前回の記事でも指摘しましたが。
琵琶湖というのは元々「淡海(あわうみ、あはうみ)、近江(おうみ)」と言っていたのが、いつしか琵琶湖(びわこ)という別名も付けられちゃったわけなんですね。
いまでは淡海なんて言う日本人は皆無。みんな琵琶湖、琵琶湖。
せっかく西側の淡路島と淡海で「あわあわセット」で、くっつければ同じ形だって言われたものを。あえて別モノにしてしまうとか・・・。
と考えていたら、命名者として、行基の名前が浮かんできたのが前回の記事だったんですよ。
この可能性について、もう少し深く考えてみました。
○いつも助かっております
ものすごい行基
行基が琵琶湖の命名者として浮上した理由は、いくつかあるのです。まず取り上げたいのがこれ。
行基開基の寺院
下記は史料によるもので、近畿地方に所在する。全国には、青森県から宮崎県まで約600寺の行基が開基したとの伝承の寺院があり、これらは史料にない追慕による伝承である[15]。
大修恵院高蔵(大阪府堺市南区高倉台)
枚方院(大阪府枚方市伊加賀)
檜尾池院(大阪府堺市南区檜尾)
大庭院(大阪府堺市南区大庭寺)
家原寺(大阪府堺市西区家原寺町)
神鳳寺(大阪府堺市西区鳳北町)
鶴田池院(大阪府堺市西区草部)
大野寺、大野尼院(大阪府堺市中区土塔町、土塔が現存する)
深井尼院香琳寺(大阪府堺市中区深井)
清浄土院(大阪府堺市堺区湊、大阪府高石市)
萩原寺(大阪府堺市東区日置荘原寺町、萩原神社の神宮寺としてかつて存在した)
愛染院(大阪府堺市北区蔵前町1578)
善言院川堀、善言尼院(大阪府大阪市西成区)
難波度院、枚松院、作蓋部院(大阪府大阪市西成区)
沙田院(大阪府大阪市住吉区)
呉坂院(大阪府大阪市住吉区長狭町)
高瀬橋院、高瀬橋尼院(大阪府大阪市東淀川区)
大福院御津、大福尼院(大阪府大阪市中央区御津寺町)
久修園院(大阪府枚方市楠葉中之芝2丁目)
薦田院(大阪府枚方市伊賀)
報恩院(大阪府枚方市樟葉)
狭山池院、狭山池尼院(大阪府大阪狭山市)
極楽寺(大阪府泉大津市昭和町6番地付近)
石凝院(大阪府東大阪市日下町)
清浄土尼院(大阪府高石市)
林昌寺(大阪府泉南市信達岡中395)
山崎院(大阪府三島郡島本町)
久米田寺 (大阪府岸和田市池尻町)
恩光寺(奈良県)
生馬仙房(奈良県生駒市有里町)
隆福院、隆福尼院(奈良県奈良市大和田町)
服寺 (奈良県奈良市南京終町など)
菅原寺喜光寺(奈良県奈良市菅原町)
頭陀院菩提、頭陀尼院(奈良県大和郡山市矢田町)
長岡院(奈良県奈良市疋田町)
法禅院檜尾(京都府京都市伏見区深草)
河原院(京都府京都市)
大井院(京都府京都市右京区)
大雲寺(京都府京都市左京区岩倉)
吉田院(京都府京都市左京区吉田神楽岡町)
発菩提寺泉橋院(京都府木津川市山城町上狛)
泉福院、布施院、布施尼院(京都府京都市伏見区)
龍王寺(雪野寺)(滋賀県蒲生郡竜王町川守41)
極楽寺(滋賀県彦根市極楽寺町)
船息院船、船息尼院(兵庫県神戸市兵庫区)
瑠璃寺(兵庫県佐用町)
揚津院(兵庫県川辺郡猪名川町)
昆陽施院 (兵庫県伊丹市寺本)
行基が掘削指導した貯水池
昆陽池(昆陽池公園内)(兵庫県伊丹市)
久米田池(大阪府岸和田市) - 久米田寺と隣接する。
狭山池(大阪狭山市) - 日本最古のダム式貯水池(溜池)を改修した。行基が架橋指揮した橋
泉橋(木津川)
山崎橋(淀川)
行基橋[16](福岡県沖端川)摂播五泊
摂津から播磨にかけて、五つの港(摂播五泊)を整備した。
河尻泊 - 尼崎市神崎町
大輪田泊 - 神戸市兵庫区(神戸港)
魚住泊 - 明石市大久保町
韓泊 - 姫路市的形町
室生泊 - たつの市御津町室津
伝承
開基伝承にとどまる寺院
高讃寺(愛知県常滑市阿野)
弥勒寺(愛知県東海市大田町)
円通寺(愛知県大府市共和町)
浄源寺(愛知県瀬戸市岩屋町)
岩屋観音(愛知県豊橋市大岩町)
東観音寺(愛知県豊橋市小松原町)
普門寺(愛知県豊橋市雲谷(うのや)町)
大聖寺 (岡山県美作市大聖寺)
仁比山地蔵院(佐賀県神埼市神埼町的1688)
慈恩寺(山形県寒河江市)
黒石寺(岩手県奥州市)
弘明寺(神奈川県横浜市)
行基による開湯伝説がある温泉
日本全国には行基が発見したとされる温泉が数多くあるが、歴史史料には行基が温泉開湯した史料はなく伝承であるが、これにより、薬師如来の国家的な信仰を大衆的なものへと浸透させた[17]。有馬温泉
湯河原温泉
作並温泉
東山温泉
芦ノ牧温泉
草津温泉
藪塚温泉
野沢温泉
渋温泉
湯田中温泉
山代温泉
山中温泉
吉奈温泉
谷津温泉
蓮台寺温泉
三谷温泉
木津温泉
関金温泉
塩江温泉
鹿教湯温泉
行基図行基は古式の日本地図である「行基図」を作成したと伝承があり、最古の「行基図」とされるものは、延暦24年(805年)に下鴨神社に納められたものがあるが、その後日本図は江戸時代まで行基図と呼ばれることがあった。
以上は行基の建設した施設のわずかな一部にすぎません。
なんと彼が建設に携わった寺院の数、およそ「600」・・・。
行基は奈良時代の単なる仏教の僧侶じゃなく、朝廷に抵抗しまくってまで庶民を救った革命家。中央からは、ならず者、目の上のたんこぶ的な扱いされたけど、当時の庶民はみんな行基の味方をしていたんですね。それで朝廷も、彼の影響力を恐れて手を出せなかったわけなんですね。まぁ、いまこんな人はいませんね。
行基は全国の600の寺院、多数の池、橋、温泉の開基者であり建設者であり、命名者だった・・・。行基に関連する寺院だけでも600を超えてるということで、全ての施設を含めたら1,000に近いのか、超えてるのかといった感じですが。一人が行った事業の数としては、ほんとに途方もなく。
だから琵琶湖についても、行基がいとも簡単に改名しちゃっておかしくないんですよ。それは巨大な淡海ですら、行基が意のままに変化できますよっていうアピールみたいなものかもしれないので。
ちなみに垂仁天皇は池や溝を数多く掘らせ、その数800にのぼったとか。
そう言えばインドで1億5,000万人の仏教徒を導いている、佐々井秀嶺さんの行いは、行基に似てるかもしれませんけどね。
琵琶の渡来は7~8世紀
琵琶って日本に昔からありますが、じつは琵琶は大陸から渡来した楽器でした。7~8世紀に入ってきたというから。ちょうど奈良時代の行基の頃に、琵琶湖の名が付いているようですね。
日本最古の琵琶としては、奈良の正倉院に当時の琵琶がそのまんまで保存されているのは見事すぎます。
行基の生きた年代は、天智天皇7年(668年)~天平21年(749年)ということで、7~8世紀。行基の生きていた頃に、ちょうど淡海はが琵琶湖と名付けられてました。
琵琶湖と行基
ネットの情報によると、行基は琵琶湖の洪水を防ぐため、瀬田川(淀川)の開削工事もしているようですね。ということで当時から琵琶湖は、行基の庭でした。
当然ながら琵琶湖の周辺には、行基が創建した寺院が数多くあります。
そのなかのひとつに、琵琶湖に浮かぶ竹生島の、「巌金山宝厳寺」がありました。
宝厳寺は神亀元年(724年)、行基が弁財天を祀ったのが最初という説、または平安時代の「竹生島縁起」によれば、天平10年(738年)に行基が四天王を祀ったことが寺院の始まりとあるようなんですね。
ここで前回の記事の内容に触れますが。
・琵琶湖ってなんで卑弥呼なのだろう・・・から衾田陵に繋がっていく
琵琶というのは
王王王王
匕匕巴
と書いているじゃないですか。
琵琶とは、王王王王と書いて、四天王と読むわけなのです。
だから、琵琶に四天王の意味を込めた人がいる。それを行ったのは、琵琶が伝わったのと同じ時代、琵琶湖を含めて絶大な権力を持ち、四天王を祀る大人物だった、行基しかいないではないかと。
そもそも淡海や近海という名は、古代の天皇の先祖が名付けたといって過言でないところですが、それを改名してしまうことは、抵抗者である行基の行動理念にぴったり合致するではないか、と。
四天王。ウィキペディアの画像使用。
四天王(してんのう[注釈 1]、サンスクリット語:चतुर्महाराज caturmahārāja[要出典])は、仏教の世界観における須弥山の中腹にある四天王天の四方に住んで、仏教を守護する四つの神(東方の持国天、南方の増長天、西方の広目天、北方の多聞天)のこと[1]。四大王(しだいおう)ともいう[2]。
四天王かっこいい。
そういうわけで琵琶湖の命名者は、行基でもおかしくないなーという話でした。 これは昔に忘れ去られた記憶かと思いますが。或いは俺の想像の賜物なので、本当のところはわかりません。
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