平将門の首塚といえば、東京大手町のホラーな名所が知られてますが。
実は京都から関東にかけて、平将門の首塚や墓地は他にもあるんです。あるというか、あまりに多すぎるんですが。調べてみました。
関東周辺の首塚・墓地13か所
平将門と言えば、朱雀天皇と朝廷に反抗し神皇を名乗り、関東に新たな国を起こそうとした人物で有名です。後に藤原秀郷らに敗れ西暦940年に殺害されましたが、死後に怨霊になって天皇家を苦しめたので、日本三大怨霊に数えられています。
あとは平将門の首が飛んだ伝説とか、首塚の祟りだとかもよく知られるところ。
そんな平将門の首塚は、複数あるのは知ってましたが、実際のところ何処にあるのか?結界なのか?と疑問だったので調べることにしたのです。
調査はひたすらネット検索で、マッピングしていきました。その結果は以下のようになってます。
きいろの(★)が平将門の首塚・墓地と伝わるところ。首塚、胴塚、手足の塚、影武者の墓と伝わるところも含む。
東京都心の将門塚は有名ですが、他に茨城の海禅寺の七騎塚、埼玉の浄誓寺の将門の首塚、栃木の将門の首塚など各地に見つかりました。
関東はこんな感じで平将門の墓所伝説が多かったのです。これは平将門の本拠地が関東で、茨城西部の守谷市あたりに拠点を置いたのも関係してますが。
将門塚 - Wikipedia 九曜(平将門家紋)
調査の結果、首塚や墓所が増え続けたので呆気にとられました。せいぜい2~3か所かと思ったら、まさかの13か所もあったので(まさかのまさかど)。
それにしても「なんでこんなに首塚や墓所が多い?」という疑問がでました。首塚以外の胴塚、手足の塚もあり。関東以外の滋賀や静岡の墓所も含めればもっと増えます。
その理由としては、平将門には「影武者が7人いた」と伝わってることが関係するのは確実ですよ。影武者が多かったぶんだけ、墓所が増えちゃったという感じがしました。
首がついた遺体と首塚だけの数を数えると、7か所に限定されるわけです。これは平将門の影武者の合計数8人と近い数になっています。だから平将門と影武者7人を埋葬した説は濃厚です。
そして平将門の弟の墓所だとか、親族の墓かもしれない場所も幾つかあるようでした。
あとはいったん埋葬したと伝わりながらも、骨は出土しなかったところもありますし。つまり埋めたと伝わってただけで、実際には埋めてない、記念碑的なところもあるようでした。
結界の中にあった真の将門塚
ところで日本では、墓地が結界として使われることがあったんですよね。玄昉の結界があったように。小野篁も創建した寺で結界を作ってました。六地蔵で結界を作ったケースも。
それで平将門の墓所も、結界になってるのか?と気になって調べてみました。
これらの首塚や墓所は「平将門と影武者の埋葬地」なのが明らかです。そこで影武者だけを埋葬したという、千葉の「七天王塚」も含めて考えてみました。
黄色い線は、関東のすべての首塚と墓所の外がわを結びつけた線です。三角形のような形になってます。
そして三角形の内側にある、他の首塚や墓所も、線で結べそうだと思って、結んでみました。
すると三角の中に、台形みたいな形がでてくるのですね(オレンジ線)。
そして気づいてしまったんですが、埼玉県幸手市の「浄誓寺(じょうせいじ) 将門の首塚」は、ちょうど2つの図形の中央に位置するみたいなんです。
東京都心の将門塚や他の墓所では、真ん中にならないんですよ。
これってもしかして、「浄誓寺こそが平将門の御本人の首塚である」ことを、示しているんじゃないか?という感じもしました。見た感じ、非常にバランスが良い位置だし。
将門の七人の影武者の遺体を関東各地に埋葬した真の理由・・・それは、
「影武者で結界を作って関東を守護し、図形により平将門の真の墓所を示すためだった」
そんな感じがしました。
すると東京の将門塚など、他のところは影武者の首塚や墓所ってことになりますが。
一蓮托生だった平将門と影武者、合計8体が集合した怨霊は絶大な力を持って、各地で怪異を起こし続けたんですかね。
まぁ想像でしかないですけど。
ぽちされたすかりm
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