近ごろ爆音が終わらないと共に、ものすごい強迫観念が押し寄せてきて、汚いセリフが起きてる間じゅう定期的に何度も繰り返して精神を疲弊中。
文章を書く量が多くなってるのも、音楽を聴き始めているのも、エンドレスの強迫観念を消したいがためなんですが、なかなか消えないでキツすぎるんですが、はよ止めて。
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関西の日本海側、今の京都府北部のあたりにあった丹後国のことで、以前から気になってた話。
○いつも助かっております
丹後とは
まずは丹後ってなんなのかという話から。
丹後
和銅6年(713年)4月3日に丹波国の北部、加佐郡、与謝郡、丹波郡、竹野郡、熊野郡の5郡を割いて、「丹後国」として設置された。『続日本紀』には「丹波国の五郡を割きて始めて丹後国を置く」と記され[3]、『和名類聚抄』には35郷が記されている[2]。大浦半島の付け根に位置する志楽谷(現在の舞鶴市志楽)は、遅くとも分国前の和銅2年(709年)には丹波国に属していたが、北東部の田結(同・田井)など半島の大部分は奈良時代(710年 - 794年)前期まで若狭国に属していたことが分かっている[3]。
分国以前から、丹波国では丹波直(たんばのあたい)一族が国造や郡司など支配的地位を有していた。『先代旧事本紀』天孫本紀によれば、丹波直は天火明命を祖としている。分国後の丹後国では延暦2年(783年)に丹波直真養が丹波郡国造に、貞観8年(866年)に丹波直副茂が近衛府の下級将官に任じられた[3]。
分国の背景
丹波国府が置かれていたと推定される現在の南丹市や亀岡市から遠方にあることが分国の背景にあったと考えられている[3]。南部の桑田郡には国分寺・国分尼寺が建立されており、奈良時代には丹波国の中心地となっていたことが知られる。
また、分国後の丹波国が丹後国に対して「丹前国」[4]とされなかったのは、分国当時(和銅6年)の分国の原則が、それ以前の同等な国の分割(吉備国を備前、備中、備後とするような分割)[5]とは異なり、母国から一部を割いて、分割された側に別の新国名を付ける形(備前から美作が分国するような形)がとられていた為であると考えられる。そして分割された側でありながら、丹後(二字で「タニハノミチノシリ」と訓じられた)とされて新たな国名が与えられなかったのは、ここが元々の丹波の地であるので、タニハノミチノシリとして「タニハ」の名を残した為とみられる[6][7]。
なお分国後の国名については、『大日本古文書』で丹波国を「丹波前国」、『日本霊異記』で丹後国を「丹波後国」と記した例があり、前者は「タニハノミチノクチ」、後者は「タニハノミチノシリ」(和名類聚抄)に対応したものと考えられる(いずれも「ミチ(道)」が省略されている)[3]。
丹後の成立は他の諸国から遅れて、和銅6年(713年)4月3日なんですね。
丹波国の国府から遠かったから、丹後国と但馬国を分割したんじゃないかという単純な仮説が有力視されているとか。
それが、なんで大陸のタングートに関係すると考えているのか・・・。
中国のタングート
中国四川省や青海省のあたりに、タングートという民族がいました。この国は、7世紀頃にチベット系の羌族から分離して成立したんですね。
タングート(Tangut)は、7世紀~13世紀ごろに中国西南部の四川省北部・青海省などに存在したチベット系民族である。
11世紀初めに西夏を建てた。中国語表記では党項。日本語ではタンガットという記法も散見される。同じくタングート族、タングート人とも。また。タングートの前身は羌である。
同時に、中国語表記で唐兀とも表記され、モンゴル化したテュルク民族とする説もある[1]。
歴史
党項の名前は正史の中で一番古いところでは『隋書』に伝があり、三苗(ミャオ族の前身と言われる)の後裔という。なお、チベット・ビルマ系とされるタングートと、ミャオ・ヤオ系とされる三苗との間では言語的に隔たりがある。
現在チャン族として知られている四川省北部の少数民族の言語は、西夏文字によって残されているタングート語と比較的近いとされている。チベット語アムド方言を話す遊牧民のことをタングートと呼ぶ場合もあり、実際、古代のタングートの居住地域と、現在のチベット語アムド方言の話者が住む地域はほぼ重なっている。そのため、この地域のチベット族の中には、モンゴル化したテュルク民族がチベット人に同化しチベット語を話すようになったタングート人の末裔が恐らく多数含まれており[1]、古代の言語的な特徴を比較的よく残している人びとが、チャン族をはじめとする四川省北部のチベット・ビルマ系少数民族を形成していると考えられる。
羌から出たタングートですが、実際のところはモンゴル化したテュルク人だとも、三苗族(ミャオ族)だとも言われていて、定説がないとか。
ミャオ族・・・猫?
え?
それで、このタングートと、丹後が何の関係があるのか、、もうわかりましたか。以下で答え合わせします。
丹後とタングートの比較
丹後とタングートは、凄く似ているのです。キンピラとチンピラくらい似てます。
(1)成立年代
まず、成立年代が似ていました。
タングートが7世紀に成立すると、それをぴったり追うようにして丹後が和銅6年(713年)に成立してますので、数十年程度しか誤差がないです。
(2)分離独立
まず大陸ではタングート分離し、その後数十年して日本列島では丹後が分離下という感じ。分離したという派生理由も同じですね。
(3)名前
それに名前も似てますね。タングート、丹後。ローマ字にすれば、Tangut、Tango。なんで似てるのかと。
どこから分離したか、ですが、タングートは羌からです。羌はチベット系で、同じ系統で吐蕃という国がありました。
一方で丹後のほうは、丹波から別れていました。
これもローマ字にしてみると、吐蕃がTuban、丹波がTanba。なんかしっくりとくるものがありますよね。
(4)別名
タングートは漢字だと党項と書くのですが、吐蕃人(チベット人)はタングートのことを「彌薬(ミニャク、ミヤク)」と呼んでたそうです。
それで丹後のほうを見れば、丹後の中心都市だった宮津城の地が、彌薬の「ミヤ」に対応するのがわかりますね。
あとは「党」という漢字は、訓読みで「なかま」なのですが、丹後に中(なか)郡があるのはそういうことなのではないかと。
タングートの居た土地は月氏の土地だったので、丹後には加佐郡(月氏=加佐)があるのではないかと。
もうわかったと思いますが。両者を見比べるとこうなります。
地域 中国大陸 日本列島
名称 タングート 丹後国
Tan-gut Tan-go
成立 7世紀 和銅6年(713年)
Tu-ban Tan-ba
別名 彌薬(ミヤク) 宮津城
党項 党(なかま)→中群(なか郡)
関連 月氏 加佐群
タングートと丹後、吐蕃と丹波。もう日本国内の方言より違ってないです。「こんばんわ」と「おばんでがんす」より、ずっと一致率が高いです。
ここまで似通ってて「こんなの嘘だ、デタラメだ」なんて言えますか?
言うらしいですね・・・。
ということは、「丹波国の国府から遠かったから、丹後を分割したんじゃないか」という仮説は、間違ってるように見えてきませんか。
ほんとは、
大陸で、吐蕃と同系統の羌から、タングートが出た。
その情報を耳にした日本の朝廷は、
日本列島の吐蕃(tubut/チベット)として位置づけていた丹波国から、
丹後(タングート)国を分離させた。
これが丹後国のほんとうの成立の経緯なのではないですかね。つまり日本列島雛形論的な思想が、ここには明らかに見て取れるんですよね。まぁ個人的な想像ですので。
そういえば・・・
日ユ同祖論によく出てくるのが丹後国の籠神社(このじんじゃ)です。
この籠神社も、おそらく羌や吐蕃やタングートに関係していると思われます。上記のタングートの先祖の話に戻って欲しいのですが。
三苗、ミャオ族がタングートの祖先とか言う話がありますね。ミャオ族もそういえば、日ユ同祖論でよく出てくる名前なんですよね。
タングートはミャオ族、
丹後は籠神社
いずれも日ユ同祖論的にも繋がりがみえてくるでないですか。
日本列島雛形論との関係
日本列島雛形論の代表格って、北海道を北米、四国を豪州、九州をアフリカ、淡路島を南米にするみたいな感じですよね。
しかし個人的な日本列島雛形論ではですね、日本列島に対応するのは、東アジアから中東・ヨーロッパまでの古代文明圏に限定して考えるのです。これは別に自分が最初に考えたわけじゃないです。おそらく弥生時代に日本各地に地名を名付けた頃、ユーラシア大陸各地の国・民族の名称を、日本列島に名付けていっています。
古代倭人がすでに考案していたんですね。数の大小の差はあれど、ユーラシアの各地から日本に吹き溜まってきて、日本というひとつの言語と文化に馴れ合ったのが倭人ですので。
つまり、
よくある日本列島雛形論・・・日本の大きな島の全てが世界の大陸に対応
個人的な日本列島雛形論・・・日本に対応する土地はユーラシア大陸が基礎
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こうして丹後が日本列島雛形論を証明する鍵だったわけ、なんとなくわかりましたね、独りよがりで。
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