たっちゃんの古代史とか

誰も知らない日本とユーラシア古代史研究。絵も本も書く。闇の組織に狙われてるアマ歴史研究者。在宅お仕事中。

癒(いやし)の語源と邪馬壱国(病国)から気づいた「卑弥呼のキリスト信仰らしきもの」と言霊の仕掛け

 

最近は重曹クエン酸効果で体の状態は良かったのだが、ストレス過剰なせいか痛みがでたりした。それで自己治癒力を高めようと、熱いお湯で温めてみたり、色々試しているところ。

不愉快ばっかりでストレスだらけだと、精神的に自己治癒力を高めることは難しくなるらしいです。

治癒の「癒」といえば、邪馬台国倭国大乱を鎮め、癒やしたらしいのが卑弥呼でした。

この邪馬台国卑弥呼は、どうも「病(やまい)」とも無関係では無かったようです。この辺から、想像し難かった西側世界との奇妙な繋がりも見えてきたりしました。

 

○いつも助かっております

 

 

 

アシダカグモ

 

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ちなみに17日に風呂にいた、アシダカグモ。つかまえてビニール袋に入れて観察してみた。

胴体が笑ったおじさんの顔や髑髏に見えるのは、長い年月を経て人の顔に擬態した結果だとか。

この蜘蛛はこんなめちゃくちゃ悪魔的な風貌をしているけれど、人間にとっての害虫を根こそぎ食べるし毒は持ってないので、益虫だったりする。人(蜘蛛)は見た目が9割というけれど、実際は見た目で判断できない。

このアシダカグモは、日本最大級の種類らしい。後ろ足から前足までが100円玉の3倍あって、直径6cmくらいだった。外に逃がしました。

 

 

漢字の黎明の関連付け

 

まだビフォーキリストの時代、漢字が倭の国に入ってきた黎明期。
倭の賢人は、漢字ひとつひとつに、ヤマト言葉を当てはめていったようです。

それは漢や魏と交易するのに、言葉の理解と詔書類が不可欠だったから。

 

倭に対しては、やまと。

人に対しては、ひと。

国に対しては、くに。

この作業は日本の常用漢字2,000字どころか、中国古典に記される常用外も含めて数万字に及んでいた。これを弥生時代卑弥呼の頃にには行っていたのではないかと。想像するばかりです。

おこなったのは誰かと考えれば、卑弥呼などの詔書をしたためるような偉い人が、漢字を読める大陸系スタッフをかき集めたと言って、外れてないはずですね。

最初の漢字を記す文官は、倭と漢の言葉を使いこなす、ハーフな人だったかもしれません。それでいつしか、日本の漢字には同音異義の漢字が多数になってました。

同音異義語というのは一般解釈としてはたまたま同じになったとかいう。
しかし古代には言葉と文字は「言霊」として祝詞や呪詛で使う生きモノでした。
たまたま全ての同音異義語ができたという単純な発想の他、関連付けの結果で同じになったものが多数含まれる、或いは殆どがこれだと考えるようになりました。

たとえば、

 

氷と郡

氷は水の固まり。

郡は村の固まり。

どっちも固まりの意味で同じだから、どっちもこおり。

 

蛙と変

蛙はオタマジャクシから蛙に変化する。

変は変化すること、変えること。

だからどっちもかえる。

 

天と雨と飴

天は空に広がる空間。

雨は空から降る水。

飴は雨つぶのようで、溶かした状態は水たまりのよう。

だからどれもあめ。

こんなふうに考えていくと、漢字が導入されて以降に、言霊を意図して同音異義語の関連付けがされたものが多いのだろうと、理解できてくるのですが。

その一例としてふさわしい言葉に、「いやす」がありました。 

 

 

エスが漢字になっていた

 

「いやす」という日本語を見てみると、気づくこともあったりします。

この言葉、なんだか「イエス」に近い言葉であるなと、薄々目を付けていたので、今回取り上げることにしたのです。

エス yes

イヤス yas(iyasu)癒

 

BC1に生まれたというイエスは、多くの人に教えを説いたり病を癒して信徒を集めた後、ユダヤの王と救世主を自称したのでローマに敵対し、ゴルゴダの丘で十字架に磔にされる罪人となったとか。

いわば崇められた後に不条理に貶められた人で、後に復活したことで神格化をされていました。


日本語の「いやす」のポジティブなほうには「癒(いやす・いやし)」があって、これが何か妙にイエスに似ていたりする。

他に「療(いやす)」「医(いやす)「薬(いやす)」があり、上記の4つは全て心身を治療することだけに関係していますね。

 しかも「薬」の場合は「くすり」と読むのが意味深でした。

薬→くすり→Kusuri→Csri

キリスト→Christ

薬=iyasu・chsuri

薬はなにか、イエスキリスト的な「いやす・くすり」が入っていたようです。

 

一方でネガティブな方を見てみる。

すると、「卑(いやしい)」、「賎(いやしい)」などがあったりしますね。

 

「癒・医・療(いやす・いやし)」⇔「卑・賤(いやしい)」と並べてみると、どちらも「いやし」を含んでいて、なんだか対義語のような関係にも思えたりします。

まるで癒し系から罪人に落とされた、イエスの人生を表すようにも感じられるではないですか。「癒→賤」

 

さらに「癒」には「いえる」の読みがあるのも意味深でした。なぜならキリストのいたイスラエルでは神様のことを「エル」とか呼んでいたから。

イスラエルとかいう名の意味も「神(エル)と戦う(イスラ)」らしいですね。

 【癒】

意味:病気や傷がなおる、なおす

いやす・いやし イエス

いえる エル

 

 

 ふわふわおたまじゃくし

 

癒の中国上古・中古音との関連

 

これが偶然でなくて、漢字の意味に対して「いやす」という訓読みを「作成した」結果ではないかと思える理由が、癒の上古音にありました。

「癒」の字について、「学研漢和大字典」で引いて気がついたことです。

この字典は言語学者藤堂明保がまとめたもので、数万字の漢字一文字づつに、大陸での各時代の音韻まで掲載しています。

上古音(周・秦)

中古音(隋・唐)

中原音韻(元)

現代北京語

 と言った具合に。

 

「癒」の項目を見ると、上古音では「ジュー(diug)」という音で、中古音では「ユ(yiu)」、中原音韻は「iu」、現代北京語は「u(yu)」というふうに変遷していることがわかりました。

ここでなぜ癒が、キリストに関連づいているかの補足が成り立つわけなのです。

それは上古音では、「癒(ジュー/diug)で、ジューといえばjewish(jew)でユダヤ人を意味している言葉だったから。

中古音の「ユ(yiu)」も、ユダヤのユなのですよね。

そういえば、漢字を作った人々のなかには、古代イスラエル人が含まれていた説があって、けっこう知られていますし。

 

というわけで、「癒」には他に訓読みが無いし、イエス的「イヤシ」で確定していて、中国ではジュー(ユダヤ人)と読んでいた。イエスとジューが組み合わさっている漢字だったんですよ。

こうなってくるとやはり古代、「癒」という文字をいやし(イエス)と読ませるように、倭の賢人、卑弥呼が作り上げたのではないかと、低学歴的に発想したくなります。

 

 【癒】

意味:病気や傷がなおる、なおす

・いやす・いやし(Iyasu)→Yes(イエス

・いえる(Ieru)→El(エル)

・中国上古音 dieu(ジュー)→jew(ユダヤ

 

 

 倭国の邪馬壱国は病国

 

魏志倭人伝」や「後漢書倭伝」にあるとおり、倭国大乱(倭国乱)で女王卑弥呼が擁立されると、その未曾有の殺し合いはピタリと止んだとか。

まるで病んだ人を、瞬時に薬で癒したかのように。

要するに卑弥呼は救世主であり、特効薬だったのだろなと。

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「中国正史日本伝(1)石原道博編訳p112より

 

日本書紀」の崇神天皇の条を見れば、疫病が蔓延し百姓が反逆する事態が続いたとあるので、「卑弥呼の時代の倭国大乱=崇神天皇の時代の疫病と反乱」で間違いなしと見ています。

手元の岩波文庫の「日本書紀(一)」を見ると、

五年に、国内に疫病(えやみ)多くして、民(おほみたから)死亡(まか)れる者有りて、且大半(なかばに)半(す)ぎなむとす。

六年に、百姓流離(さすら)へぬ。或いはそむくもの有り。其の勢、徳(うつくしび)を以て治めむこと難(かた)し。

日本書紀(一)」岩波文庫 p276~278

 

それで古代の中国の歴史書を見れば、おかしな記述があります。

よく知られる「邪馬台国(邪馬臺国)」の「やまたい」ではなくて、実は「やまい国」が使われていました。

やまい国(邪馬壹国=邪馬壱国)。

ニュースとかではヤマタイ国ばっかりで、ヤマイ国のほうは滅多に使われず、知らない人のほうが多かったりします。

なんで倭の首都が「やまい」なのかは不思議なことです。まるで邪馬台とは違う別物の国のようで。ヤマイモの国だったのかと思ったら大間違いでした。

これも実は「日本書紀」の崇神天皇の時代、「疫病が蔓延した」ことと整合する名称でした。このことは、以前に出していた電子書籍の拙著にも記していたところです。

 

要するに倭が疫病が蔓延する「やまいの国=病国」になったこと、これを表すために「邪馬壱国(病国)」と書いていたのであろうと想像するばかりです。 

 

【病】

①やむ・やまい からだが弾力を失って動けぬようになる。転じて広く、病気になる。また、病気のこと。

②からだが硬直して動けないさま。

③うれい つらいこと。くるしみ。心配。また、欠点。

④やむ・くるしむ つらく思う。困って悩む。

古訓 カシク、ナラフ、ヤマヒ、ヤマフス、ヤム、ヤモヘル、

 

「学研漢和大字典」より

 病の状態は倭国大乱の様子に似ていますね。邪馬壱国(邪馬台国)が登場する場面はまさに倭国が病んでいたこと、それがやまい国で現していておかしくなかったです。

このことは、百科事典にも乗っていないですが、学者のかたは考えてみたほうがいいです。かなり整合する話なので。

昔は病をナラフと読んで、ナラを含んでいることも、かつて北部九州の邪馬台国の別名がナラであり、後に畿内が奈良となったことに通じているようです。

そういえば甘いものを食べ過ぎると病気になるのはもう知られている事実です。病(yamai)が「amai(甘い)を含んでいるのも、「甘い食べ物は病気につながる」ことを倭人も良く知っていたがためかもしれないです。

 

 

卑弥呼の名に「いやし」と「いやしむ」と「えやみ」が含まれる

 

まとめると、卑の意味より以前に、卑弥呼は音を重視した気がしました。

卑の音だけ重視すれば、「いやし(癒し)」でありつつ、また同時に「卑しい」という相反するものを含んでいました。

そこから卑弥呼がキリストについても把握して、下手すると信仰心を持って取り入れていたのではないかとの疑念が浮かびました。

卑弥呼が「himiko」で「imiko(忌み子)」を含んでいることも、これに関係しているようです。

あとは卑弥呼の名自体にも、「えやみ」が隠されているような感じも気になります。卑弥は「いやみ」であり、「えやみ」だから。

卑弥→「卑(いや)弥(み)」→えやみ→病(やまい)→邪馬壱国」

言葉遊び的なものが、言霊の根幹にあることは疑いようがないです。

こういった関連も含めて、病の国の意味を込め、邪馬壱国の名を使っていたのではないかと。

そうするとやっぱり「魏略」で最初に倭人のことを詳しくまとめた魚拳なる人物とは、おそらく倭人に近い人物で、卑弥呼と協力して倭人伝の基礎的情報をまとめたのではないかと考えてしまいます。

 

卑弥呼の名は、しゃもじで前方後円墳を含み、徐福の意味を※、キリストの概念を取り入れ、倭国の邪馬壱国の病んだ歴史とキリストまでも組み込んでいる、そんな複合的な役目をもたせている。

まさに呪術を以て倭に君臨した卑弥呼は、其の名前自体が大いなる言霊なのだなと納得した話でした。

 

関連記事

旧約聖書の登場人物をあらわす漢字と日本語

魏略の魚豢は卑弥呼に近い倭人だったかも 

 

 

富士山の語源が徐福さんだったことの証明

 

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富士山 - Wikipedia

 

南海トラフ地震

 

なんか最近、南海地震のニュースばっかりですね。

なんかい地震ニュースやってんだろう。だじゃれ。

 

南海トラフのニュースは、何故かメディアがあんまりにも煽りまくっている件。

そういや最近の政府発表では、南海トラフ巨大地震の想定死者数を、23.1万人とか言ってるらしい。

23万人なら切りが良いのに、何故か「.1」をくっつけて「231」にしてるのが、超絶意味深。

太鼓の達人」の隠し音楽で、悲鳴が続くのと同じくらい意味深だと思いました。231。123神示。◯月31日なのだろ~か。

 あと韓国のサッカーの選手が、トロフィー踏んづけていました。On the trophy状態ですが、これも多分示唆で、スイッチOn the 南海Torafuなのかもしれないと。

そんな想像を膨らませつつ、日々暇を見ては自宅修理と補強してますが・・・隣のおばさんに嫌味を聞かされ叩かれつつ。

 

○いつも助かっております

 

 

 

富士山の語源

 

あと、どこかの学者によればもう噴火するのは確実と言われる富士山ですが。

こんな数字があるの知ってますか。

・日本一

・3,776m

・223(ふじさん)

・二二八八れ十二ほん八れ

・333(富=画数13、士=画数3、山=画数3)

一番下の333は近頃に、発見したのですが。

富士山の名前というのは歴史上で何度も変遷があったので、その時に画数333を並べようという意図が働いて、選ばれた文字なのかもです。

 

ところで富士山の名前の定説は、こんなのがあるとか。

「フジ」という長い山の斜面を表す大和言葉から転じて富士山と称されたという説もある。近代以降の語源説としては、宣教師バチェラーは、名前は「火を噴く山」を意味するアイヌ語の「フンチヌプリ」に由来するとの説を提示した。しかし、これは囲炉裏の中に鎮座する火の姥神を表す「アペフチカムイ」からきた誤解であるとの反論がある[注釈 7]。その他の語源説として、マレー語説、マオリ語説[9]、原ポリネシア語説等がある。 明確に「富士山」と表記される過程においては駿河国に由来するとするものがあり[10]、記録としては都良香の『富士山記』に「山を富士と名づくるは、郡の名に取れるなり」とある。

富士山 - Wikipedia

・ふじ(山の斜面)が富士山になった

・フンチヌプリ(アイヌ語)からフジ山になった

富士郡の山だから富士山になった

・・・全部間違ってるのではないかと。

 

富士山は古代から色んな別名で呼ばれました。

・福慈山

・不死山

・不二山

・不尽山

・富士山

・蓬莱山

古来、日本は瀛洲(えいしゅう)と呼ばれて、仙人が住み不老不死の薬がある地とされ、同時に富士山は蓬莱山であると考えられていたとか。

それで「竹取物語」の原文では、富士山が不死の山であると書かれ、「賢人(士)に富む山」だから富士と呼ぶ、みたいな感じで書いてあったりします。

富士山には、蓬莱山の伝説が関わっているとなれば、もう、富士山には間違いなく秦の始皇帝に仕えた天才方士、徐福が関係しているとしか言えない気がしました。

 

徐福がなぜ東方を目指したのかは、歴史書に明記されています。

史記』巻百十八「淮南衡山列伝」によると、秦の始皇帝に「東方の三神山に長生不老の霊薬がある」と具申し、始皇帝の命を受け、3,000人の童男童女(若い男女)と百工(多くの技術者)を従え、財宝と財産、五穀の種を持って東方に船出したものの三神山には到らず[1]、「平原広沢(広い平野と湿地)」を得て王となり、秦には戻らなかったとの記述がある。

東方の三神山とは、渤海の先にある神仙が住むとされた島で、蓬莱・方丈・瀛州(東瀛とも)のことであり、蓬壺・方壺(ほうこ)・瀛壺とも称し、あわせて「三壺」という。のち日本でも広く知られ、『竹取物語』でも「東の海に蓬莱という山あるなり」と記されている。[2]。蓬莱や瀛州はのちに日本の呼称となった[2]。魏晋南北朝時代の487年、瀛州は行政区分として制定されている。

徐福 - Wikipedia

徐福が目指した東方の三神山(蓬莱・方丈・瀛洲)とは日本のことですね。

 

それで富士山は蓬莱山であると、昔から言われていたのですが。徐福については、以前にブログのほうでも色々妄想しました。

卑弥呼が信奉し、名前に徐福の意味が含まれること

卑弥呼以前の倭人の王、師升もまた徐福の名を元にした名であること

・歴代天皇も密かに徐福に心酔したこと

 だから日本列島の山に、そんな偉大な除福の名が刻まれていたって、全然おかしくないと気がつくべきでした。

これは富士と徐福の漢字を読み解いても、理解できるところがあります。

 

 

富士山とは徐福山だったか

 

まず富士山と徐福は、何か似ているなと感じてたのですが、それは「畐」が一致しているからでした。

富士

徐福

こう並べてみると、全然違うようですが、入れ替えて単純化すると、どうなるか?

富士 

福徐→礻畐彳余→畐示

 ここで、

富士(ふじ)

畐示(ふじ)

にすれば、

 

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 徐福→福徐に並べ変え、右側の旁の示だけを抜き取って読めば、「畐示(ふじ)」になるわけなんです。

 

さらに共通項はありました。

富士と徐福は共に 「畐」を含むのですが、これはお酒の入った瓶、とっくりです。

字源 会意形声。「宀」+音符「畐」、「畐」は酒をたたえた瓶の象形で、そのようなものが建物の中に多くある様。「福」と同系。

意義 とむ。ゆたか。金持ち。とます。ゆたかにする。とみ。財産。(日本)富士山。

音読み 呉音 : フ 漢音 : フウ

富 - ウィクショナリー日本語版

徐福の福は礻(しめすへん)、これは示で神を拝むときの祭壇、そこにとっくりに入ったお酒を表す 畐というわけです。

富士山がお酒に関わる文字「畐」を使っているのは意味不明でしたが、徐福との共通点と考えるとしっくり来ます。

富士山の頂上が八神峰で、富士山本宮浅間大社では木花咲耶姫命と瓊々杵命を祀る、神域に含まれていることは古来より知られた話です。

 

 

次に「士」の意味をみれば、

字源 説文解字には、一から十、即ち全てを知る意の会意とされるが附会であろう。「牡」等に見られるとおり、男性の陰茎の象形(藤堂)、又は成人を意味した小型の鉞の象形とも(白川)。

士 - ウィクショナリー日本語版

 この白川というのは白川静という漢文学者で、漢字の元になった甲骨文字は呪術的なものだとかいう説を出しているようです。読んででみようかと。

この「士」には、一から十までを知る、全てを知る意味で「士」が使われてました。

一方で徐福とは方士と呼ばれる身分の人で、仙人の方術、医療、占卜、医療、学問などあらゆる分野に通じる「士」だったんですね。

 

竹取物語で、

「士(つわもの)らを大勢連れて、不死薬を焼きに山へ登った」ことから、その山を「ふじの山」と名づけた。

竹取物語 - Wikipedia

という内容になっていて「士」が登場するのも、「不死薬」が登場するのも、方士徐福が蓬莱の不老不死の仙薬を求めて旅立ったことに、あまりにもピッタリ符号する話だったのです。

 

 

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まとめると

 

富士山

・富(ふ) 畐=お酒のとっくり 

・士(じ) 士=全てを知る者

・富士は不老不死の薬を焼いた山(竹取物語

・蓬莱山(古名)

 

徐福

・福(ふ) 畐=お酒のとっくり

・徐→余→示(じ)

・徐福は方士=全てを知る者

・不老不死の薬を求め蓬莱山を目指した者

 

完全に一致。

徐福さんは中国人の先祖でありますが、「後漢書」にある通り倭人の先祖でもあり、下手すると倭国の文明の開祖と言える人でした。

富士山が除福だなんて言ったら、中国嫌いな日本人は気に入らないかも知れないですが。

富士山の語源は、徐福さんです。

 

 

※ちなみに「フジ」という発音の語源は別かもしれません) 

 

 関連記事

天武天皇がどれだけ秦の始皇帝を手本としたか分かる話 

卑弥呼・壱与は徐福の血筋だと漢字で表されてるらしい

後漢書の倭人帥升は徐福の子孫でもおかしくなかった 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・

 あ

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ちなみにこのブログの訪問者数。

はてなブログアクセス解析で見ると、最近は普通に1日あたり1,000人を突破してるのですが。ブログのカウンターも、500を超えるの普通。

日本の全ブログのうち、1日500アクセスを超えるのは3%未満らしいのです。いつの間にかこのブログ、日本の上位3%に入ってたんだなと。

ブログのPV数が1日50PVあれば上位20%のブロガーらしい | アルパカタログ

感慨深い。年収は200万円にも届かないけど。

 

 

平城京の名前の由来が平塚だったかもしれない件

ていせつ、たいせつですか。

定まった説と書く定説は、正解も含まれるけれど、間違いも含まれているようだから。

 

20年前の教科書と今の教科書の同じ歴史的出来事を、読み比べてみれば分かります。20年前の定説がまるっきり違う解釈になっていたりする。

早合点や鵜呑みして落ち着く前に、ちょっと考えてみたら、ホントの答えが出るかもしれないので、いろいろ検討するのが習慣づいていますが。

 

「何と(710)素敵な平城京

「鳴くよ(794)坊さん平安京

「いい国(1192)作ろう鎌倉幕府

 

最近の鎌倉幕府の始まりについても教科書では定説が覆っていて、「いい箱(1189)作ろう鎌倉幕府になっているとか。

 

○いつも助かっております

 

 

 

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そういえば今日(5月20日)、先日購入していた単管パイプで、屋根修理の足場を組み立てました。

真面目にパイプを組んでいる途中、隣のおばさんがずーーーっと何か言いつつ台所やドアでガンガンと叩き返してくるので、切れそうでした。悪魔の悪戯か地獄の2丁目あたりかと思いました。

20日ころは深夜も朝もゴンゴンゴン壁を叩かれ過ぎたりして、イライラが募っているところでした。世界には俺を怒らせることに躍起になる人がいるらしい。バーベキューにでも躍起になってればいいのに。

 

 

平城京は「ならのみやこ」と読んだ

 

ところで奈良時代とは、710年の平城京建設から、桓武天皇平安京に移転する794年までとするのが一般的だといいますね。

この時代区分には、仏教的な天平文化大宝律令という独自の概念が影響してるらしい。

それで、なんとも素敵だったらしい平城京は、音読みでは「へいぜいきょう、へいじょうきょう」が使われます。

どうして平城京と呼ばれたのかの定説は、「平らにする」を意味する「平す(ならす)」が語源だとか色々言われています寝。

それを補足するように、平城京と書いて「ならのみやこ」と読む正倉院の書物があり、別名で奈良京や寧楽京もあったとか。

しかし「ならす」という動作を語源にするというのも奇妙な感じがする。

 

 

ところで安本先生

 

邪馬台国は筑紫の朝倉で、卑弥呼の居城は平塚川添遺跡

・筑紫の地名が奈良盆地に移された(筑紫と奈良は地名が全くおんなじだから)

邪馬台国は筑紫から奈良盆地に移転している(邪馬台国東遷)

 

そう断言してるのが安本さんですが、別に個人的に信奉してるとかそういう訳ではないです。物的証拠(地名)を備えている、信じられる仮説だなと思って色々参考にしています。

筑紫=元奈良(首都)

 

だから地名が一緒

この仮説を元にすると、平城京(ならのみやこ)の名の由来も分かる気がしてきました。

何故かと言うと、筑紫にあった平塚川添遺跡が、奈良盆地平城京の名に対応している可能性があるからです。 

 

 

平塚は古地名か

 

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これを知るには平塚川添遺跡の平塚とは、古地名かを調べる必要がありました。

明治22年の町村制以降の際に、平塚村の名が出ていました。この時に平塚村など幾つかの村が集まって福田村が誕生していました。

江戸時代には福岡藩秋月藩の藩領として、平塚村の名があります。

下座郡 - Wikipedia

 

というわけで平塚村は少なくとも江戸時代にはあった古地名でした。平塚川添遺跡という大きな集落があったからには、奈良時代より前から平塚と呼ばれていた可能性は高そうです。

ただ想像と違っていたのは、平塚村の場所が下座郡だったこと。実は平塚川添遺跡は卑弥呼の居城なら、上座郡ではないかと考えていたので意外でした。

これは幾つか理由があるのではないかと。

上座郡下座郡は、古墳時代以前は元々「座郡(あさくら郡)」だった

・当時の座郡には、上・下の区別がなかった

・座郡の中心の平塚川添遺跡は、時の権力者が住まう上座的な役割だった

古墳時代の頃に平塚川添遺跡が埋め立てられ、単純な区分けとして下座郡のほうに入れられた

 これは想像した仮説ですが。

 

座といえば、 

 

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平塚京と平城京 

 

筆者的には平塚川添遺跡とは崇神天皇の瑞籬(みずがき)宮と同様であると捉えるのですが、地名としても弥生時代の後期~末期頃に、平塚があったような感じもしました。

 

それは平塚という地名を音読してみるとわかります。

 

呉音 チュウ

漢音 チョウ

塚 - ウィクショナリー日本語版

日本語では清音が濁るのは一般的で、茶屋はぢゃや、釣りはづり、時計はどけい、というふうに。江戸時代の草書では、濁点を省略していたりするので、清音と濁りの区別すらも曖昧でした。

それでこの塚は、「チョウ」を濁って「ヂョウ、ジョウ」と読んでも良いことになります。

 

だから音読みしてみれば

平塚(へいぢょう)村

平城(へいぢょう)京

 と、全く同じになってしまいます。 

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筑紫平野の地名が、奈良盆地に移された。

それならば筑紫平野の平塚の重要な都市の名も、奈良盆地に移されて平城京となった。

これもまた真理ではないかと。

 

平城京命名者(時の天皇元明天皇?)は、平塚川添遺跡のことを聞き及んでいて、それほど重要だったからこそ、「へいぢょう」の名を使ったのではないだろ~か。

何故へいぢょうが重要だったか?それは卑弥呼がいた場所だったから。

この平城京の建設者が、斉明天皇の意思を継いだであろう元明天皇だったことで、それは確信に変わります。

以前の記事

皇極天皇(斉明天皇)が意識した女王卑弥呼と女王壱与

崇神天皇の桑間宮と池から想像できた吉野ヶ里遺跡の正体

 

奈良の平城京の名の由来は、福岡の平塚川添遺跡だった説。

これは偶然では済まされないのではないかと。勝手に考えているだけです。

 

 

太陽と月と日本の139

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太陽 - Wikipedia

 

 

39はネガティブなだけじゃなかった

 

近ごろは人の運命っていうものの真相が、ちょっとだけ把握できるようになった。

人生は他人に左右され、生かされ殺され、時には人為的に犯罪者に落とされてしまうという現実が。・・・・と言っても信じない人はいるかもですが。

個人や集団に対する心理作戦、メディアによる大衆コントロール、電磁波的な科学のちから、それと結びついた呪術や魔術の行使。

そういったものが前提にあって、支配者の思い通り方向性の決定がされてしまう。それが世界の現実なのであろうと。

そしてその運命みたいなものは、ある程度は自分で抑えられる、変化できるということも、分かってきてるのですが。

 

ところで自分を取り巻いてる世界で、93や39というのが良く目立つ現実がありました。

それで何か93のイメージとして「臭(93)」が結び付けられて行ったんです。どうしても穢れやネガティブな方面の数字としてしか、感じ取れなくなるほどで。

39や93がやたら頻繁に自分の目の前にあらわれる現実があるのに、普通な解釈では「偶然そうなっている」としか言わないのです。

病院に何件行っても蓄膿を治されず、長年にわたり悪化していたので、93(臭い)。その臭いを揶揄して見せているのだろうと、そっちのほうに考えざるを得なかったです。

 

しかしやがてそんな穢れやネガティブの方向は、ごく一部の印象操作を受けた結果だったことに気がついたりしました。

そんなみみっちい出来事より、はるかに巨大な存在あることに気がついて。近頃は39から、ネガティブな意味を若干遠ざけることになりました。

 

○いつも助かっております

 

 

 

 

太陽と地球と月の39、139

 

ネットの情報をあさっていたら、この39、93という数字は、太陽と地球に深く結びついているのだと、それを知りました。

とくに関連が強いと見られるのが、恒星である太陽、その惑星である地球、その衛星である月、という3つの星。

その太陽系の39の不思議とは、簡単に述べるとこう。

 

・地球~月の距離の390倍が、地球~太陽の距離

・太陽の大きさは、月の390倍(1億5,000万km)←何故か上と一致

・太陽の直径は139.1万km

 太陽の大きさは?

 

地上から見ると、太陽と月の大きさがまったくおんなじに見える。その理由が、この太陽~地球~月の3者間にある、偶然に一致した2つの390倍という数字にあったわけです。

それで地上からは完璧な皆既日食が見えたりするので、この太陽系自体が、得体の知れない知的生命、あるいは神の意思によって作られていると、そんな話もあったりします。

それでここに登場している139、39という数字ですが、これが何故か日本に関係していたりします。

 

 

東京の139

 

以前に緯度経度と運命の結びつきに気がついて、こんな記事かいてました。

緯度・経度から導かれる数秘術と運命的つながり 

 

それで日本を象徴する東京というのは、

・首都

・皇居

天皇

 この3つが揃っていて、東経139度に所在してたのですね。

ちなみに俺の育った土地もそんな139度線上にあったりしました。

こういう関連記事があります。 

俺にまつわる陰謀の証明

 

 

富士山と東京を結ぶ139号沿線の謎

 

あとは日本を象徴するといえば、「一富士二鷹三茄子」の富士山。この富士山も、何故か139が人為的に関連付けられていました。 

「国道139号」

この道路は富士山の真南の富士市に起点があり、そこから自殺の名所な青木ヶ原樹海を過ぎ、富士五湖を過ぎ、山梨の大月の関東山地を超えて東京都の奥多摩町までつながってるんですね。

東京がわの起点になっているのは奥多摩湖なのですが、その地点は深山橋で、この橋がなんと東経139度00分00秒でした。

しかもこの国道、総延長距離が139.1kmで、実際の距離は136.9kmで、延伸をした年が1993年だったり。なんでこんなに139で合わせているのだろう?

まるでなんかの陰謀みたいじゃないですか。

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そういえばこの富士山の樹海には、日本一の溶岩洞窟がひっそりあるらしいですね。その名も三ツ池穴。この洞窟の総距離が、何故か2139m。

ちなみに富士山は木花咲耶姫コノハナサクヤビメ)を主祭神とする、富士山本宮浅間大社があるのですが。

木花咲耶姫は、日向三代瓊々杵尊ニニギノミコト)の妻で、瓊々杵尊とは太陽神天照大神の孫神にあたるのですね、つまりニニギは太陽神です。

要するに富士山本宮浅間大社は、太陽神夫妻を祀っているということで、富士山が太陽の山であることを表していたりするんですよ。

あとはこんな気になるところも。

9087 39813

コノハナ サクヤビメ

九無八七 三九八一三

と、なんか語呂合わせが出来る神様なのが意味深ですね。

ここに39が含まれていました。

 

まとめると、富士~東京の国道139号にはこんな情報が入ってました。

 

国道139号線

・富士山(太陽信仰・日本の象徴)~大月~東京(日本の象徴)の間

・139.1km(総延長)

・136.9km(実延長)

・1993年(延伸の年)

・2139m(富士山の日本一の溶岩洞窟)

・39813(富士山の神サクヤビメ)

・東経139度00分00秒(東京都の起点奥多摩町の深山橋)

なんで国道139号は、日本の象徴で太陽神夫妻(39813)を祀る富士山のふもとから、月を象徴する大月を通り、象徴都市の東京を結びつけているのだろう。

なんで東経139度に通っていて、国道139号で、距離が139km(136.9km)で、1993年に延長されたんだろう。

なんで139号線の沿線には2139mの洞窟があるのだろう。

なんで太陽の直径や月との関係をあらわす139や39の数字に、富士~大月~東京がぴったり合うのだろう。

ともかくこの国道139号線が、首都東京と富士山、果ては太陽と月と日本を結びつけているものであるのは確実かと思いますが。

・・・などと疑問が湧いたりしました、どうでもいいですけど。

 

ちなみに日本語で931(きゅーさい・くさい)を解釈すると、「臭い」のほかに「救済(きゅーさい)」または「救世(きゅーせい)」が含まれているのも意味深なかんじがします。

あとは日航機墜落事故の舞台となった、高天原山御巣鷹山が、標高1,639mだったりするのは何故だろうと。

 

 

 卑弥呼と139

 

 この卑弥呼は日本で最初に大々的に記録されている女王であったりと、なにかと凄い存在感があったりします。

このかたどうも、高天原の太陽神である天照大神の、化身的な存在だったのではないかと。卑弥呼は日巫女、つまり日=太陽の巫女であることから、太陽神崇拝の中心的な人だったのは明らかですね。

ところで日本語の語呂合わせで、135(ひみこ)、あるいは139(ひみこ)になるのです。

ここで卑弥呼と太陽との繋がりには、天照大神という神を介したものだけでなく、科学的に計測した数字も含まれていたことが判明するのですね。

 

・地球~月の距離の390倍が、地球~太陽の距離

・太陽の大きさは、月の390倍(1億5,000万km)

・太陽の直径は139.1万km

・太陽の巫女である卑弥呼の語呂合わせは135、139

卑弥呼邪馬台国は北部九州(東経130度)奈良(東経135度)

邪馬台国の位置は、最初の邪馬台国筑紫平野、のちに奈良盆地に移ったという東遷説を支持)

 

こんなふうに、よくもぴったり。 太陽と卑弥呼に、39と139が結びついていますね。

これってやっぱり偶然合っているのかと。

はたまた2~3世紀の卑弥呼が、未来に計測される太陽のkmの数字や東経の数字を何らかの方法で知って、それを語呂合わせで暗示していたのかと。

能力的な、巫覡の力?

それともやっぱり卑弥呼は未来視をした?

未来を知る人物と接触をしている?

そんな過去と未来の接触が実際にありそうなことは、「東都名所絵図」を見れば分かってきたりしますが。

 

・・・

 

日本の象徴的な場所は太陽と地球と月のつながりと同じく、139、39に魅入られている。東京と卑弥呼には、何か得体の知れない仕掛けがある。

そう感じ取れた5月でした。

 

追伸・・・

そういえばこの記事を書いている途中だった昨日の早朝、近年稀に見るほど酷い金縛りに遭遇。前日から幽体離脱ポイ感覚があり、やはりかといった感じで起こりました。その金縛りは夢の中で動けないぞと言った夢として実感してたのですが、その夢が醒めてもリアルで金縛りが継続しているという具合。2つの世界での金縛りを連続で味わっていました。ひどかった。 

 

関連記事

歌川国芳の浮世絵に現れる未来視の暗号 

卑弥呼が135だったのと日本が東経135度の国なことの運命的な結びつき 

「東経ヒミコ度」が示唆する運命の存在 

 

 

  

魏略の魚豢は卑弥呼に近い倭人だったかも

なんか、令和時代って、アレですね。

変換できない。

礼和、例話、例羽、れいわ、レイワ、reiwa・・・・・

 

令和が、禾口→ネコ

という解釈がツイッターで話題ですね。もうネコの時代が確定らしい。

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ところで「れいわ」って、たつやに似てますね。

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 ・・・カオスな未来が浮かんで来ますよね。

令和と書いておいたほうが良いですね、ネコですけどね。

 

コレ書いてたら雷が、ピカッ!ドドドドーン!と鳴った。

雷の、お礼は(礼和)、要らねーですよ。本日も雨。連日のように雨。

 

○いつも助かっております

 

 

 

 

魚豢と卑弥呼

 

最初に卑弥呼のことを魏に伝えたのは、「魏志倭人伝」の陳寿という人じゃかったとか。

魏志倭人伝の元になった書物に「魏略」があり、これを記したのが魚豢(ぎょかん)なる謎の人物でした。魚の缶だと、サバ缶やサンマ缶が昔からの売れ筋らしいですね。

歴史的には劉表と顔見知りで、魏に仕えていた文官であった、裴世清が知っていた、倭について詳しく書いた最初の人だと、そのくらいしか情報が無かったりするのでした。

 

ところで卑弥呼という名は「卑しい」が使われているから、中国が倭を貶めるために「卑しいという忌み字を当てた」というのは定説のようでした。

しかし卑弥呼という名前は卑弥呼自身が考案したのではないかと、近ごろはずっとそんな気がしています。何故なら卑弥呼の名前からは、崇神天皇との共通点が見えてきたりするから。

そして何故かこの魚豢と卑弥呼の間には、因縁があるような感じがしました。

 

まず魚豢というのは、

魚・・・お魚

豢・・・豢う(やしなう、養う)

豢 - ウィクショナリー日本語版

 という意味なんですね。

 魚を取って生活を養う人、それって「魏志倭人伝」に出てくる倭人の描写に似ているような気がする。

「男子は大小となく、皆黥面文身す。古より以来、その使中国に詣(いた)るや、皆自ら大夫(だゆう)と称す。夏后少康の子、会稽(かいけい)に封ぜられ、断髪分身、以て蛟竜(こうりゅう)の害を避く。今倭の水人、好んで沈没して魚蛤(ぎょこう)を捕え、分身しまた以て大魚・水禽(すいきん)を厭(はら)う。」

魏志倭人伝」 石原道博編訳p45

 

メモ

蛟龍・・・海の害獣

魚蛤・・・魚やはまぐり

水禽・・・水鳥

 この一文と、魚を養う魚豢さんが、倭と同じ「委」の編を持つ「魏」の皇帝に仕え、倭の記録を残したことは、良く整合している気がしますね。

魚豢が倭系の人だったとしてもおかしくないかと。

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 「魏志倭人伝」 石原道博編訳p108

 

 

卑弥呼と魚豢

 

あと、意外なことに、卑弥呼と魚豢の関連も伺えたりしまっす。

豢は「やしなう」であると書きましたが、下の部分は豕(いのこ)といって、猪や豚のことです。

 

それでなにが共通するかといえば、卑弥呼の名を見てみれば、

卑を「いやしい」と書いて「やし」を含んでいますね。魚豢と同じように。

「呼」は「お」とも読める漢字で、ようするに「弥呼」は澪(みお)とも読めてしまう。澪とは水の尾、水路のこと。「弥」は端から端まで渡ること。

 

まとめると、

魚豢

魚=おさかな(水の中)

豢(やしなう)→やし

 

卑弥呼

弥呼=澪(水路)、弥=渡る

卑(いやしい)→やし 

という風に、魚豢と卑弥呼の間には、水とやしの関係性が見えて来たりするのです。

ここで「やし」とは何かという疑問も出てきますが、2人の間には確かに共通点が見つかりました。

ここからは、卑弥呼という水路を泳ぐ魚が、魚豢といった印象を受けます。

 

魚豢が倭のことを詳しく書いてたり、卑弥呼の情報をいち早く「魏略」に書けたのかは、「魚豢が卑弥呼と繋がる倭人で、魏に出張していた」で説明がついたりするわけです。

 

 

中国の書物によれば、倭人渤海の北から~朝鮮半島~日本列島まで広範囲に住んでいました。地中海のフェニキア人みたいな存在だったようでした。

フェ 倭 肥

ニ  奴 の

キア 国 国

 

「キア」とは国という意味

 で、倭とフェニキアの関係は漢字の使い方からも読み取れます。

倭人はどうも大陸情勢を逐一収集していたようで、大陸の倭人コミュニティが活用されて、常に邪馬台国に情報が集結していたようですね。

ともかく魚豢はそうした情報網の統括的な役割で、倭人の代表として魏の中で情報発信役をしていたと。そんな想像はできたわけです。

 

 

美味海鮮・漬魚セット 7種14切 おいしい漬け魚のセット 

これ美味しそうじゃないですか。玄米ごはんのお供に。

 

 

2019年の春散歩で気がついたこと

先日(15日)に久しぶりに散歩した。

心臓の動機が酷くなってたのであんまり無理してないですが。

それでこの世界について、ちょっと気くことがあったりしました。

 

○いつも助かっております

 

 

 

 

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ナイスビューを実感できる数少ないポイント。

 

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樹々のトンネルみたいな感じになる林道。

 

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これまた空の青さと新緑。

 

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空を見上げると樹木の天井。

 

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木は上に伸びるという法則を無視して、ひたすら横に伸びていく樹木の枝々。

 

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道端にはワラビっていうかクサソテツ。太陽系のスパイラルな法則に従って、スパイラルに広がる。これの新芽がブラックホール的に渦を巻いたコゴミで、美味しかったりする。

 

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断崖の上にはこれまた芸術的な樹林。のぼって景色を確かめてみたいのだが・・・。

 

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夕方日が落ちて来たので引き返す。日光も、枝で遮られると直視ができる。何事も直視はしないほうが精神衛生上は良いのかもしれない。

 

と言った感じ。

 

この土地には昔からの寺院があるのに関係して、森のなかには古道も埋もれてる。

それで国土地理院の航空写真によってこの辺りの地図を見ると、戦後の頃までは誰かの土地で、山の上には広範囲に畑が広がってたようだった。いま通っている道は1960年代に作られたらしい。

ただ残念なことに、ここは上から下までゴミだらけ。なんでそんなにゴミを捨てたいのかわからないけど、この道はドコまで行ってもゴミだらけ。

サビた空き缶を見ると、それはもう1980年代頃に流行ってたジュースだったりする。レトロ大好きな人がそんなアンティークなゴミを見れば、拾ってみたくなるかもしれない。林道を歩けば、なんでそんなにゴミを捨てるのかと小一時間考えさせられたりする。

綺麗な写真には写せなかった、汚い風景。綺麗なものには必ず汚い要素が入ってる。

むしろ周囲を穢して意地悪な薄汚い世界にしないと、じょうずに進めない種類の人間が多いのかも知れない。

文化も、言葉遣いも、物質も、通りすがる自然も、人の精神すらも薄汚れた世界なのは、汚して生きやすさを求めた結果なのかもしれない。

この林道もそんな綺麗な風景と一緒に、人の息苦しい世界を表現して俺に見せてくれてるらしい。

 

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

近ごろまた、卑弥呼のことも気づいたことがあったりしました。卑弥呼っていうのは、日の巫女とか解釈があるのですが、忌み子に関係している説です。

なんで卑弥呼のことがこんなに気になるのだろ~か。

これはまたいつか。 

 

 

崇神天皇の桑間宮と池から想像できた吉野ヶ里遺跡の正体

崇神天皇の話がしばらくなかったのですが、久しぶりにひとつ。

この前に佐賀の吉野ケ里遺跡の話をまとめていて、ちょっと気づいたことがあったんですよね。

いつも古典やネット情報をかき集めては、想像と洞察を繰り返して答えを導き出しています。当てずっぽうの作り話みたいですが。俺の当てずっぽうも意外と当たっちゃうこともありますのでね。

 

○いつも助かっております

 

 

 

 

1・崇神天皇というのは、卑弥呼が男装した姿

 

もう何年も前に思いついたこの説、流行ってませんが、いまも一貫しています。

その内容は、

 

(1)崇神天皇太安万侶がまとめた「古事記」の序文では「后(きさき)」と高貴な女性的な扱いになっている

(2)卑弥呼は日御子・日巫女で天照大神の生き写し的な女王となったが、天照大神素盞嗚命と対峙するにあたり角髪(みずら)と武装で男装した

(3)天照大神卑弥呼に倣った神功皇后も、新羅出兵で角髪を結い武装し男装した

(4)ならば卑弥呼天照大神神功皇后と同じく、角髪を結い鎧を着ることで男装したことになる。だから太安万侶は、崇神天皇のことを「后(女)」と書いている

(5)崇神天皇の和風諡号の「印」とは公用印であり、卑弥呼の「弥」と同じ意味を持つ。

(6)古事記崇神天皇諡号が「御真木入日子印恵」で「日子印」は並び替えると「日印子」で「卑(日)弥(印)呼(子)」になる。

 (7)「魏志倭人伝」に弥馬升の名が出ているが、これが崇神天皇の「御間城」であり、男装の姿かもしれない。

 

ちなみに魏志倭人伝に登場する邪馬台国の位置は、九州の第1邪馬台国畿内の第2邪馬台国=1つの邪馬台国としてしまっているようです。

だから文章の邪馬台国までの距離や方角の説明がおかしい具合だったりするのです。これは又別の機会に。

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神功皇后 - Wikipedia 

男装した神功皇后。「日本書紀」には、神功皇后卑弥呼とを同一視する解説がある。しかし実際の神功皇后の実在年代は、4世紀であることが判明している。

 

 

2・崇神天皇こと卑弥呼筑紫平野佐賀平野含む)にいた説

 

福岡の朝倉の平塚川添遺跡が卑弥呼の居城の可能性がある。この仮設は、安本美典さんが以前から提唱したものでした。筆者もこれは正解に含まれていると感じていました。

それで卑弥呼邪馬台国の範囲は、筑紫平野のかなり広範囲だったと考えるようになりました。しかも卑弥呼崇神天皇の同一性を踏まえると、思いつくこともあります。

 

(1)北部九州と奈良盆地の地名が、古代において全く同じだった。これは北部九州にかつて首都ヤマトがあったから(安本美典説)

(2)卑弥呼の居城というのが、個人的に言えば崇神天皇の、磯城の瑞籬宮(みずがきのみや)と同じ。

(3)瑞籬宮は「古事記」では水垣宮であり、水の垣根。つまり水の環濠を伴う居城だったのが明らか。

(4)それなら環濠のない奈良の瑞籬宮伝承地は、デタラメ。奈良と同じ地名を持つ福岡の、朝倉の平塚川添遺跡でしっくりと来る。

(5)当ブログの過去記事にあるとおり、卑弥呼の政治手法に倣った斉明天皇は、宮殿を筑紫平野の平塚川添遺跡に近い朝倉の高台に建てた。これは卑弥呼の居場所を知っていたがため。

(6)福岡に磯城瑞籬宮の「磯城」という地名は無いが、福岡は古来には筑紫城(ちくしき)だった。

(7)上座郡(かみつあさくらのこおり)と下座郡(しもつあさきらのこおり)の「座」は、古訓で「しき」だった。ので、これが磯城に対応してる。

(8)福岡の朝倉のあたりを上座郡というのは、そこが王の上座(かみざ)、つまり女王卑弥呼崇神天皇の居城だったから。

(9)奈良盆地邪馬台国をそっくり東遷した姿であり、三輪山も瑞籬宮伝承地も、写し。万葉集」には三輪山を移動したという、一見意味不明な一句が見つけられたりするのですが、これは三輪山を中心とする邪馬台国を東に移したことで説明がつく。

 

上記については、何回読んでみても整合する話だと、自分なりに感じ取ってます。

したがって元の邪馬台国卑弥呼崇神天皇の居城は、九州の福岡の筑紫平野にあった平塚川添遺跡なのだと。そんな具合に考えると、パズルのピースもあるべき溶け込んでいくわけなのですが。

そしてこれを裏付けるかのようにいたしましとぇ。「日本書紀」を読むと、崇神天皇の居た実際の場所は、佐賀や吉野ケ里と書いてるのではないかと、それを思い当たりました。

 

 

崇神天皇の3つの池 

 

崇神紀を読んでみると、このかたが居所の近くに3つの池を造ったとあります。

江戸時代以来の定説では、いずれの池も畿内奈良盆地や、大阪平野にあったのではとされていました。

A・依網(よさみ) 定説地は大阪府堺市池内

B・苅坂(かりさか) 定説地は不詳

C・反折(さかおり)別名を軽酒折池、定説地は奈良県橿原市大軽

この3つ。

 

しかし邪馬台国の地名が九州から畿内に移されているとすれば、これら3つの池も元々は、筑紫平野あたりにあったものだと考えられるんですよ。

するとこの前の吉野ヶ里遺跡の話が、リンクしてきたりする感じです。

 

 

崇神天皇のもう一つの宮殿「桑間宮」が吉野ケ里遺跡

 

日本書紀」の翻訳本によっては、記述が飛ばされてしまったりするのですけど、崇神天皇は実は2ヶ所に居城を構えていたことが書いています。

1・磯城瑞籬宮(しきのみずがきのみや)

2・桑間宮(くわまのみや)

 

最初の崇神天皇磯城瑞籬宮こそが卑弥呼の居城と同一で、平塚川添遺跡の可能性が高い説明はしました。

問題は崇神天皇のもうひとつの居城、桑間宮。

 

桑間宮というのはくわまですが、古訓にすると「くはま」だったりします。

桑はカイコの好物となる植物のこと。養蚕やら機織りなどの産業もあった土地なのだろうと。そんな感じも受けます。

桑という漢字は「又又又木」とあり、これは「ジャク」で、葉っぱの大きい木のことなんだとか。

桑間がジャクマだとすると、短縮して「ジャマ、邪馬」になって邪馬台国の一部なのかと思ったりしました。 

それから日本語の特性というのは大和言葉でもすでに顕著なのですが、音訓を入り乱れて使うのです。

たとえば古い地名にもある「筑」を参考にすると、筑紫(ちくし)だったり杵築(きづき)だったり。「大」の場合は大和(やまと)だったり大神(おほかみ)だったり。

そういえば天孫(てんそん)は大和言葉では「すめみま」、日本武尊(にほんぶそん)は「やまとたけるのみこと」で、読みはどっちでも使えるみたいな感じです。

 

だから桑間宮も、もしかすると訓じてくわまと読むのではなく、音読みが正解かもしれなかったりするのです。

桑間を音読みしてみると「ソーゲン(so-gen)」

でこれがおそらく「佐賀(sa-ga)」に対応するのであろうなと。

桑間 ジャクマ→ジャマ→邪馬→邪馬台国

桑間宮 ソウゲン(so-gen)→佐賀(sa-ga)宮

 

吉野ケ里遺跡はアテネ=アシネ(吉野・エシノ)の写しでアクロポリスであり、倭名は桑間宮であったと。そう解釈してみました。

そうすると、「日本書紀」で桑間宮とワンセットになってる、3つの池の場所もやっぱり佐賀なんだろうなと。そんな発想が出てきておかしくなかったりします。

 

 

ゾンビランドサガ

 

 

3つの池の解釈

 

前回の記事でも、吉野ヶ里遺跡のあたりはやたら「ヶ里」地名が多いっていう話が出ました。これは佐賀の古代史のガリ勉ならばご存知らしいです。

そういえば、ここは古代には神埼郡でした。あと3つの池のうち2つまでが「サカ」を含むのは偶然じゃないですね。

佐賀というのは、古い地名では「サカ」だったと見られます。

さらに依網池というのは、これは実は吉野ヶ里の地名に関する名称なようです。

A・依網(よさみ) 

B・苅坂(かりさか) 

C・反折(さかおり)別名を軽酒折

 

 以上の情報から3つの池を解釈すると、以下のようになったりします。

 

・桑間宮・・・桑間(so-gen)→佐賀(sa-ga)宮

これは発音的にも一致するはず。

 

A・依網池・・・依網(yo-sa-mi)池→吉野(yo-si-no)池

ヨシノがヨサモになってヨサミになったかも。いずれにしても「吉」に当てはまる「依(よさ・よし)を使ってるのは意味深なこと。

 

B・苅坂池・・・苅→ヶ里、坂→佐賀、神埼(kamu-saki)→苅坂(kari-saka)

カリ(ガリ)とサカ(坂・佐賀)のありえない一致。カムサキとカリサカは似てる。

 

C・反折池・・・反(さか)→佐賀

ここにもサカがあるのは、全部を佐賀に合わせているとしか思えない。 

 

というふうに、結局は4つとも全部、佐賀と吉野ケ里に対応していました。

これは偶然ではないだろうと。

あと反折については、恐らく反(そる)+折(おる)で、「高千穂の添山峯(そほりのやまのたけ)」だとか、曾富理神(そふり・そおりのかみ)に関連があるのではと考えられたりもします。

 何しろ吉野ケ里遺跡の隣接地をよくよく眺めてみたら、辛上(からかみ)という集落があったりするので。朝鮮半島の倭地出身かもしれない卑弥呼が、加羅神、韓神を祀っていてもおかしくないなと。

 

 

3つの池は佐賀の吉野ケ里遺跡にあったのか

 

それでこの3つの池は、佐賀のどこにあったんだろうと言う話。

もう古い池なので埋まっていたり、田園に変えられていたり、名前が変わっていたりするのではと考えられました。

しかし、吉野ケ里遺跡を航空写真で眺めていると、気が付きました。

3つの池の場所は、吉野ケ里遺跡なのかもしれないと。

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吉野ケ里遺跡というのは、細部までも弥生時代の様子を復元しているらしいですね。なんか、おあつらえ向きに池が3つあったりするのは、古代のとおりに復元している結果なのかと、そう思ったりしたのですが。そのへんは確認が取れてません。

 

この記事で解釈した「崇神天皇の3つの池は吉野ヶ里のあたり」を示すかのように、運命的に吉野ヶ里に3つの池が揃ってたとでも言うのか・・・。

 まぁ全部、筆者の想像なんですけどね。

 

 

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アテネのアクロポリスの要素が吉野ヶ里遺跡の設計図に含まれていたか

一見シテ無関係なところに関係性ヲ見いだせる・・・。これはたぶん潜在的な深い処では無関係ではなく、運命的繋がりもあるからなのだろうと。そんな感じもするのですが。

そう言えば新たな元号の「令和」についても、なんか同じようにして運命を感じさせる響きを持ってました。

今回は考古学者も見落としてしまうであろう、佐賀の吉野ヶ里遺跡ギリシャにあった、アテネの繋がり。ちなみにこの記事は2週間くらいから書いてますが、時間を掛けるごとに気づきが多くなるというのは分かっています。

 

○いつも助かっております

 

 

 

 

古代アテネアクロポリス

 

自分自身が高台に住んでいると、古代の人が高台を好んだ理由は分かったりします。

・高台は海のそばなら確実に津波や高波の様子もわかるのでもってこい。

・高台は樹木がなければ、かなり見通しが利いて防衛にもってこい。

・高台は敵襲があっても、敵の勢いを斜面で遮ることができてもってこい。

・高台は天の神を祀る人々にとっては、天に近い意味で祭祀用にもってこい。

 

 利便性のみを追求して平地を好み、戦闘も津波も警戒しないで過ごす現代人は、あまりしない発想だったりしますが。 

 

古代ギリシアアテネ(正しくはアテーナイだとか)はよく耳にする名前です。

イオニア人が住んでいたギリシアの中心都市がアテネだったとか。

その神域はキダテナイオンと呼ばれ、パルテノン神殿が置かれた丘はアレオパゴスの丘と言い、丘の上を含む都市がアクロポリスと呼ばれてました。

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これは手元にある「世界史年表・地図」という図録なのです。第1版が平成7年ということで、1995年当時の歴史的な情報と知識ですが、これ以上に使える書物は見つけてないので、時々眺めては新しい気づきを得ていたりします。

 

アテネのキダテナイオンのアレオパゴスの丘のアクロポリスパルテノン神殿・・・

日本でいうと、東京の23区の山の手の千代田区の皇居の宮殿みたいな感じ。

 

この遺跡、紀元前6,000年から街が築かれていたというから、始まりは縄文時代くらいです。

アクロは英語では「始め、先端、高い」みたいな意味だった。古代ギリシア語のakrosでも同じで、要するに高台、丘の意味だったとか。

それでpolis=ポリスというのは城や砦を意味しているので、要するにアクロポリスは直訳で「高台の城、丘の砦」を意味していたと分かりました。

 

日本語の方も無関係ではないようでした。なぜなら「丘」はokaなので。

英語 acro a-c

ギリ akros a-k

日本 oka  o-k

ak(アク)とok(オカ)は発音的にとても近いので、古代ギリシア語のアクロと日本語の丘は、深いところで繋がっているのであろうと。

ac-ro-po-li-s(丘砦)

oka-no-to-ri-de(丘の砦)

と書くと母音と子音が類似するところがあり、アクロポリスとはやっぱり「丘の砦」だったんだなと。

そう言えば日本語で、

・上がる(agaru)高い場所に行く

・崇む(agamu)高天の神を拝む

これらは明らかに丘に通じる言葉で、しかもアクロやアクロスに似てますね。

 acroとかakrosを濁って「アグロ・アグロス」と言えば、「アガル・アガム」になって、発音も意味合いも通じるものがあるかと。

ひょっとすると弥生時代に、倭語のなかに古代ギリシア語が入り込んだのかも。倭に入ってきている烏孫系や月氏系には、東征したバクトリアギリシア北部)のアレクサンドロス大王の軍団の子孫のギリシア系や、インドグリーク王朝の子孫が含まれたのだから。

 

 

古代佐賀の吉野ヶ里遺跡

 

一方で佐賀の吉野ヶ里遺跡ですが。最近劣化したとか言われてる、グーグルマップで航空写真をみました。ここは近年も遺跡の範囲が拡大していて、遺跡公園の拡張工事中らしいです。

それでグーグルマップの3D仕様や国土地理院地図のほうで拝見すると、この吉野ヶ里遺跡は高台にあることがわかったりします。

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吉野ヶ里遺跡の標高は、全体が10~20m台の小高い丘で、高いところでも25m程度。北側を調べると筑紫山地が広がっていますが、大高山から南に伸びる尾根上に、吉野ヶ里遺跡が位置するようにも見えます。

ところで弥生時代当時は海水面の弥生海進とかいって、海水面はいまより平均3~5mは高い状態だったことが知られています。 

 

すると吉野ヶ里遺跡は遠浅の海に囲まれ、岬の突端にあるような印象の城塞都市だったようです。 

フロードマップで吉野ヶ里遺跡を見ると、こんなふうに今と違って海沿いの遺跡が想像できやすくなります。たぶん近くに港もあったと考えられますが。

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新たな弥生遺跡が見つかるなら、この海抜2~3m上げた時の海岸線に沿ってる場所が、可能性が高そうな気がします。

 

 

吉野ヶ里遺跡の当時の名は古地名から推測できる

 

ところで吉野ヶ里遺跡がこの地域の権力者の居城・神殿と付き従う住人たちの居住地や商業の中心といった複合的な役割を持っていたことは分かっています。

だから弥生時代の当時には、都市名が存在していたはずなのですが、今までそれは伝えられていませんでした。

しかしこれは筆者の妄想によって、当時のリアル的な都市名に近づくことは可能でした。

 

この付近はいまは佐賀県と呼ばれてますが、江戸時代までは肥の国の北部にあたる、肥前国の名前で知られていました。

しかしそれより以前の名前が「古事記」にありました。

建日向豊久士比泥別(たけひむかとよくじひねわけ)

これが本来の地名だったとか、わけわからん。

つまり、

 建日向豊久士比泥別→肥の国→肥前国佐賀県

と変遷してたわけなんですね。南東部は日向国だったわけで、昔は九州全体が日向、ヒムカと呼ばれていたであろうと、「古事記」から推測できるわけなのです。

 

それで肥前国の頃にあった郡郷里制の地名は、今も残っていたりします。

吉野ヶ里遺跡のあたりは神埼郡で、佐賀藩の頃には40村以上があったとか。

江戸時代の国郡郷村制時代の佐賀藩の村

肥前佐賀藩33村

迎島村、柳島村、渡瀬村、箱川村、境原村、託田村、下板村、黒井村姉川村、横武村、本告牟田村、松隈村、石動村、三津村、大曲村、吉田村、豆田村、田手村、的村、城原村、鶴村、尾崎村、本堀村、神埼村、竹村、志波屋村、田道ヶ里、広滝山、腹巻山、鹿路山、杠山、三瀬山

 藤原山肥前蓮池藩5村

嘉納村、下西村、小松村、見島村、余江村

 佐賀藩蓮池藩5村

直鳥村、永歌村、姉村、崎村、古賀村

 

明治時代の合併推進後の自治

三田川村吉田村、田手村、箱川村、豆田村(現・吉野ヶ里町
東脊振村 ← 大曲村、石動村、三津村、松隈村(現・吉野ヶ里町

 

神埼郡 - Wikipedia 

これが江戸時代当時に残っていた細かい地名です。

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ここに吉野ヶ里という地名は含まれてないですが、江戸時代の肥前国の古地図を閲覧すると、西野ヶ里村、東野ヶ里村という地名も見えていました。たぶんこれらは吉野ヶ里を元にしていると見られ、古くから吉野ヶ里も存在した可能性があるようです。

肥前 佐嘉 筑後 久留米 柳河 筑前 | 古地図コレクション(古地図資料閲覧サービス)

 

佐賀の「ヶ里」は目立ってないですが、小字を含む地名として、古くから使われているようです。

 田道ヶ里、駅ヶ里、吉野ヶ里、乙南里、小津ヶ里、平ヶ里、枝ヶ里、野目ヶ里、石井ヶ里、東野ヶ里

神埼デジタルミュージアム「かんざき@NAVI」-展示室

 

 

アテネアクロポリスと吉野ケ里遺跡の形が似てる件 

 

遠く離れたアテネと佐賀の吉野ヶ里は、高台にある紀元前からの古代遺跡という意味では一致してますが、片や石造りの神殿、片や地面に木造家屋であり、表面的な遺跡の形態は異なっています。

ところがよく見ると、その形状は似通ったところがありました。以下の地図は、現在のアテナの古代遺跡と、吉野ヶ里遺跡の比較したものですけど。

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こうしてみると、いろんな一致が見えて来てしまうのですよね。

・中央・・・アクロポリスと吉野ケ里遺跡の環濠「南内郭」

・左側・・・アゴラ(広場の市場)と吉野ケ里遺跡の「市場」

・左下・・・オデオン劇場(イロドアティコス)と吉野ケ里遺跡の半円状の広場

・右側・・・ゼウス神殿(オリンペイオン)と吉野ケ里遺跡の環濠「北内郭」

・水路・・・ビシストラトスの水道と吉野ケ里遺跡の田手川

 

これほど位置関係が一致するということは、吉野ケ里遺跡のそれぞれの場所の役割も、市場だったり神殿だったり劇場だったりするかもしれないです。

実際、吉野ケ里遺跡の市場の位置は、「倉と市」という名前がついてたりするのであるし。

これが、吉野ケ里遺跡はアテネの写しだったのでは、という疑惑が出た理由のひとつです。

 

 

宛名職人(あてなしょくにん) Ver.25

 

 

 名前まで似通ってた件

 

さらに実はこの地形の一致を裏付けるようにして、もう一つ興味深い一致もありました。ちょっとアテネの古名を調べてみるとわかったことです。

 

アテネというのはギリシャ文字のほうでは、古名で「アシネ」と書いていたとか。ATHENAと書けばTHEがシの音になるというわけです。

それで吉野というのは奈良の地名でもありますが、「古事記」の方を見ると、古名では「エシノ」だったんです。

アテネ アシネ a-si-ne

吉野  エシノ e-si-no

 

アテネ→アシネ→エシノ→吉野→吉野ヶ里

という風に発音の違いは微々たるものでしかなかったです。方言や転訛による違いといってもいいほど。 

 

そうすると、佐賀にのこるヶ里地名も、ギリシアのギリとすればしっくりと当てはまったりするわけでした。

吉野 アシネ

ヶ里 ギリシア

 これが意味するところは、吉野ヶ里とは元の意味は「ギリシアアテネ」を模したアクロポリスだったと、言いたかったのではないかと。そんな勝手な想像を巡らせてしまいます。

 

 

 吉野ヶ里は女神を祀った神殿の都市

 

アクロポリスの中心にあったパルテノンは、処女宮という意味があり、これは女神アテナを祀る神殿でした。

すると吉野ヶ里遺跡には同様に、女神を祀る神殿があったと考えられるのですよ。

たぶんそこは、アテナに対応する女神天照大神の鎮座する社殿があったと考えますが。

もしかすると生ける女神として君臨した、女王卑弥呼の居城だったとしても、決して不自然ではないようです。

 アクロポリスはもともと、ミケーネ文明のメガロンという木造神殿が建ってたらしいですね。そう言えば神武天皇の幼名が「若御毛沼(ワカミケヌ」なのもアッチの血が入っていることを示すのかと、意味深な感じがしますが。アレクサンドロス大王が東征して、子孫が烏孫月氏に入り、倭へ流れてきているとすればまったく違和感がないですが。

吉野ヶ里遺跡で、ギリシャアクロポリス神武天皇が繋がってたんですね。

 

 

周囲の地名も一致する

 

最後に、吉野ヶ里遺跡の周辺の地名も、なんとなくアテネアクロポリス周辺に一致している点もまとめてみました。

 

アテネ=アシネ・・・吉野(アシネ)

・キダテナイオン・・・田手(キ田手ナイオン)

・ムーサ丘・・・神埼(カムーサキ)・三瀬山(ムーサ山)

・ヘリコン山・・・腹巻山(ハラカン山)

 

 まぁ全ては筆者の想像でしかないですが、奇妙な一致が出てきた場合、偶然と言ってしまうより関連を疑うのが必然かと。

 

女神アテナのアクロポリスが、女王卑弥呼アクロポリスとして、佐賀に再現されてたとして、決しておかしくない気もしてしまいます。

倭の卑弥呼の周辺には、古代ギリシアの情報もかなりあったかもしれんです。先祖伝来の記憶や大陸から収集した情報によって。

 

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天武天皇の八色の姓にはイエス・キリスト信仰と大和民族大陸起源に繋がる思想が隠されていたかもしれない件

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最近も日ユ同祖論を否定する傾向が高いようですね。

個人的には何でもいいですが、今後も日ユ同祖論支持の方向で行きたいと思います。

 

前回の記事

天武天皇がどれだけ秦の始皇帝を手本としたか分かる話

 

ワタスが助かります

 

 

 

耶蘇

 

例の犯人はヤスでした。

しかしむかしの日本では、キリスト教といえば耶蘇教なんて言われてました。

この耶蘇というのは「Jesus」の音写だったりしたのですが。

Jesus→耶蘇→ヤソ→YAS→YES→イエス」だったりしました。要するにイエス(jesus)に漢字を当てて耶蘇としたのです。

 

 

世界大百科事典内の耶蘇の言及

耶蘇会日本通信】より …1598年ポルトガルのエボラで出版された《日本シナ両国を旅行せる耶蘇会のパードレおよびイルマンなどがインドおよびヨーロッパの同会会員に贈った1549年より1580年に至る書簡》,いわゆる《カルタス・ド・ジャポンCartas do Japão》の日本訳の書名。耶蘇会(イエズス会)の耶蘇はJesusの近代中国音訳語〈耶蘇〉を音読みしたもの。

耶蘇(ヤソ)とは - コトバンク

 

これは中国が清となった近代、イエズス会が中国に入ったときに、イエスという音を漢字にあてはめて耶蘇としたことに由来します。

日本でも江戸時代の頃、キリスト教は長らく耶蘇教と呼ばれていたとか。

蘇は現代中国語のピンインでsuなので、耶蘇はyasuですかね。日本語の呉音で「蘇=ス」、漢音で「蘇=ソ」というわけで。

すると、むかしの中国人が耳にしたJesusは、「ヤソ・ヤス」に近い発音だったと見られます。これ、どこの地域の発音なんだろうかと。気になりました。

 

 

ヘブライ語のJesusはヤシュだった

 

ヘブライ語でJesusの発音を調べてみると、こうでした。 

Jesus の発音: Jesus の 英語, ポルトガル語, スウェーデン語, ラテン語, ヘブライ語, タガログ語, ドイツ語, スペイン語, 北サーミ語, アフリカーンス語 の発音

ヘブライ語「Jesus=ヤシュ」

に聞こえてしまうんですよ、しってましたか。

つまり、驚くほどに、耶蘇(ヤソ)っぽい。

 

ということは、中国の清朝に入ってた宣教師は、ユダヤ人だった可能性が高いです。

なにしろ欧州人は、Jesusをイエススやジーザスと呼んでたっぽいからです。

 

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ちなみにこの絵は昨日てきとうに描いてた絵です。ほんとはイラストをもっと描きたいですが、時間がないので無理な感じがします。

 

 

耶蘇の意味

 

ここで興味深いのは、漢字の意味も整合させてることでした。

キリスト教のことはイエスの偉人伝を読んだ以外は詳しくシリマセンが、イエスのことを御父とか御子だとか表現していたりするのです。

そんでもってイエスと言えば「最後の晩餐のあとにとっ捕まって磔の刑となり、一度槍で貫かれて死んだのだけど、生前に予言した通りに棺の中でこっそりと甦った」とかいう話が伝わってたりしますね。

 

耶蘇の「耶」は、「父」という意味

耶蘇の「蘇」は、「よみがえる」こと

 

だからむかしの中国人は、イエスに「耶蘇」の字を当てたというわけだったりしました。

 

 

八色とイエス

 

そんでもって本題となる、「八色の姓(やくさのかばね)」ですが。

耶蘇とはまるで関係ない話のようですが、実はこれ、関係してました。

何しろ、八色を別の読み方にすると、ヤショクで、夜食?いいえ、「ヤショ」だった。

あるいは、八色はヤシキで「ヤシ」が入っていたんですね。

なんかヤショとかヤシとか、「耶蘇」に似てる。つまり、イエスに通じるものがあるんだなと。

 

 あと「旧約聖書」のあっちの世界では神のことを「ヤー」と呼んだりします。

八を「ヤー」と呼ぶのは日本語ですが。

日本では神様と関係する物や土地には、やたらと「ヤ」がついたりします。八百万神、八重垣、八千矛、八幡神八咫烏、八咫の鏡、八岐大蛇、八十神、ヤマ(山岳)、ヤマト(大和)。

 

あと「旧約聖書」では神の名をエルとか言って、エロヒムとも呼ばれてますが。これがどうもラリルレロで当てはめて、エラ、エリ、エル、エレ、エロという神様の五段活用が当てはまっていたりしますね。

で、騎馬民族のほうでは、エルからイリ、イルみたいなほうに転訛していたわけなのです。そのイリ、イルに一字を当てはめるとしたら、「色」もありだったりしたのかなと。

 そうするとこうなるのです。

八(ヤ) = yah=神

色(イロ)= iro=ir=el=神

 八色と並べると、意図的に「神神」となるように、八色の2字を選び出しているのではないかと。

 

それは前回の記事でも記したとおり、秦の始皇帝が神であり、自らを始皇帝の生き写しとし、道教の神を信奉しまくった天武天皇が、秦と神にやたら こだわったことに関係するのではないかと。

そうすると空海の作と言われる「いろは」歌が、なんで「色は匂へど散りぬるを」で色から始まっているのか、そしていろは歌を7文字7列に並べると隅っこに「イヱス」が出現し、一番下に「トカナクテシス(咎(とが)なくて死す)」が現れてくるのかとか、色々と関連を調べたくなってくるのですが・・・。

 

ところで、油性ペンの八色を思いついたので貼っときます。

 

 

ゼブラ 油性ペン マッキー 極細 8色 MCF-8C

 

 

八色の姓烏孫と西域諸国

 

さて、前回の記事のとおり、真人が秦人に掛けている言葉なのは、個人的には確実視するのです。それは天武天皇が秦の始皇帝道教の信奉者だったから。

 

もうひとつ、真人のあとに来る朝臣が、強烈な示唆を含むことがわかるのですが。

それは、朝臣と呼ばれている姓。

これがどうも、「烏孫」を元にしている言葉であるのではないかと。

何故かと言うと、真人が秦人ならば、国名を列記していておかしくないなと考えたからです。それは秦より西側の西域諸国が殆どを占める感じがしました。

 

真人・・・しんじん・・・秦人

朝臣・・・あそん・・・烏孫(うそん)

 これだけ見ると、もう確実視出来る感じがするのですが。この2つの国は時代は100年違っていますが、月氏の土地に隣り合うという位置関係でよく似ていました。

一説に秦の始皇帝月氏から出ているとされるし、月氏自体はコーカソイド系でイランとか地中海方面が出自だと言われます。

烏孫のほうは、西から月氏の土地に入り込んで常に隣り合う位置関係を示しました。個人的に烏孫古代イスラエル系だったと考えていたところなので、月氏と隣り合っていたのも必然に感じました。

それでほかの八色の姓についても、西域を中心に当てはめられる感じがしました。

つまり天武天皇八色の姓とは、秦系と西域系を優先する身分制度だったのではないかと、考えてしまいます。

 

朝臣(あそん)以下の、宿禰(すくね)、忌寸(いみき)、道師(みちのし)、臣(おみ)、連(むらじ)、稲木(いなき)。

これらを八色と同様に、本来の読みとは違った読み方をすれば、

 

真人・・・シンジン・・・秦人

朝臣・・・アソン・・・烏孫(西域)

宿禰・・・スクネ・・・ソグド・サカ(西域)ソグドはユダヤ

宿禰・・・ヤドネ・・・ユダヤ(中東)ユダヤからソグドが出た

忌寸・・・キズ・・・危須・亀茲(西域)亀茲から聖徳太子が来た

忌寸・・・インキ・・・焉耆(西域)

道師 ・・・ドジ・・・タジク(西域)万里の波(長城)を超えた田道間守

臣・・・元々倭にあった(倭人

連・・・元々倭にあった(倭人

稲置・・・イナ国・・・委奴国(倭人

 

というふうに、秦・西域・日本の身分の高い人々を、「一番昔まで遡った先祖の出身ごと」区分けしたのが八色の姓」かもしれないなと。

この区分けが合っているかは分からないですが。天武天皇は筆者と同様に、「天皇大和民族烏孫起源・西域起源」を信じていた可能性がある予感。

中国史書を見る限り倭国の中枢はユーラシア各地からの帰化人だらけ

 

 

八色の姓と 西域をつなぐ景教

 

で、ここに八色(ヤシュ・・・Jesus)が関わってきます。それは彼ら西域人や西域出身倭人が、5世紀のネストリウス派景教)か、それ以前の原始キリスト教を信仰に入れていたからではないかと。

3世紀以前、歴史的に倭国にはキリスト教は入ってないとされますが。

しかし「魏志倭人伝」では「持衰(じさい)」という人柱の風習で、吉凶を占ったとかいう話がありました。これがどうもジーザスではないかと、そんな解釈をしている人もいました。

天比登都柱から見えてくる倭国の人柱文化

 

日本書紀」では聖徳太子の項目に、明らかにキリストの死と復活を記したようなヶ所が登場してたりします。

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日本の古墳を掘ってみたら「双魚佩(そうぎょはい)」という謎の飾りが出たりします。これは2匹の魚がくっついていて、上になんかパンみたいなものが乗っかっているやつ。

2匹の魚っていうのは、実は中東や西洋では、イエスそのものを表すシンボルだったりするのですが。日本の歴史学者の人は、これはキリスト教の遺物だとかは言わないで、大陸系の護符だとか言っているようです。

 

つまり天武天皇のいた7世紀はもちろん、聖徳太子のいた6世紀はもちろん、卑弥呼のい・た3世紀には、既に原始キリスト教騎馬民族遊牧民の移動に伴い、倭人のなかにまで入り込んでいたのではないかと。

一方の西域の東トルキスタンのほうは、5世紀頃にはもう西域ではキリスト教が支配的な勢いだったといいます。

しかしじつはキリストの死の直後の1~2世紀の段階で、原始キリスト教騎馬民族の流れに乗って、西域まで入っていたんではないかと考えられました。

 

こうしてなんで「八色の姓」が、キリストを表す八色と、西域諸国の名前という、異なるキーワードで繋がっているのか、真相が見えてきたわけですが。と言っても、これも想像に過ぎないんですけどね。

 

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totoのAfricaを見てたら気づいた不思議な既視感

日常を過ごしていて、自分の運命を感じる出来事とか。
偶然に自分と状態や出自と重なりあうと感じる出来事とか。
あったりしませんか、なんとも偶然的なかんじで。

偶然というのは、意図せず物事が整合している状態のことですが。
しかし果たして偶然とは、こんなに都合よく練り上げられるものかと。
偶然なんか、この世界には1つもないという発想は、よく考えるようになりました。
世界は太古より一貫して、偶然や自然に見せかけられた作り物だという仮説が、頭をもたげてしまいました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

https://youtu.be/FTQbiNvZqaYより


舞台はなにやら古びた建物。
怪しい装飾が壁を飾り、無数の本が棚に整列してる。
そこはジャングルの歴史研究所か、図書館らしい。
偉そうなメガネの女所長がいる。

男は謎の断片を手にしてる。
断片には謎の古そうな絵が描かれてる。
断片の元である本を探している男は、単なる歌手より学者のよう。
演奏するトトは、何故か積みあがった本の上にいる。

突如として何者かによる襲撃があった。
すると同時に、謎の絵を収めた本のページが開かれた。
絵はジグザグ模様の盾を手にした伝説の戦士だった。
偶然にも襲撃者の盾は、絵にある戦士と全く同じだった。
伝説の戦士が攻めて来たのだ。

倒れたランプの火が、偶然にも男が探し求めた本に引火した。
まるで伝説の戦士が、証拠を隠滅したかのよう。
男は何故か本が燃えるままにして、手の断片も燃やした。
謎解きが済んだからだろうか。運命に抗わない主義なのだろうか。

男は別の本に興味をもって、あらたな研究を始める。
まるで目の前で起きた戦士による襲撃や火災が、なかったかのように。
積みあがって傾いた本の上で、独り佇んで過ごしている男。

youtu.be



○いつも助かっております

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

普段は音楽なんかはあんまり話題にしないブログですが。
自分探しの過程で、とても気になる内容だったので取り上げることにします。
この曲はたまたま先日なんかのメディアの記事になってたのが、目に入ったのがきっかけですた。

以前から耳にした曲でしたが、pvは自分史上で始めて、じっくり観察してみました。

この曲の歌詞は「探し求めるものはそこで待ってるから、迷わず行けよ」みたいな内容になってるし。、また好き勝手に考えを巡らせます。



https://youtu.be/FTQbiNvZqaYより


totoの「Africa」が完成して発表されたのは1982年のことだそう。
これはアルバムの「Joe FM Hitarchief 1982」に収録されていたとか。
このころの自分は、夢遊病を体験し、夢か幻か地獄みたいな異世界を垣間見てしまった5歳のころでした。
とは言え、totoとか世界の歴史や陰謀なんかもまるでご存知ない年ごろでした。

このアフリカのpvは自分的にとても不可思議でたまらないのです。
取り上げざるを得ませんでした。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


まず襲撃を仕掛けてきた盾の戦士は、不思議の塊みたいなやつさん。
この戦士がどうしてこの研究所を攻撃したのか?それはこのpvで最大の謎ですが。
pvの内容から推測すると、戦士が戦争を仕掛けた目的は「自分の姿を描いた本の消滅」でしたっす。

それ以外にあるとしたら私怨だとか、白人の奴隷制度の歴史に感化されての、民族的な怒りかもですが。
あるいは、偶然に本の中の戦士が登場して、怒りを見せて攻撃したのは、いわゆる「異世界からの召還」をあらわすのかと考えたり。
・・・

とにかくオカシイのは、以下のところ。

1・男が盾の戦士のことを調べてると、不意に偶然に本人が現れた

2・男は偶然に見つけた断片の本を探しているだけなのに、戦士は男に探されていることや、本の存在まで把握してる

3・戦士は槍を1回投げただけなのに、完璧に狙ったように、偶然にお目当ての本にランプの火を完璧に引火させ、証拠を隠滅させた

4・戦士が槍の手をちょっと動かすだけで、偶然にも本が崩れる描写がある。まるで超能力的なものを使っているよう

5・男はそんな無茶苦茶な目に遭いながらも、まるでなにも無かったかのように次の本を手にとる。それは襲撃と本の消滅により、記憶すらも失われたかの如くに。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


そりゃこれは架空のお話だから変で当然だとか、思ったりします。
しかし、この世の中にはあらゆる事象、モノにすら2つ以上の意味があると考えてるのですよ。
このpvも何かの示唆的な情報が、入っていると見てしまいます。

何が奇妙で不可思議と感じ取れたかと言えば、簡単に言えばこれです。

「何か未来の俺を題材にしてる」的な目で見れたから。

今の自分に当てはまる要素ばかり盛り込まれているようで、ひょっとして自分の未来が暗示されていたのかもしれないなと。
ジャングル、古い家、古代史研究、傾いた床、謎の外敵による攻撃、偶然の出来事の連鎖、toto・・・

なんで有名な歌手グループが、見ず知らずの地球の裏の5歳の子供を取り上げ、しかもその子供が40台を迎えた未来を、ネタにしなきゃいけないんだと。
そういう突っ込まれるところはあるかもしれないですが。
何も意図せず、単に偶然に俺にとって意味ある映像が出来上がったんだろーかと。
それともtotoは1982年に映像を紡ぎだしているのだろうかと。
運命の存在、人生に対する他者の介入、未来視的な観点、かけられた呪詛。

何にせよ、俺とAfricaが合致する今この時に、何の意味があるのだろうかと考えてしまうわけなのです。

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