ホームレスになりたい。
世界の基準に自分が合わない。
生石神社(おうしこじんじゃ)の、石の宝殿。
日本三奇と呼ばれる、昔からの謎めいた名所でした。
日本三奇
・生石神社の石の宝殿(てれび石)
確かに奇妙。
○いつも助かっております
これ、浮いてるように見えるので、昔は浮石と呼ばれたりしたそうです。1970年頃からのテレビ時代になってから、テレビ岩なんて洗脳された人が続出したとか。神社の社殿の裏手に廻ると、背面のほうが突き出した形状になっているので。
昔から、尖った屋根の建物を、横倒しにしているのだと言う話です。これは大国主と少彦名が造っていたが、完成間近で放棄したとか、聖徳太子の頃に、物部守屋が造ったとされているとか。
文献に登場する時期からみて、7世紀頃に製作されたと考えることができます。
聖徳太子の縁地をつなぐモニュメント
パッと上空からの写真を見ると、これは矢印でしかなかったです。
前方後円墳の矢印、「前方向法則」が石の宝殿にも当てはまっているのではと。
こんな感じかと。
つまり、「こっちの方向を見ろ」と言っているのですよ。
社殿の方角も同様。
それで、図にしてみるとこうなった。
この図からは、いろんなことが見えてきたのですが。
(1)聖徳太子関係
「聖徳太子」という名前は、最近はなぜか厩戸皇子のほうに、強制的に変更されてますね。
聖徳太子は後の時代に名付けられた通称だから、とか言うらしいです。
それだと古代の「○○天皇」という漢風諡号も、後付だから禁止ではないですか。本来の「和風諡号」で呼ばないとおかしいのでは。
奈良盆地あたりには、かつて聖徳太子が建てた百済寺を中心として、北に斑鳩寺(法隆寺)、東に聖徳太子のいた飛鳥寺や、聖徳太子と縁のある入鹿神社、大阪府太子町の聖徳太子墓のある叡福寺。こんなふうな、聖徳太子関係の寺社がありました。
西の方をみれば、兵庫県の太子町の斑鳩寺が完全に延長線上にあったので、「あ」と思いました。
生石神社と石の宝殿から伸びるラインが、東西の太子町と斑鳩寺を結びつけていたとは。
(2)大国主関係
生石神社の石の宝殿は、伝説によれば大国主命と少彦名命が作ったとか。
生石神社の主祭神も、大穴牟遅命(大国主)と少毘古那命となっているので、出雲系の人々が建立した神社なのは、間違いないかと。
伝説に過ぎない話でしたが、このラインを見ると分かることがありました。線をたどると、西の出雲国に当たるのですね。ここは大国主と少彦名命の本拠地で、出雲大社があります。かつての伝説は、この位置関係を知っている人がもたらしたのではとの疑問。
(3)建速須佐之男命の関係
この石の宝殿からの延長線上には、やたら須佐之男命が幅を利かせてました。
西からスサノオの本拠地出雲、スサノオの拠点だったという須佐神社。船通山はかつての鳥上山で、スサノオがヤマタノオロチ退治をした場所。
石の宝殿近くでは須賀神社は、スサノオの拠点となった須賀宮の名。建速神社はスサノオの建速を持つ。おとなりに須佐男神社。
あと気になったのは、石の宝殿の反対側の奈良盆地の、飛鳥寺のあたりが鳥形山だったこと。西の鳥上山に対する東の鳥形山で対応してるのかと。
生石(おうしこ)神社は牡牛子神社なのか
あと、これは想像ですが、生石神社は生石と書いて「おうしこ」と読むのは変だなと思ってたのですね。
しかしスサノオが本地垂迹の牛頭天王であり、牛であるとすれば、なぜ神社の社殿と石の宝殿で、須佐之男の関連地を示すのかの答え、出ますね。
生石(おうしこ)は「牡牛」を含み、「王牛子」なのだとすれば、スサノオ=牛頭天王を現しているわけで。
元々やはり出雲系の神社だったから、大国主とスサノオをあわせてるのかと。
なんで出雲に聖徳太子が関係するのか
じゃ出雲系の人々が社殿を建てたのであれば、生石神社と石の宝殿はなんでやたら聖徳太子が関係つけられてるか?
というのはですね、これが実は、聖徳太子の思想とか、信仰に関係してたからなんじゃないかと。思われるわけですが・・・。
出雲っていうか、そもそも大国主の神話は大陸方面から来ていると考えられるので、そこに聖徳太子が感化されていると考えられるわけなんですね。
まぁ、コレ以降は大陸の話になってしまうので、話が長くなるのも面倒なので、おしまい。
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