聖徳太子こと厩戸皇子って、実在しなかったなんて言われてたりもする、謎の人物です。実は明らかにキリスト的な要素を備え持ってたりもするんですが。
このたび聖徳太子とキリストの関係や、聖徳太子の墓所についての、新たな情報を発掘できたのでご紹介します。
聖徳太子のキリスト的な要素とお墓について
「昔の記録を見ると、聖徳太子は厩(馬屋)で生まれたから厩戸皇子なんだとかの話があり。しかも「日本書紀」の聖徳太子に関する記述には「死んで蘇ったキリスト的なおっさん伝説」まであるんです。
しかも「聖」はキリスト教で聖人のことであるし、「聖」はseiで逆はiesだから、SAY YESとか言っちゃったりして、キリストっぽい。
聖徳太子(厩戸皇子)
— たっちゃん@古代史研究+アート (@t7a7t0o1) 2024年2月20日
聖・・・sei⇔ies
聖・・・キリスト教で徳のある聖人のこと
厩戸皇子・・・馬屋で生まれた伝説(キリスト同様
聖徳太子が会った、死んで蘇った乞食・・・キリスト
まぁ聖徳太子は神道と仏教の両方とも信仰するよう広めた人物みたいですが、こうした特徴を見ると、じつは隠れ景教徒(キリスト教徒)だったのかもしれんです。しかも出身は西域の亀慈みたいだし。これについては過去記事参照。
大阪の太子町の叡福寺は、聖徳太子の死後の神亀元年(724年)に創建されたところ。叡福寺北古墳は「磯長墓」と呼ばれ、ここが聖徳太子の墓所と伝わってきました。こんかいの調査対象となるのがここです。
聖徳太子のお墓のほうにも、キリスト的な要素が入ってておかしくないと思って調べました。調べる方法は以下の通りです。
前方向説(前方後円墳矢印説)は、古墳の中心軸を測って、その延長線上に被葬者に関係する土地や、名前などの情報を置いて、本人の墓の証明要素にしてるとの仮説です。
聖徳太子の墓は円墳ですが、入り口が南向きであるため、前方向説の適用が可能でした。その中心軸から南北に線を伸ばし、線上に聖徳太子の名前(厩戸、豊聡耳など)や関連する土地が複数あれば、聖徳太子墓として相応しくて未知の情報まで導き出せるていう寸法です。
手元の「天皇陵総覧」を見ると、磯長墓の詳細図がありました。
中心軸はこうなってました。ほぼ南北に向いてますが、少し傾いています。
叡福寺の磯長墓には唐破風の拝殿があるのですが、これが中心軸に沿ったものでした。矢印で示した方角ですが、この方向で調査をすれば分かることがあるというわけです。
ちなみに「Googlemap」と「Google My maps(地図編集機能)」では、ちょっと指し示す方位がずれるのは意味不明。
そういえば以前に古墳の前方向説(前方後円墳矢印説)を電子書籍で出したのですが。その後暇がなくて疲れちゃって、続編が書けませんね。絵もかけないし。
今の生活では、続編はまったく期待できませんが・・・。
聖徳太子を祀る神社仏閣
聖徳太子の磯長墓を調べると、中心軸のラインに、聖徳太子に関係する神社仏閣を多数見つけました。以下の画像にある通り。
西暦586年、用命天皇の勅願により聖徳太子が建立したと伝わる。
過去に聖徳太子が作った仏像を本尊としたという。
聖徳太子が創建した寺と伝わる。
法隆寺の夢殿を模した建物だとか。割と古そうだが創建年は不詳。
月読尊を崇敬していた聖徳太子を祀る。秦河勝と関係が深かった聖徳太子のために、古代に秦氏が創建したとか。
聖徳太子二歳像を安置する。
兵庫にある同名の寺院が聖徳太子創建で、線上にあるので関連する可能性あり。
神像(聖徳太神像、聖徳太子七歳御像)がある。平安時代の貞観年間(859~877)か後期ころの作であるという。
聖徳太子により創建され、自作の観音像を安置したと伝えられる。
・梅岩寺(大阪府八尾市)
587年(用明天皇2年)に聖徳太子による開基と伝えられる寺。日本で最も古い仏教寺院の一つ。
・恩智神社(大阪府八尾市)
聖徳太子は十一面観音の像を作らせ、恩智神社に安置した。
聖徳太子建立の46ヶ寺の一つ。かつて智識寺と呼ばれた。
聖徳太子の名に関する地点
厩戸皇子の「うま」を当てた土地。叡福寺のすぐ近くにある。
耳にご利益があるとか。線上にあるし聖徳太子の別名である豊聡耳の「耳」なので、元々は聖徳太子に縁があったかと。
かつてあった豊原村の場所。別名である豊聡耳の「豊」。ここにある三豊神社は近代に登場した名称。
キリスト関連の地点
飯盛山の北山麓のあたりの地名。音読みすると「いいせい(iisey)」なのが気になった。イエスっぽい。
これも「いいせい(iisey)」。福井の飯盛と同じライン上に同じ地名。福井の飯盛山から83kmも離れてるのに、磯長墓からのライン上に2ヶ所。とても計画的な感じがする。両方とも、聖徳太子による命名だったりするかも。
紀元前の創建だとか。祭神は饒速日尊、可美真手命。腫れ物を治す神。イエスキリストを略して「イシキリ(石切)」みたいな感じなので、ここを通るように墓の中心軸を設定したのかも。
叡福寺がある太子町のあたりが、古代の石川郡だった。イエスは「イェシュア」なので、「イェシュ=石」だからこの土地が選ばれたのかと。全国の石川さんが唖然。
「江」は昔の発音だと「イェ」だと思われる。江住や江須で「イェス」。
これが最南端にあった、すさみ八景の1つ。「イェス崎」であった。江須崎明神は聖徳太子に関係ないのだろーか?
たずねる・わかる 聖徳太子 (淡交ムック) 古谷正覚(法隆寺管長代務者〈現在管長〉) (著)
こうして前方向説で解釈すると、色々わかったのですが。
偶然じゃありえないほど、聖徳太子の磯長墓の中心軸ラインに、聖徳太子に関する神社仏閣や仏像が並んでる結果…。これはまぁ、聖徳太子本人や関係者が、意図的に計画的に並べたんだと思いました。
これで叡福寺の磯長墓が、聖徳太子の墓所である確かな証明になる感じがします。
あとキリスト関係の地名も、確かにあったのでした。特に最北端の飯盛山、中央にも飯盛山や石切、最南端にイェスとかの配置が絶妙。
「日本書紀」などの中で、聖徳太子がイエスに関連付けられていますのでね。これらの地名は無関係ではないと思われます。
ぽちされでたすかりまs
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