像できやすくなります。たぶん近くに港もあったと考えられますが。
新たな弥生遺跡が見つかるなら、この海抜2~3m上げた時の海岸線に沿ってる場所が、可能性が高そうな気がします。
吉野ヶ里遺跡の当時の名は古地名から推測できる
ところで吉野ヶ里遺跡がこの地域の権力者の居城・神殿と付き従う住人たちの居住地や商業の中心といった複合的な役割を持っていたことは分かっています。
だから弥生時代の当時には、都市名が存在していたはずなのですが、今までそれは伝えられていませんでした。
しかしこれは筆者の妄想によって、当時のリアル的な都市名に近づくことは可能でした。
この付近はいまは佐賀県と呼ばれてますが、江戸時代までは肥の国の北部にあたる、肥前国の名前で知られていました。
しかしそれより以前の名前が「古事記」にありました。
建日向豊久士比泥別(たけひむかとよくじひねわけ)
これが本来の地名だったとか、わけわからん。
つまり、
と変遷してたわけなんですね。南東部は日向国だったわけで、昔は九州全体が日向、ヒムカと呼ばれていたであろうと、「古事記」から推測できるわけなのです。
それで肥前国の頃にあった郡郷里制の地名は、今も残っていたりします。
吉野ヶ里遺跡のあたりは神埼郡で、佐賀藩の頃には40村以上があったとか。
江戸時代の国郡郷村制時代の佐賀藩の村
迎島村、柳島村、渡瀬村、箱川村、境原村、託田村、下板村、黒井村、姉川村、横武村、本告牟田村、松隈村、石動村、三津村、大曲村、吉田村、豆田村、田手村、的村、城原村、鶴村、尾崎村、本堀村、神埼村、竹村、志波屋村、田道ヶ里、広滝山、腹巻山、鹿路山、杠山、三瀬山
嘉納村、下西村、小松村、見島村、余江村
直鳥村、永歌村、姉村、崎村、古賀村
明治時代の合併推進後の自治体
三田川村 ← 吉田村、田手村、箱川村、豆田村(現・吉野ヶ里町)
東脊振村 ← 大曲村、石動村、三津村、松隈村(現・吉野ヶ里町)
これが江戸時代当時に残っていた細かい地名です。
ここに吉野ヶ里という地名は含まれてないですが、江戸時代の肥前国の古地図を閲覧すると、西野ヶ里村、東野ヶ里村という地名も見えていました。たぶんこれらは吉野ヶ里を元にしていると見られ、古くから吉野ヶ里も存在した可能性があるようです。
・肥前 佐嘉 筑後 久留米 柳河 筑前 | 古地図コレクション(古地図資料閲覧サービス)
佐賀の「ヶ里」は目立ってないですが、小字を含む地名として、古くから使われているようです。
田道ヶ里、駅ヶ里、吉野ヶ里、乙南里、小津ヶ里、平ヶ里、枝ヶ里、野目ヶ里、石井ヶ里、東野ヶ里
遠く離れたアテネと佐賀の吉野ヶ里は、高台にある紀元前からの古代遺跡という意味では一致してますが、片や石造りの神殿、片や地面に木造家屋であり、表面的な遺跡の形態は異なっています。
ところがよく見ると、その形状は似通ったところがありました。以下の地図は、現在のアテナの古代遺跡と、吉野ヶ里遺跡の比較したものですけど。
こうしてみると、いろんな一致が見えて来てしまうのですよね。
・中央・・・アクロポリスと吉野ケ里遺跡の環濠「南内郭」
・左側・・・アゴラ(広場の市場)と吉野ケ里遺跡の「市場」
・左下・・・オデオン劇場(イロドアティコス)と吉野ケ里遺跡の半円状の広場
・右側・・・ゼウス神殿(オリンペイオン)と吉野ケ里遺跡の環濠「北内郭」
・水路・・・ビシストラトスの水道と吉野ケ里遺跡の田手川
これほど位置関係が一致するということは、吉野ケ里遺跡のそれぞれの場所の役割も、市場だったり神殿だったり劇場だったりするかもしれないです。
実際、吉野ケ里遺跡の市場の位置は、「倉と市」という名前がついてたりするのであるし。
これが、吉野ケ里遺跡はアテネの写しだったのでは、という疑惑が出た理由のひとつです。
名前まで似通ってた件
さらに実はこの地形の一致を裏付けるようにして、もう一つ興味深い一致もありました。ちょっとアテネの古名を調べてみるとわかったことです。
アテネというのはギリシャ文字のほうでは、古名で「アシネ」と書いていたとか。ATHENAと書けばTHEがシの音になるというわけです。
それで吉野というのは奈良の地名でもありますが、「古事記」の方を見ると、古名では「エシノ」だったんです。
アテネ アシネ a-si-ne
吉野 エシノ e-si-no
という風に発音の違いは微々たるものでしかなかったです。方言や転訛による違いといってもいいほど。
そうすると、佐賀にのこるヶ里地名も、ギリシアのギリとすればしっくりと当てはまったりするわけでした。
吉野 アシネ
ヶ里 ギリシア
これが意味するところは、吉野ヶ里とは元の意味は「ギリシアのアテネ」を模したアクロポリスだったと、言いたかったのではないかと。そんな勝手な想像を巡らせてしまいます。
吉野ヶ里は女神を祀った神殿の都市
アクロポリスの中心にあったパルテノンは、処女宮という意味があり、これは女神アテナを祀る神殿でした。
すると吉野ヶ里遺跡には同様に、女神を祀る神殿があったと考えられるのですよ。
たぶんそこは、アテナに対応する女神天照大神の鎮座する社殿があったと考えますが。
もしかすると生ける女神として君臨した、女王卑弥呼の居城だったとしても、決して不自然ではないようです。
アクロポリスはもともと、ミケーネ文明のメガロンという木造神殿が建ってたらしいですね。そう言えば神武天皇の幼名が「若御毛沼(ワカミケヌ」なのもアッチの血が入っていることを示すのかと、意味深な感じがしますが。アレクサンドロス大王が東征して、子孫が烏孫や月氏に入り、倭へ流れてきているとすればまったく違和感がないですが。
吉野ヶ里遺跡で、ギリシャのアクロポリスと神武天皇が繋がってたんですね。
周囲の地名も一致する
最後に、吉野ヶ里遺跡の周辺の地名も、なんとなくアテネのアクロポリス周辺に一致している点もまとめてみました。
・アテネ=アシネ・・・吉野(アシネ)
・キダテナイオン・・・田手(キ田手ナイオン)
・ムーサ丘・・・神埼(カムーサキ)・三瀬山(ムーサ山)
・ヘリコン山・・・腹巻山(ハラカン山)
まぁ全ては筆者の想像でしかないですが、奇妙な一致が出てきた場合、偶然と言ってしまうより関連を疑うのが必然かと。
女神アテナのアクロポリスが、女王卑弥呼のアクロポリスとして、佐賀に再現されてたとして、決しておかしくない気もしてしまいます。
倭の卑弥呼の周辺には、古代ギリシアの情報もかなりあったかもしれんです。先祖伝来の記憶や大陸から収集した情報によって。
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