たっちゃんの古代史とか

誰も知らない日本とユーラシア古代史研究。絵も本も書く。闇の組織に狙われてるアマ歴史研究者。在宅お仕事中。

奈良の「益田岩船」と繋がってた兵庫の「石の宝殿」・・・構造に刻み付けられた秘密の仕組み

奈良に益田岩船っていう、謎の遺跡があったのですが。調べてたら、兵庫の石の宝殿との確実な関連が見えてきたのでした。

 

 

益田岩船とは

益田岩船 - Wikipedia

益田岩船は、奈良県橿原市白橿町にある、県の指定史跡となってる石造物。

岩船山の斜面にある益田岩船は石英閃緑岩で、サイズは東西11×南北8×高さ4.7m、重さ160~500トンだとか。中央上部に幅1.6mの溝が東西に掘られていて、2か所に四角い穴が掘られています。まるで横倒しになった家みたいな感じ。

その加工法から古墳時代末期、7世紀頃に作られたんじゃないかと言います。

誰が作ったか何の目的なのかなどは不明ですが、弘法大師が益田池を称える石碑を立てるため、作られた土台だとか言われてました。ほかには占星術の観測台、ゾロアスター教の祭祀施設、横穴式の墓所説などがあります。

 

石の宝殿とは

石の宝殿 - Wikipedia

兵庫県高砂市の生石(おうしこ)神社にある御神体が石の宝殿です。かつてシーボルトがスケッチしたことでも知られ、別名鎮の岩室(しずのいわや)、天の浮き石、テレビ岩などがあるとか。

竜山石(ハイアロクラスタイト)の岩山を削って作られており、サイズは幅6.4×高さ5.7×奥行き7.2mで、重さ500トンとかいわれてます。石の宝殿は下部が彫り込まれ、池になっているため、まるで浮き上がっているように見える構造。側面から上部に溝があり、背後には三角の突起が付いてます。

社伝によれば石の宝殿ができたのは崇神天皇の時代で、国内に疫病が流行した時に大穴牟遅命(おおあなむちのみこと/大国主神)と少毘古那命(すくなびこなのみこと)が夢に現れ、吾らを祀れば天下は泰平になる」と告げたので、生石神社が創建されたとか。崇神天皇は個人的に卑弥呼の時代だと思うので、石の宝殿は3世紀頃に作られたんですかね。

また社伝によると、大穴牟遅命と少名毘古那命の2神が出雲から播磨に来て、石の宮殿を建てたけれど、反乱がおきたので放置プレイしたということでした。

また「播磨国風土記」では家を横倒しにしたような石があると記録があり、聖徳太子の時代に弓削大連(ゆげのおおむらじ)こと物部守屋が造ったとか書いてあるのです。しかし聖徳太子の時代には物部守屋は死んでたから、偽情報っぽいみたいです。

 

 

益田岩船を調べたら

 

それで益田岩船はホントに何にも分からないのか?と思ってたら、松本清張が「火の路」で、益田岩船と関連があるとか言ったという話が目に止まったのです。

それで益田岩船を見てたらふと気づくことがありました。これが益田岩船を真上からみた図です。溝が西北西に向かって、掘られてるんですね。

岩船(益田岩船) : 奈良・桜井の歴史と社会

 

松本清張は兵庫の生石神社の石の宝殿と関係するとか言ってました。しかも両者はよく比較されていたりしますね。

それで、この益田岩船の溝のラインを、石の宝殿に伸ばしてみました。

すると狂いもなく、石の宝殿にぶつかってしまうわけなんです、これがまた。

 

1300年以上前の2つの石造物は、97kmも離れてるのに、1度も角度にズレがないとは。むかしの測量技術おそるべし。

 

これで益田岩船と石の宝殿が、たしかに結びついてることが分かったわけです。

 

 

石の宝殿を調べたら

 

じゃ石の宝殿のほうも、益田岩船に向いてるのだろーか?と思って調べてみました。

まずGoogleマップで、益田岩船から石の宝殿に距離を測定するラインを付けてみます。

するとこんなふうに、益田岩船~石の宝殿のラインは結びつけられました。

石の宝殿、本殿、拝殿、楼門、参道の石階段、みんな一直線上にあるんですが。益田岩船と結びつけたラインと、建物群の誤差はわずかな感じ。

そうすると生石神社と石の宝殿も「益田岩船に向けて作ってある」んじゃないですかね。まるで益田岩船と一対の関係かのよう。

 

 

益田岩船は大穴牟遅命のモニュメントだったか

 

益田岩船と石の宝殿を結びつけるラインを、西にさらに延長すると、出雲国があるという点でも答えが現れてる気がします。

そして名前を比較してみるとわかったのですが。

出雲は古来より「八雲立つ出雲」と呼ばれており、「八雲」が出雲の象徴だったのでした。

そして生石神社の「生石」は、「いくし」と読める。益田岩船の「益」はやく、えきと読める。名前が一致。

八雲 やくも(yak)出雲の神がいるところ

生石 生=いく(yk)出雲の神がいるところ

益田 益=やく(yak)出雲の神がいるところ

八雲は出雲神がいるところであり、生石神社は出雲の神がいるところ。

すると益田岩船も、出雲の神がいるところ、なのでは。

 

簡単に言うと益田岩船はたぶん、生石神社の石の宝殿とのつながりを示しつつ、出雲国の神である大穴牟遅命大国主神)と少名毘古那命を祀るモニュメントかもしれんです。

あの益田岩船の穴ぼこは、大穴牟遅命と少名毘古那命の居場所という感じ?益田岩船のすぐ近くあたりに、大穴牟遅命の神社とかあったら正解ですけども。

そうするとなんか、平安時代以降にあった色んな有名な仮説、全部間違ってたってことになりますが・・・。まぁ想像しただけだから~。

 

ぽちされたすかr

 

 

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