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たっちゃんの古代史とか

誰も知らない日本とユーラシア古代史研究。絵も本も書く。闇の組織に狙われてるアマ歴史研究者。在宅勤務の自営業。

近所の子供が十数年間も不快なほど叫び続けた相手はほとんど飛行機だった

嫌がらせ 陰謀 騒音問題

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Roller coaster - Wikipedia より

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

俺を苛立たせるのが仕事の1つらしい、防犯パトロール兄軍団が、たまにバイクの音をブンブン出しているが、

 

バイクと飛行機の音は全然ちがう。

 

飛行機の騒音がするたび、ジェットコースターみたいに絶叫する子供ってなんなの?

「叫べ」って指示されて叫んでるの?

 

大型プロペラ機

youtu.be

 

自衛隊輸送機

www.youtube.com

 

セスナ機

youtu.be

 

 

youtu.be

 

 

自衛隊ヘリコプター

youtu.be

 

youtu.be

 

チェーンソー

youtu.be

 

 

こういう音が聞こえるたびに、

住宅地で大絶叫する子供が大勢いるんだが。

 

ほか、爆音の車、バイク、バックホー(ショベルカー)など重機 

彼らは何百回と飽くことを知らず、叫びまくっていた。

 

人間は、濡れ衣を着せて、他人を不条理に責め立てるものらしい。

人間は、自分の大声の迷惑には、気づかなかったりするものらしい。

そこに理性はなかった。

 

騒音の正体を見分ける、聞き分けるができない人々は、音の聞き分けをやってみてほしい。親も先生も教えてくれませんし。

 

以前の記事 2012年12月12日

騒音発してないのに騒音源だと決めつけられ罵声を浴びる

 

 

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桃太郎は卑弥呼にとって弟かそれとも分身か

卑弥呼 古典 地名 天皇 記紀

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Momotarō - Wikipedia より

 

日本を代表する昔ばなしの桃太郎って、とことん倭の女王卑弥呼に関係してたんですね。妄想を極限に膨らませてみました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 桃太郎と桃そ姫

 

桃から人が生まれた桃太郎の話を簡略化。

むかしむかし、婆さんが川上から流れてきた桃を拾った。婆「ポケ桃ゲット」。桃から男の子が生まれた。爺と婆は桃太郎と名付けた。桃太郎は大きくなると、村を荒らす鬼を退治すると言うので、婆がこしらえた黍団子持って出ていった。途中で犬、猿、雉をお供にして鬼ヶ島へ。悪い鬼を根こそぎ退治して、鬼の財宝を持ち帰って幸せに暮らしたんだとさ。めでたしめでたし。

桃太郎ってなんなんですかね。

梨太郎、柿太郎、葡萄太郎、蜜柑太郎、パイナップル太郎なんていうのはなくて果物では、桃太郎だけ。

 

桃の名前を持ってる歴史的人物は、いたかなと考えると、

モモずきん、ももぼんはゆるキャラだし、桃パイパイ、剣桃太郎は漫画だし。

で調べたら、

 ・歴史上の人物の名前で「桃」の字がある人っていますか? - 【... - Yahoo!知恵袋

いました。

桃井直常、桃井氏、仙桃院桃園天皇、後桃園天皇などなど。でもみんな、中世以降のひとで、古代にはいなかったんですかね。

 

あ、「日本書紀」にいました、イザナギが黄泉の国から逃げ帰るとき、黄泉醜女(ヨモツシコメ)を撃退するため、投げた桃。この桃、イザナギに誉められて、大神実命(おおかむづみ)の名を頂いているのだから、桃の界隈では英雄的な桃だとか。まあこれは桃だし・・・。

 

と駿巡を重ねていたら、

「百(もも)」なら、古代には居たなと、思い付いたのでした。

 

倭迹迹日百襲姫命(やまととひももそひめ)。百襲姫。

もしかして百襲媛って、桃そ姫なのでは?

という連想をすると、「桃が襲う姫」だから、イザナギが投げた桃の役割そのままな印象があります。

ももそひめ、このかたは長らく卑弥呼と同一視されている巫女で、恐らく「卑弥呼の巫女人格が独り歩きした存在」なのではという話は、拙著にもあります。

倭迹迹日百襲姫命=卑弥呼説の新説 -

 

この桃太郎と桃そ姫は、かなり緊密な関係があったようです。そのへんをちょっと詳しく見てみます。

 

桃太郎は吉備津彦だったのか

 

桃太郎が吉備津彦だとの説は、熱心に信じる人もいますが、それだけの信憑性はありました。

日本書紀」では紀元前の天皇である第七代の孝霊天皇と、妃だった倭国香媛とのあいだに、倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめ)と吉備津彦命(きびつひこのみこと)という子供ができました。

・倭迹迹日百襲姫命は卑弥呼説があり、百(もも:桃)の名を持っています。

・吉備津彦は黍(きび)団子のキビの名があり、桃の弟だということ。

それで、吉備津彦は桃太郎なのではないかと。

 

この仮説を裏付ける話があり、

伝承・信仰

吉備津神社岡山県岡山市備中国一宮)の縁起として、吉備津彦命が吉備平定にあたって温羅(うら・うんら・おんら)という鬼を討ったという伝承が岡山県を中心として広く知られる。これによると、温羅は鬼ノ城に住んで地域を荒らしたが、吉備津彦命は犬飼健(いぬかいたける)・楽々森彦(ささもりひこ)・留玉臣(とめたまおみ)という3人の家来とともに討ち、その祟りを鎮めるために温羅の首を吉備津神社の釜の下に封じたという。この伝説は物語「桃太郎」のモチーフになったともいわれる。吉備地域には伝説の関係地が多く伝わっているほか、伝説に関連する吉備津神社の鳴釜神事は上田秋成の『雨月物語』中の「吉備津の釜」においても記されている(詳細は「温羅」を参照)。

この伝承では、温羅は討伐される側の人物として記述される。しかし、吉備は「真金(まかね)吹く吉備」という言葉にも見えるように古くから鉄の産地として知られることから[10]、温羅は製鉄技術をもたらして吉備を繁栄させた渡来人であるとする見方や[11]、鉄文化を象徴する人物とする見方もある[12]。また、吉備津神社の本来の祭神を温羅と見る説もあり、その中でヤマト王権に吉備が服属する以前の同社には吉備の祖神、すなわち温羅が祀られていたとし、服属により祭神がヤマト王権系の吉備津彦命に入れ替わったと指摘されている[13]。

吉備津彦命 - Wikipedia

ということで、桃太郎と吉備津彦は共に鬼退治をしているのです。だから同一人物だという話は、信じても良いかもしれません。

しかし個人的に、もうひとつの仮説も浮かんできました。

 

桃太郎は男装した女性だったとしたら

 

桃太郎が男装した女?そんなわけあるかと、思われるかもですが。桃太郎については、こんな伝承があるとか。

香川県では桃太郎が女の子だった、とする話がある(生まれてきた女の子があまりにも可愛らしいので鬼にさらわれないように桃太郎と名づけた)。

桃太郎 - Wikipedia

というふうに、香川県では、桃太郎は女の子でした。

 

香川県に見られる桃太郎の土地
田村神社 (高松市)
・桃太郎神社 (高松市)
・女木島 (鬼ヶ島)
・鬼無

 

香川県はうどんと共に桃太郎関係の土地が集中していて、しかも「桃太郎女の子説」が出ているというのは、何か無視できない状況が揃っています。 

ヒーローが実は男装した女の子っていう話は、日本の漫画でも良く見られるモチーフだったりします。古典的なアニメでいうと「リボンの騎士」とか「ベルサイユのばら」ですかね。男だけど子供の頃にハマって毎回見てました。

歴史上だと、西洋ではジャンヌ・ダルク、日本だと天照大神神功皇后あたりが男装の記述があります。

個人的には天照大神と同一視している卑弥呼も、男装をしていたはずではないかと。卑弥呼と同一視できる崇神天皇は、じつは卑弥呼が男装した姿ではないかという話で、本を書いてました。

卑弥呼は男装して出歩いてた・・・複数の記録に分断された卑弥呼

さらにそれ以前から、卑弥呼崇神天皇説を提唱してました。

 

これで気付いたのですが、桃太郎の「桃太郎女の子説」と、「卑弥呼男装説、卑弥呼崇神天皇説」は、イコールか≒(ほとんど等しい)になりうるのではないかと。

桃そ姫も桃太郎も、「男女の性別の区別がつかない」共通項があったのだと、自分のなかでは納得です。

 

 桃太郎(卑弥呼)の鬼退治

 

すると、「桃太郎の鬼退治」とは、もしかすると「卑弥呼の鬼退治」なのではないかという発想が出ました。

戌、申、雉をお供にしたというのは、卑弥呼が倭の豪族を味方につけて、鬼門の方角の島に攻め入ったということです。

ちょうど記紀神話で、天照大神が、武甕槌命経津主命大国主のところに送り込み、国譲りを成し遂げた話に重なるんではと。または、卑弥呼と狗奴国との対立構造の後、おそらく卑弥呼軍が狗奴国を攻め滅ぼしたことにも。

狗奴国(クナ)は「鬼ノ国」と解釈できるのですし。

 

桃太郎のお供になった戌はいぬで、福岡の委奴(いぬ)国人、猿は道案内の猿田彦の一族、雉は鬼人(きじ)か鬼島(きじ)で、元は鬼の一種だろうか。だから道案内には長けていたわけなのか、などど想像してみたり。 

 

桃太郎と方位

 

桃そ姫=卑弥呼=天照大神だと仮定すると、卑弥呼がいたのは日向=九州で、すると鬼門の鬼ヶ島とは、卑弥呼のいる九州から見た、秋津島(本州)かもしれないてことになるわけですよ。そこに鬼ノ国(狗奴国)があったと。

この桃太郎の昔ばなしですが、明らかに東西南北の方角に関係してるのは気づいてました。調べてると、こんな記事が。

【衝撃】昔話 桃太郎は陰陽道の話だった - NAVER まとめ

 

これは本当のことなのでは。

戌、申、酉(雉)は西をあらわし、牛の角と虎のぱんつを履いた鬼が北東を表す、というのは。桃太郎は西から出発して、東へ向かって鬼を退治したというのは。

 

西海道・・・昔の律令時代の、九州のなまえは西海道

だから、九州に桃太郎(卑弥呼)がいて、対岸の鬼門の島といったら、本州か四国…。

 

などと書いてたら、カラパイアからこんな記事が出ました。

karapaia.com

 

何故か猫に群がるニワトリ・・・。

俺に群がる人々を表現する状況かと思ったり。

 

そういえば猫って、十二支に入ってない動物なんですよね。猫はネズミに騙されて、遅刻して十二支に入れなかったとか。つまり猫とは13番目の干支なんですよ。

俺の想像によると、実は十二支のサークルの横には、1つ小さな猫サークルがあるのです。こんなふうに、北の子(鼠)の横に猫が配置されます。

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 猫の自由奔放な感じからすると、十三番目の席というのは居心地は悪くなさそうですね。

 

そうそう、四国をわすれていました。四国というのは、鬼の島かもしれないわけなんですよ、古代には。

本州と四国で、「鬼」がつく地名はかなりあって、要するに本州と四国中が、鬼ヶ島だったんではないかと。

どうやら鬼地名は、九州は少ない模様です。

 

いわば桃太郎の鬼とは、縄文系統の毛深い倭人かもしれないなと。弥生系統は体毛の毛並みが薄くて、だから平安貴族の絵画では、のっぺりした顔でヒゲも生えそうにない弥生顔が主流になっていて、毛深い貴人は少ないでしょう。 

かつて東日本に住んでいた人々は蝦夷とか東夷と呼ばれたほか、「毛人」と呼ばれていました。それは顔を広範囲まで毛で覆われた、昔のアイヌ民族みたいな風貌の人が大勢を占めたからでしょう。

 

倭人蝦夷はいつも対立関係にあって、蝦夷が鬼と呼ばれる人々だったわけで。大和に抵抗したアテルイも、当時は鬼と呼ばれていたし。

蝦夷(えみし)を討伐しようと、ヤマト王権から歴代の征夷大将軍が誕生して、東方の征伐に躍起なっていました。

征夷とは、それは桃太郎(吉備津彦・百襲姫)という、天皇家の人々による 鬼退治から始まっていると言えるものかもです。

 

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福岡県の珍敷塚古墳はエジプトからの民族移動を示す大陸地図だった件

ご先祖様 エジプト 古墳 大和民族 大陸 日ユ同祖論 烏孫 起源

何ということでしょう。毎日の膨大なストレスで、若干ハゲが加速してきました。

 

さて、前回の記事は鳥取県だったんですが、今回は福岡県の古墳から、古代地図を引き出して見たいと思います。

 

屋形古墳群

珍敷塚古墳、原古墳、鳥船塚古墳、古畑古墳の4基の円墳で構成される。現在、墳丘が残っているのは、古畑古墳と原古墳のみである。昭和61年(1986年)2月25日に国の史跡となった。

珍敷塚古墳(めずらしづかこふん)

奥壁と壁の腰石のみが残り、墳丘は古い時代に破壊されたと考えられる。壁画には点と線を多様に使った絵が書かれている。

屋形古墳群 - Wikipedia

 最初は誰でも「ちんしきつか」と読んでしまうのが通過儀礼らしき珍敷塚古墳。ちんしきちんしき・・・とリズミカルに何度か口ずさんでいると、シーチキンになってきました。この古墳の年代は、古墳時代後期(6世紀)だとか。

何が一体珍しいのかというと、古墳石室の壁画です。

 

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3時間くらいかけて描いた、壁画の写し。

 

これに何が描かれているのか、一般的な解釈を捉えてみたら、こんな感じ。

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左から、太陽、船をこぐ人、烏(からす)、靫(ゆき)、靫、靫、蕨(わらび)、蛇、兵、盾、蛙、猪、太陽、烏、船着場

一般的にはこんな解釈がされています。

 

これはこの古墳被葬者にとって、思い入れの深いもの、動物、何らかの物語を描いたと言われています。いずれにしても昔の倭人が、倭の筑紫(福岡)あたりの思い出の光景を描いた、そういう認識が一般的。

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ところで、一番左側のここについては、別の解釈があります。

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エジプト考古学の吉村教授が、珍敷塚古墳の壁画は、エジプトのセン・ネジェム古墳の壁画と全く同じテーマで描かれていると述べています。

『ファラオと死者の書古代エジプト人の死生観 (小学館ライブラリー1994/05)吉村作治

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 『ファラオと死者の書』 吉村 作治 | 考えるための書評集 より

 

確かに全く同じように太陽、船、右側の舳先の鳥という題材がすべて揃っているわけなので、納得できるところはあります。

 

じゃあ、

「珍敷塚古墳の左端は、エジプトなんだ」

と考えて、壁画を見ていったらどうですかね。ここからは珍敷塚古墳の左の船と太陽の部分はエジプトだという前提で話をススメます。

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珍敷塚古墳の壁画で気になるのは、登場する人や動物の進行方向が、全部足並みを揃えて右向きという点にもあります。進行方向を矢印で示してみました。

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こんな風に。船の人、船の烏、船の方向、蛇、兵、蛙、猪、船着き場の烏・・・すべてが右向きなんですよね。

左側の太陽と船の位置を出発地として、船着場のある場所が到着地であると考えていけば、壁画全体で何を表しているかは朧気に見えてきました。

 

つまり壁画の中で、太陽の船のある場所はエジプトです。

壁画の一番右側が到着した土地であり、現在の珍敷塚古墳の位置であるということ。

途中の靫(ゆき)は、ユーラシア大陸の途中の中継地点、国を起こしたのか、とどまったのかということです。弓矢や点々が、国に満ちた人の数を表しているでしょうね。

全ての人や動物が、右方向を向いているということは、左のエジプトが「西」であり、右の船着き場の到着地が「東」で、船着き場は倭の筑紫(福岡)の珍敷塚古墳のあたりなことを、意味していると読み取れますね。

 

前回は

鳥取県の梶山古墳の「イクトゥスの壁画」が表す、天皇家がユーラシア大陸を横断した記録

で、壁画のイクトゥスから古代天皇家大和民族が中東から移住してきた、そんな結果を読み取れました。

今回のこの壁画も「珍敷塚古墳に葬られた倭人(の先祖)の移動を示しているユーラシア大陸の地図だ」っていうことが、なんとなく見えてくるわけなんですよ。

では1つ1つの要素を細かく見て行っちゃいます。

 

・蛇

蛇というのは古来から世界中で信仰対象となっていた動物でした。古代エジプトでは、ハヤブサの頭部を持って、図上に太陽円盤を乗せた太陽神ラー。太陽円盤を取り巻くのは蛇なのであり、蛇とは古代エジプトでは太陽と権威の象徴たる動物で、ファラオは王冠にヘビの頭のウラエウス(蛇型記章)を取り付けていました。

 蛇形記章 - Wikipedia

 日本のイザナギイザナミは元々は蛇神だったのではないかという説があり。ナガとは蛇であり、ナミとはギザギザの波形(~~~~)だし、ミは巳ということで蛇を表しています。原初には天の沼矛をかき回し、天御柱の周囲を回転する様子があって、これらがギリシャの2匹の蛇がからまった蛇ケリュケイオン、シュメールのニンギシュジッダ、中国の伏儀・女媧と共通するモチーフでもあるのですよね。

参考記事

本来は「翼ある蛇」だった斐陀国は、金印の委奴国と同一の民。のちに匈奴の攣鞮氏が入り込み飛騨になったかも

 ということで蛇神信仰は、西のエジプトから、東の倭へ到達している可能性は、この壁画から見えるかもしれないことです。蛇の進行方向は西のエジプトから、東の倭となっているわけなので。

そういえばこんな記事も

・極論だけど日本の神様の起源はエジプトの神にあると思った件

 

 ・靫

弓矢を入れて背負う、ランドセルやリュックサックみたいな道具、それが靫。ゆぎ、うつぼ、箙(えびら)、矢筒(やぐない)ともいうとか。

壁画の中では3つの靫があって、東へと進むにしたがって靫の大きさも弓矢の数も点々の数も増しているようです。これは東へ進むごとに、エジプトから出発した勢力が増していったことを意味するでしょう。

エジプトから出発した民というと、やっぱりモーセ出エジプトをした、古代イスラエルの民ってことなんじゃないかと。だから珍敷塚古墳の一族の先祖はやっぱりアッチ系なんじゃないかと思ったりしますが。

靫の形状は何故か漢字の「月」形をしているのは、「月氏の土地を通った」ことを表しているようです。月氏は大陸の中央から漢の近くにまで、進出していました。

中央アジアバクトリア(のちの大月氏の地)、タリム盆地の西域諸国(歴史的に月氏の地)、甘粛省青海省土地(のちの小月氏の地)を経ていることが、壁画の靫=月で表されてるのではないかと。

そういえば思い出した。

 

日本の奈良県と、神武東征記録に月氏系の地名や人物名が、とにかく多いことについての記事はこちら。

神武東征は「烏孫王の中央アジア東征だった」を、登場する人物名と地名から検証してみる

 

 ・蕨

蕨は縄文時代からある植物で、倭人アイヌの絵柄にもよく使われています。蕨文、蕨手文と言われます。これは倭固有ではなくて、エジプトや中央アジアでも古くから用いられたデザインで、蕨文の模様は古代から世界共通だったのですよ。

で、この壁画に描かれているのは、実際には蕨じゃなくて、中央アジアの国を表すものかもしれません。

渦はウズで突厥烏孫を呼んだ音が「ウズ」だったので、2つのウズがあることは、2つの烏孫を表していますね。烏孫は歴史上で、少月氏の土地に難兜靡が建てた烏孫が最初にあって、後にキルギスのイシク・クルのほとりに昆莫が烏孫を建てたということで、2つの渦がここで表されているのがひとつ。

もうひとつは、この蕨手文みたいな地形が、中央アジアに実在することから、正体が見えてくるのではないかと。これについてはまた今度。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

それで、出た結論がこれ。 

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(1)まずセン・ネジェムの壁画によって、珍敷塚古墳の被葬者の部族が、古代エジプトから出てきた(モーセ率いる古代イスラエル人の「出エジプト」の出来事?)ことをあらわしている。

(2)全ての人や動物を右向きにすることで、西のエジプトが出発地点であり、東へ向かったことを意味している。 

(3)月の形をした靫により、月氏の領域=中央アジアに拠点を持ったことをあらわしている。

(4)渦によって烏孫(ウズ)をあらわしている。また蕨文の形状は中央アジアタリム盆地天山山脈、バルハシ湖の領域を表している。

(5)蛇は長い道のり。

(6)盾はトンであり、中国の唐(トン)と同じ。だから中国大陸を渡ってきたことを示している。またはトルコ系の遊牧民で、極東まで到達したタタルが倭まで来ているから、それを表している。盾の古語は「たた」なので、タタルを表すのに丁度よい。

(7)蛙は、中国に「月に蛙がいる」との神話があり、中国を通ったことを意味する。または扶余の金蛙王のことで、蛙は水棲だから海を泳いで渡ってきたことを意味する。

(8)猪は「いぬしし」で、倭の最初の国「委奴国」(いぬ国)に到着したことを示す。

(9)輪(◎)により「倭」をあらわしている。

(10)八咫烏が出発地点から船人の道案内をし、到着地である倭の船着き場にもいることで、はるかエジプトから渡ってきた民であることを表している。個人で渡ってきたというより、先祖代々を経ての記憶を描いているのだとおもう。

(11)セン・ネジェムの古墳の年代は、ラムセス2世(紀元前1314頃 - 紀元前1224年)の頃。月氏は紀元前3世紀から西暦1世紀。烏孫は紀元前2世紀から西暦5世紀。扶余は紀元前2世紀から西暦5世紀。委奴国は西暦1世紀。珍敷塚古墳は6世紀。

 

月氏烏孫、扶余、委奴国と通ってきたとすると、紀元前5世紀~西暦1世紀頃の移住で、やはり居住期間に、かなり世代を重ねているのでは。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

というふうに、珍敷塚古墳の壁画から、色々な情報を読取ることができたわけなんです。

重要なのは、この珍敷塚古墳と全く同じテーマの壁画が、他にも複数存在しているということ。倭人のかなり多くがエジプト方面から端を発し、中央アジアを経て来ていることを、表していますね。

どうして古代エジプトのセン・ネジェム古墳の壁画を、左端に描いたのかの理由が分かってくるではないですか。壁画の真ん中と右側を、見るべきだったのであると。考古学の先生も、この壁画全体を見直してほしいですね。

 

遺伝子として残っていないのは、東アジアでの交配が、かなり進んだからということなのですね。あるいはよく言われるように、Y染色体のD系というのが中東系の遺伝子であるから、いま「縄文人の遺伝子」といわれているものが、実は「紀元前5世紀から弥生時代末期・古墳時代にかけて移住してきた倭人モーセ古代イスラエル人→烏孫人・月氏人)の遺伝子」なんじゃないですかね。

とすると何で、弥生時代の大陸奥地から渡って来た遺伝子が、縄文時代に大陸から渡ってきた遺伝子だという風に言われているのか?という疑問が出てきてしまいますが。

まあ低学歴の仮説ですけど。

 

この記事と完全に整合する内容の記事を、先日書いてた。

古代天皇と大和民族のユーラシア大陸移動経路のまとめ

こちらも合わせて読むと理解が早いです。

 

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鳥取県の梶山古墳の「イクトゥスの壁画」が表す、天皇家がユーラシア大陸を横断した記録

ご先祖様 中国 地名 大和民族 天皇 日ユ同祖論

人間が一生に受けるストレスは、平均で1000ポイントだとしますね。

俺は1日で100ポイントを超えた日が過去に何度かあり。

それは自宅前で、中学校の複数の生徒の集ストによって大絶叫爆撃の雨霰を受け続けた日々であるとか。

出先で何故か自分を見失って混乱し、右も左も何していいかもわからなくなった日だとか。原因不明の臭いに悩まされた時だとか。・・・。

そんなことが色々と積み重なって、俺の人生40年でストレスは1000万ポイントは溜まっていますよ。早くポイント交換で豪華商品を貰いたい、この頃。

追い込みが加速して、もうこのままココに居ると殺される勢いなので、ちょっと寿命を伸ばすために4月には転居をする予定です。

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梶山古墳。

知らない人のほうが多そうなこの古墳、実はかなり重要な古代の情報を秘めているのではないかと。それはずっと追い求めている、「天皇大和民族の中東起源説」を示す、ちいさな証拠みたいなものではないかと。


梶山古墳(かじやまこふん)は鳥取県鳥取市国府町岡益にある古墳。1978年(昭和53年)に中国地方で初めてとなる彩色壁画が発見されて注目され、1979年(昭和54年)に国の史跡に指定[1]された。その後の発掘調査で、日本最古の方形壇を持つ変型八角形古墳であることも確認された。

 

・石室と彩色壁画

石室は墳丘の南面にある。内部には凝灰岩を切石とした横穴式石室を構築している。石室の全長は9メートルほどで、幅60~80センチメートルあり、玄室・玄門・前室・羨道の部分からなり、玄室の高さは1.8メートルほどある。前室部の高さは2.1 メートルほどで、石室の中では最も高い。

石室の奥壁にはベンガラ(赤黄色の彩色)で魚や同心円(日・月)、竜文、三角文を描いている。石室は早くから開口しており、子供の遊び場となっていたが、1978年(昭和53年)5月、梶山古墳を訪れた同志社大学教授・森浩一により、彩色壁画であることが確認された。後になって、石室奥壁の壁画のことを地元の小学生が作文に書いていたことも分かった。

壁画の主題である魚は体長53センチメートルで、鮭か鯉を描いたと見られる。鮭は死者がもう一度よみがえり、生前の姿を見せてほしいという追慕の気持ち、鯉は滝を登ると竜に変わる『竜文の鯉』という中国の故事に由来しており、いずれにしても死者を弔う祈りの印である。

・被葬者

被葬者については不明であるが、675年(天武4年)に因幡に配流された皇族の麻績王(麻続王)(おみおう)であるとの説が有力である。

八角形の墳丘・壁画の魚・南面するプランなどは道教思想が濃厚であること、石室の切石の精巧な技術、壁画の技術などから大陸文化の影響が強くうかがえ、被葬者は相当に身分の高い人物であったことが想像される。

 

梶山古墳 - Wikipedia

 梶山古墳についてはこのサイトが詳しいです。

http://yz-t.com/bunbun/kokufu/kajiyama/kajiyama.html

 

サイトの現地の案内板の写真から、写し取った梶山古墳の彩色壁画の様子。

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こんな奇妙な壁画があるとか。

これはおそらく「絵文字」として機能してるに違いない。 

 

ウィキペディアでは、この壁画は道教の思想と関連すると結論付けて紹介されてますね。しかし、これは絶対に道教だけに関係すると、決めつけちゃって良いんですか。

俺の見方によれば、魚にはイクトゥス(ジーザス・フィッシュ)が関係するので、別の見解が浮かんでくるわけなのですよ。まぁこれは追々分かってきます。

 

 梶山古墳の被葬者は「皇族の麻積王(麻続王)」だった。

というところから、この壁画は個人の思い入れあるモチーフを描いたか、はたまた天皇家に関係するモチーフを描いた可能性がありますね。

 

冒頭で、私的な移住の話を出しましたが。

古代の天皇家率いる大和民族の豪族集団が、広大なユーラシア大陸を、西の端から東の端へ渡って移住してきたのであるというこの仮説は、このブログで当初からのテーマのひとつになってきました。

梶山古墳の壁画によっても、この仮設は証明されることです。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

では壁画に何が書いてあるか、意味を解きたい欲求がスゴイですが、この梶山古墳の彩色壁画の解釈は、すでに5年前くらいに出していました。

 

△について

 

卑弥呼を象徴する数字と三角形から導かれる「女王卑弥呼は天皇だった」

この記事で、「△=ミカド=帝=天皇」を意味する記号であると書いています。 

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 3つの角があるから、ミカド。

超安易な発想ですが、たぶん文字を使わない昔の倭人は、こうしたいろんな記号を絵文字として機能させたのは確実です。または漢字を使うことを避けた皇族も、あえて記号に意味を込めたんです。

これは三位一体の神を表すのだとか、いろんな解釈があります。

 

縄文時代にはペトログリフという文字があったらしいです。

神代文字もよく話題にのぼりますが、神代文字の殆どは江戸時代以降に創作された傾向が見えるとか。なぜなら神代には8母音あったはずなのに、いま伝わる神代文字は5母音のものばかりが残っているから。5母音化して以降に創作された神代文字が、いま蔓延っているわけですが、全部が捏造というわけでもないとか。

縄文時代ペトログリフでは、

◎=太陽

D=月

~=蛇

みたいに解釈がされます。なるほど~と頷けるような、極めて単純な記号を絵文字として使っていたと。それは縄文時代あとの弥生時代でも継承されていて、古墳によく描かれているのを見かけます。

現代人でも実は絵文字は使っていますね。ネットのSNSでは顔文字で感情を表したりとか。

 

そもそもミカドって、いつからミカドって呼ばれ始めた?という答えは、おそらく弥生時代以降のこと。

ヨセフ・アイデルバーグの説によると、ミカド(帝)= ミガドル(高貴なお方)。

神言語ヘブライ語と日本語の共通点多すぎ!!日本人のルーツは“失われたイスラエル10支族”ユダヤ人なのか!?籠目文、鳥居、君が代、共通点他にも多数… |

 個人的には日ユ同祖論を含めて、大陸各地の発祥のものが融合しているのが日本文化や日本語の正体であり、天皇という家系そのものが同様だと認識しているので、日ユ同祖論的な解釈も断然アリかと。するとミカドは弥生時代天皇家大和民族が渡ってきたのと一緒に、倭へともたらされた言葉なのかと。

 

彩色壁画で、左と右に2つ、△があるというのが注目点。

・・・

 

◎について

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倭ではいにしえより、◎印は太陽を表しているのは明らかで、これはエジプトと倭の共通した文字(記号)でもあります。

日本は日の丸の国旗を用いていますが、日の丸の中央の赤い丸は、天照大神を表しているということは、知らない人もいるかもですが。

つまり現代日本人も、◎という絵文字を太陽の象徴として継承して来ているわけですよね。

 

とすると梶山古墳の壁画では、太陽もまた左右に2つあるということになって、これは奇妙だということ。

大友克洋の「アキラ」で、「アキラがふたつ」現れた場面が思い起こされてしまいました。

・・・

 

魚について

 

単刀直入に言えば、これは道教じゃなくてキリスト教における、イクトゥスです。個人的にはそう解釈します。

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イクトゥス(イクテュス、ichthys ichtus、ギリシャ語: ΙΧΘΥΣ/ ἰχθύς 発音 [ikʰtʰýs]) は、弧をなす2本の線を交差させて魚を横から見た形に描いたシンボルである。初期のキリスト教徒が隠れシンボルとして用いた。

英語では、イクサス (ichthys, ichthus[ˈɪkθəs][1]) のほか、ジーザス・フィッシュ (Jesus Fish) やクリスチャン・フィッシュ (Christian Fish) とも呼ばれている。

 

頭文字の符牒

イクテュスはギリシャ語で「魚」という意味を持つが、同時にΙΗΣΟΥΣ ΧΡΙΣΤΟΣ ΘΕΟΥ ΥΙΟΣ ΣΩΤΗΡ (ギリシャ語でイエス、キリスト、神の、子、救世主)の頭文字を並べたものでもある。

 

古代ローマにおける用法

ミラノ勅令以前のキリスト教徒は、迫害や処刑されるおそれがあったため、信仰を公にできなかった。そのため、 隠れシンボルとして次のように用いられたといわれる。まず、1人の人間が明らかにランダムな直線や曲線を砂の上に描き、その線のうち1本を円弧にする(イクテュスの半分)。もし、もう1人が地面に線を何本か描き足す中でイクテュスの形を完成させれば、2人はお互いがキリスト教徒であると確認できた。

また、キリスト教ユダヤ教の流れを汲む宗教であるため、当初は偶像崇拝を禁止していた。そのため、3 - 5世紀頃の初期キリスト教美術では、イエスやその信徒を表す場合には魚やヒツジなどの動物に置き換えて描かれた[2]。

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イクトゥス - Wikipedia

 

梶山古墳の壁画の魚は右を向いているので、進行方向は右向きだろうなと。

そして右を向いた魚の進行方向と、壁画上部の「曲線文」が関係していました。

・・・

 

曲線文について

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ぱっと見て、何だかわからないものが目の前にあるとき、人は今まで人生で培った知識をフル回転させて判断しますが。東洋史を中心に研究した人が、道教に関係すると言ったり、曲線文は龍を描いた四神の青龍だ、みたいな発想してもまた遠く外れてはいないです。

でも梶山古墳の壁画の曲線文は、はっきり言えば「地図」が正解なのではないかと。こんな単純な線のちずがあったとして、伯耆の国(鳥取)の狭小な範囲なのか、日本列島かと考えますが、違いました。

 

これはユーラシア大陸の「シルクロード」を表しています。

個人的に天皇家大和民族は、西はエジプト、古代イスラエル王国、トルコからはじまり、真ん中は中央アジア烏孫月氏を経て、東は扶余や呉や三韓を通って倭に到達したと考えていて、過去記事もこんなのがあります。

関連記事

古代天皇と大和民族のユーラシア大陸移動経路のまとめ

 

この梶山古墳の地図というのは、妄想している経路とぴったり合うものなのではないかと。

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 西のミカドと輪(倭人)は、シルクロードを経て、東に移転しているんですよ。

それを2つの△と◎と魚の進行方向とシルクロードの地図で表した、っていうことです。

出発点となるのが西はエジプト、古代イスラエル王国、トルコからはじまり、真ん中は中央アジア烏孫月氏を経て、東は扶余や呉や三韓を通って、さいごに倭に到達してます。

 

これと同じものが、実は福岡県の珍敷塚古墳をはじめとして、全国の古墳壁画にも描かれているのですが。それは次回。

 

梶山古墳自体が、日ユ同祖論が正解であることをあらわす回答の一端であることが、分かってきますよね。 

でも日ユ同祖論を熱心に否定するひとは、この解釈も捏造だとか歪曲というかもしれません。このことを証明するのは難しいですが、被葬者と伝わる麻績王と梶山古墳自体の存在からも、「天皇大和民族の中東起源説」は見えてきます。

 ・・・

 

麻績王について

 

 この古墳の被葬者は麻績王(麻続王)が有力とのことで、ウィキってみると、


麻績王(おみのおう、生没年不詳)は、7世紀末の皇族。麻続王、麻積王とも称される。

出自をめぐって大友皇子天智天皇の太子)、美努王橘諸兄の父)、柿本人麻呂など諸説ある。また、年代的に無理があるが、聖武天皇の別名ともいわれる。

日本書紀』には、675年5月17日(天武天皇4年夏4月18日)の条に天武天皇によって「三位麻続王に罪あり、因幡に流した」とあり、この他に『日本書紀』には、麻績王の子の1人を伊豆諸島の伊豆大島に流罪にし、もう1人を血鹿嶋(長崎県五島列島)に流罪にしたとある。また、『万葉集』巻第一では伊勢国の伊良虜の島(愛知県渥美郡伊良湖岬)に流罪されたとある[1]。さらに、『常陸国風土記』には常陸国行方郡板来村西の榎木林に居らせたとあって、流罪先も諸説ある[2]。

万葉集』には、伊勢国の伊良虜の島に流された麻績王の事を悲しんだ人が「打麻を 麻績王 白水郎(海人)なれや 伊良虞の島の 珠藻刈ります」と歌ったのに対し、麻績王が答歌として「うつせみの 命を惜しみ浪にぬれ 伊良虞の島の玉藻刈り食む」と詠んだというの和歌が伝えられている。

なお、鳥取県鳥取市国府町岡益にある梶山古墳は麻績王の古墳であるともいわれてる。

麻績王 - Wikipedia

親子ともども波乱万丈といった感でした。このかたも、もしかすると大勢に責め立てられて、ストレスは軽く1000万ポイント超えているかもですね。

麻績王(麻続王)は、麻績(麻続)と書いて「おみ」と読ませているのは、当て字というわけです。直感的には近江国滋賀県)の生まれに因んで、「おみ(近江)の王」なのではと発想しますが。

 

「麻績」は、別の読み方をすると「マシャク」。

マシャと言ったら、メシア(マーシアハ)のことだとしたら。

要するに梶山古墳の壁画に何故、ジーザス・フィッシュ(イエス魚)が描かれているかの説明が付くわけなんですよね。

梶山の梶という1字は、「神に捧げる神聖な植物」ということだったので、やはりキリスト教に関係している地名、それが梶山だったのでは。

 

古代に俺の妄想のセンサーを飛ばしてみると、

 

近江のほとりで生まれた麻績王(おみのおう)は、

景教ネストリウス派キリスト教)の信仰者となり、

自らの名を「マシャ=メシア=救世主」として、異教を熱烈に信仰し、

日本の国政に影響させようとしたために、

「麻続王に罪あり、因幡に流した」等と、一家ともども流刑させられ、

鳥取に自分の墓(梶山古墳)を造った時に、

神に捧げる神聖な梶の木の名を取って梶山とし、

自らの信仰であるキリスト教の印「イクトゥス(ジーザス・フィッシュ)」を密かに描いて信仰をあらわし、

憚って誰も口にしなくなった、天皇家の先祖の辿った道筋(古代中東からシルクロードを経てやって来た)を描いた

 

という話は想像しただけです。

こう考えると、なぜ壁画にジーザス・フィッシュ(イエス魚)があるか、被葬者の名前がマシャ(救世主)なのか、全ての辻褄が合ってくるわけなので。

 

そうすると、梶山古墳装飾壁画について、学者が「中国の道教の影響を受けた壁画だ」と結論づけていることについて、違和感を感じるしかないということんですよ。

まぁちょっとだけ「これはアリだな・・・」と思ってくれたら、それが積み重なって、「天皇大和民族の中東起源説」や日ユ同祖論が真実の日本史の根幹にあることを、多くの人が認識できるようになって行くかもしれないなと。

 

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かつて奈良盆地にあった大和湖の本来の名はイシク湖だったりして

地名 大陸 烏孫 起源

ユーラシア大陸諸民族が想像以上に、大きく倭へ影響を与えていると言っても、なかなか俄には信じられなかったりしますね。日本人は子供の頃から日本文化は日本固有で日本独自で唯一無二だと思い込まされてきましたし。

でも中央アジア、とくに中央アジア烏孫の存在を匂わすヒントは、たしかに奈良盆地に残されていのですよ。

そして今回は、奈良盆地に「イシク湖」があった件について。

 

大和湖(奈良湖)

 

その昔、弥生時代の後期末期の頃まで、奈良盆地には巨大な湖がありました。

それは歴史的には「大和湖」とか「奈良湖」と命名されているそうです。かなりマイナーな存在。

以前に作った地図があったと思い出して、探したら2012年の記事にあった。

古地名図(畿内編)

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大和湖は関東地方でいえば、今は殆ど見る影も無くなっている「見沼」という巨大湖と存在感を重ねることができそうです。見沼はいま「見沼田んぼ」となって、首都圏で数少ない広大な田園地帯になってますが。

奈良県の大和湖の跡地も、昭和時代までは田んぼや池や集落があるばかりでしたが、いまや盆地内全体の都市化が進み過ぎて、面影もほぼ少なくなったとか。奈良県は田舎というイメージがあったのに、食料自給率は47都道府県でも下位のほうで、それだけ都市化してしまったとか。

 

でも奈良盆地には何故か小さな池が無数にあり、実はそれらが、かつての大和湖の跡を示しているようです。たとえば大和湖の北端にあたる、大和郡山市のあたりでは、かなり残ってるのでは。

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こんなふうに。新木町のあたりは特に集中してます。

 

大和湖全体の地図をもう少し詳しく見てみる。

大和湖が広がっていたのは、ちょうど奈良盆地の中央部の西側。大和川、曽我川、葛城川、竜田川、富雄川などの幾つもの川が合流している地点。地域名でいうと生駒郡、葛城郡、磯城郡のあたりになる。

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Flood Mapsは海水面が上昇したらどこまで水が行くか、様子が分かる地図。これをもとに作ってみた、大和湖の想像図。

 

奈良盆地に巨大な湖があったのは、盆地という山に囲まれて水が溜まりやすい地形だから不自然ではないことでした。奈良盆地には海水棲生物の縄文貝塚が無いということだし、地震時にも特に塩がにじみ出るという害も無いので、大和湖というのは海水面が上昇してできたのではなく、山の水が溜まったことによる淡水湖ですね。

そしていま、奈良湖のあたりの地名を調査すると、湖に良く見られる地名が幾つか見つかるんです。

・北浦・・・広陵町の北浦の「浦」とは、海や湖の入江や浜辺を現す言葉なので、いま大きな湖がない広陵町に、浦があったことは大和湖の存在を伝えているよう。

・保津・・・田原本町の保津の「津」とは港のことで、川がないのに港ということは、かつての大和湖の港を現すのかと想像。

・磯城・・・磯城郡の「磯」とは岩の多い海岸をいう。

やはりむかし湖だった情報は、てんこ盛りなのでは。

 

何故に大和湖が消滅したかといえば。

奈良盆地という人が居住しやすい平地の開発を行った弥生人がいました。生駒山地に流れる大和川の岩盤を掘削し、湖の水を抜くことによって土地を増やして開発を進めたという説があり。

ほか、農業で自然と土砂が湖を埋めたという説、しぜんと川が開削されて水が抜けたという説があるようです。

 

本当の湖の名称を見つける

 

この大和湖がむかし、何という名前だったのかは、完全に不明で、いま暫定的に奈良湖とか大和湖と呼ぶのです。別に大和湖や奈良湖で良いじゃないかと思われますが、古代にあったものを探るのが歴史を研究する人の本能というものですし。

ヒントは磯城郡

大和湖のあった地域は、古墳時代律令制度のころから、広域的に「磯城郡」があったことから、湖のほんとの名称を想像するこては可能でした。

磯城郡は当初の名を式群、磯城群といって、昔から式上(しきじょう)・式下(しきげ)、あるいは城上(しきじょう)・城下(しきげ)などと名称が変遷しました。

城の1字だけでシキと読むようです。

 

想像によれば、当初の大和湖は、磯城湖という名前に近い名称だったのではないかと。

では磯城郡と大和湖の範囲を重ねてみる、すると大和湖中心部と磯城郡域はぴったり重なることがわかりました。

次に奈良湖の周辺にシキという地名がないかを探してみます。するとこんな感じになった。

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不思議とシキ系地名が奈良湖を取り囲んでるではないですか。

磯城(シキ)、城上(シキノカミ)、城下(シキノシモ)、信貴山シギサン)、椎木(シギ)志紀(シキ)、石切(イシキリ)、石木(イシキ)、石上(イシカミ・イソノカミ)、石川(イシカワ)、新木(ニキ=シキ)。

この大和湖を中心とした場所だけ、シキ、イシキ系の存在感ある地名で取り囲まれてますよね。なんでだろ。イシキだけに意識高い系なのだろうか。

 

なんか中央アジアイシク湖的な音が見えてくるのですが。

イシク・クル


イシク・クル(ウイグル語:Ysyk-Köl[1]、キルギス語:Ысык-Көл、ロシア語: Иссык-Куль)は、天山山脈の北、キルギスの北西に在る内陸湖。イシク湖、イシククル湖、イスィククリ湖などとも表記される。イシク・クル州に位置しており、この湖の北岸はイシク・クル地区と呼ばれている[2]。

古称は熱海(呉音:ねつかい、漢音:ぜつかい)。唐代の詩人岑参は、「側聞陰山胡児語、西頭熱海水如煮。海上衆鳥不敢飛、中有鯉魚長且肥。」と詠んでいる。

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イシク・クル - Wikipedia より

 

熱=トルコ語で「イシ」

 

イシク湖トルコ語で「熱い湖」の意味があるので、古代から中国語表記は「熱海」になってるんですね、

世界で「熱海」があるのは、キルギスと日本の共通点なんですが。これも、「日本雛形論」にリンクしているようで意味深。

試しにトルコ語で調べてみたら、トルコ語の「イシ(isi)」は日本語では「熱い」という意味だった。さっきの奈良盆地の地図みると、大和湖は「石」の地名で取り囲まれています。

大和湖がイシクであることを表すために、「石」という漢字を用いていると考えることができるわけです。

 

結論は大和湖=イシク湖だった

 

結論としては、やはり大和湖とは、キルギスイシク湖を日本列島に置き換えた存在、大和湖をイシク湖と呼んだ権力があったということではないかと。

広い目で見れば中央アジアだけでなくユーラシア大陸全体の地名が、日本列島に移植され、漢字表記されていると見て良いと思いますが。

そうしたことを行った理由は、「中央アジア人を含むユーラシア諸国の人々が、倭人の中枢にいたから」ですね。

中国史書を見る限り倭国の中枢はユーラシア各地からの帰化人だらけ

魏志倭人伝に登場する倭人の出身は中央アジアだった

 

大陸と日本をリンクさせた日本雛形論の思想が、弥生時代後期から倭人の権力者のなかにあったのだと。こんな仮説は、なきにしもあらずというか、あっておかしくないですね。

磯城郡志紀郡信貴山のシキというのは、イシク=イシキのイが抜けた地名だろうし、石切や石木はそのままイシク湖の地名を漢字に置き換えたんですよね。

 

実際、奈良県あたりの地名と、烏孫キルギスの地名を比較すると異様に似かよったものが見えてきますし。

 

奈良県中央アジアの地名比較 

奈良 中央アジア

磯城 イシク

石切 イシク

弓月岳 弓月国

宇治 ウジ(突厥による烏孫の呼び名)

宇智 ウジ(突厥による烏孫の呼び名)

太秦(ウズマサ) ウズ(烏孫=ウズ)ウズベキスタン

橿原(カシハラ) 月氏

河内 月氏

大阪 サカ

 サカ

 

古代天皇と大和民族のユーラシア大陸移動経路のまとめ

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これにイシク湖を加えておきたいです。 

 

関連記事

日本の神武朝は「中央アジアの烏孫の昆莫王朝」と同一視できることのまとめ

 

ほか、ブログ内検索やグーグル画像検索で「烏孫」を検索すると関連記事出てくるかと。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ちなみに、俺を漫画などで貶めている、特定の人々に対して言えることですが。

俺は別に人を惑わせたりするために、ブログを書いて諸説出して見せてるわけではないし、自分を立派に見せる目的も無い。そもそも低学歴だし。誰でも自己流解釈というのは持っていて歴史の仮説を発表することは悪いことじゃないはず。小説や漫画を書くことも想像力を膨らませて公開してるだけであって、子供の頃から何かと発表癖を付けられてきた日本人にとっては当たり前なことだし悪いことじゃないはず。

俺の場合、何かを発表するたびに「嘘書いてる」「惑わせてる」というふうに否定的に捉えられ、立場を曲解され、大々的に貶められる、そんな傾向があるんじゃないかと想像をしているわけですが。なぜ俺の場合だけ。

俺がこの世界に絶望していて、世の仕組みをすべて変えて欲しいと願ってるからなのか。しかし考えてみれば、ブログアクセス数が1日わずか300前後の者が、世界にどれほどの影響力を持ってるのだろうか。そんな小物をみんなで穿った視線で重視してみんなでまともなカオしつつこっそり色んな意地悪を浴びせかけて、どんな得をしてるのか。俺はいったいなんなのか、教えて欲しいですよ。

 

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「思考盗聴は存在しない」という一般論は本当かどうか検証

嫌がらせ 小説 陰謀

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画像:Brain–computer interface - Wikipedia より

 

裏の先端科学技術

 

戦後あるいは戦前から、人類の「裏の最先端科学技術」は、すでに21世紀初頭のレベルに達していたとか。

今現在、秘密裏に開発が進んでいる未公開の技術レベルは、20~50年先に進んでいると見ていいらしい。いろんな知識人が、そんなこと言ってます。

つまり俺が生まれた1977年の段階で、人類の最先端技術レベルは、既に21世紀レベルか、それより遥か先まで進んでいたと見ていいのだと。

この理論でいうと、2017年の段階で、ようやく何十年も前に開発された技術が、いま公表され出しているということになるのですね。

UFO、人造人間、ロボット、バイオテクノロジー、病気治療、火星到達、タイムトラベル、スターゲイト、ワープ航法、思考読み取り、人間リモコン・・・

表向き、こうしたものは現時点ですべて初歩的な技術レベルだったり、完全に実現するのは遥か先の未来だ、あるいは不可能だ言われ、闇雲に信じる人がいたりしますね。

でも実際にはほとんど完成している水準であったりして、世界中の権力者はこれらの大部分に関わったり利用したり、できちゃってるのだとしたら?

(極秘裏にUFOに乗って楽しんでいたりして)

そうした存在をいち早く公開して「ネタバレ」して見せていたのが、ハリウッド映画を始めとしたSF作品やアニメなのだとしたら。

そういえば戦前の白黒写真や映画で、今の時代の携帯電話・スマホみたいなものを操作している人が写ったりしてるのがいくつもあるとか。巷ではそれをタイムトラベラーだなんて言い表したりします。しかしこれも実は、現在の通信技術に匹敵するものが、すでに戦前に存在したことを、写真や映画の中で仄めかししていると考えることもできますね。あるいは本当にタイムトラベラーなのか。

タイムトラベラー - Google 画像検索

 

思考盗聴について

 

思考を読み取る「思考盗聴」は、一般には存在しないと言われていますね。なぜかわからないけれど、必死に否定をする人もたまに見かけます。

集スト参加者は「こちらの考えていることを口にする・考えていることを話の種にしてからかって見せる」という行動を頻繁に取っているということです。

集ストされている人は、その半数近くが、思考盗聴は実際にあることだと考えているようです。スマホに、集ストターゲットが思考した文章が受信され、見られていることは想像がつく話。俺自身も思考盗聴は存在すると考えているほうです。

 

思考盗聴に関連する国家的な人体実験が存在したことを知っていますか。

漫画やテレビアニメや映画では、昔から「他人の思考を読み取る場面」が不自然なほど、頻繁に登場していたのを知っていますか。

しかも、近年は思考を読み取れるというニュースが相次いでいました。

 

1949年

1984年 (小説) - Wikipedia

イギリスの作家ジョージ・オーウェルの小説。1949年刊行。

あらすじ

市民は常に「テレスクリーン」と呼ばれる双方向テレビジョン、さらには町なかに仕掛けられたマイクによって屋内・屋外を問わず、ほぼすべての行動が当局によって監視されている。

 

1950年

MKウルトラ計画 - Wikipedia

 

1974年

CIA文書に書かれているマインドコントロール計画の隠蔽事実(思考盗聴・電磁ハラスメント・マイン)|国際連合の地下に核爆弾情報

1974年までに、スタンフォード研究所が、磁気脳造影装置上の被験者の種種の脳波を相関し、特定の命令群により、心を読み取ることができるコンピュータシステム[80]を開発している

 

1976年

小松左京「ゴルディアスの結び目」

サイコダイバー・シリーズ - Wikipedia

この作品の中核となるアイディアはサイコダイブである。これは、人の精神に潜り込み(ダイブし)、対象の持つ記憶情報を入手すること、対象の隠されたトラウマを発見すること、そこから派生して精神操作まで行うことが可能という技術である。「テレパシーのような超能力ではなく、素質と専門知識をもった人間が専用の機器を用いて行う科学技術である」という前提

 

1988年

ドラえもんのひみつ道具 (さ) さとりヘルメット- Wikipedia

さとりヘルメットは、「さとりヘルメット」(てんとう虫コミックス39巻に収録)に登場する。このヘルメットをかぶると、テレパシーによって半径30メートル以内の人間の考えを読み取る(悟る)ことができる。

 

1999年

コフィンシステム - Wikipedia

 

2010年

インセプション (映画)- Wikipedia

ドミニク・コブ(通称ドム)とアーサーは、標的の無意識に侵入する軍の実験段階の技術を用いて、標的の夢から重要情報を引き出す、「引き出し人」と呼ばれる産業諜報員(産業スパイ)だった。

インテル、人の思考を読み取るソフトウェアを披露--最先端技術の研究で - CNET Japan

 チップメーカーのIntelは米国時間4月7日、マンハッタンで開催された同社イベント「Tech Heaven」で、かなり制限された状況下ではあるが、脳波を読み取ることにより、人の思考を知ることのできる、開発中のソフトウェアをデモした。

さまざまな単語に対する脳のパターンをコンピュータで解析した後、被験者らは、2つの新しい単語のうちの1つを思い浮かべるよう求められた。そしてコンピュータにより、先ほどの脳スキャンの結果に基づいて、被験者がどちらの単語を思い浮かべているかを判定させた。今回の実験では、コンピュータによる正答は10件中10件、つまり正答率は100%であった。

 

2012年

日本発!ブレインマシンインターフェース新時代 医学書院/週刊医学界新聞(第2959号 2012年01月02日)

 

 2016年

頭の中で考えてることを読み取り言葉にするデバイスが実現間近(米研究) : カラパイア

“思考”で複数のドローンを同時に飛ばす技術が公開される | ROBOTEER

映画『マインド・エスケープ』あらすじネタバレ結末と感想(85点) | MIHOシネマ

マインド・エスケープの概要:人の心を、コンピューターを使って読み取る、という禁断の領域に手を出した2人の天才の行く末を描いたサスペンス映画。原題は「LISTENING」。監督はカリル・サリンズ。

 

2017年

脳の血流で全身まひ者の思考を解読、科学者らがシステム開発 | ロイター

「念じて動かす技術」BMI 難病治療の現場に広がる|健康・医療|NIKKEI STYLE

個人の思考を読み取る「脳ハッキング」に成功:米大学実験(1/2ページ) - 産経ニュース

 

ここに取り上げたのは一部だけです。

総合的に判断して、「思考盗聴は存在しない」は、事実を誤魔化すための、フェイクニュースということではないかと。

巨大な組織によって、何十年も前から思考盗聴は実用化され、無線でスマホで受信できるほどに高度化し、基本的には監視や娯楽のために悪用されているのでは。

スーパーコンピューターの演算能力が当初の何万倍にもなっているし、わかりやすいところだと、PCのHDD容量が1970年代はメガバイト級だったものが、2000年代にはギガバイトになり、現在はテラバイトになるといった飛躍を遂げているなど、コンピューターのスペックの高度化を踏まえると、2017年の思考盗聴技術は、20世紀よりずっと完全なものになっているはずです。

解決方法は、思考盗聴を世界的に禁止にする条約が制定されるか、電波の完全に遮断された家に住むか、電波の届かない地下で生活するか、死ぬかといった感じで、ちょっと無理なところまで進んでいる気がします。

 

 
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九州と畿内2つあった邪馬台国。それが後に1つとして記録された魏志倭人伝

倭人伝 卑弥呼 地名 日本書紀 記紀

そろそろ春の引越し予定が近くなってきました。でもすぐ疲れて寝ることが多くなり、移動が不安な感じがしますね。おいそれと何度も往復はできないし。

そもそも引っ越したら、もう今の家には戻らないという感じもありなので。

そのくらいこの家で追い込まれてきたし。自分はこの家には不要なのだと実感させられた人生でした。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

魏志倭人伝」の侏儒と「日本書紀」の侏儒国によって、邪馬台国の位置が九州だと特定できることを伝えました。

侏儒(土蜘蛛)国から分かる卑弥呼の邪馬台国の場所

ついでに「隋書倭国伝」や「四海華夷総図」からも邪馬台国が九州である情報が読み取れると記しました。

九州に当初の邪馬台国があったことを示す隋書と四海華夷総図

 

しかし邪馬台国のことを調べるにつけ、どうも「邪馬台国東遷説」だけじゃ説明が付かないことが多いな、と考えるようになりました。

問題になるのは

1・邪馬台国までの行程が説明できない(水行20日+水行10日+陸行1月)

2・九州に邪馬台国があったとして、奈良にも存在した痕跡が残るのは何故か

この点が難問でしたが、これを上手いこと説明し切る仮説を思いつきました。

 

もしかして、九州と近畿には「2つの邪馬台国が数百年間同時に存在した」のではないかと。いう結論に達したので、まとめておきます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

筑紫平野にも大和国奈良盆地)にも邪馬台国があったのも事実 

従来から「邪馬台国東遷説」が正解だと思っていマス。

邪馬台国東遷説とは、九州にあった邪馬台国が、弥生時代末期の頃に奈良盆地へ移り、古墳時代大和朝廷の中心地となり、大和の名前を冠したのであるという考え方です。

その場合、九州の邪馬台国は消滅していると考えられているわけなのです。

筑紫平野の朝倉に奈良と同じ地名を膨大に発見されていることから、筑紫平野こそが邪馬台国の名残を留めている・・・。近年はそんな仮説が史実だと考えるようになりました。

 

 魏志倭人伝」は2つの邪馬台国の特徴を、1つに組み合わせている

しかし、 「邪馬台国はたった1つだ」という思い込みが古代史の真相を濁していたとしたら?という発想は必要なのではないかと。

 

 邪馬台国(やまと)と呼ばれる土地は、日本列島にはいくつか候補地を挙げられます。

1つは大和と呼ばれている奈良盆地を中心とする土地。

もう一つが、安本美典氏が指摘した、筑紫平野朝倉市の付近。

筑紫平野奈良盆地を中心とした地名が、瓜二つであること。この点を指摘したのは安本美典氏で、著書の「天照大御神卑弥呼である」に詳しくあります。

以下に個人的にも調べて、拙著に掲載した表を乗せておきます。

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拙著より

こんなふうに、九州と近畿には同じ古地名が名付けられていました。神武東征の到着地点の地名も全て、九州にも存在してたんです。すなわち筑紫平野の朝倉付近が邪馬台国だったとして、まったくおかしくない。自分としてはそうだと考えています。

 

だから、「魏志倭人伝」編者の陳寿は、九州と畿内の2つの邪馬台国を混同してしまい、2つの邪馬台国倭人伝内で融合させてしまった」可能性はあるのではないかと。あるいは、女王に頼まれて、あえて場所を判別できないように濁していると。

 

魏志倭人伝に含まれる2つの邪馬台国の情報

魏志倭人伝後漢書倭伝から、邪馬台国の情報を引き出して図にあらわしてみました。

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こんなふうに、邪馬台国Aと邪馬台国Bは同時存在し、「魏志倭人伝」では2つの邪馬台国が区別されずに融合して記されています。

 

その結果が魏志倭人伝の距離にあらわれているのですが。

水行20日、水行10日、陸行1月

これはあきらかに筑紫平野までの距離ではなくて、近畿の奈良盆地までの距離合わせていると受け取れます(実際は半分の日数で済むだろうけど)。するとあらゆる意味で無理が減ってくるわけなので。陸業については、「陸で行った場合は」みたいな感じかと。

 

 時系列を想像でいうと 

(1)2世紀末、邪馬台国が倭(九州)の朝倉にできた。

(2)3世紀以降から奈良盆地にも邪馬台国の地名が名付けられた。これは首都機能移転という意味か、副首都として

(3)「魏志倭人伝」は九州と畿内、両方に存在した首都邪馬台を区別せず、ひとつの邪馬台として記してしまった。なぜなら筑紫平野奈良盆地は、全く同じ地名だったから。

6世紀の段階まで、九州の邪馬台国は消えていない。7世紀の「隋書倭国伝」が、九州の倭の邪馬台国について書いていることがその理由。

(4)邪馬台国をモデルにして全国に国府が置かれ、地名が「やまと」になったり高天原の地名を名付けたので、全国にミニ邪馬台国が無数にできた

(5)6~7世紀頃に九州の首都邪馬台を消滅させ、畿内の邪馬台に首都を一本化、大倭を大和に改名する。日本書紀古事記は、九州の首都消失について記していない。

(6)中世以降、邪馬台国の情報が失われてしまい、21世紀には邪馬台国候補地が日本全国に100以上も登場した。

 

魏志倭人伝の距離と方角は不正確ですが、東西に邪馬台国が2つ同時に存在したならば、こんなふうに説明が付く、という新説でした。

 

 
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おえかきタイム

江戸時代

小説を書いてるんだが、まるで人気がない。

そこに登場するキャラを適当に描いてみた。

 

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たっちゃんのWebコンテンツ | アルファポリス - 電網浮遊都市 -

 

 
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九州に当初の邪馬台国があったことを示す隋書と四海華夷総図

倭人伝 地名

前回の記事、ちょっと修正しました。

基本的に、日本に最初にあった邪馬台国は九州であり、後に奈良盆地に移ったという「邪馬台国東遷説」を支持しているので。これを書き忘れていました。

2つが融合してる邪馬台国の話については、また今度。

 

前回

侏儒(土蜘蛛)国から分かる卑弥呼の邪馬台国の場所 - たっちゃんの古代史とか

 

とにかく「隋書倭国伝」は九州の邪馬台を記録した

 

九州にあった邪馬台国について、もう少し情報を補足します。 

卑弥呼の頃の邪馬台国の場所が九州であることを、知る要素は、他にもあったわけなんです。その辺をもっと考えていこうかと。

古文書と成立年代

・魏略(3世紀前半)・・・魏志倭人伝の元になっている書物逸文のみ。

魏志倭人伝(3世紀末)・・・卑弥呼の頃の倭について最も詳しい。著者の陳寿は倭を実際に訪れていないとか

後漢書倭伝(5世紀中頃)・・・魏志倭人伝より先に書かれ始めたが、完成は魏志以後。

・隋書(7世紀)・・・7世紀以前の倭について分かる。

・晋書倭人伝(7世紀)・・・壱与についての記述が含まれると見られる

旧唐書(10世紀)・・・かなり後になって書かれたが、倭国のことが含まれる

ほか。

これら全部、岩波文庫の「中国正史日本伝1~2」で見れます。どれも倭国のことを書いている貴重な書物です。

 

「隋書倭国伝」は邪馬台国研究では注目度が低いほうですが、じつは日本列島の地勢を知れる一文があるんです。

「其國境東西五月行南北三月行各至於海其地勢東高西下都於邪靡堆則魏志所謂邪馬臺者也」

中国正史日本伝(1)p128

翻訳

「その国境は、東西は五月の行程、南北は三月の行程で、おのおの海に至る。その地勢は、東が高くて西が低く、邪靡堆に都する、すなわち魏志のいわゆる邪馬台というものである。」

中国正史日本伝(1)p95

これは明らかに倭の首都が邪馬台国だった頃を、書いているとみられるんですが。

ここで言っている「下」というのは、この訳文では「日本列島の西方は標高が低い」という意味で使われていました。

実際に日本列島は西日本は高い山が少なく、東日本は日本アルプスや富士山など3,000メートル級の山々が連なっているわけなので。

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原文や翻訳文だと分かりにくいですが、実はこの一文に「邪馬台国が西方にある」という情報が、含まれているのではないかと。

これです。

其地勢東高西下都於邪靡堆

 

「西下都於邪靡堆」の一文を解釈すると、「西の低地帯に邪靡堆の都を置いた」と言う情報までもが、含まれているのではないかと。

しかも日本の古墳時代の頃からの律令制時代、九州(筑紫島)がなんと呼ばれていたかというと「西海道」。

なのでこの「西下都於邪靡堆」という一文が、邪馬台の位置は九州だと結論づけてる可能性はあるのですが。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 

 

倭の時代を描いた「四海華夷総図」も女王国は九州なことを示唆

 

 そもそも倭国というのは、「2つを合わせた存在だ」というのが根底にあるのは間違いないところですよ。

九世紀の「旧唐書倭国日本伝」でこんな記述があり。

日本国は倭国の別種なり。その国日辺にあるを以て、故に日本を以て名とす。あるいはいう、倭国自らその名の雅ならざるを悪み、改めて日本となすと。あるいはいう、 日本は元小国、倭国の地を併せたりと

中国正史日本伝(2)より

倭国と日本国を併せた。それはおそらく「九州と本州」を併せたという意味ではないかと。実際そういう絵図が残ってますし。

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四海华夷总图 - 维基百科,自由的百科全书

 

この「四海華夷総図」は1532年、中国が明(ミン)朝だった頃に描かれたもの。

倭と九州に分かれて描かれていますが、

・日本国とあるのが本州

・倭とあるのが九州

で間違いないですね。

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北海道、本州、九州、沖縄、というふうに日本列島の主要な島々が全部揃っているし、小琉球(台湾)の名もあるし。九州はぐるっと45度回転させた感じで。

これは前述の、10世紀に編纂された「旧唐書」の記述をもとに作られている地図と見て良いかと。

 

日本の歴史上で国号に「倭国」が用いられていたのは、7世紀までのことでした。670年に日本に改名したことが「新羅本紀」にあるとか。

日本 国号の由来 - Wikipedia

 

ちなみにこの「四海華夷総図」は、正距方位図法らしい。

どこでも方位図法

という正距方位図法を作成できるツールがあり。これを元にして「四海華夷総図」と比較すると、こんな感じに。

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正距方位図法だから、九州や本州の向きが傾いているというわけ。地中海も同様に。

 

図上の倭=九州ならば、九州の中心都市は邪馬台国だったことになるわけですが。この地図は「倭と日本が別れていた7世紀以前の日本」を描いたものであり、九州に邪馬台国があったことを、物語っていますよね。

隋書では「阿蘇山あり」ともあることから、九州邪馬台国のそばに阿蘇山があることも物語っているではないかと。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 

ということで倭の女王卑弥呼のいた邪馬台国が九州にあったという情報は、昔の中国の記録から読み取れたわけなのですが。

でもこれは、日本列島で最初の邪馬台国が3世紀前半の九州にあったという意味で、3世紀後半以降には、近畿の奈良盆地へと、邪馬台国が東遷しているという仮説を支持しています。これは、以前からあったものでした。

邪馬台国九州説 -邪馬台国東遷説  Wikipedia

 

こうした情報を元にして、従来とは全く別な発想も可能になってきました。それが「2つが融合してる邪馬台国の話」ですが、これはまた後ほど。

 

 
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この街の特異な地下神殿と竜宮の館

偶然 地名 陰謀

この街と俺の秘密を、想像力を使って少し開示します。

知らない誰かが、俺に対する誹謗中傷を込めたことばを残すことのように、決して抗うことのできない運命的な行動かもしれず。何らかの外的要因のストレスが与えられると、どうも脳が無意識に死期が迫ったと感じとるからなのか、思考を巡らせた結果を誰かに伝えておきたい・・・そんな衝動が蠢き出すみたいです、ちょっとしたことでも。

でもひとまず、根幹のところは言わないでおこう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

洪水

最近、なんだか「洪水」というキーワードが、頭の中を巡るようになった。わけなんですよ。

それは旧約聖書のノアの時代の大洪水であるとか、ノアというのはシュメールの神話に登場するウトナピシュティムと同一人物なのかとか。

モーセがアロンの杖により海水を操作して敵軍を沈めたのは一種の人為的洪水かとか、それは「日本書紀」でいえば山幸彦が使った潮盈珠(しおみつたま)と潮乾珠しおふるたま)という洪水をもたらす道具と似たものであるとか。

そういえばアトランティスが沈んだというのは要するに南極大陸の出来事で海水の洪水がやがて凍りついて氷床になったという出来事で、基本的にはノアの箱舟と同じ出来事を別視点でかたってるのがアトランティス伝承なのかーなどと考えていたことが、複合的に影響してたわけなのやら、何なのやら。

そんな中で、アメリカでダム決壊危機とかいうぬーすがあって、なんかタイムリーだなと思った次第なんですよ。

日本で洪水と言えば東日本大震災津波もありましたけど、記憶に新しいのは2015年9月に茨城県常総市で起きた大洪水ですね。「平成27年9月関東・東北豪雨」という正式名称らしいです。

これの原因になったのは台風18号温帯低気圧となり、そこへ台風17号がぶつかってきたために、上空に長時間も継続して発生した雨雲でした。

24時間に300ミリを超える大雨が降り続き、鬼怒川の堤防が決壊して大洪水状態になっていました。その時なぜかヘーベルハウスだけが耐えたとかニュースになっていて、「ハーイ」とかいくらちゃんの声が自動再生されていました。

そう言えば春日部も、中心市街地が冠水して地下道は水で埋もれていたとか。俺はあの時、自宅に引きこもって、仕事とかブログ執筆などしてたんでは。あのときの雨雲レーダーの雲の状態は、その場に留まる長大な竜の如くに南北にあまりに巨大で、異常な印象を受けたとは記憶しています。

 

神殿

春日部には「神殿」と呼ばれる施設があって、それにより「平成27年9月関東・東北豪雨」の水害もある程度は防がれていたのですが。

ところで神殿とは、一般的には天の神に最も近い場所のひとつで、天から神が降りてくる依代を置く場所、神のそばで祈りを捧げる所、なんていう目的を為すところであるわけなんですよ。日本で言うと、神社の社殿とは神殿そのものです。

そんな神殿を冠する施設が、春日部には存在しているんですよね。

何故なのだろう?って考えたことはありますか。

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世界最大規模の地下河川である「首都圏外郭放水路」の調圧水槽が、神殿と呼ばれているものの正体でした。

首都圏外郭放水路は全長6.3キロメートルあり、江戸川のそばに作られた長さ177m✕幅78mの調圧水槽空間は、巨大な59本の柱によって支えられてるとか。水を取り込む5本の立坑は、直径30メートルで深さ70メートルの巨大さだとか。こうした巨大な構造物が、近所の国道16号線の地下に作られてるわけなんですよ。これによって埼玉県東部一帯が洪水から守られているわけなんですよ、ご苦労さまでした。

建設が始まったのは1993年11月。俺が体調に異変を起こしてまともに生きられなくなった時期と重なっていました。

首都圏外郭放水路 - Wikipedia

 

竜Q館

それで以前から1つの疑問というか、疑惑の対象物になっていたのが、春日部の神殿の上にある「竜Q館」のことです。

これは地下神殿の地上の附属施設であって、一般的には資料展示室として使用されていてるらしいです。行ったことはないのですが、内部はなにか「鍵(🔑)」みたいな形で仕切られているようで、意味深でもあり。

名前の由来は「春日部東部の庄和地区に伝わる火伏の龍の伝説と、AQUA(水)のQ」だということでした。ということなのだが、どうもしっくりこないんですよね。

 というのも、「おほもと」という宗教団体の根幹を為す、出口王仁三郎が明治から大正期に著した「大本神諭」という書物の影が、この神殿と竜Q館にはチラつくようだったので。

大本神諭をチラっと読んだことがあるなら、なんとなく分かるワケなんですが。おほもとを信仰してはいないですが、どうも日月神示と関連があって興味深いのですよね。自分にも関係してるようで。

 

何故かと言うと、「大本神諭」には「竜宮館」という建物が登場しているからなのです。おほもとの竜宮館と、春日部の神殿と竜Q館の存在とリンクしているというのは、偶然ではないような気がしたわけなのですよ。

 

そこで、大本神諭の竜宮館とは、いったい何の役割があるのかを調べてみた。 

王仁三郎データベース(王仁DB ベータ版)- 出口王仁三郎と霊界物語の総合検索サイト

によると、ヒットしたのは202件。どうやら大本神諭だけではなく、出口王仁三郎に関係する書物には、かなり登場してるようだったのです。

検索結果をいくつか抽出してみると、

・綾部の大本の龍宮館高天原

・世界には昔から無かりた事が、綾部の陸の龍宮館の元の宮から出来るから

・龍宮館には大望な仕組が為て在るぞえ

・地の高天原なる陸の竜宮館

艮の金神国常立の尊の御魂が竜宮館高天原に現はれて

艮の金神国常立之尊竜宮館の地の高天原の神屋敷

・竜宮舘の地の高天原に変性男子と女子とが現はれて

・出口の屋敷が竜宮館高天原と相定まりて

・綾部の竜宮館(大本)を出発し

だいたいこういうことらしい。

綾部というのは京都府綾部市のことで、大本の発祥地を竜宮館というらしい。

京都の綾部の竜宮館は、日本神話で天神の集う高天原の地上版なのであり、艮金神(うしとらこんじん)こと国常立(くにとこたち)の尊(みこと)が降りてくる場所であるというのが、創設者の出口なお出口王仁三郎らの認識でした。

実際に国常立という神様が降りてきて、「世の立て替え」というものが起きているなら、人類は未曾有の危機に直面していておかしくないですが、まだ立て替えは起きていなくて、これから起こるのだという感じで受け取って良いのかもですが。これはたぶんヨハネの黙示録にも似た啓示であると考えていいんですよね。

 

これに関連して、大本の流れを組む「日月神示」は、戦時中は多くの政治家がこぞって信じていたとか。

竜宮というのは、実は日月神示にも登場しているので、ちょっと集めてみる。

・十柱とは火の神、木の神、金の神、日出之神、竜宮の乙姫、雨の神、風の神、地震の神、荒れの神、岩の神であるぞ

・世に落ちておいでなさる御方一方、竜宮の音姫殿御守護遊ばすぞ。この方、天晴れ表(おもて)に現われるぞ

・海の御守護は竜宮の乙姫様ぞ

・竜宮の乙姫様グレンと引っ繰り返しなさるのだぞ

・竜宮の乙姫殿のお宝、誰にも分かるまいがな、びっくり箱の一つであるぞ。北が良くなる、北が光るぞ
・竜宮の乙姫様が神力天晴れぞ。金神殿お手伝い

 

日月神示全文掲載 上 つ 巻 42帖〜1帖

おそらく大本の竜宮館と日月神示の竜宮とは同じですね。大本では教祖の出口王仁三郎が、自身を「変性女子」と言っていますね。自身を「竜宮の乙姫」にならぞえているからこそ、出口王仁三郎のいる場所を、竜宮館と呼んでいると考えられました。

 

ところで話は変わり、日本の地名は数珠つなぎ構造になっていて、九州の地名、近畿の地名、関東の地名など、同一系統の地名の連続であるというのが、拙著の電子書籍の骨子だったのですが。

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九州に対応するのは、中央の近畿であり、関東でありということになり、

京都の竜宮館に対応しているのが、埼玉の春日部の竜Q館だった・・・

ということになると、考えていいわけなのですが。これは意図的なものか、偶然や運命的にそうなったかは分かりませんが。

 

すると、

・なんで春日部に大本や日月神示の思想が入っているのか?

首都圏外郭放水路を建設した政府が、大本の思想を持っていることになるのだが

・春日部高天原に、国常立尊を降ろす場所を作った理由とは何か?

・それが何故に洪水施設なのか?

・単なる洪水対策施設なのか?もっと広大な地下空間が造られているのでは?

・そもそもナニモノが何のために?

 

などと、色々疑問が出て来るわけなんですよね。

 そもそも、春日部にはこんな謎があり。

 皇居宮殿と、この街の市役所が同じ経度上にある謎

 

春日部市の市政がはじまったのは1954年(昭和29年)でしたが。

春日部は、戦後からずっと、日本では特殊で特別な街だったんですよね。なんでなのか。

 

ウェルズ

ここで何故か思い浮かぶ、H・G・ウェルズの予言

(原文)
Almond blossome in the spring sunshine.
Fuji-Yama gracious lady.
Island treasure home of lovely things,
Shall I never see you again?

H・G・ウェルズの予言 | 予言・予知に関する研究

翻訳はしないでおこう。 

 

出口王仁三郎は言っていましたね。型の大本・・・

「大本で起こったことが日本に起こり、日本に起こったことが世界に起こる」

 これが、神殿と竜Q館のある春日部にもあてはまっているかもしれないとすると・・・。あ。その時、1つの本の表紙絵が、俺の脳裏に再生されるのでした。

 

とある書物

本棚にあった一冊の書物を手に取った。以前は何気なく中身を読んでいただけなのに、今ではなにか狂気のメッセージを暗示する本に思えてくる。

奥付やウェブページで調べると、本の紹介ページの数字が目に飛び込んでくる。平成16年6月10日発行、50周年、103p、30cm、当該情報資源を採取・保存した日2016年10月3日。平成16年といえば、俺が体の異変を起こし露頭に迷いヒキコモリ人生をスタートした時期だった。

表紙の絵は、今になって見直してみれば、なにか抜き差しならぬ暗示がこもっているようで意味深だった。

下方に広がる黄金の大地と、中央に流れる黄金の川は、きっとこの街、そして代表するあの川の流れだろう。

真っ暗闇が市街地を包み込んでいる中で、黄金の朧月がぽっかりと空中に浮かんでいる。

よくみれば中央の黄金の川の手前には、荒れ狂う大波小波が迫っていた。ここは東京湾から40km以上も離れた内陸部のはずなのに。

そんな闇の景色のなかで、薄紫の藤の花だけが、静かに咲き乱れていた。

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何か闇が全体を支配しているなかで、綺麗に浮き立つものがある。そんな黙示録的な陰鬱な趣向の絵を、何故めでたい50周年の本の表紙にしたのだろうか。備えあれば憂いなし。などと言うことわざが、不意に浮かんでは消えていった・・・。まぁ俺の暗澹たる人生を暗示しているとしたら、この表紙もありですけど。

 

 
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