倭人が日時計を使ってたという、明確な証拠はないようです。しかし実際には、日時計を駆使してたのではないかと思います。というわけで今回は、倭人が使った日時計の具体的な物証についての話。
倭に日時計はあったのか?
前回に、卑弥呼と同一視される倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみことは、知恵や時の神トート・ヘルメス神の名を冠した時の巫女だって話しましたが。
つまり日本の古代にも、当然ながら時や暦を知ったり、活用する文化があったわけでした。
古事記や日本書紀みると、頻繁に日付けが登場してます。正式な太陽暦が日本に導入されたのは、欽明天皇の頃の6世紀(553年)だそうです。干支による紀年法のほうは、4~5世紀だったとか。
しかしそれ以前の弥生時代から、季節を知る方法はありました。自然の様子を見たり気温を感じて春夏秋冬の季節を区分けし、太陽の動きを見て大まかな時間を識別してました。
一年で日が一番長い日が夏至、一番短いのが冬至、中間が春分、秋分です。弥生人は稲作をしたので、二十四節気の中のこれらの要素は把握してたはず。
季節ごとの日が昇る方角や沈む方角や南中高度を確かめ、方角を見定め、方角を等分する。それにより四季や時期がわかり、太陽がのぼっている昼間の時間もわかるのでした。
因みに昔の夏至は5月にあったそうです。
古代中国の暦
春 1月2月3月
夏 4月5月6月
秋 7月8月9月
冬 10月11月12月
こんなふうな感じでして、夏至は5月末にあったとか。今の夏至が6月21日なのにくらべ、随分早いです。春夏秋冬の時期は、全体が1ヶ月前倒しでした。倭の季節感もこれに習ったのかも。
二十四節気の方角や時間を知るための道具が日時計ですが、弥生時代の遺跡からは、日時計は見つかってないとか。
古代の大湯環状列石みたいなストーンサークルは日時計だったと言われますが、これが完全に日時計という証拠は無いようです。
しかし古代から「神社や神道があった」ことが、二十四節気を知っていたり、時間を得たり、日時計を使ったことの証拠になると思われます。
「大祓祝詞(おおはらえのことば)」を見ると、「此(か)く依(よさ)し奉(まつ)りし四方(よも)の国中(くになか)」とあって、四方を奉ったことがわかるのですが。
神道の祭事で四方を奉ることは、太陽を観測して、東西南北の四方を理解したってこと。地鎮祭では正確に東西南北を見極めて、南向きに祭壇を設置するのですが。これにより太陽光を一日中受けて、神の恵みをいっぱいに受け取ることになったわけです。
地鎮祭
— たっちゃん@古代史研究+アート (@t7a7t0o1) 2024年1月9日
南向きに祭壇を設置するのは、朝から夕まで祭壇に太陽光を当てるため。太陽信仰の現れとか。
正確に東西南北の方位を定めるため、方位磁石を使って方位を知る。
古代には神主が日の出からの太陽の動きを見て、日時計をつかって方位を調べたようだ。https://t.co/Vzp1ZueRaG pic.twitter.com/PGlfaZkWwA
古代の地鎮祭では、神主や巫女が朝から現場に出向いて、日の出や南中高度を見定め、祭壇を設置したんでしょうね。その時には中央に棒を立て、日の影の方角や長さを見定め、南中高度を確かめたならば立派な日時計です。
すると古代の日本で日時計みたいなものを駆使したり管理する役割は、神主や巫女だったんではないかと。倭迹迹日百襲姫命が時を司る巫女だという話と、整合性ありましたね。
そうした日時計の現物は弥生遺跡からは見つからないのですが、絵に残ってる気がしました。それは「家屋文鏡」です。
Froiny 赤道 日時計 木製 10 X 8.5 X 11cm 科学モデル
家屋文鏡に描かれた日時計
家屋文鏡が出土したのは、奈良の佐味田宝塚古墳だったとか。4世紀後半の古墳だとか言うので、卑弥呼より100年ほど後。
家屋文鏡といえば、弥生時代の家屋の姿が刻み込まれてるのですが、上下左右に家屋があるので、東西南北の方角を示す道具だったかもしれんです。
しかし今回注目したいのが、家屋の絵にある長い傘みたいなやつです。ななめに配置されてますが、何の役割か不明。高貴な人物に日陰をつくる道具、衣笠みたいに見えますけども。
実はこれ、日時計の指針だったのではないかと、想像するのですが。
「家屋文鏡」の建物に付いてる巨大な傘。
— たっちゃん@古代史研究+アート (@t7a7t0o1) 2024年1月7日
これもしかすると、日時計だと思った。
日時計の指針(中央の棒)は、北向きとし、地軸に平行に(斜めに)設置することで正確に影を投影できる。
倭人は日時計を駆使したのだろう。
日時計https://t.co/n1ZpfNxPJp
日時計の作り方https://t.co/c66XCL9ufJ pic.twitter.com/vn4x7UF8EU
日時計の指針は太陽の動きにあわせ、地軸に平行になるよう斜めに配置することで役立つのでした。この家屋文鏡の家に付いてる棒が、日時計の指針に似てますね。
日時計ですねこれ。まぁ公式的にはそういう見解は存在しませんけども。
庭に日時計を設置して、日の出や南中高度や日没を見定め、おおまかな時間割をしたのでしょう。線を書いたり石や建物を配置したりで。
そして東西南北はもちろん、冬至、夏至、春分、秋分などの暦を観測し、稲作やら祭事に役立てたんではないかと。
その役割は神主や巫女なので、この描かれた指針がある建物は、神社か神主の家だったんじゃないですかね。
この家屋文鏡自体も四方に建物を配置して、冬至と夏至の方角にも模様を描いてあるみたいなんです。家屋文鏡を使って、方角を測ることもできるんじゃないですかね。実際そういう使い方があったのかもしれんです。
まぁというわけで、弥生時代の倭人は日時計を使ってたのは間違いないだろうと思いました。個人的にも酷い人生なだけに、ひど計を作りたくなってしまいました。
ぽちされたすかりまs
関連記事
・2025年まで僅か…ミャクミャクとはカレンダーで時間を象徴する説を考える
人気ブログランキング