先日に青木ヶ原樹海には、昔の石塁(石垣)があるという記事を見たんですよ。 それで試しに「富士山ハザードマップ」と重ねてみたところ、分かってくることがありました。
ポチでたすかっております
青木ヶ原樹海の石壁とは
グーグル・ストリートビューの写真
富士山の麓、青木ヶ原樹海に延長2キロの“石の壁” いったい誰が何のために? いまだ解明されない謎 | 山梨のニュース | UTYテレビ山梨
あの青木ヶ原樹海に、こういうのがあるとは知らなかったです。青木ヶ原樹海と言えば自殺とキノコの名所みたいにしか思ってませんでしたので。
この石塁について要約すると、以下のようになりました。
基本情報
名称:石塁(せきるい)
場所:青木ヶ原樹海、国道139号の旧上九一色中学校入口バス停近く
遊歩道:東海自然遊歩道
長さ:2km
高さ:180cm(高いところ)
素材:溶岩石
東海自然歩道は東京から大阪までの山林地帯を貫く、日本有数の登山道だとか。なんでも長さ1,697kmもあるとのことです。
石塁の長さは2kmとありますが、地図上で計測すると1kmもない感じです。するとおそらくミミズのように、ウネウネと曲がって2kmあると思われます。
それで、この石塁の正体については情報がなさ過ぎて分かってないらしいです。そりゃ昔の遺跡なものだから。
しかし現在のところ、3つの仮説が出てるとか。
(仮説1)戦国時代の武田氏の石垣(武田信玄が支配地の境界に造らせた)
(仮説2)しし垣(樹海の害獣から畑を守るため造られた)
(仮説3)溶岩流の防護壁(864年の富士山噴火のあと、溶岩から集落を守るため造られた)
個人的には3番目の、溶岩流を食い止める役割ではないかと思ってましたが。
ネット検索してみると、この場所は2006年時点で「武田最前線史跡公園」だったことが分かりました。
●画像●樹海の中「信玄の石塁」 | 富士の麓便り - 楽天ブログ
10年以上前は、戦国時代の1550年頃に、甲斐(山梨)の武田信玄が築いた石垣だと考えられてたようです。武田氏の境界線を成していたということで。じゃあ溶岩流の防護壁じゃ、ないってことなのだろーか。
しかし武田氏の石垣説だと、本巣の山城や中道往還(街道)に接していないため、あんまり意味が無さそうだし、記録にもないので断定はできないみたいな理由で、決定的ではないようです。
そんな理由があって、2022年現在は「武田最前線史跡公園」という名称は消滅しておりました。またしても武田氏は敗北してしまったようですね。
そして現在では現地の標識も「石塁」という文字に変わっている状況で、3つの仮説が並んでるというわけでした。
とは言え、他のしし垣説、溶岩流防護壁説も、いまのところ決定打がたりないようです。
富士山 溶岩石(高濾過) 50-100㎜ 3キロ ミックス
富士山ハザードマップ改訂版との比較
そこで溶岩流の防護壁だと仮定した場合、どのくらい意味がある壁なのか検討してみました。
まず富士山ハザードマップの改訂版を見てみることに。とりあえず富士市のマップが見つかったので拝借しました。
これを元に作製したのが、以下の石塁等関連地名を付け加えたマップです。
ハザードマップにある上九一色村はオウム事件後に消滅していて、現在は富士河口湖町となっています。
このマップを見ると、色々と分かることがありました。
(a)石塁は「火口ができる可能性の高い範囲」に近いです。
(b)火砕流や溶岩流が流れたら、到達する範囲に作られてます。
(c)「過去に火口ができたか所」が、大室山の近くに点々としてますが、その点々を結びつけた先に、石塁があるようでした。
(d)火山の被害から本栖集落を守るような感じで、石塁が作られてるように見えるでないですか。
たぶん平安~江戸時代の頃に、当時の役所が幾度も地形の調査をしたと思うのですが。
日本では奈良時代以前から地図が作られていたし、江戸時代には伊能忠敬が隅々まで歩いていましたし。青木ヶ原樹海も昔は樹木がないとこもあったようだし、大室山のあたりも地形調査は進められていたでしょう。
そういった地理的調査の時に、「過去に火口ができたか所」が発見されていたんではないかと。富士山から大室山にかけ、一直線に並んでる火口群ですが。
地面の傾きから考えて、噴火による溶岩流が出た場合、東側から本栖集落に流れてくるかもしれんと判断するではないですか。
それで念のために、偉い人が本栖集落の東側石塁を作らせたと。石塁を作って、溶岩の流れを南の低地方面に変えて、本栖集落を守るといった役割です。
そんな感じがしました。まぁ想像にすぎないんですけども。
ということで「仮説3」を推したいと思います。
関連記事
・知ってた?西之島の別名がロサリオ島で、聖母マリアとキリストに関係してる話
人気ブログランキング