たっちゃんの古代史とか

誰も知らない日本とユーラシア古代史研究。絵も本も書く。闇の組織に狙われてるアマ歴史研究者。在宅お仕事中。

問題児だけが悪いわけじゃないと認識できる今日この頃

拝啓、問題児です。

きのう半年ぶりに、コンビニエンスストアという場所に行きました。お店という場所自体に出向くのも半年ぶりくらいというほど、インドア派を極めています。インドアだけにカレー料理も美味しく頂いているこの頃です。

そしたら、コンビニのレジで蓄膿症のこと考えすぎて、お金を支払ったのに商品受け取り忘れました。

店員が外まで持ってきてくれ、事なきを得ました。しかし気づかなかったら、商品受け取らずに帰宅して、人生が終わってるところでした。

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ところで問題児って、トラブルメイカー、厄介者、疫病神、元凶。いろんな言い方ありますけども。

時代も場所も人種も問わず、いつも「問題児がそもそもの原因だ」って、誰もが思い込んでますでしょ。

「こいつさえいなければ」とか、「あの人のせいで不愉快だ」とか。そう言ってみんなで嫌がらせ、イジメ、追い込みかけてるみたいなことしちゃう場面は、日常にないですか。

ちくしょ~何で俺のことばっかり、俺のことばっかり悪く言うんだ!などとピーナッツをかじりながら荒ぶる人生でした・・・。

このたび問題児がおこがましくも、その「問題児の周辺の問題点」について、考えてみました。

 

1・解決してあげない

2・知ってて教えない

3・圧力かけて悪化させる

4・間違った解決法を教える

 

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

1・解決してあげない

実はその問題児の問題を、解決できる方法を知っている人がいるらしいです。いろんな問題について。

だけど、彼らは問題児の問題を、何故か解決してあげようとしないです。それなのに、問題児を嘲笑する言葉は常に口にしているような感じがします。

そういう人々は、だいたい自己責任論を押し通している感じもしますよね。実際は他者の影響が問題を作っているとしても。そうして問題は解決されることなく、継続していくわけなのです。

 

2・知ってても教えない

問題の解決はできないけど、原因や状況は知ってる人はいますよね。でも彼らは本人に、原因やいまの状況を教えてあげることをしないらしい。

とことん問題点については無視して、問題児に対する文句は口にされるばかり。そうして問題児の問題は継続して行くだけなのですが。

 

3・圧力かけて悪化させる

とことん人をからかったり、圧力かけたりする人、いますよね。そんなの大規模にやられたら、ストレスだらけで、問題児の抱える病気や精神的な問題も悪化してしまうだろうに。

でも彼らはどんどん圧力かけまくってる。アナログで、ネットで。

彼らはイジメや嫌がらせや間違った解釈で問題を悪化させ、問題児に心の病を蔓延らせたいらしいですね。

解決してあげれば圧力掛ける必要はないのに、なんで解決してあげないで、圧力をかけるほうを選んでいるのだろうか。継続はもちろん、どんどん悪化する一方ですよ。

 

4・間違ったほうに誘導する

問題児が問題解決しようと試してみた方法は、まったく効き目がなかったりするのです。それでも間違った解決法を伝授したり、間違った方に誘導した人がいたりするのです。

それは善意からなのか、悪意からなのか。ともかく人の誘導により、問題児の問題が継続するじゃないですか。

 

 ・・・・・

こんな感じですが、如何だったでしょうか。ちょっと気になる問題児の周囲の環境で、思い当たる節はないですか。

 

たとえば俺の場合

・病院で蓄膿症をちゃんと診察・治療されず悪化した

・病院で意地悪されてトラウマになり行けなくなり悪化した

・問題点を客観的に指摘してくれる人がいなかった

・家族から的確な人生プランや問題修正の提案がなかった

・各方面から極悪過ぎる意地悪が執拗に継続され続けて悪化した

・そうして人生の全てが嫌になった

・俺の問題児なとこだけクローズアップされた

 

こういう過程があって、諸問題をこじらせましたが、俺を問題児扱いする人は、問題児化したまでの一連のプロセスは考慮に入れないのです。あいつが悪い、あいつが悪いと、壊れたレコードみたいに一辺倒で。

何故かいつも俺が失敗した、やらかしただの、結果だけがわんわん鳴り響くらしいですね。理不尽かと。

それにしても何でこんなに、問題が悪化する要素が全部揃ってんのだろうかと、陰謀を考えてしまう理由がここにあります。

 

何故世間は問題児を解決したくないのか?

世間的には「問題児だけが元凶だ」「問題児の自己責任だ」という風潮や認識が根強いかもですね。しかし実は、問題児の周囲の環境が明らかに変で、問題児の周囲の人々も問題児だったなんてことは日常的かもしれないです。

問題をさっぱり解決するどころか、悪化させる環境が整っているのが、問題児の周囲だったりするんですよね。

そもそも彼らが問題児の問題点を解決しないのは、単純に面倒だったり、かかわり合いになりたくない理由もありますが。

しかし問題児のことを観察して面白がったり、執拗なイジメ・嫌がらせの対象にして面白がったりする人もいますね。サイコパス的な悪どい感性も、世の中には蔓延っているのも実際なんじゃないかと。 

 

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今後目の前に問題児が発生しましたら、問題起こした人の自己責任として見るだけとか、問題児だけをバッシングするだけにしないであげてください。

 

・問題児の周囲でどういったプロセスで問題児が発生したか。

・執拗にいじめたがる人も問題児じゃないか。

この視点も踏まえていただきたいなと。

以上、問題児でした。

   

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応神天皇こと誉田別尊と、金官伽耶(狗邪)の王子がトレードした説

わたくし誰が見ても普通の人じゃないので、今後の行動についても、これまで通り、常軌から外れがちですので。

 

ところで応神天皇については、「外国の王がやってきて、応神天皇として入り込んだ」「天皇家応神天皇んところで百済王朝になった」という説があるのです。

これについても、保守的な人は、そんなのあるわけないと鼻で笑っていますよね。でも、鼻が通りそうになる重要な記述が「日本書紀」には残ってました。

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誉田御廟山古墳 - Wikipedia

 

神功皇后と皇室の対立

 

神功皇后が新たに子を生んだとのニュースがでたのは、百済から七枝刀をプレゼントされた4世紀後半。神功皇后の義理の息子である坂皇子と、異母兄弟の押熊皇子は、皇位を奪われると考えて義理の母に戦をしかけるのです。結局坂皇子と押熊皇子は戦いに負けて、妙な死を遂げてしまいました。

この話、なんか変じゃないですか。なんで新たな子が火種となっているのかと。

かご坂皇子 - Wikipedia

 

胎中天皇

 

応神天皇の出自については、神功皇后新羅出兵のとき、お腹の中に15ヶ月もいてから、筑紫国の宇美で生んだとかいう変な伝説がありました。「宇美で生みました」とかいう、むかしのダジャレ付きで。

応神天皇は、胎中天皇という変な異名も持っていました。「たいちゅうてんのう?」いや、胎中天皇(はらのうちにましますすめらみこと)。

 

神功皇后の妊娠期間が、15ヶ月というのは普通じゃないです。どんだけ居心地が良かったのかと。

むかしは2倍暦年とか言って、「1年を2年にふくらませる暦」が用いられたのも事実と考えられています。だから神功皇后の話についても、2倍暦年を用いてるんじゃないかって話もありです。

しかしこれ意外に、ある1つの仮説によって、説明するには十分な感じがしました。

 

応神天皇は2人いた

 

それは簡単に言ってしまうと、神功皇后が生んだ子供は2人いたんではないか?という話で済ませられます。

新羅から倭に戻る2年か3年の間に、応神天皇のほかに、半島のほうでもうひとりの子を生んでいる。

だから、2人の赤ちゃんの妊娠期間を合わせて、15ヶ月としているのであると。

 

 実はこのことを示唆するんじゃないかという記録が、15ヶ月のほかにも、「日本書紀」のなかにあるんですね。

応神天皇が即位した直後の、「日本書紀」の話。

「ある説によると、天皇がはじめ皇太子となられたとき、越国においでになり、敦賀の笥飯大神(けひのおおかみ)にお参りになった。そのとき大神と太子と名を入れ替えられた。それで大神を名付けて去来紗別神(いざさわけのかみ)といい、太子を誉田別尊(ほむたわけのみこと)と名付けたという」

日本書紀」(上)全現代語訳p210より

 応神天皇こと誉田別尊は、去来紗別神(いざさわけのかみ)と言う謎の神と、名前を入れ替えたって話。

つまり応神天皇が子供の頃、

応神天皇と全く同格な人物がもうひとりいた。両者は入れ替わっている、そういった事がわかるのですが。

 

去来

  1. 去ることと来ること。行ったり来たりすること。ゆきき。往来。「心中に去来する思い」
  2. 過去と未来。

去来(きょらい)の意味 - goo国語辞書

この時、1人の神がやってきて応神天皇となり、元の応神天皇が神となって去ったのだと。だから2人の応神天皇兄弟が「去来」していると。想像ができるのですよ。

 

こっそり入れ替わってしまった知られざる人物が、皇族の新応神天皇として血筋を担っていくわけなのです。

 

金官伽耶に去来した応神天皇

 

・元の去来紗別神はどこから来て、新たな誉田別尊になったのか。

・元の誉田別尊は、新たな去来紗別神となって、どこへ行ったのか。

この2つの謎の回答は、両方共に、「金官伽耶に去来した」と回答するよりないです。

 

 最初、「応神天皇百済に去来したんではと考えてたのですが、どこを切っても金太郎飴ならぬ金官伽耶飴でした。

伽耶 - Wikipedia

 

金官伽耶とは

元々倭人加羅と呼んでいた地域で、今の韓国の慶尚南道あたりです。対馬のすぐ西北のあたり。

ここはかつて倭人の拠点があった土地でした。金官伽耶より遡れば、インドのサータヴァーハナ朝の王女と婚姻したという首露王の時代。さらに遡れば倭の最北端だったという狗邪韓国、弁韓、紀元前に辰国と言われた場所でした。

ぶっちゃけ言うと、金官伽耶王朝は、天皇家の神話と同じ形態の神話を受け継いでいました。だから、天皇家の血筋だったようです。加羅人の言葉も、研究によれば倭語の亜種であると言われています。

 

2人の応神天皇が、金官伽耶に去来した。その証拠は、応神天皇諡号の中にあります。

 

倭王讃こと応神天皇の実在年代

 

日本書紀」で応神天皇は111歳、「古事記」では、応神天皇は130歳としているので、普通に考えたら長過ぎます。2倍歴年で当たってるあ考えることができます。

応神天皇は実際のところ、4世紀末から5世紀前半ころ、実在したんじゃないかとされます。

それは「宋書倭国伝の永初2年(421年)や「梁書」に登場する倭国王讃と同一ではないかという見方を元にすれば。

倭王讃の時代は、西暦430年台まで続いたと、「宋書」からわかります。倭王讃国史書に登場は421年、425年、430年、438年。

おそらく倭王讃応神天皇とは、390年台から430年台ころまでの人です。

 

応神天皇諡号が現す金官伽耶王との繋がり

 

誉田別尊(ほむたわけのみこと)というのは、古事記では「品陀和気命(ほむだわけのみこと)」と書くのです。

 

じつはここで、金官伽耶王のほうにも注目したいと思いました。

応神天皇が在位したまったく同じ頃、金官伽耶の王様はこんな名前だったから。

 

金官伽耶王=伊尸品王(いしひんおう)

 いしひんおう~?

 これだと分かりづらいですが、

金官伽耶 伊尸品王 品

倭国王 応神天皇品陀和気命 品

応神天皇の和風諡号とは、「品」の字で合ってますね。なんで同じ時代の王が、同じ名前なのかってのは、偶然で済ませれば簡単です。

 

金官伽耶 伊尸品王 346~407年

倭王讃品陀和気命)390年台~430年台(推定)

 しかし見てわかるように、伊尸品王は応神天皇よりかなり年上です。入れ替わってるのはこの2名じゃないです。

 

伊尸品王の息子だった坐知王と、品陀和気命の両者が、トレードしていると見ています。

 

坐知王と品陀和気命の共通点

 

この両者は、完全に同じ時代の統治者でした。年齢的にも容姿的にも、もしかして似ていたのではないかと。

 金官伽耶 坐知王 407~421年

 倭王讃品陀和気命)390年台~430年代(推定)

 

気になるのは、神の称号。

品陀和気命は、漢風諡号では応神天皇というのですが、坐知王は、「神王」と呼ばれてたのです。

金官伽耶 坐知王 

倭王讃 品陀和気命 応天皇

神が付く王や天皇は、神武天皇崇神天皇神功皇后(神功天皇)、応神天皇くらいで、、すごく少ないです。

金官伽耶の方を見ても、神が付く国王は、坐知王意外には見当たりませんでした。

この2人が同じ時代にいるというのが、まず怪しい点。この坐知王が去来紗別神だったのではないか?と。

 

 あとは去来紗別神(いざさわけのかみ)の名との関係です。

 坐知王は、大和言葉で発音すれば「坐(すわり)知(とも)王(みこ)」

・坐というのは「いざ」のざ。

・坐は「すわる」「すわ」。

「去来紗別(いざさわけ」にふくまれる「ざさわ」が、「坐(ざ・すわ)」には入っているな~といった感じです。それでやっぱり敦賀応神天皇が出会った去来紗別神というのは、金官伽耶の坐知王だったのではないかと。

 

 

日本現代怪異事典

 

人人

 

あと、応神天皇こと倭王讃の漢字と、坐知王の名前でも。

讃の字には、「夫夫」が入ってますが、これは「人人」にもなりますね。

一方で坐知王の「坐」は、「人人」と書くのですね。中国史書「宋書」など見ても、両者の同一人物説が補強されるのです。

 

応神天皇と坐知王は両者「とも」の王

 

応神天皇は別名を「大鞆和気(おおともわけ」と言ったのです。鞆(とも)とは手を守る防具のこと。腕っぷしが立派だったからとか、後付の理由が付いています。これは「ほむた」と呼んで、応神天皇諡号「誉田(ほむた)」を別の言い方にしたもの。

しかしこの鞆(とも)、完全に重要なキーワードでした。何故かと言うと。

応神天皇 鞆(とも)

・坐知王  知(とも)

両者とも、「とも」が入っているのですね。これも神と同様、偶然じゃないなと。両者とも「とも」と呼ばれる人だったのです。

 

母親の名前

 

応神天皇の母親は、神功皇后ですが、本名を気長足姫尊、息長帯比売命(おきながたらしひめ)というのですね。息長というのは姓名で、息長宿禰王の娘です。

だから神功皇后の本名は「たらしひめ」です。もっと突き詰めれば、「たらし」

 

それで、気になるのは金官伽耶の、坐知王の母親の名前でした。母は「貞信」といったのですが、詳しいことは何もわかりません。

 この人物の名前もどうも、妙に神功皇后に似てる要素が入ってるなと。感じ取れたのですが。

たらし Tarashi

貞信  Teishin

これ、たらし姫が訛って、たーし姫、て-し姫、漢字で書いて、貞信姫になったような、印象を受けるのですよ。

国が違うと、言葉も特有に鈍るので、そのへんで分かり辛いのであると。カラオケが、アメリカでは「キャリオキ」になっちゃうみたいな話。

 

勿論想像にすぎないですが。貞信とは、金官伽耶で記録された神功皇后なのではないかと。

つまり神功皇后は、仲哀天皇なき後、こっそりあちらで金官伽耶伊尸品王と関係が出来上がって、去来紗別神こと坐知王を生んで、貞信と記録されたんですね。

 

ここまでのまとめ

 

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偶然でこんなに一致するわけ、ないですから。

 

年代が一緒で、珍しく神が付く王であり、ともの名で一致し、品の名で父親と一致し、入れ替わったという去来紗別神の名に近く、母親の名前も似てた・・・。

ということで、応神天皇こと誉田別尊と、金官伽耶(狗邪)の王子がトレードしたんではないかと。そういった可能性はあるかもと。

金官伽耶天皇家同様に、天津神系の神話を保持する王族でした。神功皇后金官伽耶にそそのかされ、金官伽耶王と自身の子である坐知王と応神天皇をトレードすることで、両国の政略的な関係強化をはかったのであると、そんな感じかもです。

 

そうすると、麛坂皇子と押熊皇子が、義理の母の神功皇后に牙を剥いた理由は。

金官伽耶天津神系の天皇系の国でした。それに坐知王は神功皇后の息子。であるにしても、金官伽耶という部外者的な坐知王を、応神天皇に入れ替えようとする神功皇后の陰謀に対して、皇族側は猛反発したんですね。で、反乱の先頭にたったのが坂皇子と押熊皇子皇。いわば皇族側の抵抗戦争だったのかと。

しかし結局、全ては、百戦錬磨で天照大神の威光を背にする、神功皇后の思い通りになってしまいました。

 

すると、こういうことなのですが。

1・倭の仲哀天皇神功皇后の間に、誉田別尊が生まれ、

2・金官伽耶の伊尸品王と神功皇后の間に、坐知王が生まれ(新羅出兵の時)

3・誉田別尊と坐知王(去来紗別神)の兄弟は、金官伽耶王と神功皇后の意向でトレードした

4・だから神功皇后と皇族による戦争が起こった

5・その後の天皇金官伽耶系となった

 

まぁ、全部想像ですけど。応神天皇兄弟の入れ替わりが、実現している要素は揃っているかと思います。

  

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生まれる前から決まってたらしき俺の運命

もう引越してから1年以上経過。爆音がとどろいて止まらない世界。俺が叩いて出してる爆音じゃなくて、遠くから飛んでくる音なのに。

隣のおばさんが、一々俺のせいにして壁やドアを叩く。誰も隣一家に説明してくれる人がいないから、それが1年以上続いてる。

イライラさせられてどうしようもない。 

 

で、何故か住み始めたボロい家については、過去のことを色々調べてみたのだが、どうも変なことがわかった。

 

俺の人生の時系列

・大正~昭和前期頃 埼玉の家の住所番号が決まった時期

・1977年(昭和52)1月30日 俺の誕生日 

・1980年(昭和55)埼玉の河川横の空き地に父の家完成

・2017年 俺が静岡の家を見つけて引越し決めた

 なのですよ。

 

それで、変なことというのは、以下のようなこと。

 

変なこと①

俺が住んでる静岡の新住所は、1と30が付いてるということ。引越し後にわかった。

それが何で気になるかというと、俺の誕生日の、1月30日と同じだから・・・。

まぁ、こんなのは偶然であり、時々こんな人はいるかもしれない。

 

変なこと②

さらに、この家の床面積が52平方メートル。

俺は昭和52年生まれなので・・・。

なんだこれ、と。まぁ1つ2つなら偶然って言うし。

 

変なこと③

俺は埼玉では、豊春という土地に住んでたのです。そしたら静岡の引越し先で、お隣の家が、豊の付く人でした・・・。

まぁ、3つくらい偶然があったって別に・・・。

 

変なこと④

さらに、新住所にはこんな謎の鍵が落ちてたりした。この鍵、家のドアの鍵じゃなくて、なんの鍵かわからないのです。

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この番号は隠してますが、

実は・・・・・俺の埼玉県の旧住所の番号と、完全に同じ番号なのです。

まぁ、あのう、こんなに色々と一致するものなんですか。自分の住所と誕生日などにあてはめて、どのくらい一致してるものがありますか。

 

変なこと⑤

静岡の新住所のほうは、別荘地なので、住所が2種類あるのです。それは区画番号と本来の住所みたいなものですが。

正式な静岡の新住所のほうを見てみると、「22・117」が入ってるのです。

で、そう言えばと思い出したことがありました。

10年以上前、1年間だけ東京に住んでました。その時のことはすっかり忘却の彼方でしたが、そう言えばと思って東京の住所を改めて見てみれば、「22・117」が入ってたのです。

 

引越し先の住所の数字が、東京と静岡で全く同じだったというわけですが、こんなの、良くあることなんですかね。

 

変なこと⑥

俺が住んでる近所に。

静岡県道130号伊豆長岡三津線
路線データ
起点:静岡県伊豆の国市長岡(静岡県道129号韮山伊豆長岡修善寺線交点)
終点:静岡県沼津市内浦三津(静岡県道17号沼津土肥線交点)
実延長:3,963m

沿革
1960年(昭和35年)4月1日 - 認定

静岡県道130号伊豆長岡三津線 - Wikipedia

 

 

130号線が通ってる。

 

変なこと⑦

この記事を書いてたのが5月6日の夜ですが、そしたら、東北地方で早朝に大きめの地震が起きたって言うのです。

震源・震度に関する情報
平成30年 5月 7日05時05分 気象庁発表

7日05時01分ころ、地震がありました。
震源地は、岩手県内陸北部(北緯39.6度、東経141.2度)で、震源の深さは約100km、地震の規模(マグニチュード)は5.2と推定されます。
この地震による津波の心配はありません。

気象庁|地震情報

北緯39.6度・・・静岡県道130号伊豆長岡三津線 実延長3,963m

マグニチュード5.2・・・昭和52年

 

 ・・・・・・・・・・

 

で、最初の時系列に書き加えると、

 

俺の人生と居住地の時系列

 ・大正~昭和前期頃 埼玉の家の住所番号が決まった時期

・1960年 静岡東部に130号線が完成

・1960年台後半 別荘地の開発スタート

・1971年 静岡の別荘の住所番号に1・30が付けられてる(不動産資料)

・1970年代半ば 静岡の別荘地にこの家完成

・1970年代半ば 静岡の別荘の建物面積が52平方メートルになる

・1970年代半ば この時点で静岡の別荘地の家には、埼玉の家の住所と同じ番号の謎鍵が存在したのか

・1970年代半ば 豊が付く人が、最初から隣に住んでた(不動産の昔の地図でわかった)

・1977年(昭和52)1月30日 俺の誕生日 

・1980年(昭和55)埼玉の豊春地区の空き地に父の家完成

・2004年頃 東京のアパートの住所に22・117が入ってた

・2000年頃?静岡の家が売りに出された時期

・2017年 俺が静岡の家を見つけて引越し決めた

・2017年 新住所の番号と床面積が、俺の誕生日1・30(昭和52)と同じだと判明 

・2017年 静岡の新正式住所に22・117が入っていて、東京の住所22・117と全く同じだった(最近気づいた)

・2018年 埼玉の旧自宅の住所と同じ番号の謎鍵を、静岡で発見

 

 

 つまり、

俺が生まれるずっと前から、静岡の家では、俺を表す数字が、4つも合致していて、東京にいた時の住所も完全一致してたってことなのですが・・・。

こんなの偶然でも、計画的でもほとんど不可能だと思うのですが。

 

まるで俺が生まれる前の1960年台から、すでに、東京の決まったアパートに住み、静岡の別荘に住むことが、前もって決まってたみたいに感じ取れるじゃないですか。 

こんな奇妙なことって、あるのだろうか。俺の人生に起きた、全ての奇妙で不幸な出来事も、自己責任とか、たまたまなんて言えるのだろうか。

俺が奇妙過ぎる世界で生きてること。陰謀にまみれ、しゅうすとされてること。全部繋がってるのは間違いないかと。 

そして実は、まだ書いてない、気持ち悪い話もあるのです。

 

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聖徳太子は東トルキスタン地域の亀茲から来たことの証明

聖徳太子のことで、重大なことに気づいた感じなので、このたびこの機会に少し。

 

聖徳太子といえば、最近蓄膿症が酷くなったので、鼻うがいで消毒しまくったら、かなり良くなっています。消毒しすぎて消毒太子と言われるほどになりました。

お医者さんというのは人生で幾度となく通ったのですが、ところが症状が酷くなってから、今まで蓄膿症だと診察してくれた耳鼻科も歯科もなかったのです。

それで過去に蓄膿症の悪臭が酷くなったりして、それは責められ迷惑人扱いされた経験もありました。

常にそうした出来事は世の中的には自己責任で片付けられて、猟奇的な感じで大規模かつ執拗に責め立てられたり嫌味を言われたりするのは、俺自身でした。

でも何十件・何十回と通ったはずの医者が、ちゃんと俺の症状の診察と治療をしてくれなかったではないか、という苛立つ気持ちがあるわけなのですが。

逆に言えばどうして医者は、何度通ってもちゃんと診察してくれなかったのか、治してくれなかったのかと。そこにどんな理不尽で陰謀的な理由があるとしても。

結果的に、俺が責め立てられる状況を招いたではないかと。そういう考えは決して間違ってないと考えるのですが。

そういうわけで、消毒太子になった今、聖徳太子のことが気になって仕方なくなりました。

  

 

先日書いた記事

石の宝殿は出雲と聖徳太子の矢印だった - たっちゃんの古代史とか

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聖徳太子の名前

 

聖(ひじり)とは宗教的にも道徳的にも崇敬された人のこと、あるいは日(太陽)を知るが如く物事を極めた存在。

「聖であり徳のある人」だから聖徳太子なのだと。普通はそう考えます。

しかし実は名前の由来が違いました。 聖徳太子は、色んな意味から、「遠くの海外からはるばる来た人」なのではないかと考えていました。

その海外から来たという出自を偽って、天皇家の中に養子的な感じで入り込んだのが聖徳太子こと厩戸さんなんだと。そこでこんな妄想をしてみました。

 

亀茲からきた聖徳太子

  

紀元前から西域と呼ばれていた、いまの中国新疆ウイグル自治区

ここは別名を東トルキスタンといって、古来よりタリム盆地とか、タクラマカン砂漠の名前もあったようです。しかしここ、実は元々紀元前4世紀の頃から、月氏の土地でした。

それで月氏の本体が、紀元前にタリム盆地から東の祁連山脈の周辺(アムド)に移動した頃。西域にはシルクロードに沿って、小国が林立したのです。ここはテュルク系諸民族が多く移住してきたので、東トルキスタンと呼ばれました。

亀茲も西域諸国の1つでした。別名に、丘茲、屈茲などがあったとか。

亀茲 - Wikipedia

亀茲とは、おそらく月氏の名前を変化させたものだと見ているのですが。月氏(ガッシ)→亀茲(キジ)と、音に共通性があるので。

いま中国人が月氏を「ユエジ」とか言ってるのは、本来とかけ離れている音で。本来の月氏は「ガッジ」「ゲッシ」みたいな感じで、日本人が古代の音をそのまんま保存しています。どうでもいいですけど。

亀茲は烏孫から妻を娶ったので、当初は烏孫と親しく、漢とも友好的でした。

 

西暦6世紀の頃、もしタリム盆地の亀茲人が、消毒しながら東へ行けば、数ヶ月~1年で倭まで到達していたんではないかと。

13世紀のマルコポーロは、イタリアのヴェネチアを出発して、わずか3年半でモンゴル帝国の夏の首都である上都(張家口市、北京の隣)まで達していました。6世紀と13世紀のシルクロードの交通手段が、そんな大きく変わるものだと思えません。

聖徳太子は、そんな亀茲から出発して、6世紀の日本に入ってきました。そういえば聖徳太子が起こした斑鳩寺(法隆寺) では、ペルシアのパフラヴィー文字と、イランのソグド文字が入った遺物があるとか。これも聖徳太子が持ってきたのかと、小一時間考えてみました。

 

聖徳太子が亀茲から来た証明

 

じゃここから、聖徳太子が亀茲から倭に入ってきたことの証拠の幾つか挙げて、日本の歴史を破壊して行こうと思います。

 

(1)・聖徳王と承徳王

 

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聖徳太子 - Wikipedia

聖徳太子は、実は消毒王・・・じゃなくて、「聖徳王」とも呼ばれてました。実はこの「しょうとく王」は、聖徳太子が最初じゃなかったです。

亀茲の紀元前1世紀に、承徳王という人物がいました。「しょうとく王」。この承徳王から名を取って、1字を変えて聖徳王と呼ばれていると考えられました。

これにより聖徳太子は、先祖が亀茲王であり、亀茲王族の子孫であることを、死後に表しました。

 

(2)・聖徳と亀茲

 

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亀茲 - Wikipedia

聖徳太子の「聖」を分解すると、「耳口の王」ってなるでないですか。これは、聖徳太子が同時に10人の言葉を聞き分けたっていう、伝説的な話にも通じているのは、偶然じゃないですね。

次に徳なのですが、「学研漢和大字典」の解字を見ると、原字は「目と心」を表してるのですね。

つまり聖徳の2字で、「耳・口・目・心」という、頭部の主要な機能を全部集約的に表してたんです。

しかも、聖徳太子の別名「厩戸豊聡耳皇子(うまやどのとよとみみのみこ)」の「聡耳」を見れば、「耳心耳」が含まれてるので、聖徳と同一人物だとわかるようになってるんですよ。

 

これと亀茲に何の関係があるかって話ですが。亀茲という2文字を訓読みすれば、何になるかを考えてみればわかります。

亀茲とは「亀=かめ」、「茲=心=ここ」を合わせたもの。

亀茲を訓読みすると「かめここ」。

聖徳の意味「口(か)目(め)・心(ここ)」と一致します。

聖徳太子は、聖徳の2字に、亀茲との関係を込めていました。

 

ちなみに、亀茲は別名をクチャとも言って、口(クチ)に通じます。日本人が物を食べる音をクチャクチャと言ってるのは、知らず知らずに聖徳太子と亀茲(クチャ)を表していたとか。

 

(3)・亀は未来を占う 未来記の存在に一致する

 

以前に書いた記事で、亀は未来を占う動物だという話がでました。それに関係するのかどうなのか、西域の亀茲という国は、国名に亀を用いていますね。

亀というのは、古来より甲羅が占卜(せんぼく)に使われた動物でした。

それで、じつは「未来を予知する動物」と、紀元前の中国で言われてたのです。

袈裟襷文銅鐸の暗号解読すると出てくる神仙思想と易経の叡智

 

「亀茲が未来を占う」、そうした呪術的な能力に長けていた人たちだったとすると、亀は未来を占うという漢字に込められた本来の意味も、知ってたはずですね。

東の大国だった前漢とは仲良しな関係も築いていたし、対漢関係を重視して通訳や漢字の専門家を雇っていれば、当然漢字の字義みたいなものも知ってるはずなので。

 

それで、聖徳太子がなぜか、未来にやたら固執したというのも、頷ける話でした。

聖徳太子について、「日本書紀」にはこう書いてあります

 生而能言、有聖智。及壯、一聞十人訴以勿失能辨、兼知未然。且習內教於高麗僧慧慈、學外典於博士覺哿、並悉達矣。父天皇愛之令居宮南上殿、故稱其名謂上宮廐戸豐聰耳太子。

日本書紀 巻第二十二 推古天皇紀

これを適当に訳してみると、

「生まれてよりすぐ言葉を話し、聖人の知識を有していた。十人の訴えを1度に聞き分け、まだ起きていない未来の事々を知っていた。高麗僧の慧慈に仏教を学び、儒教覺哿に学び、全てを極めて博識だった。父の天皇はかわいがり、南の上殿に住むように命じた。ゆえにその名を讃え、上宮厩戸豊聡耳太子(かみつみやのうまやどのとよとみみのひつぎのみこ)と云う」

こんな感じです。

 

それで、ここで注目したいのが「兼知未然」。

聖徳太子は「未来記」という、謎の書物を残したとされるのですが、それは中世の武将、楠木正成が読んだという記録もあるとか。

しかも「日本書紀」で「兼知未然」と言ってるので、「未来記」があることを仄めかしてるんじゃないかと。そういった想像ができます。

 

兼知未然」・・・兼ねて未だ然らざるを知ろしめす

・兼=2つ以上のいろんなこと

・知=知ってる

・未然=まだ起きてないこと

 

兼知未然とは、「まだ起きてない色んなことを知ってた」「未来を知ってた」

 聖徳太子はこういう書物を書いてたというのです。

未来を見通す動物と言えば、「亀」、未来を見通すのは「亀の心」なんですよ。ここでも、聖徳太子は亀茲(亀心)に繋がってますね。 

 

 

シュライヒ ワイルドライフ ゾウガメ フィギュア14601                                                                                                                                                                                                                          

 

(4)・厩戸

 

厩戸(うまやど)は音読みしてみればキュウト。中央アジアから東アジアまで席巻した匈奴と似てます。馬とはそもそも紀元前の中央アジア原産の動物でしたので。これもアッチから来たことを表すのかも。

 

(5)・耳

 

「馬の耳に念仏」というのは「念仏唱えたって何の効果もない」ことの比喩的ことわざでした。しかし実はこれ、聖徳太子を示唆することわざだということに気づくのですが。

「馬の耳」というのが「厩舎で生まれた豊聡耳」こと聖徳太子を表していました。

念仏というのは聖徳太子も学んだ仏教のことで、「仏法を知り尽くした聖徳太子に、誰かが仏教を聞かせても何の意味もない」っていう意味が込められてるかもしれないと思ったのですが。

ほかに思いつくことがありました。

豊聡耳の「耳」はトルコ語とかキルギス語では、kulakと言って、クラが入ってます。

実は中央アジア東トルキスタン新疆ウイグル自治区)のあたりは、古代にはカラ・クリ・クルと呼ばれる土地でした。

そもそもタクラマカン(クラ)地方として今も名前が知られてます。古代からはクルジャ(弓月)、カシュガル、カルルク、コラズム、トカラ。カラコルム、中世にはウイグルなどありました。これら全部カラ・クリ・クル系の地名なんですね。

それはなんでかというと、元々月氏がクル、つまり古代イスラエルからの流れを汲んでいて、その子孫の反映した土地が東トルキスタンタクラマカンだったからとも考えられるのです。

中央アジアは紀元前から仏教が発展した土地で、「馬の耳に念仏」というのは厩戸皇子が仏教の故郷、中央アジアから来たことも表すようです。

耳を備えた聖徳太子は、耳によって出自を表しているというわけです。

 

(6)・慧慈

 

聖徳太子の師匠に慧慈(えじ)という人がいました。このかた高句麗の仏僧だとのことでしたが、どうもこの人は聖徳太子と一緒に、亀茲から来た人だった気がします。

そもそも慧慈という字、聖徳太子と同じような意味合いを持ってるのです。

慧慈

・慧・・・聡い(さとい)

・慈・・・いつくしむ、めぐみ、(こころ)

聖徳

・聖・・・聡い

・徳・・・のぞましい(こころ)

豊聡耳

・豊・・・めぐみ

・聡・・・さとい

 で、慧慈って別の読み方すれば、亀茲と母音も子音も合ってますね。

慧慈 kei-ji

亀茲 ki-ji

 やはり慧慈は、高句麗経由で入ってきた亀茲人だったのではないかと。

 

(7)蘇因高

 

この名前を見て、あぁあの人ねと言える人はかなり歴史を学んでますが、蘇因高とは、「日本書紀」の推古天皇の十六年のところにでてくる、小野妹子の別名なのですが。

小野妹子は6~7世紀に実在した、聖徳太子に仕える、仲良しの弟分みたいな感じでした。小野妹子は当時の日本の外交のトップを任されていて、「「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無き(つつがなき)や」という文言を、東アジア世界の支配者だった隋の皇帝に言い放ったことで知られます。

ところで蘇因高が隋へ向かったのは6世紀のころでした。

このころ、亀茲のほうに目を移すと、興味深い事実が見えてくるのです。

 

6~7世紀の亀茲王

蘇尼咥(白蘇尼咥) 581年

蘇伐勃駃(白蘇伐勃駃) 615年

蘇伐畳(白蘇伐畳) 618年

亀茲王の姓は白氏で、このころは「蘇」の字を歴代の名前に使っている時代でした。。

蘇因高の蘇とおんなじでsu。しかも蘇因高と同じ時代の王、「蘇尼姪」は、男なのに尼で姪じゃないですか。

小野妹子(蘇妹子)が、男なのに妹だったのとにていますね。

そうすると、聖徳太子の仲良しな小野妹子もまた、亀茲の王族であり、当時の蘇尼姪とは兄妹か親子の関係だったのではないかと。

小野妹子が蘇因高とわざわざ名乗ったのは、亀茲の王族が隋の歴史書を後で読めば、蘇尼咥の親類である自分が、日本国にいることがわかるようにしたのかもしれないなと。

また、同じ時代の蘇我馬子の名前も気になってしまいますが、「蘇馬子」なので「蘇因高」にそっくりだし、もしかしたら、そーなのかもしれません。

 

(8)・歴史書

 

日本で古典三書と呼ばれている書物は、「古事記」、「日本書紀」、「古語拾遺」の3つです。

しかしコレ以前に「旧辞」、「帝紀」、「先代旧事本紀」、「未来記」みたいな書物がいろいろとあって、それらはドコかに隠されたり、焚書されてしまったり、散逸して一部が「日本書紀」に「一書に曰く」として残されているのみなのです。

 

で、これら記紀など古典三書以前の書物は、明らかに聖徳太子ら亀茲人のまとめた書物を元にしている、というのは、実は書物の名称からも見て取れたのです。

旧辞先代旧事本紀古事記日本書紀古語拾遺という名前を見ていると、どうも亀茲が浮かび上がってくるではないですか。

旧辞・・・亀茲(丘茲)

先代旧辞本記・・・先代亀茲本記

古事記・・・亀茲記 

なんで日本の最重要な歴史書は、亀茲の名を意図して含むのかと。これは不思議だと思いますが。

これがほんとなら、大陸の西域の亀茲人が、なんで日本の天皇大和民族の記録を残しているのか?と。

以前から神武天皇(昆莫)と大和民族が、中央アジア烏孫にいた」という記事をいろいろ書いてきました。

亀茲はお隣の烏孫と、兄弟国の関係でした。遊牧民で文字をもたない烏孫と違い、漢字やトカラ文字や文字など使いこなす文人が多かった亀茲は、歴史を記録したというわけです。

想像ですが。

そうすると記紀編纂の時代の天皇家も、太安万侶舎人親王も、日本の歴史が西域の亀茲で伝えられた歴史書の本文を元にしたことを、ご存知だったことになりますが。もし「日本書紀」に出てくる「一書」が見つかるなら、それはトカラ語やソグド語で書かれた、亀茲国の文書かもしれないです。

 

関連亀茲

 ・(前回の続き)神武天皇ご一家はキルギスで記録されていたとの調査結果  

 

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DIYで玄関リフォーム

 

18日、久しぶりに人が大勢きて、長話する機会があった。死ぬかと思った。

21日、蓄膿症も花粉症も気にならなくなったので、1ヶ月ぶりに人里へ外出。近くのポストまで歩いてきた。

 

昨日23日、DIYで玄関リフォーむ。DIY「Do It Yourself(自分でやる」とか。

まず早朝にシリコンで屋根の隙間埋めてみた。さっき大雨だったが、雨漏りはしてないかもしれない。もうちょっと様子見。

 

さらに寸法を測りつつ、先日購入した板をノコギリで切って、骨組みを組み立て。

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これを作って、なんとか玄関にくっつけた。

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最近筋トレを少し再開してるせいか、筋肉痛にはならなかったです。あとはアクリルの天板を取り付けて綺麗に誤魔化し、ドアも全部ペンキで塗装する予定。灰色に。

 

工事中、隣のおばさんが、俺が出す音をずーっとモノマネしてた。

俺は別に音を出すのが目的じゃなくて、「家を維持するのに必要な工事」してたのだが・・・。それがおばさんには、頭にくることだったらしい。

1年前から、遠くから飛んでくる爆音も、おばさんは俺が叩いてるとか言ってて、バンバン叩いて止まらない。 自分がうるさいのは良いらしい。

 

次回は歴史の話。

  

 

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日本は運命的に6が並んでアレなのか

日本は、世界と比べても、確かに変な国だなーというのは、誰でも思っていると思いますが。実はそれは、運命的に決まっていたんですよね。

たぶん聖徳太子とかいう変な人が登場し、日本の国号を「日本」に取り替えた飛鳥時代頃、いや、もっと前。紀元前の弥生時代から。

 

数秘術 - Wikipedia

数字根 - Wikipedia

例のゲマトリア的な手法で占えば、日本が運命的に変な理由がわかっちゃう可能性が見えてきました。。

 

日本がなぜニッポン・ニホンなのか

 

倭、日本、大和、ニッポン、ニホン、ジッポン、ヒノモト、ジパング、ジャパン、ハポン、ヤパン、リーベン等と呼ばれてきた日本。

紀元前に、誰が倭と名付けたのか?それは今となっては不明としか言いようがないです。

なんで7世紀に、倭国が日本になったのか?それについては「倭を憎んで改名した」とか「日出処の天子の住まう場所」だから日本なのだという回答が、「旧唐書」からは読み取れました。

 

ところで、

この世界には偶然なんかないのだとか、運命は変えられるなんていう人いますよね。でも、どう足掻いたって、変わらぬ運命があるとしたら?俺なんかどう自分を変えたって何したって、何もしなくたってなんにも変わらないのですが。

 

世界に偶然は存在しない - Google 検索

 

 西洋で666や616っていうと、悪魔の数字だとか、獣の数字だとか、不吉だとか言って忌避する傾向あります。

まぁそもそもキリスト教ユダヤ教じゃない日本には、全然関係ないはずの数字だったんです。

その古代に、日本に666や616を持ち込んだ連中がいました。要するに「ヨハネの黙示録」獣の数字を、日本の根幹部に持ち込んだ連中がいたんですね。

おそらく聖徳太子秦河勝小野妹子あたりの、中東かぶれの人々も含まれますが。

 

日本人は、なぜか日本をニッポンと呼んだり、ニホンと呼んだり、使い分けてるっていうか、どうでもいい感じで使ってませんか。

一般的には、ニホンだろうが、ニッポンだろうが、どっちでもいいじゃん的な用法で。

しかし実は、どうも内部に秘められた意味を使い分けるため、ニホンとニッポンがあるんではないかと。思うのですが。この辺を証明できるのか、どうなのか。

 

 

まず紀元前からあった、「倭」。

実は誰も調べてないけれど、この時点から、もう6なんです。

倭をアルファベットにすると

w a

23 1

これが倭の数秘術ゲマトリア的な数字ですが。これを全部足して数字根を探すんですね。すると、

2+3+1=6

紀元前からが、全ての始まりでした。

 

ニホン

 

次に登場したのが日本。ニホンを数字に置き換えると

n i h o n

14 9 8 15 14

1+4+9+8+1+5+1+4=33

3+3=6

なんでか、6になっちゃいます。まぁ6一個だから、ニホンは別に良いかも知れないですが。

 

ジャパン

 

ついでにジャパンも見てみると

j a p a n

10 1 16 1 14

1+0+1+1+6+1+1+4=15

1+5=6

やっぱり6。

まあこじつければ、6の右側の(1+1+4=6)で、合わせて66になるし、

最後の数字は6になるし、どうも6に魅入られた国なんじゃないか、このへんが気になるのですが。

 

ジパング

 

世界で最初にjapanが使われたのは16世紀頃だったとか。それ以前はzipangが知られてました。

z i p a n g 

26 9 16 1 14 7

2+6+9+1+1+4+7=30 3+0=3

6,16が入ってる。

 

ニッポン

 

ではもう一つのニッポンという呼び名の場合。これを数字に置き換えると、

 n i p p o n

14 9  16 16 15 14

ここに、もう出ています。616

1+4+9+1+6+1+6+1+5+1+4=39

 3+9=12

1+2=3

 39は3の倍数、12は3と6の倍数、そして最後の3と。

 

まとめると

ここまで分かりましたね。

・倭は6

・日本(ニホン)は6

・Japanは6、66が入ってる

・zipangは6、16が入ってる

・日本(ニッポン)は、616

が、それぞれ出てくるんですよ。

ここまで揃えてるともう「大いなる存在による計画」的な感じがしますね。

 

 

 スマホの入力すると何故か日本は666

 

 お手元の、スマホとかケータイの、入力画面を見てほしいのですが。

ガラケーの場合は入力画面が見やすいですが、スマホはブラウザを起動しないと、入力画面が出てきませんね。

スマホは普通、ひらがな入力になっているのですよ。

f:id:kl117cr233:20180419214535j:plain

それで、合計12ますの中に、「あかさたなはまやらわ」が配置され、同じますにアラビア数字も配置されてるじゃないですか。

あ 1

か 2

さ 3

た 4

な 5

は 6

ま 7

や 8

ら 9

わ 0

 こんな感じで、自然に1~0までが、「あかさたなはまやらわ」に当てはまってるのです。不自然さなど、微塵もないすっきりした配置。

これは、日本のスマホガラケーが始めじゃなくて、1950年代にアメリカで登場した、押しボタン式(DTMF/Dual tone multi frequency)の電話機の配列を元にしてるんですよね。

f:id:kl117cr233:20180419231452j:plain

DTMF - Wikipedia

ね。

むかしの押しボタン式電話と、最近のスマホの入力システムの数字の配列は、おんなじなんですよね。

で、押しボタン式の電話の数字の配列って、1~0まで自然な感じでまとまってるのですが、これが不思議なことに、、、

タテ・ヨコ・ナナメ、どっから足しても、数字根が6になる列が多いのです。

横列

1+2+3=6

4+5+6=15 1+5=6

7+8+9=24 2+4=6

横列は6、6、6になる。

 

縦列

1+4+7=12 1+2=3

2+5+8=15 1+5=6

3+6+9=18 1+8=9

ここは369(ミロク)になってます。

 

斜め列

1+5+9=15 1+5=6

 3+5+7=15 1+5=6

6、6になる。

電話って、こわいですね。

 

 

NTT 601-A2 ダイヤル式電話機 (黒電話)

 

話が寄り道しましたが、もとに戻ります。

このスマホの日本語入力を使って、「ニホン」と入れます。そこで変換を押すと、奇妙な数字があることに気が付きます。

5566666000

これが、日本を表す数字です。 

これはボタンを押して文字を変換していく時に、数字をカウントしてるから出てくる数字なのです。

「に」は5を2回押すので55

「ほ」は6を5回押すので66666

「ん」は0を3回押すので000

にほん=5566666000

 

別に、日本人が6を意図的に選んだわけじゃないのですが、やっぱり日本は6が並ぶ国だったと。

ちなみに

・にほん=5566666000

・あめりか=17777992

ふらんす=6669000333

・いきりす=112299333

・ろしあ=99999331

・といつ=4444411444

 

・・・そういえば、この位置が何を示すか。知ってますか。

北緯38度06.2分、東経142度51.6分

この謎の数字がありますが、これ、最後のほう、わかるかと思いますが。

42、51、6

これをそれぞれ足していくと 、666なんですが。何の位置か、調べてみていただきたい。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

紀元前の日本や、7世紀当時の日本人は。

20世紀以降に日本国が、ローマ字やアルファベットを使うだなんて、分かってないはず。

それなのに、倭・日本という国の数字は6、ばっかりつきまとうようになってる。

これは、偶然こうなったと言いたいと思いますが、こんな6が幾つも重なる偶然のほうが無理なのではないかと。

ところで日本がなんで666とか616に関係するのかって答えは、もう出てるかもしれないのですが。

これ見ると、運命や宿命は存在するし、運命というのは最初から決まっているんじゃないか、動かせない事象も存在するんじゃないか。って思うことも必然でした。

 

 

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袈裟襷文銅鐸の暗号解読すると出てくる神仙思想と易経の叡智

坊主憎けりゃ袈裟まで憎い

ビリビリビリ(袈裟が破れる音)

 

国宝で、香川県から出土した、袈裟襷文銅鐸というのがあるのです。

紀元前2世紀か、紀元前1世紀の頃のものだとか。

 

香川県の袈裟襷文銅鐸、絵が自由に使えればと思ったのですが、そんな絵がないようだったので。いつもの通り、ネットで見つけたものを模写しました。

弥生文化ってなぁ〜に?(14)男の仕事と女の仕事〜その1 ( 人類学と考古学 ) - 原始人の見聞 - Yahoo!ブログ

模写すれば一応、無断使用ってことにならないので。

f:id:kl117cr233:20180415004202j:plain

 これが香川県の袈裟襷文銅鐸の線刻を、自分で模写した絵。

兵庫県のほうの袈裟襷文銅鐸の絵とは、絵柄がちょっと似ているのです。だから当時は伝統的に技法を受け継いで、各地の絵師に繋がりがあったのかと。

 

袈裟襷文銅鐸 けさだすきもんどうたく

世界大百科事典内の袈裟襷文銅鐸の言及

…古段階を経て中段階にいたると部分部分によって飾る文様がかなり定まっている。身を飾る文様は銅鐸の文様を代表するものとしてとらえられ,身を横帯2帯以上によって区画したものを横帯文銅鐸(最古・古・新段階),横帯と縦帯とを交差させて田字形の4区(最古~中段階),用字形の6区(中~新段階)に身を分けたものを袈裟襷文(けさだすきもん)銅鐸,流水文を満たしたものを流水文銅鐸(古~新段階前半)と呼んでいる。なお,ほとんどすべての銅鐸の身の文様は,鋸歯文と3線以上の直線文とから成る下辺横帯によって下限を画されている。…

袈裟襷文銅鐸(けさだすきもんどうたく)とは - コトバンク

 

国宝、袈裟襷文銅鐸。

弥生時代の農耕社会や生活環境を知るうえで貴重な資料であるが、その解釈についてはさまざまな説があって、銅鐸の用途、埋納の理由とともに現在なお謎が多い。

袈裟襷文銅鐸 - e国宝

 

これについて、ずっと以前に気づいたこと。

今回はこれの左半分について。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

千鶴万亀

 

昔の人は目出度いことの象徴として、なぜかやたらと鶴と亀を使いたがった。

かごめかごめの「籠目歌」の中でも「鶴と亀がすべった(統べったか滑った)」と書いてる。

千鶴万亀(せんかくばんき)なんて書いたりしました。長寿を祝う時の、目出度い象徴だったりしますが。

実はこれ、古代の紀元前の中国から、すでに使われていたんですよ。それが、弥生時代中期の倭で用いられているんですよ。

 

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まずこの中央の青枠のところ。右側はサギじゃないかという説もあったのですが、どうも鶴みたいでした。サギとかいう詐欺でした。

なぜなら左側に亀がいるということは、相対するのは鶴しかないってことなので。首が長い鳥なので、鶴でもおかしくないです。

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右の鳥がどうしても鶴だというのは、この枠だけ2つの同じ動物が描かれていて、どうやらこれは「夫婦鶴」なようだから。

昔から鶴は、夫婦で一生を添い遂げると知られた鳥で、「夫婦鶴」も縁起物とされました。

あとこれも忘れてならないところですが、古代の中国では神仙の思想がありました。仙人が移動する時の動物として、鶴と亀が使われてたりしたそうなのです。

千鶴万亀とは、元々は「鶴歳千歳亀歳三千歳」と言ったのに、長いし面倒だからと簡略化したもの。

要するに真ん中は、全体としてお目出度い枠だったのです。

 

 

易経八卦

 

次ですが、日本に占いや風水に使われる易や八卦が入ったのは、飛鳥時代奈良時代だと思ったりしませんか。しかしどうも違っていたようです。

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この左下ですが、ここは2枡合わせて、倭の占いについて記してあるようです。

 

亀というのは、古来より甲羅が占卜(せんぼく)に使われた動物でした。

それで、じつは「未来を予知する動物」と、紀元前の中国で言われてたのです。

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あと左下のトカゲです。これも実は占いに関係してました。というのも、トカゲを漢字で書けば蜥蜴で、「蜴」は虫偏に「易」。易は古代の易経で占いのことだから、まさに亀と蜥蜴がセットなのは占いコーナーだったというわけです。

 

 

 易経八卦

 

次に一番下について。

 f:id:kl117cr233:20180415011116j:plain

左側が易、占いコーナーだったので、右側もなんか関係してるのは明らかでした。

右の構図は、普通に見れば「犬を駆使して、いのしし猟をしてる場面」なようです。しかしこれはあくまでも普通の見方なんです。

 

絵に意味を持たせて漢字に関連付けている傾向は、これもおんなじでした。

犬と猪という組み合わせは、別の漢字で書けば「戌と亥」、「戌亥」。

戌亥は、八卦では北西の方角にあたり、日本では漢字一字で乾とも書いていました。

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左側が易・占いで、右側が戌亥=北西の方位

ということは、まさに古代の中国人がやってた易・八卦の要素を並べてるってことなんですよね。

ちなみに、方位はここだけなので、銅鐸をつくった集団が、北西方向からやってきた という意味合いが込められているかもです。讃岐(香川)の北西といえば大陸の、半島か東北平原あたりですね。

 

古代の中国人がもたらしている思想

 

弥生時代の紀元前2世紀~紀元前1世紀の時代です。

銅鐸に「千鶴万亀」「仙人」「夫婦鶴」「易」「八卦」が含まれていることの意味は、もうわかりましたね。

古代の中国人の思想が、明らかに袈裟襷文銅鐸を生み出した叡智に関与していること。

あと、袈裟襷文銅鐸は、明らかに漢字を元に絵文字化していますね。これを描いた人、または描かせた人は、漢字をよく理解してる人です。

というのも、例えば「狩り」の絵を見てみると、5匹の犬が猪を取り囲んで、右側に弓矢を持った人が立ってますね。

実は「狩」という文字の意味を「学研漢和大字典」で引くと、

「まわりを囲んで逃げないようにし、動物をつかまえる。▽火で囲むこともあり、人や犬で囲むこともある。」

と、あるじゃないですか。

解字を見ると、

「守は宀(やね)+寸(手)の会意文字で、枠の中に囲んで逃げられないようにすること。狩は「犬+音符守」の会意兼形声文字で、わくの中へ動物を追い込んで逃げられないようにすること」

とあって、まさに犬で獲物を囲うことが「狩」であるから、袈裟襷文銅鐸の狩りの絵がその漢字の意味や解字をそのまま書いてるのが明らかなんですよね。

 あとは蜥蜴の「易」で占いを現し、同じ枠に占いの意味がある亀を配置していたりしますね。もう袈裟襷文銅鐸の全体で、おそらく漢字の意味を元にした、絵文字を描いてるわけなんですね。

そういうことがなぜ起こるのかといえば、むかし倭人が漢字を知らなかった頃、秦やら漢の漢字を携えて倭へ入ってきて、帰化した人々が、倭の言葉をひとつひとつ、漢字に置き換える作業をしていったんですね。それで絵文字を漢字の代わりにしてるというわけなんですよ。

袈裟襷文銅鐸に関与した人には、明らかに漢字に詳しい人、バイリンガルだったんですね。

 

 

 コポー 湯のみカエル

 

帰る

 

 最後にちょっと不思議なところ。一番上にある枠について。

f:id:kl117cr233:20180415211049j:plain

 

 一番上は、なぜか昆虫枠だったのです。

左からとんぼ、かまきり、あめんぼ。

ちなみに、○があるのは、銅鐸に開けられてる穴。鋳造の時にできる穴なのか、音を変えるための穴なのかと。

 

昔の日本にもこんな虫がいたんだな、へー。それで普通の人はおしまい。しかしここまで、なぜか中国の「千鶴万亀」「仙人」「易」「八卦」が入ってたので、これら昆虫もなんか意味があるはずなのです。

虫は元々は蛇、まむしを表す漢字で、それがいろんな動物を指す漢字になったとか。虫はちゅうだから、「虫国人」とでも言うのだろうかと思ったのですが、違いました。

 

これは昆虫の古語が、ヒントを与えてくれました。f:id:kl117cr233:20180415214755j:plain

むかしの倭人は、1つの昆虫にいろんな名前を付けてました。おそらく縄文時代からの呼び方や、大陸人からもたらされた呼び方が元になってますが。

ここに共通点を見いだしました。

 

かまきりの古訓が「カへタムシ」というのは意味が不明ですが、これは「帰った虫」ということらしく、ますます意味がわかりません。

右側のあめんぼですが、これ別名を水蜘蛛というのですが、実際はカメムシの仲間だっていうから、昔の人も適当でした。それで、あめんぼは漢字で「水黽」と書くのです。

「黽」はかえる、あまがえるの意味なので、やっぱり昔の人は適当なんだなと思ったのですが、しかしこれに意味があることに気が付きました。

 

「かえるが鳴くから帰る」とは、おそらく古代の倭人も言ってた言葉です。f:id:kl117cr233:20180415214936j:plain

見てみれば、真ん中のかまきりが「帰った虫」で、右側のあめんぼが「帰る」なんですよね。じゃあ左側のとんぼも、帰るに関係するに違いないと思ったら、「かげろう」がなまって「帰ろう」なのではないかと。これで「帰三兄弟」の帰宅系が揃いました。

 

かげろう「帰ろう」

かまきり「帰った」

あめんぼ「帰る」

帰るの五段活用

帰らない、帰ります、帰る、帰れば、帰れ

 

一番上の枠で「帰る」を現しているのは、何の意味なのだろうと思って辞書を引くと、

 

1・回って戻る

2・あるべきところに落ち着く

解字

女性が嫁いで箒(ほうき)を持ち、家事に従事するのは、あるべきポストに落ち着いたこと(中略)あちこち回ったすえ、定位置にもどって落ち着くのを広く「キ」という。

古訓・・オモムク(赴く)、トツク(嫁ぐ)

学研漢和大字典より

 袈裟襷文銅鐸を作った神仙思想や易経の知識を持った人、人々は、大陸から嫁いできて、倭に落ち着きました。

そのことを、どうやら袈裟襷文銅鐸の絵に含めたようです。いわゆる「帰化」ですが、新天地に向かうことを「帰る」というのは一見矛盾しているようで、正しい用法でした。

とすると、絵文字の全体的に、中国の思想で溢れ返ってていることと、完全に整合しているではないですか。

 

従来から袈裟襷文銅鐸は倭人が、倭の生活や身近なものを描いてる」とか言われてましたが、違いましたね。

正確には「大陸から倭へやってきた人々が、倭での出来事や、出身地(中国)や、自分たちの神仙や易経についての叡智を示し、このたび倭へ帰化できてお目出度いことだ」と描き残している。

 

たとえば兵庫県の袈裟襷文銅鐸の線刻画みたいな、倭人の線刻画は全国にいっぱいありますが、他の絵も、これと似たような意味が入ってるかと。 

あと、ここに書いたのは表の意味だけであって、籠目歌的な「裏の意味」にも気づいているのですが。袈裟襷文銅鐸の裏側(右半分)の暗号解読発表もまだですが、そのへんは、生きてればまたいつか。

 

関連記事

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欠史八代の孝元天皇「大日本根子彦国牽」が牽牛と高句麗の名を持ってた

2014年に、電子書籍の「日本の地名の真の由来と神武東征のカラクリ仕掛け(上・下)」を出してました。

しかし思うところあって、内容変更することにしました。それでアマゾンの販売ページから消えています。

上下巻だったのを、完全に分離したものにします。完了は1年後か、2年後か、10年後か、あるいは未完ということで。

 

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

孝元天皇は大日本だし、そもそも天皇は日本出身、縄文系の王統で決まってるでゲソ。」

これが純粋な従来の日本仁的な論調です。でもなんか、自分としてはしっくり来ませんでした。

 

天皇大和民族の東夷起源

 

この幻の本では、欠史八代中央アジア烏孫の昆莫王から出た後、1~2世紀頃に東アジアの東夷(扶余・高句麗・半島)の土地を通って、倭に移ってきたことを書いてました。

同時に崇神天皇卑弥呼と同一人物であり、朝鮮半島の倭から九州に渡ってきたということも書いていました。

いわゆるトンデモ本で良いわけなのですが。近頃はなんか、トンデモのほうが真実だったと、明らかになってきてるらしいですね。

これは日ユ同祖論とか、天皇の大陸起源説で、ユーラシア大陸を超えてきたという発想を理解できる立人なら、納得できる話かと思います。

  

第7代~第10代が東夷諸国を移動した

 

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これが本に記した解釈だったのですが。こんなふうに、それぞれの天皇は東夷諸国を移動して、日本列島に入ってきてるのです。

それが、長い間「日本列島の天皇だ」と決めつけられて隠蔽されていた、記紀欠史八代天皇の秘密だったんではないかと。

 

例えば孝元天皇を例に取る

  

このなかにいる、第8代孝元天皇ですが。

「大日本根子彦国牽(大倭根子日子国玖琉)」という、キラキラネーム的な和風諡号があるのですね。これを解説すると。

国牽(くにくる)

国玖琉(くにくる)

こんなちょっと変な諡号を持ってたのです。

 

で、昔の天皇や皇族というのは、自分の名前に出身地、あるいは縁のある土地の名を加えるみたいな習わしも、取り入れられている傾向にあります。

だから、これも出身地か縁のある土地を表すのだとすれば、地名でした。

自分なりに、ちょっと解析してみたのです。

 

国はコクだとして考えられました。あと日本語の特徴として、同じ音が続いたり発音する過程で促音化する(ちっちゃい「っ」が入る)みたいなことがあるようなので、そこも検討すると、

国牽(こくくる)

国玖琉(こくくる)

koku kuru

kokkuru(こっくる)

高句麗(こうくり、kokuru、kokuri)

 牽・玖琉の「くる」というのは、古来より高句麗の「句麗」と同じで、古い国名でした。高句麗って、もともと句麗だったとか。

だから孝元天皇の「国牽、国玖琉」は高句麗のことなのではないかと。だから諡号の中に、こうした高句麗情報を入れているのではないかと。考えてみたわけです。

 

 

 純米吟醸 醉心稲穂 1800ml [広島県]                                                               

 

古代中国の牽牛が七夕の彦星となった

 

ところで話は空に跳びますが、わし座のアルタイルは牽牛星というのです。七夕は古代の中国から日本に輸入されて、定着した行事。

牽牛という人は、日本に入ってくると彦星という名前になりました。

アルタイル - Wikipedia

 

それで、「中国大陸の牽牛」という情報が、実は孝元天皇からもでてきてしまうんですね。

大日本根子「彦国牽」

牽牛は彦星、

孝元天皇は、彦・牽・・・

ここで「日本書紀」編者の舎人親王は、どうも孝元天皇の「ひこくにくる」の音にあえて「彦・牽」の漢字を用いていることが明らかに見えました。

これによって、孝元天皇こと彦国牽が、彦星牽牛と同様に、大陸にいたのだと、それを暗号として残したのかもしれないんですね。

 

孝元天皇の家族の名を見てみれば

 

倭迹迹日百襲姫命(ヤマトトトヒモモソヒメノミコト)迹迹・・・とと、タタル

大彦命(オオビコノミコト)帯(おび)→帯方郡

・少彦男心命(スクナヒコオココロノミコト)心(こころ)→高句麗

・倭迹迹姫命(ヤマトトトヒメノミコト)迹迹(とと)→タタル

伊香色謎命(イカガシコメノミコト)伊香色(いかし)→いくし、沃沮

・埴安媛(ハニヤスヒメ)埴(はに)→はな、匈奴(フナ)

武埴安彦命(タケハニヤスヒコノミコト)埴(はに)→はな、匈奴(フナ)

妄想ですが、彼らみんな、烏孫から東夷諸国を移動する時に誕生した人物です。

だから烏孫から東夷までの名前を付けてるのです。

 

だから孝元天皇の都の名前が軽の境原宮とあるのは、「軽=句麗」ということです。

 

孝元天皇高句麗滞在したのはbc1-ad2の間

 

歴史上で高句麗の出現は、紀元前1世紀(紀元前37年)以降なので、孝元天皇高句麗に滞在したと記録するならば、その年代は紀元前37年から、卑弥呼以前の紀元2世紀までの間ではないかと。推測しました。 

孝元天皇だけじゃなく、その後の第十第崇神天皇、第十一代垂仁天皇のほうまで、「大陸出身天皇家」という発想なのですが。

 

もちろん妄想で。

 

かつて「騎馬民族征服王朝説」を出した江上波夫さんが、ここに気づいていたら、なんか違ったかなと思うのですが。

まぁ筆者は別に大陸出身ではない、一応純粋な日本国籍人です。でもぶっちゃけ日本的な価値観、感性、歴史観が嫌いになるところまで追い込まれましたが。

誰にも縛られませんので、どうしても自然と、従来の歴史観とは遠ざかって解釈してしまいます・・・。 

 

関連記事

古代天皇と大和民族のユーラシア大陸移動経路のまとめ

 

 

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小説リングと貞子ちゃんの謎

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The Ring (2002 film) - Wikipedia

 

「このビデオ見たら1週間後に死にますよ・・・」

 

1991年発表、鈴木光司原作の、気持ち悪かったけどちょっと面白かった気がする小説「リング」。そういえば俺はリングの呪いのビデオを何十回と見ているのですが、未だに死んでません。

ちょっと貞子について、以前から気になってたことをまとめてみました。ホラーな内容なので、読まないほうが良いですよ。

リング (鈴木光司の小説) - Wikipedia

 

山村志津子と御船千鶴子

 

山村貞子の母親、千里眼を持つと言われるも、迫害されて自殺したっていう設定の、山村志津子なんです。

作中では、娘の貞子も井戸に落とされて、ジワジワと年月をかけて殺されています。親子揃って悲惨な死を遂げているので、山村親子が世間を呪う気持ちも分かります。

で、志津子のモデルになった実在の人物が、いたんです。明治生まれで、明治の時代に千里眼を持つと評判になった御船千鶴子っていう人。

御船千鶴子 - Wikipedia

これはよく知られた話しですが、リアルの御船千鶴子のほうも、実際精神的に追い込まれて自殺しちゃってるということでした。「日本人て、気に入らない奴は、死ぬまでとことんみんなで追い込む習性があるんだな」と、日本の黒い部分は昔からなのだと気付かされるのですが。

 

山村とサンソン

 

で、なんで作者は名字を山村にしたのかなーと小一時間考えたのです。

それでど、うも音読みしてみたら気づきました。山村は音読みすると「さんそん」だったので。

日本語だと、せいぜい思いつくのは、のどかな山村(さんそん)とかくらいです。しかし海外に目を向けると、世間を呪って井戸の中で死に絶えた、山村貞子の役にぴったりな 人たちがいました。

サンソン家。

サンソン家 - Wikipedia

 フランスで、17世紀のシャルル・サンソンド・ロンヴァルから200年以上も続いた、死刑執行人一家だとか。「イノサン」(罪なき者)という漫画になってるとか。

死刑執行人こと、山村貞子こと、サンソン貞子というわけです。鼻うがいして蓄膿の症状がすっきり消えるくらいすっきりしました。しかし、気づいたことは、まだあります。

 

貞子の生まれ故郷・差木地の謎

 

山村貞子の生まれ故郷は、小説の中では伊豆大島の差木地となっていました。ここは大島の南端に当たる場所なのです。

それで小説だと貞子の父親っていうのが、伊熊平八郎という人物になってますが、この伊熊博士のモデルは、リアルの御船千鶴子の念写を研究した、福来友吉博士なのです。

ところで映画リングの中だと、実際の父親というのがどうも「海の化け物」みたいな描写があったと記憶してるのですが。

 なんで伊熊平八郎を海の化け物に入れ替えたのだろう?というのは、なにかきっかけがあると思われました。

伊豆大島の差木地の地名を見ていると、気づくものがありました。

龍王崎・・・伊豆大島の南東の端っこの岬

・トウシキの鼻・・・伊豆大島最南端の岬

・クダッチ・・・南東の波浮港付近の土地

・神の根・・・伊豆大島南端の地形

 

 龍王、神、で化け物はなんなのか分かります。トウシキ・・・透視器。だからここを選んだのかと。クダッチ。よくわかりませんが。

そういえば主役の一人の名前が、高山竜司という学者らしき人で、この人は小説「リング」では死ぬのですが、その後のリングシリーズで何度も蘇っては貞子に敵対してるんです。

貞子の出身地伊豆大島に龍、タツ。貞子の敵対者も竜司で竜、なんですね。こういう情報が読み取れると、いつも感じる違和感というか・・・。

 

三原山の火口

 

貞子の母が自殺をしたのは、三原山の火口でした。

古くは御腹山(みはらやま)といって、噴火を女性の出産に例えたらしいです。リングは誕生と死をテーマにしてるようなので、まぁ選ばれたのは必然かと思いました。

ちなみに火山の盛り上がった火口のことを、「タフリング」と言うらしい。

 

伊豆大島三原山の噴火といえば、1950~1951年、1986年が最近だとか。

ところで1986年の噴火の2年前、1984年の映画「ゴジラ」のラストシーン で、ゴジラ三原山火口に落とされて、消息不明になって物語が終わってるんですね。

なんか、

三原山の火口に1984年にゴジラが落ちたから→1986年に三原山噴火した

みたいな、架空とリアルが結びつく事象が意味深。人工噴火というのもアリなのかと。

 

 南箱根パシフィックランド

 

小説「リングに登場する、貞子が落とされた呪いの井戸というのは、南箱根パシフィックランドという別荘地なのです。

「南箱根パシフィックランド ビラ・ロックキャビンB-4号棟」

これ実在の別荘地がモデルという話は知られていますが、なんで伊豆なのだろうという疑問がありました。しかしそのへんも、物語を追っていくに連れて、分かってくることがありました。

要するに、ここまで貞子の出身地、母親の自殺地、貞子の井戸、という3地点を重ねてみると、こんな地図がでてくるのです。

 

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なぜか3地点が、直線で結ばれるのです。これは多分偶然じゃなく、鈴木さんが意図的にやってますね。で、これで全部かと思ってたのですが、違ってました。

 

なぜか富士山

 

youtu.be

見たくない人は見ないで良いですが。

リングの映画版の呪いのビデオって、ぜんぶ貞子が井戸の中から、井戸の上の別荘のビデオテープに念写した映像なんです。

 

映像の中に、変な男がたってますよね。三角形のチーズ味のポリンキーみたいな格好の人。後にこれが死後の高山竜司だと分かるのですが。何でも解明しちゃう主役の高山竜司が、死後も指さして今後の進路を教えるのですよ。

あと火山でのたうち回る人々、地獄の光景だと思われましたが。貞子って、千里眼なんですよね。だからリアルに近い三原山噴火にかけあわせた光景なのかと。

 

それで、なんかなぜか、気づいてしまったのですが。この「リング」というのは、変な情報が入っていますね。

 

こんな情報。 

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山村貞子の生誕地。山村志津子の自殺地点三原山の火口。山村貞子の死亡した井戸。

だけじゃなく、富士山の火口までも含まれているという。

寸分の狂いもなく、富士山の火口と三原山の火口を結びつけてるとか、不自然すぎますね。

まるで、呪いのビデオの高山竜司を富士山に見立てて、指を指す先がこのラインで、貞子の人生を全部1つのジェスチャーで現している印象も受けますが。

すると貞子の中では未来と過去がごっちゃになっているわけで。千里眼は時空を超えるんですね。

 

なんで、貞子は無意識的に富士山を目指してるのだろう。というのは、答えは書きません。しかし個人的には理解したような。

  

 

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弥生式土器のメノラーの実り(日ユ同祖論)

さて、日ユ同祖論で調べてるのですが、もう10年以上前から気になってた土器について、ちょっと一考。

 

ところで最近、不摂生したせいか、蓄膿症だの体がおかしくなってしまったようで色々酷いのですが。

表面的な失敗や欠点だけを見て嘲け笑うようだけど。なぜ俺がこうなってるのか、と言う根本的な理由は、誰も考えないのだろうか。どうして俺は、生まれた時点から今まで、色々スゴイことになっているのか、の真相は。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・

 

鳥取でみつかった弥生時代の土器

 

俺が3歳だった1980年。鳥取県米子市の稲吉角田遺跡で、貴重な線刻の入った弥生土器が見つかったとか。これは弥生時代中期(紀元前1世紀頃)のものだという土器。

当時は俺の人生の難易度が、こんなに高いとは、知る由も無かった・・・・・。

それはともかく、これは、模写したんですが。

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図1B 稲吉角田遺跡出土の弥生式土器に描かれた線刻絵画(出土原図)(設楽2006)弥生絵画

を模写した。 

・中心棒から左右に9つの枝分かれがあり、一番上も含め10本の枝のように見える

・一番下の枝に、木の実のような何かが2つぶら下がっている

・いっしょに高層神殿(出雲大社)、高床式住宅、船、太陽のようなものが描かれてる

(※ちなみに上古の出雲大社本殿は図eみたいな形状で、高さ96メートルとされる)

 

ここでは、

cは植物を表現したものであり、おそらくは樹木で柿の実のようなものをつけているとされる

弥生絵画

と説明していました。

植物。確かにcは樹木で、実がなってるようではあるけれど。

なんか、何かを避けて通っていませんか。

「祭祀の道具」っていう発想は、アリだと思うのですが。そこは何で触れなかったのだろうか。そこには保守的な日本史研究者が避けて通りたい理由があったとは・・・。

  

寿と実

 

この形、なんか「寿」に見えてしまった。それでなんか関係あるのかと思って、辞書引いてみました。

 寿

こと ぶき [2] 【寿】
① めでたいこと。
② めでたいことを祝うこと。また,祝いの言葉や儀式。ことほぎ。 「すこし聞かせよや。われ-せむ/源氏 初音」
③ いのち。また,いのちの長いこと。長命。長寿。 〔名義抄〕
 
こと ほぎ [4] 【言寿▽ぎ・言祝▽ぎ・寿▽】
言葉によって祝福すること。ことぶき。ことほがい。 「ことごとしきわざはえものせず,-をぞさまざまにしたる/蜻蛉 下」

【 樹 】 [音] ジュ 
① 立っている木。木。 「 樹陰 ・樹脂 ・樹皮 ・樹木 ・樹林 ・果樹 ・植樹 ・大樹 ・街路樹 ・広葉樹 ・常緑樹 ・針葉樹 ・落葉樹 ・娑羅(さら)双樹 」
② うちたてる。 「 樹立 」

【 豎▼ 】 [音] ジュ 
① たつ。まっすぐたてる。たて。 「 豎立 」

https://www.weblio.jp/content/%E5%AF%BF

めでたい、命、長寿、 立っている木。なんかしっくり来ました。

この土器の樹木の実物は、祭祀で目出度いことや、五穀豊穣、生命の誕生や長寿を祝うための樹木である。そんな想像ができました。

あと、木の実だっていうのがヒントなようだから、「実」も調べてみると、 

 さ ね [1] 【実▽・核▽】
〔真根(さね)の意〕
① 果実のたね。核(かく)。
② 物事の中核となるもの。 「文稍くに異(け)なりといへども,その-一なり/日本書紀 仁賢訓」 → ざね(実)
③ 〘建〙 板と板とをはぎ合わせるとき,一方の板の側面につける細長い突出部。他方の板に細長い溝を作ってこれとかみ合わせる。さねほぞ。 → さねはぎ
④ 陰核。ひなさき。
 
ざ ね 【実▽】
( 接尾 )
〔「さね(実)」の転〕
名詞に付く。
① 根本のもの,そのものとなるもとの意を表す。 「是の後に生(あ)れし五柱の男子は物-我が物によりて成れり/古事記 上訓」
② 本体・中心となるものの意を表す。 「ここに日本武尊,神-のなれる蛇といふことを知らずして/日本書紀 景行訓」
③ その中の主たるもの,重きをなすものの意を表す。 「左中弁藤原の良近といふをなむまらうど-にて/伊勢 101」
 
じち 【実▽】
事実。ほんとう。じつ。 「鬼の顔などのおどろおどろしく作りたる物は…-には似ざらめど/源氏 帚木」
 じつ [2] 【実】
一 ( 名 )
① ほんとう。真実。 ↔ 虚 「 -をいうと一銭もない」 「 -の親」
② まごころ。誠実。 「 -を尽くす」
③ 中身。内容。実質。 「形ばかりで-を伴わない」
④ 成果。実績。
二 ( 形動ナリ )
実意のあるさま。誠実なさま。 「 -なる筆のあゆみには自然と肝にこたへ/浮世草子・一代女 2」
三 ( 副 )
ほんとうに。まことに。 「 -何(ど)うしても出家は遂げられんか/真景累ヶ淵 円朝」 → 実に
[句]
実がある ・ 実を挙げる ・ 実を取る


ま こと [0] 【真▽・実▽・誠】
〔「ま(真)こと(事・言)」の意〕
一 ( 名 )
① うそやいつわりでないこと。本当。 「 -を言えば」 「 -の英雄」
② いつわりのない心。人に対してよかれと思う心。まごころ。誠意。真情。 「 -を尽くす」
③ 歌論用語。作品に表れた作者の真情。 「歌の様(さま)はえたれども,-すくなし/古今 仮名序」

https://www.weblio.jp/content/%E5%AE%9F

果実の種であり、事実・まことであり、中心、根本そのものであると。

これじゃまるで、どっかの1対の男女神さまのことですね。2つの種は、アダムとイブ、イザナギイザナミ、伏義と女媧。

 

 日本的に解釈すると、上にある枝分かれから、2つの種が生まれたのだから、これは神世七代から、イザナギイザナミが誕生していることを、表すのかもしれんですね。

榊みたいに、単純に棒きれや葉っぱなどで作り、神々のシンボルとして、祭りで目出度いことや、五穀豊穣、生命の誕生や長寿を祝う、そんな役割を持つ祭祀具である。

あと、「この世界には真実が2つある。ただ一方は隠れて見えないのだ」

と、そんな想像ができました。

 

それでこれって、アレに似てますよね。

 

メノラーってなんだ

 

 Menorah (Temple)

 

The menorah (/məˈnɔːrə/; Hebrew: מְנוֹרָה‬ [mənoːˈɾaː]) is described in the Bible as the seven-lamp (six branches) ancient Hebrew lampstand made of pure gold and used in the portable sanctuary set up by Moses in the wilderness and later in the Temple in Jerusalem. Fresh olive oil of the purest quality was burned daily to light its lamps. The menorah has been a symbol of Judaism since ancient times and is the emblem on the coat of arms of the modern state of Israel.

メノラ(/ヘブライ語:מְנוֹרָה[mənoːɾaː])は純粋な金で作られた古代のヘブライの燭台である7つの灯(6つの枝)として聖書に記述されており、荒野でモーセによって設立された携帯用聖域 後でエルサレムの寺院で。 純粋な品質の新鮮なオリーブオイルは、毎日そのランプを照らすために焼かれました。 メノラは古代からユダヤ教の象徴であり、近代イスラエルの紋章の紋章です。

https://en.wikipedia.org/wiki/Menorah_(Temple)

 

エルサレム神殿で用いられた、聖なる燭台で、知恵の象徴で、ユダヤ教の象徴だとか。

 

Construction

 The branches are often artistically depicted as semicircular, but Rashi,[5] (according to some contemporary readings) and Maimonides (according to his son Avraham),[6] held that they were straight;[7] 

枝はしばしば半円形で描かれていますが、Rashi(いくつかの現代の読書によると)とMaimonides(彼の息子のAvrahamによる)[6]は彼らがまっすぐであると主張しました。

https://en.wikipedia.org/wiki/Menorah_(Temple)

 

今は湾曲した枝分かれであるが、当初はまっすぐな枝だったとか。

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メノーラー - Wikipediaより。 

さらに、

 

Judaism

The menorah symbolized the ideal of universal enlightenment.[22] The idea that the Menorah symbolizes wisdom is noted in the Talmud, for example, in the following: "Rabbi Isaac said: He who desires to become wise should incline to the south [when praying]. The symbol [by which to remember this] is that… the Menorah was on the southern side [of the Temple]."[23]

The seven lamps allude to the branches of human knowledge, represented by the six lamps inclined inwards towards, and symbolically guided by, the light of God represented by the central lamp. The menorah also symbolizes the creation in seven days, with the center light representing the Sabbath.[13]

メノラは普遍的な啓蒙の理想を象徴していた[22]。 Menorahが知恵を象徴しているという考え方はTalmudに次のように書かれています: "Rabbi Isaac:賢明になることを望む者は[祈るときに]南に傾くべきである[これを覚えている] それは...メノラは南側にあった[テンプル]。 "[23]

7つのランプは、中央のランプによって表される神の光の方に向かって内側に傾けられ、象徴的に導かれる6つのランプによって表される、人間の知識の枝を暗示する。 メノラはまた、7日間で創造を象徴し、中央の光は安息日を表す。[13]

 

メノラーは7つの燭台で、この弥生土器の絵は9つの枝があるから、違うじゃんとか言いますね。

でも本来、エルサレム神殿のみが7つの枝分かれのメノラーを所有し、神殿外では、9つの枝分かれじゃないといけなかったとか、書いてますね。↓

Hanukkah menorah

Main article: Menorah (Hanukkah)

The Menorah is also a symbol closely associated with the Jewish holiday of Hanukkah (also spelled Chanukah). According to the Talmud, after the Seleucid desecration of the Jewish Temple in Jerusalem, there was only enough sealed (and therefore not desecrated) consecrated olive oil left to fuel the eternal flame in the Temple for one day. Miraculously, the oil burned for eight days, which was enough time to make new pure oil.

The Talmud (Menahot 28b) states that it is prohibited to use a seven-lamp menorah outside of the Temple. The Hanukkah menorah therefore has eight main branches, plus the raised ninth lamp set apart as the shamash (servant) light which is used to kindle the other lights. This type of menorah is called a hanukiah in Modern Hebrew.[13]

 

主な記事:メノラ(ハヌカ
メノラはまた、ユヌ族の休暇であるハヌカ(チャヌカの綴り)と密接に関連したシンボルです。 タルムードによると、エルサレムユダヤ人の寺院のセレクシードの冒涜の後、一日のために神殿の永遠の炎に燃え尽きるために残された封印された(したがって冒涜されていない)奉献されたオリーブオイルだけがあった。 奇跡的に、オイルは8日間燃えました。新しいオイルを作るのに十分な時間でした。

タルムード(Menahot 28b)は、テンプルの外に7つのランプのメノラを使用することは禁止されていると述べています。 したがって、ハヌカメノラには8つの主要な枝があります。さらに、第9の盛り上がった灯は、他の灯火を照らすために使用されるシャマー(召使)の光として離れています。 このタイプのメノラは近代ヘブライではハヌーキアと呼ばれています。

 

神殿の外側のメノラーは、9つの枝分かれじゃないといけなかったと。今はそうじゃなくなってるのは、時代の流れですね。

日本の鳥取の土器の枝分かれが9つなのは、神殿のはるか果てだから、ハヌカーメノラーなのですね。これはエルサレム神殿が起源と考えても、整合してるんではないかと。

まぁ一つの解釈として。

 

 

アメリカンコーヒーカップソーサー 流砂丘 美濃焼

 

2匹の魚の可能性

 

木の下に吊り下がってるこれですが。・・・柿の木の実じゃないですね。

いくらデフォルメしたがる古代倭人が、柿の木の実をサカナの形に描くわけないで・・・。

これ、形そのままにサカナ、魚。

2匹の魚が、吊り下がってるんですよ。ってココまで言うと、もうキリスト教徒の人は、「あっ」と言ったままコーヒーカップを手にして固まっているわけですが。

 

 魚が2匹いたからなんだ!と思うかもですが、2匹の魚というのは、実はイスラエルに居たイエス・キリストの象徴なんですよね。

何故かと言うとキリストが起こした奇跡のなかに、こんなのありました。

 

マタイによる福音書


14:16するとイエスは言われた、「彼らが出かけて行くには及ばない。あなたがたの手で食物をやりなさい」。

14:17弟子たちは言った、「わたしたちはここに、パン五つと魚二ひきしか持っていません」。

14:18イエスは言われた、「それをここに持ってきなさい」。

14:19そして群衆に命じて、草の上にすわらせ、五つのパンと二ひきの魚とを手に取り、天を仰いでそれを祝福し、パンをさいて弟子たちに渡された。弟子たちはそれを群衆に与えた。

14:20みんなの者は食べて満腹した。パンくずの残りを集めると、十二のかごにいっぱいになった。

14:21食べた者は、女と子供とを除いて、おおよそ五千人であった。

口語訳聖書 - マタイによる福音書

この出来事によって、2匹の魚がキリストの象徴になったとか?

少ないパンや魚を無限に増やす能力とか、事実なら何やったんだという感じですが。

 

それで、これ

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これがどうも、

上はハヌカーメノラーで、下は2匹の魚を表すのだとすると?完全にユダヤ的思想の人が、鳥取に上陸しているという話ですが。

土器の年代は推定紀元前1世紀ですが、誤差の範囲であり、1世紀でもおかしくないですね。

 

メノラーの実り

 

最後に。

この線刻画は、メノラーの実りと書いた理由ですが。

メノラーにぶら下がる、魚の実り・・・つまり、実りがあることは明らかに伝えたい意図が感じられますね。絵文字として、言霊として。

この言葉の解釈はこうです。

 

メノラー menorah me-no-rah

みのり  minori  mi--no--ri

これ、子音は一致して、母音は変化しているだけなんですよね。ヘブル・アラム語の特徴とか、知らんけど。

実りを描くことで、メノラーという祭祀具の名称を伝えてるのですね。

そしてまとめると、こんな解釈が可能でした。f:id:kl117cr233:20180330003227j:plain

中央の十字架を基礎としている形状なのです。そこにイスラエル的、キリスト的な象徴が込められてる、複合的なメッセージ。実り=メノラーだったと。

所変われば、形も変わる。

 

これが真実だとすると?歴史研究者の人が、2匹の魚やメノラーだの、祭祀は抜きにして、木の枝で柿の実だとか安直に言っちゃう気持ちもわかりますが。

やっぱりこの土器は、キリストの1世紀より以降の気配が濃厚なわけですが。

まぁ想像なので。

 

 

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